1939年(昭和14年)8月27日午後3時3分47秒
北海道千歳の飛行場から世界一周をめざし一機の大型双発機が飛び立ちます。
J‐BACI「ニッポン号」
前日の8月26日午前10時27分に羽田を出発し、一旦北海道千歳に移動。
ここでスタート宣言し国産機初の世界一周に成功します。
このエピソードから少し<横浜>との関係をたぐり寄せてみましょう。
第一次世界大戦に登場した航空機は、戦争の形態を大きく変えました。その後、軍拡と併せて航空機の技術革新による世界一周が各国でブームとなります。
1920年代に始まる世界一周飛行を追ってみます。
●1924年(大正13年)4月4日〜9月28日
アメリカ陸軍のスミス中尉が、ダグラス DWC複葉機4機編隊で挑戦し、各地で補給と整備を繰り返しながら2機が成功しました。
航続距離4万6560km、175日、飛行333時間。
ルート:シカゴ→シアトル→ダッチハーバー(アラスカ)→※霞ヶ浦→上海→カラチ→ロンドン→アイスランド→グリーンランド→シカゴ
■1927年(昭和2年)5月
世界一周ではありませんが、単葉機スピリットオブセントルイス号でチャールズ・リンドバーグが単独の大西洋無着陸横断飛行を初めて達成し世界を驚かせます。
→リンドバーグ夫妻は1931年(昭和6年)9月7日(月)に横浜を訪れています。
●1928年(昭和3年)
オーストラリアのブリスベン生まれのチャールズ・キングスフォード・スミスが、カリフォルニア州オークランドから離陸、途中ハワイ、スヴァを経由してブリスベンに至る歴史的な横断飛行を飛行時間83時間38分で達成します。
●1929年8月8日〜8月29日
LZ 127 グラーフツェッペリンが飛行船により世界一周を達成します。この時、予定に無い航路を選び、横浜上空を周回し霞ヶ浦に着陸します。
No.232 8月19日 (日)LZ-127号の特命
●1931年(昭和6年)6月23日〜7月1日
アメリカのウィリー・ポストとゲッティが、ロッキード ベガ「ウィニー・メー号」で航続距離2万5910km、8日15時間51分、飛行125時間を達成します。
ルート:ニューヨーク→ベルリン→モスクワ→ニューヨーク
●1931年(昭和6年)7月28日
アメリカのパングボーンとハーンドンが、ベランカ機「ミス・ビードル号」で世界一周最速を狙います。様々なトラブルで達成できませんが初の太平洋無着陸横断飛行には成功します。
ルート:ニューヨーク→(大西洋)→ロンドン→ベルリン→モスクワ→ハバロフスク→東京→※青森県淋代海岸(10月4日)→ウェナチー(10月5日7時11分(米国時間))→ニューヨーク
※この飛行には「リチャードデリシャス」というリンゴにまつわるエピソードがありました。
http://www.aomori-itc.or.jp/index.php?id=1153
●1932年(昭和7年)7月21日〜11月10日
ドイツのウォルフガング・フォン・グロナウが、ドルニエワール飛行艇で達成します。111日をかけ西回りルートをとります。
ルート:トラーヴェミュンデ(ドイツ)→アイスランド→グリーンランド→オタワ→ダッチハーバー→霞ヶ浦→フィリピン、マラッカ、インド、イラン、キプロスなどを経由しドイツに帰還。
●1933年(昭和8年)7月14日〜7月22日
アメリカのウィリー・ポストが1931年に引き続きロッキード・ヴェガで達成しました。この飛行で初の「単独」世界一周飛行を実現します。
航続距離2万4957km、7日18時間49分、飛行114時間
ルート:ニューヨーク→(大西洋)→ベルリン→モスクワ→イルクーツク→ハバロフスク→フェアバンクス→エドモントン→ニューヨーク
●1938年(昭和13年)
アメリカの実業家・映画製作者・飛行家と多才なハワード・ヒューズがロッキード単葉機で達成します。2万3488km、3日19時間17分。
ルート:ニューヨーク→パリ→モスクワ→オムスク(シベリア)→ヤクーツク→フェアバンクス→ミネアポリス→ニューヨーク
☆★1939年(昭和14年)8月26日午前10時27分
