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第952話 吉田町通物語

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昭和の記憶に開港の時代が刻み込まれている瞬間に出会う。吉田町では、店の名に<土手>をツケて呼んでいたと聞いて久しぶりに痺れた。
これこそ昭和に伝わっていた開港の記憶だ!
吉田町の大店(おおだな)だった「武蔵屋呉服店」は当時「土手のむさしや」と呼んでいたと伊勢佐木に店を移した「むさしや」の津田さんに伺った。
吉田町の店は皆<土手の〜>と呼んだとのことだが、最初は運河側の店のことだったかもしれないが、これは宿題としよう。
なぜ<土手の〜>と呼ばれていたか、ここには若干説明が必要だろう。
とにかく昔の記憶が生きていたことが素晴らしい。
結論から言えば
「吉田町は土手沿いに生まれ育った町である。」
江戸時代初期1667年に干拓事業が完成し、1669年には幕府より吉田新田の名が認められたことに始まる新田の歴史は、それまで深い入海だったこの地域の交流を深める道の誕生でもあった。半農半漁の野毛村、太田村と対岸の石川中村は、この吉田新田に橋が架かることで往来が盛んになった。
最も頻繁に利用されたのが現在の「長者橋」と「車橋」ルートで、野毛村と石川村は隣村となっていく。この人の流れは2つの村を繋ぐ現在の長者町1丁目から9丁目という町名にも現れている。
江戸時代、この道を通り石川村に出て横浜村に入り風光明媚な洲干弁天詣もさかんに行われたと想像できる。 ここに転機が訪れた。外国船から多くの異国人が降り立ち、横浜村の外れで外交交渉が行われ、この地が開港場となる。
1858年(安政5年)に日米修好通商条約が調印され、幕府は神奈川(横浜)の開港を翌年6月と定め開国へと一気に舵をきることになる。
横浜は神奈川の一部なり!
と主張はしたが、東海道神奈川宿から横浜への交通は非常に不便であったことは紛れもない事実だった。そこで幕府は、東海道から開港場までの道を普請することを決める。芝生村(現在の西区浅間町)から開港予定地まで直線で繋ぐにはいくつかの架橋と峠の開削が必要だった。
工期3ヶ月の突貫工事で、架橋材は欄干に杉、杭には松を使用し人海戦術で「横浜道」が開港日直前に完成する。
・新田間橋、平沼橋(現・元平沼橋)、石崎橋(現・敷島橋)
・野毛の切通し
・野毛橋(現・都橋)、太田橋(現・吉田橋)
こうして横浜道の完成は開港の1日前だった。
実はこの工事、ピンはねで間に合わなくなり保土ケ谷宿本陣苅部家に泣きついてなんとか完成したというおまけまでついている。
この「横浜道」の完成によって、まず漁村野毛村が開港の街に変身する。
1859年(安政6年)6月4日だから開港後すぐに神奈川奉行所<奉行役所>が戸部村宮ヶ崎(西区紅葉ヶ丘、現・神奈川県立青少年センターあたり)に開設する。
太田村(現在の日ノ出町)には陣屋(警備本部)ができ野毛は役人と武士が通ういわば官庁街になった。
No.438 神奈川奉行入門

No.438 神奈川奉行入門


開港し道はできたが、開港場となる横浜村にはヒト・モノ・カネが大きく動く町普請が必要となる。
特に町普請には人と部材が集められる。
大きな荷物は船便で、小物は東海道から「横浜道」を使って開港場に搬入された。
前置きが長くなったが
この横浜開港場の町普請の要衝にあったエリアが「吉田町」だった。
当初、野毛から「野毛橋」を渡り吉田新田の端の石垣突堤堤(土手)脇道を使って「太田橋(吉田橋)」へと人とモノが流れた。
横浜にいち早く登場した商店街が「吉田町」だったと私は考える。
■幕末・明治初期の吉田町ビジネス
※資料で確認できた範囲での一覧です。
安政五年 清水組支店(清水喜助)建設業→現存
安政六年 飯田屋商店 米穀酒類販売
文久年間 小泉商店(遠州屋) 鰹節乾物
慶応二年 田中屋 茶小売業・両替業→現存
慶応三年 油屋小林商店 砂糖卸小売業
明治元年 武蔵屋 下駄小売
明治二年 武蔵屋呉服店 呉服商→移転現存
明治二年 大野屋 足袋販売
明治三年 駿河屋 新古衣類
明治三年 遠州屋(雪吹啓次郎) 新古衣類
明治四年 満利屋 人形・玩具→移転現存
明治四年 清水商店 乾物米穀問屋
明治初期 徳島屋呉服商 呉服商
明治六年 濱田屋呉服店 呉服太物卸小売
明治六年 萬屋石油米穀商 米穀油類卸小売
明治七年 伊勢屋金物店 金物販売
明治九年 山田時計店 時計金属美術商
一覧を見れば明らかなように
吉田町に拠点を構えて大成功したのが「清水組」現在の清水建設である。

