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第989話【運河物語】派大岡川

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横浜の運河を追いかけています。
今回は「派大岡川運河」です。
大岡川と中村川を結び、吉田新田誕生と同時に誕生し昭和48年に消えた運河です。
明治45年関内地図
吉田新田図(幕末)
上図は、幕末開港直前の吉田新田付近です。横浜村がペリーとの交渉場所となり、その後開港場がここに誕生します。太田屋新田ができるまで、「派大岡川」ではなく中村川河口の入江でした。それが、開港場となり治水と居留地出島化の役目をもって中村川が山手に沿って延長開削され「堀川」運河が登場します。
これによって、本来なら埋め立ててしまったほうが交通上は大変便利ですが、出島条件の方が優先され、また、当時の水運は物流に欠かせませんでした。
「派大岡川」として水路、運河は温存されることになります。
大岡川下流域運河群の中で、意外に思われるかもしれませんが、過去の橋の長さの記録や写真などから「派大岡川」が最も川幅があったことが判ります。(後述) [橋梁群]
派大岡川には最大時で7つの橋が架かっていました。
明治45年西ノ橋付近横浜電気鉄道予定線
0:<謎の橋>明治45年の地図に掲載。横浜製鉄所のあった倉庫群につながる軌道鉄道が西ノ橋近くの<派大岡川>に設置される予定でしたが、計画で終わります。 1:吉浜橋※
 吉浜町と小田原町を結ぶ橋です。
 関外エリアにあった石炭倉庫(幕末に横浜製鉄所→石川島播磨)に渡る橋でした。
吉浜橋から横浜電気鉄道
派大岡川と吉浜橋
2:花園橋
 薩摩町通りと扇町通りを結ぶ橋です。
 この橋の親柱は現在港中学校校門移設されています。
花園橋親柱
3:港橋※
 関内駅脇に架かっていた港橋通りと不老町を結ぶ橋です。
 派大岡川に架かっていた橋の片辺の欄干が唯一残っています。
市役所と派大岡川
派大岡川港橋
4:豊国橋
 港町と蓬莱町を結ぶ橋です。明治30年に弓形をした三連ピントラス橋が架かっていました。
 豊国橋横に吉田川運河が合流し蓬莱橋が架かっていました。 5:羽衣橋※
 震災後に架橋されたもので現在は羽衣架道橋として国道16号線の橋梁として使用されています。
  6:吉田橋※
 吉田橋は関連記事を多く書いています。
 第942話【謎解き】吉田橋広場
 http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=11269
 【横浜の橋】№3 横浜を語るなら吉田橋を知れ
 http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=8106
 No.698 【横浜 橋物語】幻の橋?、吉田橋。
 http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=6265
 【絵葉書が語る横浜】 吉田橋脇
 http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=5814
 http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=5816
 【しりとり横浜巡り】6月10日(火)吉田橋
 http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=4934
7:柳橋
 かつて大岡川の十字路があった場所です。港町六丁目と柳町を繋ぐ橋です。橋近くの岸には<柳>が多くあったようです。現在はちょうど橋のあたりが横断歩道となっています。
大岡川十字路付近(柳橋・都橋)
[消えた運河]
現在、派大岡川は首都高速道路用地となって運河は完全に消えてしまいました。
1960年代には国鉄根岸線が延伸し派大岡川に橋脚が埋め込まれ、運河の上に関内駅が開設され、市役所と横浜球場の玄関として多くの乗降客で賑わっています。現在も根岸線高架部分は<高架橋>ではなく<橋梁>のプレートが残っています。
間もなく市役所移転で、関内駅の様子も大きく変わっていくでしょう。
※印は現在なんらかの形で痕跡が残っている橋梁(横断道)です。
この中で、最も知名度がある橋は「吉田橋」ですが残念ながら昔の姿からは想像もできません。 [舞台]
派大岡川が舞台となった映画の一つが「わが恋の旅路」です。劇場公開1961年(昭和36年)5月16日で、監督 篠田正浩、曽野綾子の「わが恋の墓標」を元に寺山修司と篠田が脚本化した恋愛映画です。キャストは岩下志麻、川津祐介、月丘夢路 他
1960年から61年にロケを行っているので、派大岡川に根岸線の橋脚工事が始まっていたり、港橋、吉田橋、吉浜橋にある横浜中央病院、吉田町商店街の川沿い風景がたっぷり出てきます。
主役の二人が出会う派大岡川岸の喫茶店や、大岡川を使った運河生活の風景が登場します。
第900話【舞台としての横浜】わが恋の旅路
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=10161 [運河幅]
派大岡川の特徴の一つに、広い川幅があります。
大岡川運河群の中でも最大級の幅でした。運河群の川幅はどのように推定したかといえば、昔の橋梁スペックから推定してみました。
吉田橋:40.22m
吉浜橋:46.7m
柳 橋:51.5m
豊国橋:42.75m
このデータから 派大岡川の川幅は40mくらいとしました。吉田橋は橋脚部分がせり出しているために短い構造のため、他の橋より短くなっていると思われます。
終戦時焼け跡
以上のように、派大岡川は開港場が発展する時代から今日まで、関内外の重要な運河でした。今は消えてしまった橋梁のなごりを探しながら当時の姿を想像するのも楽しいものです。

