8月 1

No.214 8月1日 (水)開港場を支えた派川工事

横浜は花火大会です。2014年は8月5日19時スタートでした。
1874年(明治7年)8月1日(土)の今日、
横浜港と根岸湾とを結ぶ水運と、
吉田新田埋立用土砂確保のため中村川から根岸までの堀割工事が完成しました。

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中村川から根岸までの堀割工事が完成し、「堀割川」と命名されました。
「堀割川」
正式名称は二級河川「大岡川小派川 堀割川」です。

 流域全長は2,700m、水深約3mで川幅20〜30mあります。

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■支川(しせん)と派川(はせん)
川には本川に流れ込む支川(しせん)と、本川の水量を分岐させるための派川(はせん)があります。
堀割川、中村川は、大岡川の「派川(はせん)」です。
※因みに本川の右岸側に合流する支川を「右支川」、左岸側に合流する支川を「左支川」と呼び、本川に直接合流する支川を「一次支川」、一次支川に合流する支川を「二次支川」と、次数を増やして区別します。
派川(はせん)の場合このような「○次派川」という区分はありませんが、堀割川は“派川”中村川の“二次派川”「大岡川小派川 堀割川」と呼ばれています。

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(堀割川の歴史)
堀割川は、1870年(明治3年)から掘削が始まり、1874年(明治7年)まで4年の時間が必要でした。
当時の神奈川県知事の“井関盛艮”が工事請負人を募ったところ、吉田新田を開拓した“吉田勘兵衛”の子孫がこれに応じ、現在の中村橋付近の丘陵に切り通しを行い、中村川から根岸湾までの運河を開削しました。
この掘削により生じた土砂を使って埋め立てた場所が、吉浜町・松影町・寿町・翁町・扇町・不老町・万代町・蓬莱町です。
この人工運河工事は困難を極めました。切り通し工事と埋立てという大工事、堀割川の中程に建設しようとした“滝頭波止場工事”は波浪により倒壊するなど吉田家の財力を大幅に超えるものとなってしまいました。
最終的には国が肩代わりするなどして完成しますが、大岡川の水害低減だけではなく、産業運河、堀割川河川沿いの産業道路(国道16号線)は横浜港と磯子地域発展に大きな役割を果たしました。
吉田家の功績は150年の現在も活き続けています。

(被災を乗り越えて)
1923年(大正12年)9月1日に起った関東大震災で河岸が被災しましたが
1926年(大正15年)から1928年(昭和3年)にかけて復興工事が行われ現在の堀割川の姿となりました。
一部に石積み護岸や物揚場、橋の親柱など、明治の面影を残しているところも見ることができます。堀割川はまさに近代遺産です。

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平成22年度の土木学会選奨土木遺産に認定されました。

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毎年8月には「堀割川の日」を設け、地域の住民の手で、堀割川の魅力づくり活動が地道に行われています。

(関連ブログ)
大岡川はさすが横浜開港場の中核となった「川」です。ここでも多く取上げています。
7月10日(火)もう一つの大岡川

No.187 7月5日(木) 目で見る運河

No.435 大岡川物語(1)

【番外編】(ざくっと横浜その1)村は川に沿って生まれる

No.378 1月12日(土)川辺の横浜

No.321 11月16日(金)吉田くんちの勘兵衛さん
(余談)
1940年(昭和15)に堀割川河口の飛行場から大日本航空(現在の日航とは関係ありません)、横浜〜サイパン・パラオ間水上飛行艇による定期航路が開設されました。

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右タンクのある鳳町に日航のターミナルと水上飛行場がありました

国際空港にふさわしい近代的なターミナルビル、全長26メートル、主翼の長さ40メートルの大型飛行艇が12機納まる大格納庫などが建ち並び、大日航横浜支所が置かれたそうです。
終戦でこの水上飛行基地は米軍に接収、
解体され
1958年(昭和33年)まで米軍の小型飛行場が設けられ使用されたそうです。

7月 10

No.192 7月10日(火)【横浜の河川】もう一つの大岡川

都市には必ず川の歴史があり氾濫と治水の歴史でもあります。
1976年(昭和51年)7月10日(土)の今日は、大岡川治水工事の一貫として着工した「大岡川分水路」(全長3,640m)の部分通水(笹下川から根岸湾まで)を開始した日です。light_大岡川水系図 のコピー大岡川は、港南区の丘陵地に水源を持ち、南区、中区の密集市街地を流れ横浜港内に注ぐ全長約15kmの都市河川(2級)です。江戸時代から埋立てや治水を通して流域の人々とともに歩んできました。