<川の奥白い社屋が清水組。左手が柳橋、右側が現在の桜木町に位置する>
人が通れば商いが生まれる。現在も吉田町に店を持つ「田中商店」は幕末、この地でお茶を飲ませる商いを始め成功する。
新田が開港場のバックヤードとして変化する中、干拓地(新田)の整備が行われ、運河の町が登場する。
関内と関外を分ける運河、派大岡川と堀川の護岸整備が進み、土手の吉田町裏に柳町が誕生し、対岸には湊町が整備される。

柳町・湊町

さらには野毛浦地先に鉄道用地が内田清七によって埋め立てられ、桜木川・大岡川・派大岡川が交わる運河の十字路が誕生する。後に吉田町となる柳町はその名の通り、運河岸に柳木が植えられ、船着き場も作られ荷揚げ場として昭和まで使われることになる。 <昭和20年代の吉田町派大岡川岸。貸しボート店が賑わっていた>
吉田町の<土手>には吉田新田の土手と同時に岸辺・船便が活用された運河の街という2つの意味合いがこめられているのだろう。

第948話【横浜絵】五雲亭貞秀「横浜鉄橋之図」

第948話【横浜絵】五雲亭貞秀「横浜鉄橋之図」


第949話【横浜絵】五雲亭貞秀「横浜鉄橋之図」2

第949話【横浜絵】五雲亭貞秀「横浜鉄橋之図」2

第950話 【大岡川】千秋橋の謎

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今回は謎のみで<解いていません>
(千秋橋)
大岡川は吉田新田が干拓されることで下流域に「大岡川」「中村川」が誕生します。この時点では、新田の中に灌漑用水として「中川」がありましたが、川ではなく田畑に水を供給した用水路であったと思われます。
開港後に都市化が急速に進み、吉田新田が徐々に市街化されていきます。
開港によって吉田新田に最初に誕生した街(ストリート)は現在の「吉田町」通りです。※
開港直後はまだまだ沼や灌漑用の小河川が多く住宅地としてはいろいろ不便な点が多かったようですが吉田町は新田の堤に沿って「吉田橋」へと続く道として発展していきます。
第948話【横浜絵】五雲亭貞秀「横浜鉄橋之図」

第948話【横浜絵】五雲亭貞秀「横浜鉄橋之図」


幕末10年が過ぎ明治に入ってから横浜は日々変化していく街でした。
吉田新田が都市化される中で、真ん中に「吉田川」「新吉田川」「富士見川(後に埋立)」「日ノ出川」「新富士見川」「堀川」「派大岡川」など運河群が整備されていきます。
運河とともに「橋」も整備され多くの橋が架けられます。
<千秋橋>
今日のテーマ「千秋橋」がなぜ謎なのか?というと、
堀割川から新田に入り「新吉田川」「吉田川」となり「派大岡川」に合流するのですが、吉田川は上流が「新吉田川」下流を「吉田川」と呼びました。ではどこから「吉田川」なのかというと
「千秋橋」あたりです。
「千秋橋から蓬莱橋までの400mが「吉田川」で、」という資料もあるように、
吉田川は<新>と<旧>とに分かれていた時期がありました。
吉田川があって、そこに新吉田川が繋がった?
吉田川が繋がってできた?感じの地図を二点紹介します。
明治14年測量の横浜を細かく描いた地図です。

明治14年測量図

ここには石川町車橋から野毛側長者橋に続く「長者町」が途中堤で繋がっていることがわかります。
長者町は関内外の数ある町内の中で<珍しい町域>を持っています。
長者町は吉田新田域を唯一横断している<町>です。
その距離約1kmで『横浜沿革誌』によれば1870年(明治3年)6月頃に長者町の地名が付けられたとあります。
この長者町のど真ん中が「千秋橋」にあたりますが、
そもそも橋では無かった?
もう一つの地図も紹介します。

明治25年横浜真景図

明治25年に描かれた「横浜真景一覧図絵」のクローズアップです。
この地図にも「千秋橋」は無く、堤が示されています。
長者町が繋がっていることと、この地図から
明治初期の一定期間ここには橋が無く、陸続きだったと推理できます。
その後、運河整備のために下流の「吉田川」堤を挟んで上流の「新吉田川」がつながり、そこに架かった橋が「千秋橋」ということになります。
取り合えす手元の資料だけでの推理ですのでご了承下さい。
※吉田町は1862年(元治元年)に、元町とともに関外で初めてできた街である
『吉田町の研究』p11。