第988話【横浜真景一覧絵図比較】 その2

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明治期に発行された鳥瞰図マップの傑作「横浜真景一覧絵図」から当時の風景を比較します。
今回は建築物です。
明治25年版と35年版からトピックスを幾つか探し出しました。
明治25年版・明治35年版比較
[横浜税関]
この絵図の海岸中心部には桟橋(象の鼻)とそこに明治期の日本を支えた貿易を司る”税関”が鎮座しています。これが二代目横浜税関庁舎です。
当時の最先端建築物の代表格で
1885年(明治18年)11月に竣工、日本大通り正面に建ち、国家を支える威厳を表していました。
竣工間近の鉄桟橋と横浜税関
1923年(大正12年)の関東大震災で崩壊し、
新しい”税関”建設が計画され1934年(昭和9年)隣接地に「3代目横浜税関庁舎」が完成し現在に至っています。
<絵図>で描かれた税関庁舎は当時の横浜絵葉書の素材にも多く選ばれています。
絵葉書を参考に絵図を確認すると、中央に六角形の塔をもつ左右対称の煉瓦造り2階建て庁舎であることが判ります。
エピソード
税関は絵葉書で、良く観察すると左右対称ですが若干違いがあることが判ります。
おわかりですか?
左右の揃った切妻屋根に煙突が出ていますが、屋根の煙突本数が異なっています。
最初に出会った横浜税関絵葉書
最初に出会った横浜税関絵葉書 二代目横浜税関
その後入手した税関絵葉書を見て、何か不自然さを感じました。
<左右が逆>つまり<逆版>になっていることが判りました。
二代目横浜税関
二代目横浜税関(逆版)
どこで判ったのか?
 大正期まで電柱は、道路を挟んで電信用と電力用が別々でした。それぞれ電信柱(でんしんばしら)・電力柱(でんりょくちゅう)と呼びます。
二種類の絵葉書、電柱の位置が逆、
左右対称の建造物ですので、当時の原版はガラス乾板でしたので<逆版>がたまにあります。
問題は 二版の風景、どちらが正版かということです。
 文献写真等から判断すれば簡単!でも資料そのものが逆版であるという可能性も隠しきれません。この風景の左右を証明できる確証がないか? [逆版証明]
横浜税関風景写真、どちらが逆版なのか。
2つの左証が見つかりました。
・税関から横浜公園に続く”日本大通り”風景→電柱分類
・税関前のポスター→文字で判る
日本大通り風景。税関から横浜公園方向。向かって右側に電信、左が電力
税関前日露戦争勝利祝賀ポスター
ということで、正しい横浜税関の姿がわかりました。
※少々絵図からは逸れました。 [仏蘭西波止場]
現在の大桟橋に対し元町堀川寄りに小さな桟橋がありました。一般的には「仏蘭西波止場」と呼ばれました。
幕末明治期の<桟橋>名称も若干混乱の種です。
25年版では「西波止場」とあります。
35年版では「仏露西波止場」と表記、この仏露西 他でも見かけることがあります。
でも
“西波止場”は仏蘭西の西
“仏露西”は仏蘭西の誤植だと思います。
 深く追いかけません。追求は別の機会に。
英吉利波止場
[指路教会]
明治25年版と35年版にこそ時間経過が判る場所の一つを発見しました。尾上町通りにある指路教会です。
■指路教会は横浜居住地39番に設立され
1892年(明治25年)に現在の位置に移転しました。
明治25年版に描かれる時は、塗(ヌリ)で隠されていましたが
尾上町通、ヌリあり湊六丁目
明治35年尾上町通り、指路教会。横須賀航路出船所も確認
明治35年版では教会の姿が描かれています。
これが資料によると初代の教会で、関東大震災で倒壊し、その後再建されますが横浜大空襲で内部が消失し再度再建という歴史を刻んでいます。
この35年版に描かれている”指路教会”がどの程度正確なのか? 指路教会のHPに小さな写真が掲載されていました。
指路教会の写っている絵葉書を探してみました。尾上町通りの路面電車時代(横浜電気鉄道)の風景がありました。
横浜電気鉄道株式会社は
1904年(明治37年)から1921年( 大正10年)まで運行しその後、横浜市電気局(市電)となりました。
明治35年版と絵葉書、若干向きと構造が異なりますが、
塔と教会が判ります。
尾上町通と大江橋
尾上町通と大江橋
明治25年版では
 この場所がヌリで消されているようにも思えます。
 指路教会が建つ前の風景が書き込まれていましたが、その後教会建設が始まったために修正されたと解釈できないでしょうか。
日本人街と外国人街で異なる町並み
[絵図の町並み]
絵図には平屋と二階建ての建造物中心に町並みが描かれています。
二階建建造物などは、当時の様子をある程度反映していたと思われます。
外国人居留地では二階建て構造が多く
日本人街では平屋が多いことが見えてきます。
さらに軽量的に観察すると色々なことが見えてくるのではないでしょうか。
→(宿題です)

第987話【運河物語】桜川

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横浜の運河を追いかけています。
【真景絵図】シリーズの合間に運河を入れます。