No.187 7月5日(木) 目で見る運河

No.2148月1日(水)開港場を支えた派川工事

No.435 大岡川物語(1)

【番外編】(ざくっと横浜その1)村は川に沿って生まれる

幕末開港後、急激に都市化が進むにつれて横浜は大岡川の氾濫による水害の歴史を歩むことになります。実は、大岡川は分水路の川です。
最初の大岡川分水路は<堀川>です。開港場の出島化の目的が主でしたが、中村川を分流する役割も持っていました。
light_20150409161611大岡川の下流の横浜中心部を守るために、次に完成した分水路が中村川から分流する「堀割川」です。明治初期に完成した堀割川によって一端大岡川下流域の大規模治水事業は終わります。
スクリーンショット 2015-07-09 23.24.46戦後、中・上流部の宅地化が急速に進むことで洪水が多発し、大岡川支流の「日野川」から地下トンネルで磯子地区に水を逃がし、出口から根岸湾までを水路で通過させる計画が大岡川分水路です。大岡川の治水対策として立案され、昭和44年を初年度に7カ年計画が立てられました。
1976年(昭和51年)7月10日(土)に下図の分水庭から磯子区までが完成します。

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笹下川取水口
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笹下川取水口
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磯子区側出口
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磯子区側出口あたりの航空写真

(完成)

笹下の分水路は地下二階建となっていて。地下一階は日野川から分かれた流れが根岸湾に繋がり、地下一階の<笹下川>の水量がある一定量増水すると分水路に放流される構造になっています。
166億かかったという金額に少し疑惑もありましたが実際に見ると、なるほどと妙になっとく。(20120711追記)

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この下に左から右に流れる日野川分水路が通っています。

大岡川は、運河の歴史でもあります。江戸から明治にかけて堀割川、中村川の工事は、大岡川の氾濫を抑制するためのものでした。この大岡川分水路は、昭和40年代の急激な横浜市の人口膨張に備えて実施された計画です。横浜市は戦後、特に30年代から郊外部の宅地化が進みました。E6-A8-AA-E6-B5-9C-E5-B8-82-E4-BA-BA-E5-8F-A3-E6-8E-A8-E7-A7-BB60s特に大岡川上流域の人口推移は、下記の通りです。
区別人口推移 住宅地の拡大は、地域の緑被率を低下させ、降雨水、生活水が直接河川に流れ込み急激な増水の危険性が高まります。
特に下流域への影響は深刻で、集中豪雨のときに海抜の低い“お三の宮付近(横浜市南区)”あたりで、大洪水が起る危険を残していました。大岡川下流域は住宅や工場が密集しているため、河川の拡幅工事には巨額な事業費と時間が必要となります。
そこで計画されたのが、大岡川分水路の建設でした。
横浜市には、二つの分水路があります。
大岡川分水路と帷子川分水路がありますが、対照的な分水路の姿を持っています。帷子川分水路は全長6,610mの殆どが地下トンネルで構成されているのに対し、大岡川分水路は磯子区地域で一部運河の雰囲気を楽しむことができます。

(大岡川分水路河畔プロムナード)
春には根岸湾まで続く桜並木がいっせいに咲き、美しい彩りを見せてくれます。川から海への桜プロムナードを花見の季節に一度は訪れてみることをおすすめします。

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磯子の丘陵地帯を背にしていたため幕末まで禅馬川や杉田川などの小規模な川しかありませんでした。
地名が示すように屏風のような急な断崖の多い湾で狭い砂浜が続く風光明媚な漁村でした。現在は全て埋め立てられ工場が立ち並んでいるため当時を想像するしかありません。
(余談)
ペリーもマッカーサーもこの“根岸湾”の景色をかなり気に入ったようで、勝手に「ミシシッピーベイ」などと名付けました。このエピソードも別の機会に紹介します。

No.700  【横浜の河川】川いろはのイ
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=6336

7月 5

No.187 7月5日(木) 目で見る運河

1904年(明治37年)7月5日(火)の今日、
歴史年表を紐解いていると「大岡川」の吉浜橋と花園橋が遊泳禁止で話題となったという記事を発見。
というかこの時代普通に泳いでいましたので<禁止>が話題になったのでしょう。
今ではなかなか想像がつきませんが、理由は追跡しておりません。