第949話【横浜絵】五雲亭貞秀「横浜鉄橋之図」2

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前回、
五雲亭貞秀が描いた代表作の一つ「横浜鉄橋之図」から野毛近辺をクローズアップして風景を読み解いてみました。今回も引き続き、「横浜鉄橋之図」鉄の橋の下を通過する荷物満載の船と横浜製鉄所、魚市場あたりを眺めてみることにします。
横浜が開港して、外国人の居留地と日本人街が形成されます。治水以上の理由と居留地を出島化する目的で中村川から湾に向けてまっすぐ「堀川」が掘削されます。
四方を囲まれた「開港場」は、幾つかの橋で結ばれます。その代表となったのが、「横浜鉄橋之図」に描かれた鉄の橋「吉田橋」です。
開港時に突貫工事で東海道筋「芝生村」から帷子川河口を越え野毛坂を越え野毛村、子之神社脇を抜けて大岡川に架かる「野毛橋」を渡り吉田町に至り、関内と呼ばれた開港場への橋が「吉田橋」です。開港時に架けられたこの橋は1869年(明治2年)10月に灯台技師R・H・ブラントンの設計によって鉄の橋に生まれ変わり、関内外の名所となります。
この吉田橋は日本初の長さ24m、幅6mの無橋脚鉄製トラス橋でした。一時期日本初の鉄の橋と表現されましたが現在は長崎に次ぐ二番目の橋となっています。
構造としては初の下路ダブルワーレントラス桁となっています。
【横浜の橋】№3 横浜を語るなら吉田橋を知れ

【横浜の橋】№3 横浜を語るなら吉田橋を知れ

(水運船)
「横浜鉄橋」の下を一隻の水運船が通過しようとしています。吉田橋の下を通り、何か石のような荷物を積み石川町方面に船を進めていますが、積荷はなんでしょうか?
石?
この船が進む先には、横浜製鉄所がありますから、推測ですが「木炭」か「石炭」だと想像します。幕末には石炭がすでに生産されていますので、横浜港に係留された船から運び出されたものかもしれません。
木炭、鉄鉱石かもしれません。原材料が川を使って運ばれている興味深い光景です。

<横浜製鉄所>
No.108 4月17日 活きる鉄の永い物語

No.108 4月17日 活きる鉄の永い物語(一部加筆修正)


No.236 8月23日(木)帰浜した鉄工所

No.236 8月23日(木)帰浜した鉄工所


(橋上の人々)
吉田橋の袂から橋上まで様々な人々が描かれています。

第948話【横浜絵】五雲亭貞秀「横浜鉄橋之図」

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・横浜絵の誕生
開港後、初代イギリス公使オールコック(Rutherford Alcock)が「人の住まぬ湾のはしの沼沢から、魔法使いの杖によって、日本人商人たちが住む雑踏する街ができた」「魔法使いの杖 の一振りによって茸の生えた一寒村が一瞬にして国際港と化してしまった」
と表現した横浜は徳川幕府末期に花開いた<経済・外交特区>として誕生しました。
横浜開港の表現を”一寒村”とする<元凶>の一人がcolonialismの真っ只中に生きたオールコックですが、確かに居留地には外国人が次々と移り住み、多くの商館やホテルといった洋館が日本人の手によって建てられていきます。
この時の様子が克明に描かれたのが「横浜絵」です。この横浜絵は当時を知る資料価値としても注目されています。
・横浜浮世絵
No.401 短くも美しく

No.401 短くも美しく


外国人の風俗をモチーフとして制作され短期間に売り出された横浜浮世絵(横浜絵)はおよそ八百数十点にも及びます。

中でも私は五雲亭貞秀 作「横浜鉄橋之図」が好きです。

「横浜鉄橋之図」

■五雲亭貞秀「横浜鉄橋之図」(大判横6枚)
横浜絵の第一人者である五雲亭貞秀は精密で鳥瞰式の一覧図を多く描いています。下総国布佐(現千葉県我孫子市)に生まれた貞秀は初代歌川国貞の門人として錦絵を学び五雲亭、玉蘭斎の画号で多数の作品を残しました。
「貞秀の作品は他の作者にくらべて写実的であるといわれ、歴史資料としての価値も高いといわれています。(開港資料館)」
この「横浜鉄橋之図」は横浜開港のシンボルの一つで1869年(明治2年)に燈台技師ブラントンの設計によって完成した「鉄橋」と呼ばれた吉田橋を描いたものです。
この作品は翌年の明治に入って間もない1870年(明治3年)に描かれました。
開港から11年目という短時間にこれだけ整った風景が誕生し維持された当時の人々の英知に感動すら覚えます。

■甍の波
五雲亭貞秀の洋館の描写も秀逸ですが
私は日本人街の描写が好きです。珍しい洋館やメインモチーフの「鉄橋」はデフォルメしたとしても、見慣れた日本人の住宅風景は素直に描写していると感じます。
「野毛橋(都橋)」は前回のブログで紹介しました。
第947話【横浜の橋】リユース都橋(みやこばし)

第947話【横浜の橋】リユース都橋(みやこばし)