今回は桜川運河です。
桜川は現在の横浜中心市街地を支えた運河群の一つで大岡川と帷子川を繋ぐ約2kmの運河でした。
1870年(明治3年)に誕生し翌1871年(明治4年)には「桜木川」と呼ばれましたがその後「桜川」となりました。この「桜川」、
河川史関係の資料では1954年(昭和29年)に消滅したことになっています。
開港資料館の<消滅した8つの運河>では桜川も消えた運河の一つとして紹介されています。
ただ”正確”には現在もしっかりと”桜川”は存在しています。(後述)
桜木川から桜川に名称変更された年代が特定できなかったのでここではすべて「桜川」と表現しておきます。
消えた部分の桜川は現在「新横浜通り」になり、地下には市営地下鉄が走っています。海側にはかつて造船所だった場所が「みなとみらいエリア」に変貌し、ここが運河であったことを全く感じることはありません。バス停や信号機、路地に一部名残を残すのみです。
旧桜川、紅葉橋付近
明治3年ごろ内田清七埋め立て用地
[桜川誕生]
桜川は、鉄道を敷設するために埋立工事を行った土地の”用水路”として誕生しました。
明治維新早々、横浜と新橋(汐留)の間に鉄道計画が持ち上がります。
品川から神奈川まではなんとか敷設できそうでしたが、問題は海や沼に敷設するという課題でした。
明治21年頃、鉄道用地
品川・新橋間には沼地が広がり
神奈川から開港場までは「帷子川」河口の入海・「野毛浦」の山が障害でした。
鉄道黎明期の歴史書では最大の難関だった帷子川河口域を埋め立てた高島嘉右衛門の功績が必ず採り上げられています。もう一人、現在の桜木町駅周辺の敷地を造成したのは内田清七という人物です。その名に因んで鉄道敷地の大半が「内田町」となっていました。しかし、彼の名は時間が流れるに従い消えつつあります。
残念なことです。
内田清七は、切り立った野毛浦沖を埋立てて広い鉄道用地を完成させます。この埋め立てた敷地と野毛の山からの排水路として運河を整備したのが「桜川」です。
横浜沿革誌明治3年5月

※『横濱沿革誌』
「明治三年(庚午)五月。吉田橋脇ヨリ入船町野毛浦迄埋立竣功、之ヲ新街道ト云。受負人真砂町(京屋)内田清七、入船町ヨリ野毛浦埋立地地固メノ為メ、葭簀張納涼茶屋、其他軽業・辻講釈、昔噺等ノ興行ヲ神奈川県裁判所二出願、許可ヲ得テ興行ス、而シテ其土地ノ潤沢景況ヲ輝サンガ為、烟火百数本、仕掛数個ヲ打揚ゲヲ出願シ、野毛浦海岸ニ於テ施行ヲ許サル、故二六月二十一日の夜、船数隻ヲ浮べ、鍵屋製ノ煙火百数本、仕掛数個ヲ打上ゲ、横浜川開キの創始ヲ催しシタリ、爾来、納涼遊歩者日々群ヲ成シ、麦湯店ノ流行殆ンド埋立地ノ過半ヲ占ムルニ至レリ」
この時に、”大江橋の橋台・柱石建設工事開始(内田清七請負)”も行い、大江橋竣工(明治5年)にも深く関わっています。
「京屋内田清七が請け負って埋め立てた所で、明治5年に内田町字1丁目から12丁目までを新設した。明治20年に内田町字3丁目から5丁目までの片側を長住町とし、内田町は字1丁目から8丁目までとなる。町名は埋立者の姓「内田」を採った。町は飛地状となっている。(中区)」
<余談>
この横浜沿革誌に書かれている内容は当時の土木事業を知る重要な鍵が隠されています。
“地固メノ為メ”にイベント(興行)を行い”土地ノ潤沢景況ヲ輝サンガ為”人よって土地を踏み固めるという手法を用いています。
地固メ手法は江戸期からさかんに行われ、戦前横浜川崎の海岸線埋立事業でも人を集めて踏み固めた記録が多く残っています。 [双十字路]
桜川には大きな特徴があります。
大岡川と帷子川を結ぶ運河で接続部が当初両方共”運河十字路”でした!
・大岡川十字水路
桜川・大岡川十字路
現在は桜川と派大岡川が埋め立てられています。 ・石崎川十字水路
石崎川・桜川十字水路
現在は桜川と石崎川下流が埋め立てられ、変則的に曲がり帷子川に繋がっています。
石崎川は大岡川支流の中村川のように、河口の無い川です。
(消えた石崎川河口)
冒頭に桜川は消滅していない!と紹介しました通り、桜川は現在も残されています。
平成8年桜川・石崎川
[因縁 横浜駅]
桜川大岡川口には初代横浜駅(現桜木町駅)があり、
初代横浜駅
桜川石崎川口には二代目横浜駅(現在遺構のみ)があります。
二代目横浜駅
[桜川の橋]
大岡川から桜川に架かっていた橋は
錦橋
緑橋
瓦斯橋
紅葉橋
雪見橋
花咲橋
このあたりから時代を経て変化します。
明治10年代は「大平橋」が架かっていて、石崎川に合流します。
その後、平沼新田造成が進み、
横浜駅が高島町に移設されることで石崎川の架橋状況が変わりました。
また地図で推理する限り、桜川が「二代目横浜駅」を避けるために流れを変え、より石崎川上流側に合流地点が移ります。
大平橋→戸部橋・櫻橋→石崎川に合流
石崎川に架かる橋
西平沼橋
梅香崎橋
石崎橋
<桜川合流>
高島橋
(富士見橋)埋立廃止
→<石崎川十字水路>が無くなります。
桜川の下流部が石崎川下流域になり
材木橋
(不明)浅山橋か?
<帷子川合流>
万里橋
築地橋
大正2年桜川
新横浜通り(桜川)
まだまだ桜川近辺の歴史も含めると色々な歴史ドラマが隠されています。
今回はこのくらいにしておきましょう。
桜川関連マイブログ
第873話 【絵葉書の風景】駅前劇場
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=9465
※ちょっとお宝話 第977話【横浜の道】国道16号線
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=12004
新横浜通り
第960話【横浜真景一覧絵図徹底研究】第五話
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=11695
桜川B橋
第891話【横浜の橋】A B 橋
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=9936

