■横浜市歌に秘められた謎
横浜で最もポピュラーな歌は「横浜市歌」です。
朝日かがよう海に (あさひかがよううみに)
連りそばだつ島々なれば (つらなりそばだつしまじまなれば)
あらゆる国より舟こそ通え (あらゆるくによりふねこそかよえ)
この横浜にまさるあらめや (このよこはまにまさるあらめや)
むかし思えば とま屋の煙 (むかしおもえばとまやのけむり)
ちらりほらりと立てりしところ (ちらりほらりとたてりしところ)
泊るところぞ見よや (とまるところぞみよや)
果なく栄えて行くらんみ代を (はてなくさかえてゆくらんみよを)
飾る宝も入りくる港 (かざるたからもいりくるみなと)
この横浜市歌の作詞者は「森林太郎」文豪森鴎外です。
作曲は南能衞(みなみよしえ)で
1909年(明治42年)開港五十周年記念式典で披露されました。
この辺りについてはネットでもいろいろ資料がありますので参照して下さい。
ここでは、森林太郎がなぜ作詞を引き受けたのだろうか?という素朴な疑問に迫ってみたます。
森の日記からは「横浜市長三橋信方に頼まれた」とあります。
1909年(明治42年)3月21日横浜市長名で代理が森林太郎に作詞を依頼したことに始まります。
市長名代「三宅成城」氏が開港50周年記念事業の一つとして依頼し、森林太郎が受けるのはごく自然ことですが、何故森鴎外だったのでしょうか?
選定過程の資料は関東大震災で失われてしまい残っていません。
想像が楽しくなります。
(以前から知合い?)
当時の第五代市長「三橋信方」と軍務医「森林太郎」は知り合いだったのか?
旧知の仲まではいかないにせよ何らかの繋がりがあったのでは?
という仮説を立て調べ始めました。
日記、記事等を読む限り、直接的な史実は見当たりませんでした。
傍証はかなり出てきました。
ここで素人探偵飛躍を承知で この二人の関係に迫ってみることにします。
■キーワードは水
「鴎外」と「三橋」をつなぐキーワードに「水」があります。
さらに掘り下げれば「虎列刺(コレラ)」がこの二人を結びつけていたことは間違いありません。幕末から明治にかけて、日本にとって国家存亡の危機は「コレラ」でした。
開国によって世界が航海で繋がると同時に
疫病も世界レベルになる「コレラ パンデミック」が世界を襲います。
明治に入り何度もコレラが上陸・伝搬し、中でも数回大規模に蔓延し非常事態が宣言されます。「コレラ対策」は国家の最重要課題でした。
当時の「公衆衛生」の最先端医学情報はドイツにありました。
そこで森林太郎はドイツで公衆衛生を学ぶために留学します。ドイツではコレラ菌の発見者コッホ博士にも学んでいます。
公衆衛生の要は
「上下水道」の整備に尽きます。つまり「安全な水の確保」がこの伝染病の拡大を防ぐ解決法です。森は日本に戻り、上下水道の普及と『改善』を報告します。
一方、第5代横浜市長「三橋信方」もまた水の専門家でした。
市長になる前、官僚時代には横浜水道経営の立役者となり、パーマーが構築した日本初の水道経営を軌道に乗せる実績を残します。
横浜が良港として、国際都市として発展するには安心できる大量の水確保が必須でした。
「森林太郎」「三橋信方」は共に都市経営における水道整備を同時代に担ったテクノラートでした。
また、三橋信方はベルギー公使を歴任するなど外交官としての国際感覚も持ち合わせていました。ベルギーは鴎外が学んだドイツの隣国ですが、時間的な接点はありません。
「森林太郎」「三橋信方」そこには両者の直接的関係はなかったかも知れませんがが
公衆衛生に対する“信頼感”と“シンパシー”があったことは間違いないでしょう。
市歌を作る話しがあがった時、市長「三橋信方」が最初に浮かんだ人物は文壇においても活躍し始めていた「森林太郎」だったのではないでしょうか。
1909年(明治42年)7月1日に横浜市歌は「開港式典」で発表されました。
式典からしばらくして
7月31日に市長三橋信方は鴎外の自宅を訪れます。
形式的には、作詞依頼等の事務は官吏三宅成城氏にまかせましたが、
無事市歌も完成し一段落した頃に訪問した訳は?
そこで話された話題は何だったのでしょうか?
当時世の中を騒がせた森の発禁問題も話題に出たのでしょうか?
それとも「水」談義だったのでしょうか。
■意外な出来事
横浜市歌は、1966年(昭和41年)歌いにくいという理由で 音階の一部を変更しています。変更には異論も多かったようですが当時の関係者の強い意向で
子供達が歌いやすいようにという理由で変えられています。
この事実には 驚きました。
つい最近まで横浜市歌の<楽譜>にそのことが記述されていませんでしたが、ある時から記載されています。指摘があったのでしょうか?(2011年投稿2018年補足)
■元となったもの
横浜ラプソディ 横浜市歌を巡る前編