開港時に突貫工事で完成した「横浜道」で一躍脚光を浴びた野毛橋は関内外発展により架替てその名を「都橋」と改名します。
木製の太鼓橋だった明治3年「野毛橋」の様子をこの横浜絵で知ることができます。
今回、
この作品を拡大してそこに描かれた当時の風景を少し読み解いてみたいと思います。
気になった「野毛橋」あたりをクローズアップしてみました。

野毛橋あたり

・吉田橋と野毛あたり
吉田町と野毛橋の付近の絵図には
太鼓橋を渡る二頭だての馬車と
すれ違う人力車
魚を天秤棒で運ぶ魚屋らしい姿が描かれています。

吉田町の通りには
女性と子供が不思議な乗り物に載ってる姿が描かれています。
「駕籠」の一種でしょうか、運び辛そうです。
後ろからは馬上のお付きが従っているようにも見えます。そのすぐ横に洋犬が一匹描かれていますが、この一行が連れている犬と思われます。

また
この様子を二階から興味深く眺めている物見遊山風の人物も描かれています。
もう少し引いて見てみます。
野毛橋より下流左岸には米が積まれている店舗とさらに下流には「渡船役所」が描かれています。川沿いに柳や松、桜の木樹があり、荷物を積んだ船が何艘か見えます。大岡川を使った水運の賑わいが感じられます。一方 野毛橋を越え野毛の町に入ると子ノ神社の鳥居があり神社を回り込むように道が野毛山の方向に向かっています。

他の資料からも「野毛橋(都橋)」を見てみましょう。

都橋

鉄道敷地埋立前夜

この「横浜鉄橋之図」の野毛浦近辺に戻ります。ここは明治4年に始まるまさに横浜駅開業前夜の風景です。
「馬車道」「姥が岩」の文字も読むことができます。
鉄道前夜、鉄の橋近辺の読み解きは別の機会に譲ることにしましょう。

第926話【絵葉書の風景】橋の袂の少女(改筆)

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戦前の絵葉書が多彩・多用な画像メディアとして活躍していた事はブログ内でも何回かお伝えしているところです。
さらに付け加えると、
時折 絵心というか<写真心>を感じる絵葉書に出会います。風景撮影だけではなく、そこに<アクセント>を意図的に付け加えることがあったのではないか?

この絵葉書は、

横浜関内と関外を結ぶ有名な「吉田橋」の風景です。

<橋の袂>に一人の少女が登場しています。
構図の特徴は、
吉田橋の風景に一人の少女が登場している点でしょう。
この少女
たまたま居合わせたのか、
関係者の子女であったのかわかりませんが、
意図的に構図として少女の居る「吉田橋」を撮影したことは間違いないでしょう。
手彩色のため、着物の色ピンク色になっています。
実際は確かではありませんが、なかなか存在感があります。
この少女の姿で、この橋に物語が生まれそうです。
冒頭で紹介した絵葉書のように
全国の観光絵葉書でも<傘をさす女性>とかアクセントを加えた風景が使われています。
この風景も 同じ感覚かもしれません。
もう一枚、同じ頃の吉田橋絵葉書と比較してみます。
ヒントはありますが
時代の絞込に苦労します。路面電車の軌道や看板がヒントとなります。
「ライオン」の看板は架橋時の風景にもその後の路面電車開通後にも登場しますが、この少女の風景では「ライオン」の看板はよくわかりません。
「活動 横浜館」の看板は確認できます。
もう一点、電柱でも違いがありますが、これだけで撮影時期の前後を判断するのは難しそうです。

少女の絵葉書でも橋上を見ると<電車>や<人力車>が走っています。
吉田橋の奥に見える「活動 横浜館」は
1911年(明治44年)勧工場跡に開館した「横浜館」だろうと思われます。
ここ「横浜館」は市内で最も古い映画館で1929年(昭和4年)に廃業しました。
「吉田橋」架橋時には式典が行われ多くの見学者が訪れました。

年譜にしてみました。
1859年(安政6年)
居留地と関外を繋ぐ仮橋を設置し
1862年(文久2年)
木造の本橋
1869年(明治2年)
錬鉄製の無橋脚トラス橋(リチャード・ブラントン設計)
そして
1910年(明治40年)5月
架替工事着工。
1911年(明治44年)3月21日
吉田橋工事のため橋の上下の派大岡川が閉鎖されました。
10月7日
派大岡川の通水開始。国産の「吉田橋」架替工事が完成します。
同年 11月1日 竣工、渡り初め式が行われます。
渡り初めの他、吉田橋開通式典が行われ、多くの人が集まりました。
記念絵葉書も発売されたようです。
同年 勧工場跡に「横浜館」開館。
1912年(明治45年)
路面電車の軌道が敷設され関東大震災までこの橋を路面電車が往来します。
少女の絵葉書の撮影時期は、
横浜館があり橋上に電車が走っていますから
1912年(明治45年)以降だろうと思われます。
電柱で見ると
1912年(明治45年)にはあった「電信柱」が
この少女の絵葉書では確認がとれません。
明らかに電柱の位置か構造が変わったことが分かります。
この辺の 電話事情がわかると 時代の絞込がさらにできるかもしれません。
本日は この程度の読み解きで 失礼します。