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明治14年ごろ吉浜橋はまだできていません。(M14測量図)

(今日は川ネタです)
大岡川の吉浜橋と花園橋あたりを中心に開港場の誕生あたりを軽く探ってみました。
題して「目で見る運河」
上記古地図は1881年(明治14年)頃の測量図です。
現在のマップで探ってみます。

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首都高速の「横浜公園」出口近辺がまさにこのあたりです。

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1893年(明治25年)ごろの吉浜橋近辺です。(「横浜真景一覧図絵」)
このあたりは 既に横浜製鉄所ができていましたから、“泳ぐ”には当時でも無理があったんじゃないかと推察できます。
でも泳ぐ人がいたんですね。
No.108 4月17日 活きる鉄の永い物語

(大岡川のめぐみ)
開港場の“横浜”は、干拓と埋立ての街です。
横浜村は大岡川が流れ込んでできた独特の砂州があり、深い入江となっていました。

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開港前の横浜

大岡川上流から運ばれる土砂は、
横浜村を含めた周辺の村に囲まれた“湿地帯”状態で、
村民は製塩と漁業の場として利用していました。
ここに目をつけたのが江戸の材木商、吉田勘兵衛(吉田勘兵衛良信)で、
1656年(明暦2年)幕府に許可を得て周辺の村民の賛意もあり干拓事業を起こします。
これが現在の横浜の基礎となった吉田新田の誕生です。

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干拓事業は人海戦術ですから大変な労力と危険(犠牲)を要しました。
完成までに約12年もかかります。
財力にも驚きますが、干拓事業に参加した村民の努力にも敬意を表します。
この干拓事業の地(川)鎮と無病息災を願うために
「日枝神社」と
「常清寺」とが創建され
現在もこのエリアの鎮守様となっています。(常清寺は開発のため現在久保山に移転)


この吉田新田の区割りから現在の南区・中区の街並が形成されます。
干拓にあたって、大岡川は現在の南大田近辺で「大岡川本流」と元町方向に流れる「中村川」に分岐させ、
真ん中を運河(堀割)で水を逃がし灌漑水路中川が作られました。

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この中村川、今日のテーマでもある吉浜橋と花園橋あたりですが、
元々ぐっと曲がって大岡川本流に戻る形で蛇行していました。

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「横濱村外六ケ村之図」他を参考に作図

開港場ができあがると、中村川をまっすぐ海まで延ばします。
長崎の出島のように運河で居留地を囲む目的と 中村川の氾濫防止の役割を持っていました。
この中村川新河口の南側(絵図左川)が元町、北側(絵図右側)が中華街として発展します。
※中華街の街路が他のエリアと方角が違いますが
 俗説にある風水による街並ではなく中華街は中村川の沼地<横浜新田>にできました。
 形成時期のズレによるものです。
 (中華街誕生も別の機会に必ず紹介したいテーマです)

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No.2148月1日(水)開港場を支えた派川工事
 
No.1927月10日(火)もう一つの大岡川
4月 17

No.108 4月17日 活きる鉄の永い物語(一部加筆修正)

(ちょっと紹介のタッチを変えてみました)
はじまりは、一枚の絵はがきでした。
「横濱吉浜橋ヨリ山手ヲ望▲」と題した風景には吉浜橋あたりから石川町から山手の洋館群が描かれています。
そして、右側に川に沿って倉庫群が見えます。
今日は、この連なるレンガ倉庫から始まる謎解きです。


■いつ頃の風景なのか?
 古地図から探ってみることにしました。

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1882年(明治15年)の地図でこのあたりを確認すると、
「Iron works 製鉄所」とあります。
でも、地図上の配置図と描かれている倉庫群とは明らかに異なっています。そこで、もう少し時間をずらしてみました。

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1892年(明治25年)の地図を見ます。
倉庫が並んでいます。「石炭庫」と表記されています。
レンガらしき倉庫群がしっかり描かれています。
このことからハガキの風景は、
少なくとも明治15年以降25年頃であると推測することができます。
では、
この倉庫群はどんな「製鉄所」なのか?調べてみることにしました。
ハガキに描かれている川(運河)は派大岡川といって現在は埋立てられ、製鉄所跡地はマンションに変貌しています。
中華街「西陽門」が建っています。

