2月 19

No.409 二国五郡物語

横浜の古代中世に昨日No.408で触れた流れで、今日はその後、
七世紀後半から八世紀にかけての横浜をざくっと紹介しましょう。
街歩きにちょこっと役立つ程度です。

現在の横浜市域は、古代国家の時代
二つの国(今の県みたいなもの)
その下の五つの群に分かれていました。
(二つの国)
二つの国は
武藏国(むさしのくに)
相模国(さがみのくに)
この二つの国境は、おおよそ現在の藤沢市と横浜市の市境を流れる境川で分かれていました。

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(五つの群)
武藏国(むさしのくに)の
都筑郡(つづきぐん)
久良郡(くらきぐん)
橘樹郡(たちばなぐん)

相模国(さがみのくに)の
高座郡(たかくらぐん)「太加久良」
鎌倉郡(かまくらぐん)

(郡域の変化)
一気に時代を明治に飛ばします。
明治初期も、江戸時代の地域割を維持しながら郡制を敷きますが
ちょっと古代と異なっています。

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久良郡(くらきぐん)→16世紀ごろから久良岐郡に
橘樹郡(たちばなぐん)→エリアの拡大
古代の郡域は鶴見川を境に分かれていましたが、中世には
星川・仏向・程ヶ谷(保土ヶ谷)他が橘樹郡になっています。
この辺は簡単にしておきます。

(横浜市域は都筑郡・久良郡)
現在の横浜市域に古代の都筑郡・久良郡がほぼ入ってしまいます。
その他の橘樹郡・高座郡・鎌倉郡は、明治以降の市域拡大で
その一部を編入してきました。
古代の分け方で言えば、横浜は異なる地域の混成エリアともいえるでしょう。
余談ですが
横浜で一番新しい区が都筑区と青葉区ですが、「都筑」の名が候補に挙がった時は、新しい住民(居住年数20年未満)が殆どだったこのエリアの住民には“つづき”の名になじみがありませんでした。歴史を記憶する「地名」を残すことは大切だと私は思います。
この都筑、時折「都築」と誤記が起ります。明治時代にも「都筑」ではなく「都築」と表記している文献があるくらいですから 間違いやすい地名といえるかもしれません。
「つづき」「つずき」の違いです。
間違えないようにしたいものです。

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和名類聚抄

(郡の下に郷)
古代
国の下に郡、
郡の下には郷がありました。
都筑郡には
餘部(あまるべ)
店屋(まちや)
驛家(うまや)
立野(たての)
針斫(はざく)※石偏に斤(文字化けの場合)
高幡(たかはた)
幡谷(はたのや)

久良郡には
鮎浦(ふくら)→六浦庄
大井(おおい)
服田(はとだ)
星川(ほしかわ)
郡家(ぐうけ・ぐんげ・こおげ)
諸岡(もろおか)
洲名(すな)
良崎(よしはし)
http://www.rekihaku.city.yokohama.jp/news/news21-4.html

現在に残る地名が幾つかあります。
逆に 殆ど無くなってしまいました。
立野(たての)
針斫(はざく)→八朔
星川(ほしかわ)
諸岡(もろおか)

このように
七世紀後半から八世紀にかけて古代国家が領地を明確にしていきながら成立していきます。領地には管理(支配)する役所と寺社が設置されていきます。
武藏国の国府は、多磨郡(現在の府中市)
相摸国の国府は、大住郡(現在の平塚市)→平安時代に現在の大磯に移ります。
 ※国府の湊(津)で国府津(こうづ)の名が残っています。

一方、役所と共に寺社が設置されますが
武藏国(むさしのくに)→氷川神社
相模国(さがみのくに)→寒川神社
以下郡にも役所と寺社が創られていきます。
横浜で郡の役所と共に建立された寺といえば「弘明寺」です。
次回は
この弘明寺の近現代を紹介しましょう。

驛(うまや)の食卓
古代の地名から命名かどうかオーナーには確認してませんが、
美味い横浜ビールは「驛の食卓」です。
http://www.umaya.com

2月 18

No.408 古代横浜の七年戦争

ブログ再開に際し 時代をさかのぼり
昔々の横浜に起った七年戦争を紹介しましょう。
時は、534年(安閑天皇元年)ごろ
当時横浜一帯は「笠原直 使主(かさはらのあたい おみ)」という豪族が支配していました。もう少し広い範囲で説明しましょう。
武蔵国(むさしのくに)の話ですから、現在の埼玉全域・東京・川崎・横浜という広大な地域を舞台にした物語です。