第921話【堀と掘】掘って割、堀となる

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横浜市南区東南部と磯子区東部にわたり、
明治7年(1874年)
大岡川の支流中村川分水路として開削されたのが「ほりわり川」です。

この「ほりわり川」の表記が統一されていないのかあくまで誤記なのか。
堀割川
掘割川
「堀」「掘」の二種類が様々な場所で見受けられます。
ここでは「堀割川」を採ることにします。

テレビ番組でも 時折テロップに「掘割川」が使われることもあります。

「堀割川(ほりわりがわ)は、神奈川県横浜市を流れ根岸湾に注ぐ流域全長2700mの二級河川。大岡川の分流である。明治時代に作られた人工河川で、横浜港発展に大きな役割を果たした。
※1870年、横浜港と根岸湾とを結ぶ水運と、吉田新田埋立用土砂確保のため、当時の神奈川県知事の井関盛艮が工事請負人を募った。吉田新田を開拓した吉田勘兵衛の子孫がこれに応じ、今の中村橋付近の丘陵を切り下げ、中村川から根岸湾まで運河を開削。その土砂で、当時の「一つ目沼」、のちに根岸線と横浜駅根岸道路の間の吉浜町・松影町・寿町・翁町・扇町・不老町・万代町・蓬莱町となる湿地帯の埋立を行った。滝頭波止場(現在は動物検疫所となっている)が大波で破損するなどしたものの、1874年に完成した。2010年度には土木学会選奨土木遺産に認定された。(wikipedia)」

横浜市の資料、国交省の資料には「堀割川」とあり、常識的にはこの表記が正しい。
ただなぜ<てへん掘割川>が未だ使われているのでしょうか?
単純に 変換ミス。もう一つ、掘割川派の立場であえて主張するなら
掘るのは<てへん>で掘った結果が<つちへん堀>となります。
掘って運河(堀)を作った結果を<掘割川>の方が理にかなっている!と言えないこともないでしょう。かなりの屁理屈ですが。
「堀割川」
<名称>をきっかけに堀割川のこと少し突っ込んで調べてみました。まだ、資料を読んでいる最中!なので保留ですが、横浜を考える上でいろいろなことを学んでいるところです。堀割川は、民間の手で近代に誕生した大岡川の運河の一つです。
横浜市内7水系28河川の一つ「大岡川」に含まれます。
明治3年に県が公募し吉田家を中心とする民間資本が名乗り出て途中米国資本が入り明治7年に完成しました。
堀割川は吉田新田大岡川の家族で、ここに<家>の浮沈をかけて挑んだ吉田家の努力があり、当時不平等条約の下で居留地から国家ビジネスをしかける外国資本、国家財政破綻寸前、明治六年政変前後の日替わり政府の姿勢、
横浜を舞台にした江戸から明治への近代化とは何だったのかを問う象徴的な出来事です。開港によって、開港以降の<輝かしき>発展史だけではない史実があったこと、
ここに登場する、今殆ど評価されていない人たち、史実が少し見えてきました。
来年は改めて「堀割川」両岸を歩きながら明治・大正・昭和、そして平成を見つめてみたいと思います。

第905話 【占領下の空】

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終戦直後の福富町

この写真は約7割が空となっています。
カメラマンは何故?
敢えてこの広い空を構図の中に取り込もうとしたのでしょうか?
撮影場所は野毛山中腹(現在の西区東ケ丘あたり)かプール(今無い)あたりか?
<風景を読む>
手前に京浜急行が走り、日ノ出町駅舎は隠れて見えません。
高架線の途中にある構造物は京急の変電所でしょう。
その先には大岡川が流れ、アーチ橋長者橋、左側に桁橋宮川橋が見えます。
福富町の殆どが空襲で焼失し、米軍によって整地され、接収の準備が始まっています。
後にこのエリアには第八軍宿舎(カマボコ兵舎)が立ち並びますが
まだ臨時のテント設営段階のようです。
横浜関内外エリアは戦後、ほとんど接収となり戦後復興が滞りました。
このエリアは、開港後の「慶応の大火」以降 「関東大震災」「横浜大空襲」「戦後接収」と地域の機能不全の中から立ち上がってきた経験があります。
遠景のスカイラインに ランドマークとして「神奈川県庁」が確認できます。
<横浜三塔>の一つである「横浜税関」は県庁に重なって確認できないようです。手前に「開港記念会館」がぼんやり見えます。
長者橋近くには、『和菓子屋 しげた』の裏にあった「倉」が写っています。
貴重な風景です。
細かく拡大することで、色々な建物を読み取ることができますが、
今日の本題に戻します。
何故、カメラマンは広い空を選んだのでしょうか?
手前の日ノ出町一帯は幸運にも空襲の被害は少なかったようで、街並みが残りました。
この風景から、焼け残った風景(家並み)は切り取られました。
何も残っていない風景を強調したかったのか?
この写真はアメリカ人から譲り受けたものですが、撮影者が日本人なのか在留アメリカ人なのかは不明です。
撮影時期は昭和20年の秋か21年の初めあたりと推定しました。