第986話【横浜真景一覧絵図比較】 その1

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前回から25年版・35年版を比較し10年間を探ってみました。
おさらい
<一目見ての大変化>
 海岸通り部分の埋立
 大桟橋の完成
 富士見川運河が消滅
前回の
第985話【横浜真景一覧絵図徹底研究】第六話で簡単に紹介しました。
【横浜真景一覧絵図】明治25年版・明治35年版比較
【横浜真景一覧絵図横浜簡単年表】
1887年(明治20年)
 野毛山に県営水道完成、野毛山貯水場から市街への常時給水開始。
 ※trivia 最初は神奈川県営水道だったんですね。日本最初の近代水道。
1889年(明治22年)
  4月1日 横浜に市制(人口116,193人・面積5.40 km2)。
※現在の80分の1の広さでした。初代市長は増田知。
1890年(明治23年)
 2月1日 横浜貿易新聞 創刊。
 ※神奈川新聞のルーツです。
 横浜ー東京間で電話交換開始。
1890年(明治23年)
 水道が市営になる。
1890年(明治23年)
横浜共同電灯会社が初めて電灯を点火する。
1891年(明治24年)
十全医院が市営になる。
1892年(明治25年)
ガス局が市営になる。
鉄桟橋工事着工。
※25年版発行
1894年(明治27年)
 伊勢佐木・石川・山手の3消防組ができる。
 横浜港鉄桟橋(現在の大さん橋)完成。
 横浜蚕糸外四品取引所設立。
1895年(明治28年)
 生糸検査所 設立
 横浜商業会議所(横浜商法会議所の後身)が設立される。
1896年(明治29年)
 第1期築港工事竣工
 新吉田川開削、富士見川埋立工事竣工。
1899年(明治32年)
 条約改正で居留地が撤廃。
1900年(明治33年)
 1月22日新港埠頭工事着手。
1901年(明治34年)
 第1次市域拡張(人口299,202人・面積24.80km2)。
 久良岐郡戸太町、本牧村、中村、根岸村、橘樹郡神奈川町、保土ケ谷町の一部編入
1902年(明治35年)
 3月15日 日本郵船会社横浜支店新築落成。
 8月5日 横浜・横須賀間定期航路2往復から3往復に増便。
 12月10日 大江橋架橋工事竣工。開橋式。
※35年版発行
M25版 西之橋近くの謎の橋
M35版 西之橋近くの謎の橋が消えた。石炭庫周辺の路も整備されている様子がわかります
<変化場所>
 ・幻の石川町橋
 第890話【横濱の風景】西之橋からみる風景
 http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=9927
・千秋橋の登場
 第950話 【大岡川】千秋橋の謎
 http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=11440
ここでは長者町の土手が明治35年版では「千秋橋」となっています。
明治25年版 日之出川と吉田川合流地点にある<長者町の土手>
明治35年版 長者町の土手が千秋橋に架かっています
・35年版には日ノ出川の橋梁と中村川・日ノ出川・吉田川に船影が
※25年版 日之出川には橋梁が3つ架かり「日ノ出橋」のみ名が表示
※35年版 日之出川から一つ橋が消え、位置も変わり「扇橋」となっています。
  日之出川は、その後中村川との合流地点に「松影橋」架かります。
  これは 真金遊郭の整備を含めた長者・寿・永楽・千年・三吉周辺の大きな区画整理の結果で道路が変わったためでしょうか。
明治25年 日之出川
明治35年 日之出川に架かる橋。扇橋が新たに別の場所に架かっています。
日之出川 扇町川岸。川岸には石屋があり、長い板塀の屋敷が確認できます。
※25年版には描かれていなかった船影が運河に描かれるようになっています。
  ※25年版で描かれたパーツをコピペした感じですが、運河の賑わい・変化を感じます。
・大岡川の黄金橋
 ※25年版 小金橋
 ※35年版 黄金橋
  25年版は書き間違いか、聞き間違いかもしれません。
25年版 小金橋
35年版 黄金橋に。水路が消滅し街区に変化しています。
次回は 当時の建物を比較してみます。

第985話【横浜真景一覧絵図徹底研究】第六話

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今回から数回に分け、尾崎富五郎の描いた二版の鳥瞰図を元に(十年間の)変化を読み解くことにします。
この「横浜真景一覧絵図」徹底研究シリーズは今回で第6回目となります。
明治25年版
明治35年版
第1回から第5回までのシリーズで基本資料としたのが
「横浜真景一覧絵図」1892年(明治25年)版です。
第956話【横浜真景一覧絵図徹底研究】第一話
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=11569
今回はこの25年版を改定した10年後の明治35年版を元に2つの絵図を比較し町の変化を観ることにします。
間違い探しみたいです
(開港場膨張)
25年版(1892年)から35年版(1902年)までの10年間は「横浜関内エリア」が大きく変化した時期にあたります。
特に変化したのが、湾岸部と大岡川の運河群です。
明治25年版
明治35年版
<湾岸部>日本波止場から
  大波止場(英吉利大波止場)まで
 海岸通り沿いにある製鉄所・日本郵船の本社先が埋立てられています。また、開港後暫定的に作られた突堤<象の鼻>から桟橋が伸びています。
25年版が出版されるころに桟橋計画が持ち上がりました。暫定桟橋計画も進められますが間に合わず本格的な港湾施設が必要となり<横浜港全体の築港計画>が計画されました。
すでに活躍していたオランダの技師提案と英国人技師提案が競う形になり最終的に英国人パーマーに依頼します。
象の鼻
波止場名が英吉利大波止場となっています
<大岡川運河>
 運河部を見ると、25年版(1892年)では富士見川(運河)が完成していますが、35年版(1902年)版は1896年(明治29年)に埋め立てられていたので図上からは消滅しています。
1872年(明治5年)〜1873年(明治6年)に日ノ出川が開削され、堀割川も完成しました。中村川・大岡川・吉田川に航路が開通し運河が水上交通として有効活用され始めた時期にあたります。
元来、関外を形成する吉田新田エリアは干拓によって開発された「田畑」でした。
農地から宅地へと変化する中で、関外エリアは市街化のために<下水問題>を含め多くの課題を解決していくインフラ整備が求められます。
上部の運河が日ノ出川、下の運河が富士見川。上下に流れるのが左:新吉田川 右:中村川
富士見川が無くなり土地区画整理が行われています
1886年(明治19年)富士見川開削完了
 ところが 排水状態が悪く、
1896年(明治29年)には埋め立てられ富士見川消滅。
 上流から整備が進んでいた「新吉田川」が完成。
1897年(明治30年)に(新)吉田川のバイパス運河「新富士見川」が完成。
ほぼ 大岡川運河群が整備完了。戦後まで関内外を支えてきた運河群が誕生します。 (過去【横浜真景一覧絵図】ブログ
第956話【横浜真景一覧絵図徹底研究】第一話
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=11569
■都市鳥瞰図
第957話【横浜真景一覧絵図徹底研究】第二話
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=11580
■大岡川弁天橋付近
第958話【横浜真景一覧絵図徹底研究】第三話
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=11596
初代横浜駅前の様子
第959話【横浜真景一覧絵図徹底研究】第四話
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=11607
「運河」の町横浜
第960話【横浜真景一覧絵図徹底研究】第五話
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=11695
横浜真景一覧絵図に見る「橋梁」 ■25年版(1892年)・35年版(1902年)比較
 35年版は25年版を基本にしています。作者の気になった部分のみ修正されています。船のカタチ、位置は全く変更されていないものも多くあります。
だからこそ 変更されている部分に着目してみる価値あり!
ということでザクっと比較てみました。
 道路の修正は入念に行われているようです。
<一目見ての大変化>
 海岸通り部分の埋立
 大桟橋の完成
 富士見川運河が消滅
ここまで今回紹介しました。

