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No.214 8月1日 (水)開港場を支えた派川工事

横浜は花火大会です。2014年は8月5日19時スタートでした。
1874年(明治7年)8月1日(土)の今日、
横浜港と根岸湾とを結ぶ水運と、
吉田新田埋立用土砂確保のため中村川から根岸までの堀割工事が完成しました。

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中村川から根岸までの堀割工事が完成し、「堀割川」と命名されました。
「堀割川」
正式名称は二級河川「大岡川小派川 堀割川」です。

 流域全長は2,700m、水深約3mで川幅20〜30mあります。

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■支川(しせん)と派川(はせん)
川には本川に流れ込む支川(しせん)と、本川の水量を分岐させるための派川(はせん)があります。
堀割川、中村川は、大岡川の「派川(はせん)」です。
※因みに本川の右岸側に合流する支川を「右支川」、左岸側に合流する支川を「左支川」と呼び、本川に直接合流する支川を「一次支川」、一次支川に合流する支川を「二次支川」と、次数を増やして区別します。
派川(はせん)の場合このような「○次派川」という区分はありませんが、堀割川は“派川”中村川の“二次派川”「大岡川小派川 堀割川」と呼ばれています。

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(堀割川の歴史)
堀割川は、1870年(明治3年)から掘削が始まり、1874年(明治7年)まで4年の時間が必要でした。
当時の神奈川県知事の“井関盛艮”が工事請負人を募ったところ、吉田新田を開拓した“吉田勘兵衛”の子孫がこれに応じ、現在の中村橋付近の丘陵に切り通しを行い、中村川から根岸湾までの運河を開削しました。
この掘削により生じた土砂を使って埋め立てた場所が、吉浜町・松影町・寿町・翁町・扇町・不老町・万代町・蓬莱町です。
この人工運河工事は困難を極めました。切り通し工事と埋立てという大工事、堀割川の中程に建設しようとした“滝頭波止場工事”は波浪により倒壊するなど吉田家の財力を大幅に超えるものとなってしまいました。
最終的には国が肩代わりするなどして完成しますが、大岡川の水害低減だけではなく、産業運河、堀割川河川沿いの産業道路(国道16号線)は横浜港と磯子地域発展に大きな役割を果たしました。
吉田家の功績は150年の現在も活き続けています。

(被災を乗り越えて)
1923年(大正12年)9月1日に起った関東大震災で河岸が被災しましたが
1926年(大正15年)から1928年(昭和3年)にかけて復興工事が行われ現在の堀割川の姿となりました。
一部に石積み護岸や物揚場、橋の親柱など、明治の面影を残しているところも見ることができます。堀割川はまさに近代遺産です。

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平成22年度の土木学会選奨土木遺産に認定されました。

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毎年8月には「堀割川の日」を設け、地域の住民の手で、堀割川の魅力づくり活動が地道に行われています。

(関連ブログ)
大岡川はさすが横浜開港場の中核となった「川」です。ここでも多く取上げています。
7月10日(火)もう一つの大岡川

No.187 7月5日(木) 目で見る運河

No.435 大岡川物語(1)

【番外編】(ざくっと横浜その1)村は川に沿って生まれる

No.378 1月12日(土)川辺の横浜

No.321 11月16日(金)吉田くんちの勘兵衛さん
(余談)
1940年(昭和15)に堀割川河口の飛行場から大日本航空(現在の日航とは関係ありません)、横浜〜サイパン・パラオ間水上飛行艇による定期航路が開設されました。

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右タンクのある鳳町に日航のターミナルと水上飛行場がありました

国際空港にふさわしい近代的なターミナルビル、全長26メートル、主翼の長さ40メートルの大型飛行艇が12機納まる大格納庫などが建ち並び、大日航横浜支所が置かれたそうです。
終戦でこの水上飛行基地は米軍に接収、
解体され
1958年(昭和33年)まで米軍の小型飛行場が設けられ使用されたそうです。

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