日本書紀

この笠原家に身内争いが起ります。
親戚(同族)の笠原小杵(おき)(おきね)が国造(くに の みやつこ)という地方を治める官職を巡って内乱を起こします。
戦いは七年経っても決着がつきません。
「小杵」は現在の群馬県地域の豪族だった上毛野君(かみつけののきみ)小熊(おくま)に助力を求め形勢逆転を図ります。あくまで記録上の表現ですが、
「小杵」は“性格が激しく人にさからい、高慢で素直でなかった”そうです。
一方で「笠原直 使主」はこれに気づき、このままでは負けると京都に逃げ出し朝廷に助けを求めます。
朝廷は実情を聞き、「使主」を国造として認定し「小杵」に対する征伐軍を出した結果、大和政権と全面戦争を避けたい小熊が軍を引いたことで「使主」は国造職を維持します。
無事自国の領地を取り戻した
『「使主」はかしこまり喜び黙し得ず、帝のために横渟(よこね)・橘花(たちばな)・多氷(おおひ)・倉樔(くるす)の四ヵ所の屯倉を設け献上した。』
※屯倉(みやけ)とは、大和政権の支配制度の一つ。全国に設置した直轄地を表す語でもあり、のちの地方行政組織の先駆けとも考えられる。
これが534年(安閑天皇元年)ごろだと「日本書紀」に書かれています。
この横渟(よこね)・橘花(たちばな)・多氷(おおひ)・倉樔(くるす)の四ヵ所
横渟(よこね)は現在の
埼玉県比企郡吉見町(和名抄の武蔵国横見郡)あたりと推測されています。
そして、神奈川の
橘花(たちばな)、現在の川崎市から横浜市東北部で、平安時代の百科事典「和名類聚抄」に示す武蔵国橘樹郡あたり。橘花が橘樹に変化したのでしょう。

和名類聚抄

多氷(おおひ)は多末(たま)の間違いで「和名類聚抄」の武蔵国久良(久良岐)郡大井郷か東京都下多摩地域あたり
倉樔(くるす)
横浜市南部で「和名類聚抄」の武蔵国久良(久良岐)郡にあたるだろうと推測されています。
横浜は、武藏の国と相摸の国の境目あたりに位置していたんですね。
それから1世紀、戦国時代に笠原家の名が相模の戦国大名北条家の家臣として登場し活躍します。

駒沢大学ライブラリーより

「笠原信為(かさはら のぶため)」
武蔵国橘樹郡小机城城代で、墓所は雲松院(横浜市港北区小机町)にありますが、
この笠原家が古代の笠原と関係があるかどうかは 判っていません。

2月 15

2月15日(金)【臨時休止】プラス充電中

2012年から一日1テーマ形式で横浜のこと書いています。
書きたいテーマへの掘り下げ不足に対する自分自身の
不満もあり またさらに新たなテーマがどんどん出てきて
現在のデータの再編成が必要になりました。
また

ハードディスクの増設に伴い 蓄積データの
若干ですが メンテをすることとします。

これまでの資料の整理し
2月18日(月)再開をお約束して三日間休止します。

※予備原稿を用意できなかった マネジメントミスでもあります。
昨日の「No.407 YOKOHAMA電話番号の話」も現在新版に更新中ですので併せて少々おまち下さい。
今夕
図書館と古書店にちょっと立ち寄って
がさっと ネタ資料集めてきました。あとは料理法が問題だけど。
17日は弘明寺を散策します。

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2月 14

No.407 YOKOHAMA電話番号の話

(今日は暫定でごめんなさい)
1枚の地図をごらんくだざい。

昔は、電話番号で 凡その地域がわかった時代があります。
東京ではNo.「3』がある業界ではひっぱりだこになったりしました。
上記の地図の時代は昭和38年当時の(計画図)です。
横浜もこの頃、人口増にともない電話局が整備されることで
おおむね1区に1基地局を目標に整備計画が組まれました。
ちょっと詳細が判読しにくいので一部アップします。

電話にまつわる話しは 後で アップしますのでご容赦下さい。

2月 13

No.406 今無い風景に思いを寄せて

人間の記憶というのは不思議なもので
ある日突然空き地になった場所に立ち
以前ここに何があったのか
思い出せないことが往々にしてあります。

ここはどこ?

