【横浜の橋】№0謎解き編 新旧玉手箱

ここに一枚の絵葉書があります。light大日本人造肥料株式会社001

タイトルは「大日本人造肥料株式会社横濱工場」です。
画像奥には社名の入った大煙突と工場の全景が写っています。
今日のテーマは、この「大日本人造肥料株式会社横濱工場」に架かる橋の謎解きをしてみます。
構造は少しアーチ状(太鼓橋ぽい)になった木製桁橋にも見えます。ここで製造した「肥料」はこの橋を渡って陸路運び出されたのか?
それとも海路を使って船便で搬出されたのかは分かりません。
まずこの橋の名は何か?
そのためには「大日本人造肥料株式会社横濱工場」の場所を特定する必要があります。
「大日本人造肥料株式会社横濱工場」は
現在の日産化学工業株式会社(にっさんかがくこうぎょう)です。
Wikipediaには
「1887年(明治20年)4月、日本初の化学肥料製造会社として誕生した。」とあります。
よ!横浜はじめてストーリーを飾ることができます。
戦後の財閥解体で現在日産自動車との資本関係はありませんが、戦前は旧日産コンツェルンの一員だったことで、肥料産業の位置づけが少しわかります。
<沿革>
●渋沢栄一(第一銀行創業者)、益田孝(当時の三井財閥有力関係者)など当時の財界首脳が発起人となって「東京人造肥料会社」を設立します。
1893年(明治26年)12月
 「東京人造肥料株式会社」設立。
1910年(明治43年)7月
「大日本人造肥料株式会社」に商号変更。
と「大日本人造肥料株式会社」関連の社史を調べてみましたが、
横濱工場が何時、何処に開設されたのかは分かりませんでした。
1918年(大正7年)
「大日本人造肥料株式会社横浜工場にて耐酸鉄器の製造を開始す(日本曹達工業年表p102)」
これが手元の資料で確認できた横濱工場の初出
場所は意外なところから確認できました。
◆横浜市震災誌 第3冊 第3編 各方面の被害と復興
第6章 商工業 第2節 工業
第2項 被害工場会社と復旧
22 大日本人造肥料株式会社横浜工場
新浦島町1-1
「大震災の際、火災に罹り、工場の大半は消失した。震災前に於いては相当の製造能力を有し、業態良好であったが、震災後は少量の完全肥料を製造し居るのみにて、震災前に比しては雲泥の差がある。(P409)」
震災誌「大日本人造肥料株式会社」は神奈川区新浦島町1-1にあったことが分かりました。
震災でかなりダメージを受け、
1931年(昭和6年) 2月に
「大日本人造肥料株式会社肥料試験場(横浜市子安)を白岡に移転」
※日産化学工業 社史
白岡は現在、埼玉県白岡市白岡で「生物科学研究所」となっています。

[埋立の町、新浦島町]
地図で確認してみると神奈川区<新浦島>には現在二つの橋が架かっています。
「新浦島橋」「荒木橋」
<新浦島>埋め立ての歴史は明治36年に神奈川地先海岸埋立計画が出願され2年後の明治38年に許可が下り、明治40年に「横濱倉庫株式会社」がこの事業に着手します。
1908年(明治41年)10月に「新浦島橋」「浦島橋」(同時期に「村雨橋」「千若橋」「千鳥橋」「常盤橋」)が竣工し11月に運河も完成します。
1910年(明治43年)
新浦島一丁目が設置。
その後
バナナ埠頭のある出田町(昭和2年)ができます。
No.447 いずたとばななの物語

No.447 いずたとばななの物語


埋め立て地「新浦島町」に架かる橋は当初一つだけで、
「荒木橋」が架けられたのは1955年(昭和30年)のことです。light昭和31年1956年

(消えた浦島)
「新浦島町」の沖に「千若町三丁目」ができそこに浦島橋が架かります。
大きな製鉄工場が進出しその後 拡張して出田町ができました。
「新浦島町」と「千若町三丁目」の間にあった<運河>が
戦後昭和39年〜40年頃に埋め立てられてしまいます。(当時の地図による推計なので確証なし)
このことによって「浦島橋」が無くなり
「新浦島橋」だけが現在まで残ることになります。
新浦島橋は今年平成28年度事業で架替工事中。完成。
light新浦島橋77 light新浦島橋工事http://www.city.yokohama.lg.jp/doro/kyouryou/kakekae/shinurashimabashi/
とここまで進んできました。
まとめますと
1907年(明治40年)に埋立が始まり
1908年(明治41年)に繋ぐ「新浦島橋」が完成
1910年(明治43年)に町名が「新浦島一丁目」、「大日本人造肥料株式会社」に商号変更。
1918年(大正7年)に横浜工場で耐酸鉄器の製造を開始
1923年(大正12年)震災で「火災に罹り、工場の大半は消失」

(新事実)
これまで積み上げてきた資料が一気に覆る?
ここに新たな事実が、「カナコロ」アーカイブにありました。
【新浦島橋】
「管理する橋梁課によると、正確な築造年はわかっていないが、明治末期から大正初期にかけて、炭素製品メーカーの日本カーボンが工場への専用橋として設置した。1955年に煉瓦の橋脚部分を残して上部の舗装部分を架替え1987年は同社の移転を機に市に移管」
http://www.kanaloco.jp/article/61678
「日本カーボン」は
1915年(大正4年)12月
横浜市神奈川区浦島ヶ丘に設立とあり、昨年100周年を迎える企業です。
1938年(昭和13年)に
横浜海岸工場建設、電刷子等高級炭素製品用素材の大量生産開始。

また、この「新浦島・千若」には1926年(大正15年)操業の「日本製粉」横浜工場があり現在も稼働しています。
昭和5年発行の地図にもしっかり「大日本人造肥料株式会社横濱工場」の位置がしめされていました。昭和5年新浦島あたり さてlight大日本人造肥料株式会社001
この「大日本人造肥料株式会社横濱工場」前に架かる橋の名は?
私としては「新浦島橋」であって欲しいですが、もしかすると
「浦島橋」???????謎、残されたままです。
JR東神奈川駅改札前に歴史紹介パネルがあり「大日本人造肥料株式会社横濱工場」がありました。橋もありますが<名前>は依然不明です。

「大日本人造肥料株式会社横濱工場」
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tadkawakita
  • tadkawakita
  • 横浜の歴史にざくっと関心をもって15年です。本腰をいれて学び始めて5年となりますが、学べば学ぶほどに深くなっていきます。
    Y2345というキーワードを作りました。1923年〜1945年までの横浜を軸に「横浜史」を乱学しています。
    史実に出会ったら、できるだけ現在の地を訪れるよう努力しています。