<部分変化>
 幻の石川町橋
 日ノ出川の橋梁
 中村川・日ノ出川・吉田川に船影
 千秋橋の登場
 長者・寿・永楽・千年・三吉周辺の区画整理
 真金遊郭の整備
 長島・若葉・末吉周辺の区画変化
 大岡川の黄金橋
 戸太村周辺の傾斜地が宅地化
 横須賀出船所
明治25年版 富士見川が描かれています
明治35年版 船が描かれています。千秋橋が完成しています。
次回から 変化した部分に少しこだわってみます。

第977話【横浜の道】国道16号線

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国道16号は現在、起点:西区桜木町〜終点:西区桜木町という珍しい道路です。
歴史は新しく1963年(昭和38年)4月1日に幾つかの路線が統一されて16号となりました。
横浜界隈的に起点から16号を辿ります。
ルート16は
帷子川支流「石崎川」近く、元「桜川」のあった場所を起点に初めて鉄道が始まった初代横浜駅・新橋間の鉄道路線に沿って大江橋へ続きます。

二代目横浜駅。ちょうど市電のあたりが16号線起点
現在の桜木町付近
16号線起点・終点付近
初代横浜駅、現桜木町駅。興産館(現ぴおシティ)あたりの16号線。

<大江橋> 横浜市内では珍しい人名の橋です。(大江卓)
関内大通と交わる尾上町の交差点を右折、羽衣橋を渡ると旧吉田新田の背骨、中央部を吉野町まで。このルートは関東大震災まで狭い道でしたが、吉田川沿いを通っていた市電のルート変更を行い、広い道路として新規整備されました。
吉野町の交差点を左に。
中村川の「睦橋」を越え、堀割川に沿って磯子方面に。

尾上町交差点付近で16号線は大きく曲がります。

<八幡橋>際を右折し横須賀方面に曲がります。
ここから16号線は旧海岸線でした。
磯子駅を通過し、新杉田駅を過ぎると内陸部に入り込み、富岡からほぼ京浜急行線と並行して金沢文庫まで走ります。泥亀あたりで少し京急と分かれ、また金沢八景で並走します。京急と国道16号線は馬堀海岸までほぼ並走しています。
その後16号線は国道の中でも数少ない海の国道を経て、房総半島に上陸し千葉県を縦断、埼玉県、東京都下八王子からかつて絹の街道として盛んな往来があった八王子街道となった横浜市旭区に入ります。保土ヶ谷バイパスと旧道に分かれ、旧道はほぼ「帷子川」の沿って横浜中心部に入り、終点に向かいます。

(歴史)
横浜に海軍鎮守府(東海鎮守府)が1876年(明治9年)に短期間ですが設置されます。
1884年(明治17年) 12月15日、東海鎮守府は横須賀に移転「横須賀鎮守府」となります。この時から横浜と横須賀との道路整備が行われ、1887年(明治20年)に鎮守府に至る国道として「国道45号線」となりました。

戦後の
1952年(昭和27年)12月4日に施行された新道路法に基づく路線指定でこの区間が「一級国道16号」に指定されます。これが国道16号のはじまりです。
その後、延長を重ね、他の国道を取りまとめ環状線となって現在にいたります。

旭区から終点に至る16号線は、江戸時代から八王子街道として開け、保土ケ谷区と西区の区境(洪福寺松原商店街はずれ)に東海道と八王子街道(旧道)の<追分>があります。この主要街道は神奈川往還とも呼ばれ、保土ケ谷宿への重要街道でした。幕末からは繊維(絹)街道として遠くは山梨商人の道として賑わいました。