今日は、何気なく撮った写真から
今無い風景を何点か紹介しましょう。
【1】汽車道からパナソニック

この風景も記憶のある人が少なくなっていく部類に入ります。
良く写真をご覧下さい。
パナソニックの「皿メディア」の乗っかっている建物の壁に一幅の絵が描かれているように見えませんか?
これは、壁に伸びた蔦が“絵”のように見えているので、季節によっても色合いや絵柄が微妙に変わっていくために壁絵らしく感じたのかもしれません。
この場所は倉庫として使用されていましたが、再開発が決定し取り壊され、駐車場になってしまいました。現在再開発が始まり新しい街の表情が誕生することでしょう。
※このパナソニックの広告を掲出した担当の方、敬意を表します。
広告効果、このエリア一番ではなかったでしょうか。

汽車道
1911年に開通し1987年に廃止されるまで東海道貨物支線(横浜臨港線)として使用されていました。
東横浜駅〜横浜港駅間約500mを1998年に遊歩道(開港の道)の一部として整備し「汽車道」と命名しました。
桜木町から三基のトラス橋を経て新港地区を結んでいます。当時使用されていた線路も歩道の一部としてそのまま活かされています。
この三基のトラス橋港(1号橋梁〜港3号橋梁の3橋梁)は、横浜市認定歴史的建造物に認定されています。
No.205 7月23日 (月)駅を降りたら、国際港

No.62 3月2日 みらいと歴史をつなぐ道
【2】伊勢佐木界隈

ヨコハマを代表する繁華街の一つ伊勢佐木町通り。
明治後期には、東京の浅草・大阪の千日前と並ぶ盛り場として繁盛していた地区です。
その後、
関東大震災、横浜空襲も乗り越え、横浜の商業中心地が横浜駅界隈に移る中でも努力を重ね賑わってきました。
残念ながら開港と共に歩んできた伊勢佐木もこの10年を捉えても大きく様変わりしています。

近年一番の変化は「松坂屋」(旧野澤屋)の閉店でしょう。
ここは「ゆず」のデビュー空間として有名になりました。

現在は建物も新しくなり「カトレアブラザ」となっています。
その他、時代の趨勢でしょうか、なじみの店が消えていくのは寂しいものです。

思い起こせば、この30年時々しか利用できませんでしたが
伊勢佐木のお店も かなり変わりました。残って欲しい店、まだまだあります。
頑張って イセザキ。

No.137 5月16日 全店サマークリアランスセール開催中
1月30日 MATSUYA GINZAのDNA
【3】旧ヘルムハウス跡地の遺構

以下をもって説明とさせていただきます。

ある日!気がついた時には、消えていました。
No11 1月11日(水) KAAT開場

【4】その他の風景
JR関内駅近くに関外エリアを縦断する「大通公園」があります。
かつては 沼地を吉田勘兵衛という方が生涯をかけて埋め立てた土地の真ん中に残した「水路」でした。この水路を埋立て、その下を市営地下鉄が走っています。
その関内側(市役所側)に建っていたモニュメント?ですが数年前に撤去されました。

No.321 11月16日(金)吉田くんちの勘兵衛さん

No.214  8月1日 (水)開港場を支えた派川(はせん)工事
今まさに 再開発中。

No.367 1月1日(火)この駅「日ノ出町駅」

日ノ出町駅前が大きく変わりつつあります。
http://www6.ocn.ne.jp/~hinode-a/

みなとみらいの四半世紀は、別立てで追いかけることにします。
(他に)
紅葉坂の石畳!
野毛のミモザの怨念!
も材料が整えば 紹介したいところです。
今日は ここまで。

2月 12

No.405 ブームにのって墓マイラー

墓マイラーという嗜みをご存知だろうか?
歴女の次をいく密かなブームが有名人の墓を巡る
墓マイラー。決してだじゃれだけの世界ではありません。
今日はこの墓マイラーから一席!

