京浜急行「能見台(のうけんだい)駅」からスタートするぶらり歩き、好きなコースの一つです。
市内の駅としては立ち寄ることの多い駅です。
過去四・五回のぶらり歩きをまとめてみました。
駅の改札を出て駅前から反対側に回りこむように高架橋を越え、少し混みいった住宅街を抜けると緑の多い別世界に入り込んだような<坂道>にでます。
県立循環器呼吸器病センターがあり、この坂道を少し登り切ると大きく視界が開けます。
駅前から坂道を上り視界が開ける場所、他にも多くありますが
この坂を下っていく気分が私は好きです。地図を看ないと判りませんが、越えた丘の下を<横浜横須賀道路支線>が走っていて、並木出口となっています。
坂を下りて行く途中左手に不自然な公園、ゴルフコースと間違えそうな「長浜・花夢スポーツ広場」があり、
この公園が高速道路の保全施設だということに気がつくには少し時間が必要でした。
元の道にもどり暫く行くと、右手に今日紹介したい「横浜検疫所」と少し下った先にかつて細菌検査所のあった「長浜ホール」があります。 「細菌検査所」は、野口英世が一時期勤務した施設で日本の検疫制度を最初に支えた検疫施設です。
1979年(昭和54年)7月16日の今日、
横浜検疫所で「検疫制度100年記念式典」が開催されました。
開港後、海外との交易で<コレラ>も輸入してしまった日本にとって伝染病対策が急務でした。
No.2178月4日(土)わがひのもとの虎列刺との戦い
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=390
No.89 3月29日ペスト第一号もYOKOHAMA
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=528
1879年(明治12年)
虎列刺病伝染予防規則が公布され三浦郡長浦(横須賀市長浦)に「長浦消毒所」が設置されます。
これがわが国最初の<検疫所>です。
その後、日清戦争で横須賀軍港が拡張され
1895年(明治28年)長浜に移転し「長濱検疫所」が設置され現在に至っています。
野口英世がこの「長濱検疫所」に採用され勤務したのが
1899年(明治32年)のことです。
この時「長浜検疫所」の細菌検査室だった施設が現在保全され横浜市の市民施設となり、隣接して「長浜ホール」が誕生しました。
一方、この細菌検査室一帯に近い国の「横浜検疫所」は現在も重要な検疫作業を行っています。
(海岸線観察)
この「長浜ホール」一帯から富岡の先までかつて海岸線であった境目を散策することができます。横浜市内では貴重な地域資産といっても過言ではないと私は感じます。
長浜から富岡にかけてかつての海岸線が昭和40年代まで残されていました。
横浜市内で唯一残されていた海岸線が一気に住宅地となっていきます。開発の際、かつての<海岸線>を意識した開発が行われた?のかどうか判りませんが、
エッジを散策しながら<旧海岸線>を散策することができます。
何度か歩いていますが、古い地図を片手に歩くとワクワクしてきます。
(能見台西側)
1982年(昭和57年)に「能見台駅」は「谷津坂駅」から改称されます。
お年寄りの方には「谷津坂駅」の名を懐かしく感じる方も多いようです。この「能見台駅」の名は、駅西側エリアの大規模な宅地開発に伴い変更されました。
「能見台」の名は、近くにかつて17世紀に「能見堂」という風光明媚な地蔵院があったことに因んでいます。
江戸時代にここから金沢八景巡りがスタートするポイントにあたり、多くの江戸庶民が訪れた場所でした。
海に面した丘陵のエッジに位置する「能見堂」あたりは鎌倉時代から「金沢古道」があり、程ケ谷から金沢に抜ける要所でもありました。 鎌倉時代から江戸、そして近代化に伴い、このエリアは人里離れていたこともあり軍事産業の中心地となります。
戦後、多くの工場が撤退又は産業転換し戦後の高度成長を支えます。そして昭和30年台後半から、まとまった住宅地として開発が進み現在に至ります。
鎌倉時代から現在まで、この「能見台」周辺だけでも濃密な歴史が刻まれています。
(米軍「小柴貯油施設」は?)
「長浜ホール」に隣接する広大な緑地があります。米軍が接収し「小柴貯油施設」として利用していた敷地です。ここは返還されたはずですが いまだ原野!?のままになっています。整備するには<不都合>でもあるのではないか?と疑ってしまいますがどうなっているのでしょうかね。 この「小柴貯油施設」一帯の丘も<水際線>を知る重要なポイントなのでなんとか活かして欲しいですね。