「ニッポン号」が羽田を旅立ち、55日目の1O月20日午後1時47分に羽田に無事帰還し世界一周を達成します。
少し長くなりますがルートを紹介します。
8月26日 東京→8月27日 札幌→8月29日 ノーム→8月30日 フェアバンクス→8月31日 ホワイトホース→9月02日 シアトル→9月03日 オークランド→9月07日 ロサンゼルス→9月08日 アルバカーキ→9月09日 シカゴ→9月16日 ニューヨーク→9月18日 ワシントン→9月19日 マイアミ→9月22日 サンサルバドル→9月23日 サンティアゴ・デ・カリ(コロンビア)→9月24日 リマ→9月25日 アリカ→9月27日 サンティアゴ→9月29日 ブエノスアイレス→10月1日 サントス(ブラジル)→10月4日 リオデジャネイロ→10月5日 ナタール→10月6日 ダカール→10月8日 カサブランカ(モロッコ)→10月9日 セビリア(スペイン)→10月12日 ローマ→10月13日 ロドス島(ギリシャ)→10月14日 バスラ(イラク)→10月16日 カラチ→10月17日 コルカタ(インド)→10月19日 バンコク→10月20日 台北→羽田
※上の葉書に予告されたコースが実際には一部変更されました。
すでに欧州では<戦争>が始まっていたからです。
少し前置きが長くなりましたが、この世界一周計画は大阪毎日新聞社)が東京日日新聞と共同企画したもので、航空機は当時海軍が使用し好成蹟をあげていた「96式陸上攻撃機」を長距離輸送機に改造して使用する計画でした。
当時「96式陸上攻撃機」は双発、引込脚機能を持つ世界トップクラスの海軍機でしたが、軍用機として現役でもありこの企画はかなり無謀と思われました。
毎日新聞社の再三のプレゼンに対して、海軍は断り続けます。最終的には毎日新聞社トップが当時の海軍次官山本五十六中将に直談判し“長距離輸送機への改造”が許可されます。
海軍が民間使用を許した背景には、航空機の技術将校であった山本五十六の自信と海軍と陸軍・毎日新聞社と朝日新聞社のライバル意識が微妙に働いていました。
この企画が立てられた背景には、朝日新聞社が「神風号」を使って日本からロンドンへのスピード記録達成や「航空研究所試作長距離機(航研機)」による長距離飛行世界記録達成が続き最大のライバル新聞社としても“負けられない”という意識が生まれたのでしょう。
朝日新聞の「神風号」は陸軍の九七式司令部偵察機試作2号機の払い下げによって達成されましたので、自然競争のターゲットは海軍の最新鋭機に向かいます。
海軍の許可を得て「96式陸上攻撃機二一型328号機」を輸送機型に改造しますが、この「96式」、三菱内燃機株式会社名古屋航空機製作所が製造したもので、改造も三菱が担当します。
「96式」は新聞社の他、当時国内最大手の航空会社「大日本航空株式会社」も輸送機として利用されました。
「大日本航空株式会社」横浜と縁の深い航空会社です。
「大日本航空株式会社」1940年(昭和15年)横浜の根岸に飛行場を開設します。この飛行場からは南洋諸島パラオ島への定期航空路が運行されていました。
横浜を5:30発 ⇒サイパン 15:30着 翌7:00発⇒パラオ14:00といったルートでした。
少し、【よこはま】に近づいてきました。
横浜には戦前戦中、そして戦後一時期飛行場が幾つかありました。
暦で語る今日の横浜【9月10日】
軍用機から民間輸送機にも転用され活躍したJ‐BACI「ニッポン号」三菱内燃機株式会社名古屋航空機製作所で製作されたものですが、この模型を横浜で見ることができます。
「三菱みなとみらい技術館」
ここに登場した山本五十六は、「ニッポン」世界一周から一年後の1940年(昭和15年)10月11日に行われた紀元二千六百年の特別観艦式を連合艦隊司令長官として指揮しました。
この先、開戦論と非戦論が激しく議論されながらも日本は日米開戦へと向かいます。関東大震災から始まった激変の日本の選択を、私たちは再度検証していく責務があるのではないでしょうか。
今回はあまり【よこはま】に近づくことができませんでした。