横浜市内で一番「墓マイラー」が訪れるのは?
鶴見にある総持寺の石原裕次郎の墓です。
No.312 11月7日(水)裕次郎だけじゃない

小さなお寺で、マイナーな発見もこれまた「墓マイラー」の神髄だそうで、このブログでも弘明寺で(弘明寺は大きいですが)

たまたま発見した「四代目橘家圓蔵」追悼の碑も「墓マイラー」番外編としてテーマにしています。
★弘明寺の「四代目橘家圓蔵」他
No.109 4月18日 品川の名人濱に死す

★保土ケ谷の福聚寺の五返舎半九
No.218  8月5日 (日)夢の夢の夜夢覚め

先日、東白楽近辺を散策中に「善龍寺」というお寺さんがありました。
住所は横浜市神奈川区斎藤分町29-51
起伏の多い住宅街の一角にある浄土真宗のお寺です。
ちょっと境内を拝見していたら そこに
5代目 一龍斎貞丈の墓があるではありませんか。

「5代目貞丈」でピーンときました。
★★5代目 一龍斎貞丈
講談師でございます。
最近また少し復活してきましたが、落語に比べ厳しい平成時代を経てきました。

本名が柳下 政雄(やぎした まさお)で1906年(明治39年)8月13日三重県に生まれ小さい頃から横浜に育ちました。早稲田実業に学び、卒業後
1925年(大正14年)4代目昇龍斎貞丈に入門し、昇龍斎貞一を名乗ります。
1931年(昭和6年)12月師匠の急逝を受け、6代目一龍斎貞山の預かり弟子になり、
翌年の1932年(昭和7年)3月に5代目一龍斎貞丈を襲名します。
講談師「5代目 一龍斎貞丈」は、1963年に芸術祭賞奨励賞受賞の他、
人間国宝の6代目一龍斎貞水を育て、政治家になった一龍斎貞鳳が弟子で子息は6代目を継ぎます。

横浜が生んだ長谷川伸 同様に育てるのも上手な師匠だったようです。
1952年(昭和27年)の全員が死亡した「もく星号墜落事故」に仕事のために乗り遅れ命拾いをしたというエピソードが残っています。
1968年(昭和43年)7月27日に61歳で脳溢血のため死去。一説では柳橋の粋筋宅で(腹上死)というから中々なもんです。
1968年度の第20回 NHK放送文化賞も受賞しています。
弟子の人間国宝となった“怪談の貞水”こと一龍斎貞水は、古典だけではなく様々なジャンルとコラボするなど、講談の新境地を開きました。
2006年12月2日(土)横浜能楽堂開館10周年記念企画公演で江戸大名と能・狂言と銘打ち「徳川光圀と能」に参加しています。

■講談とは物語の素材に注釈を付けて語る話芸で、歴史物が中心ですが最近では、経営理論、教育、時事など多才なジャンルでファン層を拡げています。
現在は女流講談師の割合も増え、一龍斎貞心の弟子で都内歴史ガイド、老人福祉施設、学校寄席、最近では「講談紙芝居」などマルチタレントとしても活躍している一龍齋貞寿(いちりゅうさいていじゅ)は横浜生まれ。
好評を博している。
http://www.mangaka-gakkai.com/index.html
同じく横浜市生まれの宝井琴柑(たからいきんかん)は「横浜のヘボン博士」「エルトゥールル号」など横浜ネタも開拓し人気を博しています。
(余談)
大手出版社の「講談社」の講談は古典芸能の「講談本」を出していたのでこの名となりました。

2月 11

No.404 横浜、駅を巡るとりとめもない話

ある方から「降り鉄」の名を頂戴しました。光栄です。
今日は、(今日も)横浜の駅を巡る“たわいのない”話しに終始したい!
ので、鉄道(駅)に関心の無い方 ごめんなさい。


普通、テレビ番組でもなければ目的無く知らない駅に降立つことはありません。私は、横浜市内全駅に降立つ“目的で”駅歩きをかなり前から始めました。
1990年から折々に市内全線全駅巡りをし、2008年に踏破しました。

 


No.385 【横浜界隈鉄道編】横浜の駅

ここで
※市内全線全駅踏破は、勿論全事業路線の改札を出る!ということでカウントしています。
と全駅巡りを定義しましたが、
改札を通過していない駅がありました。
「海芝浦」駅です。

車内が待合室?