第968話【絵葉書の風景】お三の宮

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日枝神社正面

まもなく1000話になりますが、お三の宮はうっかり紹介していませんでした。
昔のお三ノ宮付近の絵葉書・地図を少し紹介しながら
「関外総鎮守お三の宮日枝神社」に触れます。
多くの方は「お三の宮」と略して呼んでいます。
関外総鎮守の名からわかるように
横浜関外地区=吉田新田域の鎮守様です。
約360年前、江戸の木材・石材商の吉田勘兵衛が、深い入り海部分を干拓する願いを幕府に出し、新田事業に成功します。この「吉田新田」の鎮守(守り神)として、寛文十三年 (1673年)に建てられたのが「関外総鎮守お三の宮日枝神社」です。
なぜ「お三の宮」なのかは諸説あります。
(1)お三の宮の旧社名である「山王社」が転詑して、「山王(さんのう)の宮」から「おさんのうのみや」「お三の宮」になった。
(2)お三の宮は江戸赤坂の山王社からの勧請で、日吉大社→東京赤坂の日枝神社→お三の宮、と三番目にあたる。
(3)江戸の山王社は、近江日吉山王二十一社の中の、大宮・ニノ宮・三ノ宮であるから、お三ノ宮もその分霊を祀ったので。
以上は「山王」に関係するもの。
(4)明治初期の古地図には、お三の宮の位置に、「お産の宮」と当て字をしたものもあり、お産の信仰があったのではないか。
(5)古田新田埋立ての際の人柱「おさん」を祀ったので。
(4)(5)は庶民信仰の中から呼ばれるようになったようです。
定説となりそうなのは「山王社」の<さんのう>→<おさんのう>
このあたりではないでしょうか。

「お産の宮」と表記された地図

日枝神社には<池>がありました。
明治から大正時代の地図をみると日枝神社裏には大きな池がありました。
現在はどうなっているか?
吉野町市民プラザになっています。

日枝神社は古くから猿が神様の使い「神猿(まさる)」信仰がありました。
中世から近世にかけて山王信仰のなかでサルは神の使いとしての役割を担うとされ、
外部からの侵入を排除して村内を守る役割や、音から難がサル、「神猿(まさる)」は勝るに繋がるとして縁起物となりました。

猿面を被った姿が確認できます
狛犬の位置に注目してください。人物と比較して非常に高いことがわかります。

日枝神社周辺の風景

第965話 醤油、塩 横浜雑景Ⅱ

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前回に続き、醤油と塩から横浜を見てみたい。
横浜市域は地形的には東から北東にかけて、鶴見川に沿って農耕地が点在するが西部エリアは起伏が多く農耕地はあまり多くなかったため近世、全体としては米穀の生産量は全国平均と比較して少ない。
かといって近世の横浜エリアがコメの取れない貧しい村々で埋め尽くされていたと考えるのは早計だ。林業、漁業を含め多角的経営が行われていたようだ。
少し横浜の時間を近世江戸期に戻してみよう。
近世の横浜は、武蔵国の南部と相模国の東部にまたがり、久良岐郡の一部を除き殆どが幕府直轄領で、江戸城を中心にした経済圏内にあった。
つまり藩の国境がなかったので、物流に関しては周囲30km程度の範囲は江戸経済のヒンターランド(後背地)に横浜市域の半分が入っていた。単純に直線で30kmといえば、保土ケ谷宿あたりになる。江戸の消費力は、周辺エリアの生産構造を大きく変え、相互の村々も商品や資源のやり取りを頻繁に行っていたことが、村に残る明細帳・日記等から明らかになっている。
近世以降、集約的農業を行わなければならなかった農家にとって<肥料>の確保は死活問題だった。酸性土の多い関東ローム層では中和剤として糠を必要とし、川沿いの農耕地では干鰯や粕を必要としたため肥料市場が形成されていた。
同様に、戦国時代の「敵に塩を送る」という言葉があるように、人々の暮らしに欠かせないのが塩だった。人は塩分を摂取しなければ生きて行けない。
塩の生産は古代から重要な<営み>だったが、江戸時代になると重要な産業の一つとなった。明治38年に塩の生産管理が専売法によって行われるまで、塩は地場の重要産品で、大小様々な形態で製塩が行われていた。
明治まで金沢平潟湾の塩はさかんに生産され、古くは室町時代後期南北朝時代に称名寺領洲崎・町屋に塩垂場(製塩場)があり塩で年貢を収めていたことが記録で確認することができる。鎌倉幕府を失った後も称名寺の重要な収入源が塩であったことがうかがえる。
この製塩はただ海があれば生産できるものではなく、幾つかの条件が必要である。製塩には「塩水・干潟・燃料・物流手段」などの条件を十分に兼ね備えた場所でしか成立できない。
製塩といえば、播州赤穂の塩が有名で、江戸期には藩の経済を支えた重要産業でもあった。製塩は「藻塩焼」「揚浜式塩田法」「入浜式塩田法」などがあり、現在では「流下式塩田」「イオン交換法」などが用いられている。
江戸時代、全国の諸藩は独自に「塩」を確保しなければならなかったため、多く生産できる藩は財源ともなった。加賀百万石とも言われた加賀藩は、石高だけではなく製塩を産業化し江戸期から専売制を敷いていた。新潟村上も古くから製塩で有名である。豊かな塩田があるところはコストを支払い高瀬舟を使ってでも多くの燃料を遠方から調達した。
塩田の要は安定した<燃料>確保である。
生産に必要な燃料が地域の植生バランスを壊せば、たちまち製塩コストが急上昇してしまう。特に小さな塩田には循環型に近いかたちでの燃料供給が必須だった。つまり地域循環程度の生産量を維持する規模の製塩は、「塩水・干潟・燃料・物流手段」のバランスが揃った場所で行われていた。
起伏に富み後背地に広い森林を持ち、干潟があった六浦(金沢)はまさに適地だったようだ。
江戸後期に編集された新編武蔵風土記稿には金沢の製塩業の様子が克明に記されている。金沢では干潟で濃縮された海水を釜に入れ、燃料(塩木)を燃やし煮詰め結晶化させ炊き塩を抽出する方法が一般的だったようだ。
1872年(明治5年)三分村(六浦) では年間67トンの塩、三万束の薪が生産されたことが記録されている。金沢の製塩業は1905年(明治38年)に塩が専売品となった以降急速に縮小され、地場の塩が消えていくことになる。
江戸前期まで、製塩が行われていた場所が、前回
第964話 醤油、塩 横浜雑景 で紹介した南太田・蒔田にあった。
現在蒔田公園となっている一帯を含め、このエリアは塩の生産地でもあったようだ。
この蒔田公園あたりは、吉田勘兵衛が新田開発に取り掛かるまで大岡川の河口だったからだ。そしてこの蒔田公園を見下ろす高台にはかつて「蒔田城」があり、そこには戦国時代三河国幡豆軍吉良荘をルーツに持つ「(武蔵)吉良氏」が城主として領地の南端拠点としていた。
「(武蔵)吉良氏」は武蔵国世田谷郷にあった世田谷城を拠点として、小田原北条氏を支えた武将として活躍した一族だ。
ここからは推論に過ぎない。
吉良一族のルーツとなった足利氏一族の血筋を持つ東条吉良氏が領主を務めた地名「吉良吉田」が愛知県に残る。この場所は「吉良」の名が残りかつて「塩田」があったことで有名である。中世から矢作古川河口付近を中心に製塩業が営まれ、専売法施行後の1970年代まで続いた三河湾の中心的塩田だった。
蒔田の製塩と三河の製塩が吉良氏で繋がるのではないか?
中世の多能武士集団に<塩作り技能者>がいたのではないか?
全くの推論に過ぎない。
ただ 世田谷城主 吉良氏と横浜の因縁は蒔田城だけではない。
北条氏綱の娘、崎姫が小田原より吉良家に嫁入りする際、従ってきた武将の中に
■苅部氏
■森氏
■並木氏
がいる。
彼らは小田原北条氏が豊臣秀吉に滅ぼされた際、帰農し在に残り江戸時代に名主などを務め、現在も苅部家があり、その他の武士は地名を残している。
また、吉良家の世田谷拠城下に吉良家が建立した寺院が弘徳院で、後に彦根藩主・井伊直孝が井伊氏の菩提寺とした「豪徳寺」である。

