No3.1月3日(火) 大火事

正月早々物騒な話しですが
「火事と喧嘩」は江戸の花ならぬ「開港場横浜」でも「火事」がつきものでした。
1860年(安政六年だと12月11日)のこの日、
開港まもない外国人居留地で大火事がありました。
当時はいわゆる洋館ではなく当座の木造建物が建ち並んでいました。
というのも、横浜はこの時期まだ開港していませんでした。
欧米列強(政府)からは江戸に近い「神奈川」を開港場として要求されていましたが、徳川幕府はなるべく江戸から遠ざけたかったという理由が挙げられていますが、結果的に良港としての条件を持ち合わせていた「横浜」が国際港として開港することになりました。
それこそペリーが最初に上陸しハリスが領事館を構えた伊豆の下田でも良かったくらいですから、「神奈川」といえば喉元に来るようなもの。開港と交易を求める立場なら、首都に近い場所を港として求めるのは当然なことです。
幕府としては戸部の山を越えた「横浜村」に(押し込めたかった)ことに対し、アメリカ領事ハリスは納得しませんでした。
ただ現場、外国人貿易商達は横浜の街が気に入っていたようです。
大型船舶が停泊できる港、江戸までは少し不便でしたが治安のよい街をビジネスの場としては評価していたようです。
そんな矢先にこの大火事が起きた訳です。

この火事に対し対岸の神奈川からも人々が多く駆けつけ消火を手伝ったという記録が残っています。その結果、外国人にも日本の信頼度が高まり、その後の国際関係に好影響だったことは間違いないでしょう。
鎮火後すぐに開かれた居留民の総会で消火に当たった日本人への感謝の意が決議されたくらいです。しかし外国政府代表者特にアメリカは江戸近くに開港を求める格好の材料でした。この総会で今後の活動の場を横浜にするのかどうするか、話し合われました。
国家間では開港場を神奈川かどうかやりとりしているが、
「われわれ商人はどうする!」
と議論した結果 満場一致で開港場はこの横浜にと決議されました。

逆に「横浜」が正式に国際港になった因縁の大火事だったといえるでしょう。
でも その後、横浜も江戸同様に火事が絶えませんでした。
代表的な大火事は
1866年11月26日に発生した「慶応の大火」

No.294 10月20日(土)防災道路を造れ!
関内全域を焼き尽くしたことがきっかけで、遊郭の代わりに洋式公園(横浜公園)ができたり、外国人居留地と日本人居留地を分けた類焼防止に日本大通ができるキッカケになりました。

現在も残る関内エリアの近代的な街並整備のきっかけとなったのは火事という歴史の皮肉といえるでしょう。

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