No.177 6月25日(月) 出られない出口

No.385 【横浜界隈鉄道編】横浜の駅

ここで、(市内の駅の数)を紹介しています。
全路線をカウントすると168駅あります。
「横浜駅」のような複数路線乗入れのターミナル駅をまとめてカウントすると、
153駅となります。
と書きましたが、駅の定義によってカウント数が異なりますので
この数値は多用しないほうが良いでしょう。
(横浜駅は幾つ?)
横浜駅は一つですが、
路線別とすれば9路線ありますから「9駅」
会社別とすれば6社ありますから「6駅」
連絡改札をシームレスと考えれば「4駅」
 JR線と京急線
 東急線とみなとみらい線
 相鉄線
 市営地下鉄

(※同じ構内でも京葉線東京駅の距離は最悪です)
【京葉線東京駅】
乗り換え時間
日中に、京葉地下ホームからエスカレータや動く歩道は一切歩かずに計ったものです。朝や夕ラッシュ時、東京ディズニリゾートの帰宅客で混雑する時間帯だとこれよりもさらに時間を要します。一番近いのが東海道新幹線の改札。最も遠いのが総武線ホームである。
東海道新幹線改札・・・10分
東海道線・京浜東北線・山手線・中央線ホーム・・・12〜15分(中央線が最も時間がかかります。)
総武・横須賀線ホーム・・・20分
※改札外乗り換えで自由通路を通ると15分程度。乗り降り自由のフリーパスなどの切符を所持しているときは改札外での乗り換えが便利
http://www.geocities.jp/tibamakuharin/keiyousen/keiyoutoukyou.html

(駅舎間で分類?)
同じ駅でも駅舎が少し離れている駅が幾つかあります。
特に京浜急行とJR東は並走している路線なので、目立ちます。
■鶴見
JR鶴見駅と京急鶴見駅は少し離れています。
■新子安
■JR「東神奈川」と京急「仲木戸」
■JR「桜木町」と京急「日ノ出町」はちょっと離れすぎ
■杉田駅(新杉田)もね。
他の鉄道会社でも
弘明寺駅、金沢八景駅と探し出すと
少し離れた駅はけっこうあります。

(改札の不思議)
東急「長津田駅」とこどもの国線「長津田駅」
JR「鶴見駅」と鶴見線「鶴見駅」
この二つの駅に共通する“不思議”わかりますか?
(出先で原稿アップのため 写真 少々お待ち!!)
この二カ所に共通するのは
同じ会社経営ですが、路線事情で“改札”を通る必要があります。
つまり無人駅(改札)があるからです。

ちょっと前の写真ですが、こどもの国線は下車駅で精算という看板が出ています。


ということで、
今日はとりとめもなく 横浜市内の駅の話しになりましたが
おりに触れて 私のお気に入り「駅」「駅周辺」を紹介していきます。

2月 10

No.403 スポチャン

スポーツチャンバラというスポーツがあります。
ご存知でしたか?エアーソフトの剣とアクリル製の防具によって安全性を確保したチャンバラですが、スポーツとしてルール化され国際大会もある競技です。
今日はこのスポーツチャンバラ、略してスポチャンを紹介しましょう。


まずは映像からスポチャンをイメージしてください。

Sports Chanbara -free battle/スポーツチャンバラ 練習映像
http://www.youtube.com/watch?v=g8UV3OD_DkQ

2012年スポーツチャンバラ世界大会二段長剣フリーハイライト
http://www.youtube.com/watch?v=4WWsRLqmgh0

■ルールを簡単に紹介しましょう。
まず試合用コートですが、6〜9メートル四方の正方形です。
試合時間は1分間で1本勝負(又は、3本勝負)延長が30秒間。
決勝戦といった特別な場合は3分3本勝負の場合もあります。
相打ちは、両者敗けとなりますが3本勝負の場合は、相方が1本づつ取ったことになり1本勝負として試合を行います。
剣が相手に触れれば一本ですが、一回だけ「かばい手」が許されます。
詳しくは
http://www.internationalsportschanbara.net/jp/

このスポーツチャンバラは、1969年に田邊哲人氏によって横浜で始められた新しい競技です。
ブンタイ「横浜文化体育館」で生まれ育った横浜発のスポーツです。

No.132 5月11日 熱く燃えて半世紀

創始者の田邊哲人さんは、
子供の頃に棒切れを持って、村の神社の境内や野山を駆けめぐって遊んだチャンバラごっこを、健康で安全なスポーツにできないか?と考え始められましたが、
当初はガードマンの護身技術向上を目的に始まったものだそうです。
次第に裾野も広がり、現在では小学生からお年寄りまで幅広い競技人口の健康スポーツに育っています。
2011年(平成23年)時点で、世界選手権大会は第37回を迎えました。
イタリア、ロシア、韓国、フランス、ドイツ、エストニア等、海外の支部活動も盛んにおこなわれています。