復興したエネルギーも大切ですが、
失ったモノを忘れない エネルギーも重要です。

第904話 横浜ダブルリバー概論(2)

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大正から昭和へ
1900年代初頭、近代化のうねりの中で横浜は開港場を軸に、変化の真っ只中でした。
ここで第二次市域拡張を終えたダブルリバーの20世紀初頭を追ってみます。

1901年(明治34年)から20世紀となります。
横浜市は初めて市域の拡張を行いました。
「久良岐郡戸太村、中村、本牧村、根岸村、および橘樹郡神奈川町、保土ケ谷町大字岡野新田、大字岩間字久保山・大谷・林越・大丸(現在の西区元久保町・東久保町・久保町)、子安村大字子安を編入。」

大正12年4月発行の帷子下流域

・大岡川下流域
「横浜港」を中心に貿易関連企業群と行政機関が集中する商業都市として膨張を続けます。
一方
・帷子川下流域は、大正期に入り埋地が工業地帯として発展していきます。
明治期に高島嘉右衛門が埋め立てた鉄道路線沿いの<高島><裏高島>エリアには、様々な製造業が進出します。また鉄道線に沿った埋地の内側(現在の横浜駅西口側)には外国系石油会社が二社進出します。
一つがユダヤ資本系のライジングサン石油株式會社(後のシェル石油)で平沼・高島に油槽所を設置。
また、米国ロックフェラー系のスタンダード石油も現在の横浜駅付近に貯油所を開設、日本市場進出の拠点となります。現在も日本ガソリンスタンド発祥の地(真偽不明)の記念碑が建っています。
また、平沼・岡野の帷子川下流域新田も工業用地へと変貌し、市瓦斯(現在東京ガス)平沼、横浜電気、横浜電線製造、横浜魚油などが操業し大正期大ブームとなった麻真田を織る工場が多く開業し第二次世界大戦前まで横浜の重要産業に躍り出ます。
(20世紀初期)
1889年(明治22年)に市制が施行され、
1901年(明治34年)から20世紀となります。
横浜市は初めて市域の拡張を行いました。
「久良岐郡戸太村、中村、本牧村、根岸村、および橘樹郡神奈川町、保土ケ谷町大字岡野新田、大字岩間字久保山・大谷・林越・大丸(現在の西区元久保町・東久保町・久保町)、子安村大字子安を編入。」
1911年(明治44年)に第二次市域拡張。
「久良岐郡屏風浦村より大字磯子、滝頭、岡(旧禅馬村の地域)を、大岡川村より大字堀之内、井土ヶ谷、蒔田、下大岡、弘明寺を、橘樹郡保土ケ谷町より大字岩間字池上・東台・外荒具・道上・塩田・反町・宮下・殿田・関面・久保山下(現在の西区東久保町・久保町・元久保町、保土ケ谷区西久保町)を編入。」
この後、しばらく横浜市はこの市域を維持していきます。
このブログでも何度か指摘していますが、横浜市は6回の市域拡大を行います。
1927年(昭和2年)の市域拡大で大幅に市域面積を広げますが現在の半分以下でした。
(関東大震災)
大正期から昭和初期の間における横浜の急激な変化は「関東大震災」に尽きます。
当時の横浜市は人口約42万人で東京市の約220万人に比べ1/5の規模の都市でしたが横浜市の住家全潰(全壊)棟数は約1万6千棟、
東京市の1万2千棟をはるかにしのぐものでした。
特に大岡川と中村川・堀川に挟まれた関内外エリアでは、全潰率が80%以上に達しました。このエリアでの火災の発生場所約290ヶ所に及ぶなど横浜中心部は住宅の全潰率や出火点密度が非常に高かった点が特徴です。
また関内外は運河や橋が多かったため、橋の崩落、木造橋梁の焼失により逃げ道を失ったことが被害を大きくしました。
1923年から帷子川・大岡川下流域は、ひたすら復興のためにエネルギーを使っていきます。
横浜電気鉄道が市電となった直後、
二代目横浜駅が完成してまもなく
第一次世界大戦後の不況から立ち直ろうとしていた矢先
の震災でした。
震災後、横濱も帝都東京と併せて復興計画が立案されていきますが、予算を含め様々なハードルが待ち受けます。
第902話 南・中・西 分離始末 
で少し紹介しました牧彦七による震災復興プランにはダブルリバーを意識していたように思えますので改めて彼のプランを再考してみたいと考えているところです。