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■いつ頃の製鉄所なのか?
跡地に説明文が掲示されています。
ちょっと長いですが引用します。
「横浜製鉄所は、江戸幕府がフランスと提携し、艦船の修理と洋式工業の伝習を目的として、この地に設置した官営工場です。
横浜製鉄所は、横須賀製鉄所に先立ち緊急に建設されました。元治二年(一八六五)二月に着工、九月下旬には開業し、船舶修理のほか、横須賀製鉄所建設に必要な各種器具や船舶用機械の製造などで繁忙を極めました。首長(初代ドロートル、のちゴートラン、ルッサンなど)以下多くのフランス人技師・職工が建設や創業に携わり、わが国における近代的産業技術の導入、発展の上で大きな役割を果たしました。
慶応四年(一八六八)閏四月、横浜製鉄所は、横須賀製鉄所とともに新政府に引き継がれました。管轄は神奈川裁判所、大蔵省、民部省、工部省と移り、明治四年(一八七一)横浜製作所と改称(横須賀製鉄所は横須賀造船所と改称)、五年海軍省に移管し、横浜製造所と改めました。六年大蔵省に移り、横須賀造船所と所管庁を異にします。七年内務省に移管。八年高島嘉右衛門らに貸渡され、民営化の先駆けとなりました。十一年再び海軍省所管。十二年石川島平野造船所(現、株式会社IHI)の平野富二に貸与されて横浜石川口製鉄所と改称、十七年に建物と機械はすべて本社工場に移設され、約一・四ヘクタールの敷地は、翌年海員掖済会(現、社団法人日本海員掖済会)に貸与されました。
平成二十二年三月 横浜市教育委員会」

ここに一人の人物が登場します。
平野富二という長崎出身の実業家です。
彼は
1876年(明治9年)に石川島平野造船所を作り、
1879年(明治12年)に製鉄所の必要性を感じ海軍省からこの製鉄所を借受け、
1883年(明治16年)には造船所のある東京石川島に製鉄所と機材の移転を出願します。
そして翌年の
1884年(明治17年)の今日(4月17日)に許可がでます。

■平野富二とは?
ちゃんちゃん!!
これで物語は、お終いかと思いましたが意外な第二幕が始まります。
「横浜製鉄所」を東京に移した男、平野富二氏は造船所を経営する財産をどうして築いたのでしょうか?
彼は造船所の技術的ノウハウは、
長崎時代に長崎製鉄所兼小菅造船所長時代に得ました。
この頃、
師と仰いだ人物が教育者だった本木昌造という人物です。
本木昌造は「日本の鋳造活字製造の祖」といわれています。
本木昌造の依頼で平野富二は1872年(明治5年)に東京の築地で鋳造活字製造及び印刷事業「東京築地活版製造所」を起こし大成功を収めます。

明治に入り情報革命→出版革命が起っていました。
新聞や書籍の発行に必需品であった「活字」が飛ぶように売れる時代が始まったのです。平野富二は活字ビジネスの成功で前述の石川島平野造船所の他、機械製造、航海、海運、鉱山、土木業に拡張します。
金属製活字の歴史の中で姿形・品質ともに群を抜く技術を誇ったのが、「東京築地活版製造所初号活字」と「秀英舎初号活字」でした。秀英舎は現在の大日本印刷株式会社となりました。「東京築地活版製造所初号活字」はモリサワの「民友社かな書体(かな明1)」あるいは写研の「かな民友明朝(KMYEM)」となり現在でも生き続けています。