時々初心者用のイベントも開催されます。

田邊哲人コレクション
スポチャン創始者の田邊氏は真葛香山研究の第一人者でもありその数は3,000点に及びます。
コレクションの一部は、神奈川県立歴史博物館 常設展示室2階「真葛焼」に展示公開されていでいつでも見ることが出来ます。
http://www.tanabetetsuhito-collection.jp/index.html

2月 9

No.402 JIMAE TABI

幕末から明治中期にかけて
日本が外国から技術や語学研修のために多くの
“OYATOI”外国人が来日しました。
一方で、在留外交官・宣教師や商館の外国人も“自前”で日本国内を旅記録に残し、
一部は母国で出版され日本研究や、
日本紹介の役割を果たしました。
今日は、外国人の日本紀行の一部を紹介しましょう。

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外国人の「日本紀行」は、古くからありました。
ザビエルが始めた『イエズス会士日本通信』
ルイス・フロイスの『日本史』が有名です。
19世紀後半、開国に伴い訪れた外国人が多くの日本紀行を残しています。
手元にある日本紀行関係を一部リストアップしてみました。
(横浜に関係するものには★を付けました。★数はおすすめ度です)

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★★アーネスト・サトウ
 「公使日記」他
No.392 サトウさん入門
★チャールズ・ワーグマン
 「ジャパン・パンチ」
No.7 1月7日(月)THE JAPAN PUNCH

★デイキンズ・F・V
 「パークス伝」(イギリス公使パークス)
★★ジョン・ブラック
 「ヤングジャパン」他
 

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No.163 6月11日(月) 反骨のスコッツ親子
★★フェリーチェ・ベアトの写真集

★★ジョルジュ・ビゴー
 「ビゴーが見た明治ニッポン」(画集解説)講談社 2006 
★★エリザ・R・シドモア
 「シドモア日本紀行ー明治の人力車ツアー」講談社 2002
★エルヴィン・ベルツ
 「ベルツの日記」他岩波書店他
No.162 6月10日(日)日本よさようならである。
★セオダテ・ジョフリー
「横浜ものがたり」雄松堂

★マーガレット・バラ
 「古き日本の瞥見」有隣堂1992
★ギメ・エミール
 「1876ーボンジュールかながわ」有隣堂1977
★★ギュスターヴ グダロー
 「仏蘭西人の駆けある記ー横浜から上信越ヘー」まほろば書房1987
★ヘンリー・スペンサー・パーマー
 「Letters from the land of the rising sun」(復刻原書)
 「黎明期の日本からの手紙」筑摩書房1982
No.105 4月14日 白の悲劇

No.121 4月30日  日本にCivil engineeringを伝えた英国人

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■ミッドフォード・A・B
 「英国外交官の見た幕末維新」
■イザベラ・バード
 「日本奥地紀行」平凡社2000
  女性の単独旅行記として読み応えがあります。
■ウィリアム・エリオット・グリフィス
 「The Mikado’s Empire」(原書)
 『ミカド 日本の内なる力』(日訳)

この中から
1880年(明治19年)にある横浜に暮らすフランス人の上信越の旅を著した一冊の旅行記を紹介しましょう。
ギュスターヴ グダロー(Gustave Goudareau)
は横浜にあったフランス領事館に勤める一事務官でした。グダローが12日間に渡って横浜から上信越方面を周遊して戻ってくる旅行記“Excursions au Japon”が、「仏蘭西人の駆けある記ー横浜から上信越ヘー」というタイトルで日本語訳されまほろば書房から1987年に発刊されています。

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グダローについてはその人物像が謎ですが(不明)、資料の断片から1897年に横浜のフランス領事館事務代理になったこと、来日して15年程度のキャリアーがあることが判っています。グダローが観た日本は明治中期頃と推察できます。