豪徳寺井伊直弼碑

井伊直弼像は蒔田城の下流にある掃部山から海を見ている。
不思議な因縁である。
さらにコジツケレば、井伊家の本拠地である彦根は琵琶湖に面し、淡水であるこの湖岸にも「近江塩」を生成した場所があった。
塩は人間に必須成分なので、塩の道をたどれば<全て>に繋がってしまう。

■大岡川に関係する武士たちを現在整理している。まとまり次第紹介したい。
第964話 醤油、塩 横浜雑景

第964話 醤油、塩 横浜雑景


No.471 横浜・世田谷・彦根

No.471 横浜・世田谷・彦根

第964話 醤油、塩 横浜雑景

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今回から少しエッセイ風 書きなぐりを始めてみることにした。

地産地消は物流の発達と反比例する現象である。大都市は商品を飲み込む。
また、大量生産による廉価の席巻とも反比例し、ナショナルブランドが地域生産力を奪っていく。この経済原則は近代の風景ではなく、江戸時代後期には、頻繁に村間の商品売買、都市圏への商品供給が盛んに行われていた実態が明らかになっている。

近世江戸の産業が明治維新以後、変化しながらも存続していく業種もあれば、近代化で消滅していく業種もある。呉服商は百貨店に、両替商は商社・金融会社へと変わっていった。染と版画の技術と織物産業が融合し横浜の捺染、スカーフ産業を育てたように大消費地として近代に登場した「横浜」は業種業態の様々なドラマが起こっている。今も横浜人に人気なのが「もののはじめ」だ。個人的にはそろそろ卒業したほうが良いとは思うが、横浜もののはじめ本は未だ売れるようだ。その中には、他の都市の研究によって「はじめの座」を失ったものもある。富岡八幡近くにある海水浴の碑は、大磯に奪われたようだ。洗濯もどうやら横浜初ではなさそうだ。
ただ、居留地を抱えたことにより横浜から事業化が始まった産業形態は多い。ビール事業、パン製造、アイスクリーム製造、大量の製茶販売、鉄道事業もそうだろう。近代産業は日本各地に興り、次第に寡占化していく過程を踏んでいった。
元町の古老に聞いた。
横浜でも戦後まで小さな製パン店が多かったという。昔は商店街に必ず一二軒はあった和菓子店も自家製が中心だった。これは戦後、東京オリンピックくらいまで続いたという。このあたりからナショナルブランドが台頭し、自家製のパン屋は激変しチェーン化していく。木村屋、山崎製パン、丸十ベーカリー他の看板が急増し、スーパー、コンビニの登場で街のパン屋はその姿を消していった。
横浜のパン製造史を読むと偶然の一致ではあるが、大岡川周辺に老舗パン屋が健在であるように思う。まず堀川近辺ではパン業発祥の元町<パン物語>がある。横浜神戸東京、大正期から昭和初期に一大パン業創業ブームがおとずれるのである。
現在、
弘明寺入り口で開業する「デュークベーカリー」は昭和三年「木村屋」として創業 赤川家が店を守っている。
「盛光堂総本舗」の笹川さん。
横浜橋通商店街にある「丸十早川ベーカリー」は昭和29年「藤田丸十ベーカリー」として丸十系列として創業、初代の早川博さんを早川家が守っている。
野毛の「コテイベーカリー」もそうだ。あんぱんの美味しかった日本堂もつい最近まで頑張っていた。
横浜では、豆腐屋さんも個人製造店舗が最近までかなり頑張っていたが、この二十年軒並み閉店し激減状態にある。横浜の豆腐屋がとても元気な時代があった。
必ずしもその証ではないが、平沼に当時は目を見張った「豆腐会館」が建てられた。九〇年代まであのラッパを吹きながらの引き売りを見ることができた。
新しもの好きな横浜人(ごめんなさいハマっ子という語はあまり好きではない)ではあるが、老舗やご近所を愛するのも忘れないのも横浜の良いところだと思う。
前振りが長くなった。本題に入ろう。
醤油製造は近代まで、街なかに製造工場があり最寄り品だった。醤油は地産地消の代表格だったが、どこでも生産されていた訳では無い。原材料が揃わないと生産地にはならない。醤油の原材料は言うまでもないが大豆・小麦・麹・水・塩である。
現在、地元では神奈川区で「横浜醤油」が生産を続けている。