牧彦七(マキ ヒコシチ)
内務省の勅任技師時代、道路の改良について研究を進めその傍らで外国語学校に学び、土地計画の国フランス語を修めました。明治神宮造営局や鉄道院の各技師を経て1923年(大正12年)東京帝大講師に就任。同年9月に関東大震災が起こると、いち早く横浜の復興計画に携わることになりますが、任半ばで<帝都復興優先>とされ東京市土木局長となります。帝都の復興に尽力し、東京の都市計画の基盤を作ったテクノクラートで横浜市に関わった場合、どう変わったのか?大変興味深いところです。
13年内務省土木試験場長、次いで東京市道路局長などを歴任。また、大分県出身者として在京大分県人会を組織し、その会長も務めました。
少し長くなりますが
 20世紀初頭をザクッと年表にしました。
 1900年(明治33年)4月11日
 サミュエル商會の日本法人として石油部門を独立させ後にライジングサン石油株式會社(後のシェル石油)となります。照明用の灯油・蝋燭製造でシェアを伸ばします。
 平沼に油槽所を開設。
 1902年(明治35年)
 横浜電気鉄道株式会社設立(資本金100万円)
 1903年(明治36年)
 鶴屋呉服店、明治屋設立
 1904年(明治37年)
 日露戦争(〜05年9月5日)
 横浜電気鉄道開通(神奈川-大江橋間)。
 1906年(明治39年)
 三渓園 開園
 1910年(明治43年)
 東京横浜電鉄(株)創立。
 1911年(明治44年)
 第二次市域拡張。オデオン座開業
 1913年(大正2年)
 浅野総一郎ら 鶴見埋立組合による埋立始まる。
 横浜の逓信省経理局倉庫と海上の天洋丸の間で無線電話連絡に成功。
 1914年(大正3年)
 第一次世界大戦(〜18年11月11日)
 東京駅開業
 糸価大暴落、横浜生糸後場休会。
 1915年(大正4年)
 二代目横浜駅開業
 御大礼特別観艦式(行幸)
 1916年(大正5年)
 横浜入港の布哇丸乗客にコレラ発生。以後全国的に拡大。この年、死者7,482人。
 恒例観艦式(横浜沖)
 1917年(大正6年)
 横浜港第二期築港工事竣工
 開港記念横濱会館竣工
 東海道本線貨物支線鶴見ー高島間、東神奈川ー高島間開業。横浜臨港貨物線のはじめ。
 1918年(大正7年)
 横浜生糸相場暴落。
 米騒動
 1919年(大正8年)
 久保田周政(きよちか)市長は市区改正局と慈救課を設置し、都市計画と社会福祉を設置
 横浜市千歳町に大火。焼失3,084戸。(埋地火事)
 1920年(大正9年)
 市区改正局→都市計画局 慈救課→社会課
 戦後恐慌始まる。茂木合名会社破綻(5月)
 横浜電線製造株式会社が古河工業株式会社より日光電気製銅所などの現物出資をうけ設立。
 電車を市営とすることに決定
 横浜興信銀行設立認可。25日 開業。七十四・横浜貯蓄両銀行破綻のため市内有力者が相寄り新銀行を設立。
 1921年(大正10年)
 横浜取引所の定期生糸立会が復活。
 野沢屋呉服店新館開店
 1923年(大正12年)
 関東大震災。横浜市内全域被災。

◎特別都市計画法公布。東京・横浜の都市計画を規定。
 1924年(大正13年)
 神戸市、市立神戸生糸検査所を開設(横浜港の生糸輸出独占破れる)。
 市内各地で皇太子ご成婚の奉祝行事開催
 横浜高等商業学校(官立)設立、入学式。
 神奈川県庁舎 岡野町に建設。
 1925年(大正14年)
 日本フォード自動車(株)設立。本社横浜。
 東京・横浜間で電話自動交換方式を採用。
 湘南電気鉄道設置
 1926年(大正15年)
 生糸検査所竣工
 1927年(昭和2年)
 京浜地方の諸銀行休業
 第三次市域拡張
 ホテルニューグランド開業
 1928年(昭和3年)
 三代目横浜駅開業
 1929年(昭和4年)
 復興祝賀式
 世界恐慌始まる
 1930年(昭和5年)
 横濱市会議員、初の普通選挙
 山下公園開園
 1931年(昭和6年)
 満州事変
 1932年(昭和7年)
 東横線全通
 1933年(昭和8年)
 横浜の山下町消防署に救急車を初めて配置。東京では12月に日赤に配置。
 自動車製造(株)設立(社長 鮎川義介)。資本金1,000万円。日本産業(株)と戸畑鋳物(株)の共同出資。本社は横浜。1934.6.1 日産自動車(株)と改称。
 1935年(昭和10年)
 復興記念横浜大博覧会(〜5月)
 1936年(昭和11年)
 第4次市域拡張
 1937年(昭和12年)
 第5次市域拡張
 横浜市営埋立地完成
 1939年(昭和14年)
 第6次市域拡張
 ※これでもかなりの量になってしまいました。