(旅程)
横浜から新潟、直江津、長野を経て再び横浜に戻ります。

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行く先の地域経済の現況も数値的に(正しいかどうかはわかりませんが)捉えていたり、正確な旅程記録からかなり日本語に詳しい“細かい”性格が伝わってきます。
異文化ギャップも所々に散見されますが、現地の人々から多くのことをヒヤリングしているところからも概ね親日家の視点で記録された貴重な日本紀行ではないでしょうか。

nnsc2013019前橋までは鉄道を使い、その先は「人力車」と「川蒸気」を使っています。特に「川蒸気」に関しては
往路、長岡から新潟まで約8時間
復路は新潟から与板まで約7時間の川旅を経験しています。
この時代の貴重な移動の記録として「交通学」としても価値ある内容といえるでしょう。
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 当時、フランスは富岡製糸工場、横浜製鉄所 幕末には横須賀製鉄所に関与していましたから同時代のインフラ整備の基本知識がグダローにはあった様子が至るところに発見できる点からも読み応えがあります。

残念ながら復刊されていませんので、一部図書館で借りることが出来ます。
中央図書館他「神奈川」「中」「保土ケ谷」「金沢」「戸塚」の各図書館にあります。

図書館蔵書検索
https://opac.lib.city.yokohama.lg.jp/opac/

2月 8

No.401 短くも美しく

幕末から明治にかけて開港後の横浜の風景や風俗を描いた「横浜浮世絵」と呼ばれた版画(錦絵)がありました。
今日は、短くも見事な時代描写として歴史の一級資料となった「横浜絵」「ハマ絵」「横浜錦絵」とも呼ばれた「横濱浮世絵」を紹介します。

 


(変化を伝えるメディア)
初代イギリス公使オールコックは、変化する日本(横浜)を「魔法使いの杖の一振り」と表現しました。

日本の文化は横浜を舞台に、開港をキッカケに一気に外国の影響を受け激変していきます。この様子を当時のフルカラー映像「メディア」として伝えたのが「横浜浮世絵」です。

(「横浜浮世絵」とは)
幕末から明治にかけて急速に発展・変化していった横浜の“開港場”で繰り広げられた現象や事物を題材とする「末期の浮世絵」のことです。
すでに長崎では江戸の長崎土産として作られていた異国趣味の「長崎絵」が、
「横浜浮世絵(横浜絵・ハマ絵・横浜錦絵)」としてご当地流行メディアにのってブレイクしたのです。
まさに開港という時代を反映した一連の横浜浮世絵は、当時のお土産物として人気があり浮世絵制作集団が横浜マーケットになだれ込みます。
 

浮世絵制作集団は、師岡屋や伊勢茂など少数の版元を除き、大半が江戸の版元でした。

(短期集中連作)
横浜浮世絵は、1860年(万延元年)〜1872年(明治5年)頃の約12年間だけ制作されました。作品総数は840点余りで作品の半分以上が横浜港開港直後の“2年間”に集中しています。
●港を中心とした外国船の出入りの様子
■貿易の有様、外国人とその珍しい風俗・習慣、横浜の賑わいや街並
●港町を中心として作られた遊郭の隆盛
□舶来物や渡来したサーカスや象などの見世物
★横浜の地図類や案内書など
集中して描かれましたがこの12年間の作品群から前期は人物中心、後期は建物中心のものが多く制作されました。
絵師は、当時江戸で活躍していた「横浜浮世絵の第一人者」と評される歌川貞秀を始め、
芳虎や芳員、
二代広重、三代広重など50人余りが活躍しました。

横浜浮世絵の特徴の一つに絵師や版元が明瞭である点があげられます。
日々変化し発展する対象物や時事の題材をニュース性に重点を置き制作されたために、作品の雑さを指摘する向きもありますが、歴史的価値は当代一級のものといえるでしょう。
 その後、開港場が産業の場として落ち着く事で、東京を中心とした「開化絵」と呼ばれる新しい題材を描いた浮世絵へと移行していきます。

開化絵に入る伊勢山下瓦斯会社の図

素材は文明開化の様子や風俗、西洋建築物、開通したばかりの鉄道などが多く人気は横浜から東京に移り、横浜浮世絵は自然消滅していきます。
代りにと言っては少々乱暴ですが、メディア「横浜浮世絵」は(横浜)新聞に、(横浜)世相芝居として、新しい文化を発信していきます。

 

横浜浮世絵
http://www.kaikou.city.yokohama.jp/document/picture/02.html

http://ch.kanagawa-museum.jp/dm/ukiyoe/yokohama/m_yokohama01.html

http://www.odagiri-tsushin.net/ukiyoe/genre.php?genre=yokohama