この「東京築地活版製造所」は、1938年(昭和13年)に廃業します。

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築地体初号見本
 

■築地活字1919
さて物語は、最終章に入ります。
この「東京築地活版製造所」(略称築地活字)」が絶好調だった1919年(大正8年)6月、活字と印刷材料の販売を目的とした「横浜博文館」という会社が横浜市中区南太田町に創業します。
「横浜博文館」は平工太三郎と出版社の博文館の共同出資でした。
同時期1920年(大正9年)には、活字デザイン界の巨星、岩田百蔵が「岩田母型製造所」を創業します。
姻戚関係にあった両社は、戦前の活版界をリードします。
第二次世界大戦の戦災で全てを失いますがお互いに助け合い活字母型と鋳造設備を復興させます。そして「株式会社平工商店」を再興し、
2010年(平成22年)「株式会社 築地活字」と社名変更し現在にいたります。
1938年(昭和13年)に廃業した東京築地活版製造所の活字母型も一部継承したために、活字界では名誉ある名称を名乗ったそうです。
http://tsukiji-katsuji.com/profile.html
http://katsujinokobako.blogspot.jp/
横浜で生まれた製鉄所が横浜を去り、そして活字という文化として横浜に帰り、守られてきたというのも何か不思議な縁を感じます。
※まだ「株式会社 築地活字」には伺っていません。
ぜひ一度伺ってみたいと思っています。
→今年は横浜メディア開拓史を探ってみたいと思います。

3月 12

番外編 重箱の隅の快楽(追記・修正)

私の父は富士山をこよなく愛した平凡な歴史研究者でした。
私を含め家族は「重箱の隅」をつついて飯を食っていると(家族にありがちな)揶揄していましたがその親父の仕事を追体験している自分に快楽を感じています。
「史実にささいも重要も無い、真実は史実の積み重ねをどう解釈していくかだ」と聞かされていましたが馬耳東風でした。
現在父は認知症で無邪気な日々を暮らしていますが、時々研究者時代がフラッシュバッックし家族を驚かせます。
人間の生と死は不思議なもので、とにかく富士山好きだった都内通勤と富士山が良く見えるポイントを探して引っ越したくらいです。その父が、2013年2月23日「富士山の日」に自宅で眠るように亡くなりました。
話題を本来の横浜ブログに戻します。
現在、少しずつ昔撮ったフィルムの山を整理しています。
(2015年2月現在 相変わらず 遅々として進んでいませんが)
プリントしてないネガフィルムの確認が大変です。どこの写真?か
反転させないと中身がわからいからです。
発見したネガの2コマが気になったのでスキャンしてみることにしました。
浮かび上がった映像に釘付けになりました。

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隅っこネタですが、
今日は二枚の写真の謎解きを開始してみることにしました。

共に現在無い光景です。
前後の写真から記憶を辿ると相鉄線、西横浜駅からイセザキまで歩いて行く途中らしいことがわかりました。
次に何時頃の写真か?
フィルムカメラ(銀塩)と完全にさよならしたのが
1999年ですのでそれ以前であることは間違いありません。
一枚目は画像に「鐵温泉(てつおんせん)」の名が確認できます。
西区霞ケ丘辺りにかつて存在した大きな<鉱泉の温泉場>で、明治18年から戦後のある時期まで開業していたそうです。
かなり広い敷地で、写真はその「門」の部分です。
私が保土ケ谷区に転居後の写真ですので、
1989年以降に時間が絞られてきました。
この鐵温泉、
「赤門」の名で知られる大きなお寺、東福寺を過ぎたあたりに位置します。

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吉川英治の自伝にも登場するこの宿は、日本の初代総理大臣、伊藤博文や横浜を訪れた政府要人が宿泊したそうです。
ネットレベルでは資料が簡単に出てこないので、
図書館に通わないと史実には出会えそうにありません。
赤門東福寺は、富貴楼の「お倉」の墓があるそうです。

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東福寺山門

No.255 9月11日(火) 謎多き尾上町の女将

鉄温泉に戻ります。
では上から見たら敷地はどうなっているか?
国土地理院の航空写真を検索し、1977年空撮写真を見たところすでに空き地になっていました。

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かなり広い敷地ですが全て温泉施設だったかどうか判断できません。

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1981年に発刊された写真集「グラフィック西」(昭和56年刊)に二枚の「鐵温泉(てつおんせん)」写真が収録されていました。
比較的高い所から撮影されています。
おそらく藤棚に抜ける切り通し道路から撮られたものでしょう。
写真を見ると鐵温泉の向こうに崖が写っているのが野毛山公園です。
撮影年代が明記されていませんが、年代が推定できる建物が写っています。崖に添って「グリーンコーポ野毛山」が建っています。
現在外観がリフォームされていますが、マンション資料では1980年6月竣工とあります。

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右上の橋が延びている建物が資料に見えたグリーンコーポ

以上の調査から、1981年まで温泉の建物は残っていましたが、庭等はすでに空き地になっていたのではないかと推測できます。
(霞ケ丘の不動尊)