かつて南太田に「太田醤油醸造所」という中規模の工場があった。ここは横浜太田町に本宅を構えた吉田健三が経営していた醤油工場である。
吉田健三といってもピンと来ないかもしれなが、外相から首相となった吉田茂の父親(養父)だといえば、少し驚くかもしれない。
越前福井藩士の家に生まれ、1864年(文久四年)に脱藩し大坂で医学を学ぼうとするが、英学の必要性を感じ長崎に行き、その後1866年(慶応二年)にイギリス軍艦でイギリスへ密航、2年間滞在して西洋の新知識を習得し明治維新に帰国。その後、ジャーディン・マセソン商会横浜支店(英一番館)の支店長に就任し日本政府を相手に事業で大成功する。その功あってか大金の一万円の慰労金(退職金)を受け取りこれを元手に
「英学塾を皮切りに、翌1872年には東京日日新聞の経営に参画。さらには醤油の醸造業や電灯会社の設立、ビールやトタン、フランネルの輸入など、実業家としての頭角を顕して横浜有数の富豪に成長した。(wikipedia」
明治に入り、新しい時代に様々な政治運動が芽生えた。中でも幕末期倒幕に寄与した一人、板垣退助が全く未明の明治新政府設立時には木戸孝允、西郷隆盛、大隈重信と共に参与に就任する。「明治六年政変」征韓論論争に破れ、下野。自由民権運動を経て自由党を起し、明治期の一大勢力となっていく。
横浜でも、彼の思想に共鳴した者も多く、吉田健三もその一人だった。
大岡川運河整備に寄与した伏島近蔵も自由党支持者であった。
吉田健三は子供がなく、自由民権運動の闘士で板垣退助の腹心だった友人の竹内綱の五男 茂(吉田茂)を養子に迎え、茂は戸太町立太田学校(後の横浜市立太田小学校)を卒業した。

話が逸れてしまった。
醤油の原材料は大豆・小麦・麹・水・塩である。
醤油といえば千葉県銚子(ヤマサ)・野田(キッコーマン)が有名である。醤油は近世江戸期に工業化されたことにより贅沢品から日常の食生活革命の一端を担うようになる。江戸期当初は、原材料に大豆と大麦が使われていたが小麦を使うことにより濃口醤油の量産が始まる。醤油はもともと良質の大豆・麦・塩を調達できる西国の特産品で、江戸城への高級献上品の代表格でもあった。本場関西からの醤油は「下り醤油」と呼ばれ、関東の醤油は二級品扱いだったが、溜ではない濃口が主生産となり江戸味の醤油文化が確立する。
醤油製造の条件に、原材料は勿論「水運」が必須だったので、利根川流域に醤油産業が育ち行徳の塩、関東平野の大豆と小麦が結果的に銚子・野田に集約し醤油産業が育つ事になったが、この条件が揃えば近世から近代にかけて、地場の醤油産業も成り立った。
横浜市南区太田エリアは大岡川運河が発達し、大豆・小麦・麹・水・塩を揃える条件が揃っていたと推察できる。
(横浜の塩へつづく)

第901話 横浜ダブルリバー概論(1)

第960話【横浜真景一覧絵図徹底研究】第五話

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今回は
横浜真景一覧絵図に見る「橋梁」を追いかけてみた。
明治期に大岡川で架橋された多くの<橋>は現在も少し位置の変更はあるものの残っている。運河が廃止されたことで消え去った橋梁も多いが、1974年(昭和49年)まで大岡川下流域は運河の街だった。

大岡川下流域橋梁図一部

横浜真景一覧

この絵図から橋梁部分をズームアップしてみた。

辨天橋

弁天橋風景

辨天橋は三連橋脚の桁橋で、片側に四つのガス灯がある。絵地図では片側三灯となっているが、概ね構造をとらえている。

初代大江橋

二代目大江橋

桜川・大岡川十字路

柳橋

都橋

都橋の袂に小屋が確認できます。邏卒所と思われます。現在もここは交番になっているので、横浜の中でも歴史ある<交番>といえるでしょう。

都橋・宮川橋

長者橋

たぶん大岡川長者橋

全く根拠はないが、一枚の撮影場所不明の横浜写真は「長者橋」ではないか?と推理している。明治四十三年時の横浜市域で川筋を調べてみると「横浜真景」での橋脚図が正確という前提で当てはめてみた。左岸に住宅、右岸に材木業、4つの橋脚あたりから「長者橋」が導き出された。
かなり乱暴な推理なので、新しいことが分かり次第 撤回!?確定!?どちらかへと向かうことになるだろう。