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次に二枚目。

まず、橋名ですが写真を良く見てください。
よーく。
「未吉人道橋(すえよしじんどうはし)」。

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「未吉人道橋」(すえきちじんどうばし)って書かれていますね。
「末吉人道橋」ではないですよね。
横浜市内に未吉橋はありません。鶴見川、大岡川に架かる末吉橋くらいしかありません。
グーグルって最近余計な仕事し過ぎです。「未吉橋(みきちばし)」と入力して「三吉橋」がずらーーと出てきたりします。打ち間違えまで勝手に想定してくれるようですが邪魔臭いですね。
さらに日吉橋まで。(ヒとミの誤読まで配慮??)
末吉橋に戻します。
横浜市道路局 橋梁課の平成17年の記者発表資料です。
「旧末吉橋は、関東大震災の復興橋梁として昭和4年に二級河川大岡川に架けられました。幅員が5.1mと狭く、歩道も無かったため、昭和45年に幅員2mの人道橋を新たに併設しました。」(引用元)

写真はこの歩行者専用の橋を撮ったものということがわかりました。
どうみてもこの写真は吉人道橋ですね。

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お粗末様でした。

1月 9

No9 1月9日(月)【桜川】野毛カストリ横町立退き騒動

(リライト版)
野毛はテーマの宝庫です。
横浜最大の飲食店街として成長してきた戦後野毛の歴史は、さまざまなエピソードとともに刻まれてきました。
1950年(昭和25年)1月9日(月)のこの日、
「櫻川埋立工事で立退きを迫られる野毛ガス橋寄りの数軒、市に無断で埋立てた同橋反対側に移転」
桜木町近くを流れていた櫻川の野毛ガス橋付近の埋立て工事で不法占拠していた屋台が立退きを迫られ数件がしぶしぶ対岸に移転することになります。


終戦直後の横浜、
特に桜木町近辺は職を求める多くの失業者が集まっていました。
理由はそこに中区役所(現桜木町駅前駐車駐輪場)と職安があったからです。
しかも、戦前の繁華街や港湾施設(特に関内・関外)の大半が米軍に接収されたため、日本人が自由に飲み食いできる“街の繁華街”として野毛が賑わいました。
多くが不法で、空き地という空き地には屋台と闇市が広がっていました。取締と不法占拠の繰返しでした。
1947年(昭和22年)10月には伊勢佐木警察がカストリ横町を一斉検挙します。
大岡川には水上ホテルが浮かび、川岸にはバラックが建ち並びます。
特に埋めて中の櫻川沿いには貴重な動物性たんぱく質源だった“クジラカツ”を販売する「くじら横丁」が出現します。
別名クスブリ横丁またはカストリ横丁などとも呼ばれました。
日本中が物資不足にあえいでいる時「野毛に来ればなんでも揃う」と言われるほどの賑わいだったそうです。
多くの人が復員兵、労働者などで、食と職を求めました。
櫻川が排水、ゴミ等で極めて不衛生な状態にになり、埋立工事が始まり
上図のように「桜木町デパート」が建てられます。
一方、「櫻川の野毛ガス橋付近」(現在の宝光寺付近)は、最後まで不法占拠のバラック店舗が建ち並びます。
ガス橋(瓦斯橋)は明治期に高島嘉右衛門のガス工場(現在の本町小学校近辺)があったことに由来します。

この櫻川は埋立てられ「新桜川道」になっていますが、
当時は(埋め立てられた)道の上に不法屋台ができていたため、
立退きを迫られた訳です。
しかし追い立てはイタチごっこ、モグラたたきにも似て埒があかなかったそうです。

野毛界隈は
1950年(昭和25年)6月25日に始まった朝鮮戦争をキッカケに大きく変化して行きます。
1955年(昭和30年)10月には櫻川バラック集落は市によって南区に強制移動させられます。

道が整備され、街並も急速に復活して行きます。
終戦後どこも同じ状況だったドヤ街、
寿町はその後も厳しい状況を引きずっていくことになります。
※ドヤ街は「宿(ヤド)」街の逆さ言葉で、簡易宿所が多く立ち並んでいたエリアをそう称しました。

明治のころの瓦斯橋周辺古地図
「DOYA!ことぶきの町は。」