第903話 下末吉台地

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現在、ダブルリバー(帷子川・大岡川)の関係性と果たしてきた役割を考えています。
資料にあたりながら、実際歩きながら地理を体感しています。
この作業の中で 地域一帯の名を使いながら理解し、ブログ等にも分かったことなどまとめていますが、地域を説明する上でエリア名に<腑に落ちない>ことが時折あります。
1.関内外というまとまり
大岡川下流域のいわゆる吉田新田エリアから下流を関所のあった開港場とその外という意味で関内・関外としています。関外とはどのエリアまで入るのか?
「横浜の地域名。吉田橋から内陸側を指す。かつて、現在の伊勢佐木町と馬車道を結ぶ吉田橋には、関所があり、そこから海側(馬車道側)を関内、内陸側(伊勢佐木町側)を関外と呼んだ。
関内は駅名にもなり、現在でも生きているが、関外のほうは、あまり現在では使われていない地域名となっている。現在は、この関外を含めて「関内」とされることも多い。」といった説明もありますが地元感覚では??
「関内(かんない)は、神奈川県横浜市中区において、中心部となる官庁街および商業地域の一帯を、広く指す地域名称で、「関内地区」と「関外地区」の区別がある。このうち、横浜港に近い海側の地域を「関内」といい、横浜市役所(横浜市庁舎)や、横浜市中区の区役所、野球の横浜スタジアムなどが位置する地域として知られる。また、馬車道商店街(馬車道を参照)や、神奈川県庁舎近くの日本大通などが該当する。一方で、旧・横浜松坂屋(横浜市認定歴史的建造物であったが2010年に取り壊され現存しない)があった伊勢佐木町側の地域を「関外」という。なお、大通り公園は関外地区にあり、日本大通は関内地区にあるので、それぞれ場所が異なる。(wikipedia)」
なんとも煮え切らない説明。
吉田新田域とすれば野毛村も石川村(元町)も入らないが 関内(出島域)に対してその外、城郭都市のような分け方がこのエリアにふさわしいのか?
かといって、この名称に代わるネーミングが見つかりません。

2.大通り公園という分断
関内外が開港時の歴史的文脈上
昔の居留地管理の関所のなごりから関内という地域名(町名には無い)を残してるのなら、元々<中川>であり運河として整備され<吉田川>となった現在の大通り公園はやはり「吉田川公園通り」とするのが関内からの歴史的軸線はつながるのではないか?
※これは具体的な運動にしていきます。!!!

3.ダブルリバーを囲む山
大岡川を包む両岸の丘陵、帷子川を包む両岸の丘陵、三連の山の間に二本の川が流れ込んでいます。この丘陵地帯をどう表記するのか?
中村川右岸に迫る丘陵は山手・中村・平楽
大岡川左岸に迫る丘陵は野毛山
帷子川(石崎川)右岸に迫る丘陵は久保山
帷子川(新田間川)左岸に迫る浅間・高島山
ここは地名にこだわらず、地学・地質学の視点ではどうしているのか?
どうやら2つの川の河口域を囲んでいるのは<丘陵>でも<山>でも無く台地ということらしい。
本牧台地、久保山台地、三ツ沢台地
これは分かりやすい。ということで 細かい部分は落ち着かない部分もありますが、
これからはこの<台地>でダブルリバーを説明していくことにしました。
本牧台地と久保山台地の間に大岡川が流れ
久保山台地と三沢台地の間に帷子川が流れる。
堀割川は本牧台地に一部を開削した。

■下末吉台地(しもすえよしだいち)
さらに視点を広く俯瞰すると、起伏の多いこのエリア一帯は
下末吉台地と呼ばれています。
「地質学者大塚弥之助(やのすけ)によって、横浜市鶴見区下末吉の宝泉寺裏の露頭を模式地として1930年(昭和5)に命名された新生代後期更新世の地層。」
横浜に由来する台地、下末吉台地は
「神奈川県北東部の川崎市高津区、横浜市都筑区・鶴見区・港北区・神奈川区・西区・保土ケ谷区・中区などに広がる海抜40-60メートルほどの台地で(wikipedia)」
鶴見川、帷子川、大岡川などによってさらに細かく多数の台地が生まれ、
下末吉台地の西は多摩丘陵となり相模国と武蔵野国を分けている国境となっています。

第902話 南・中・西 分離始末

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ダブルリバーに関わる3つの区を地図上で眺め、歴史を探ると
分区の不思議が見えてきます。 横浜市南区は1943年(昭和18年)12月1日中区から分離しました。
その理由は
「戦時配給制度の手続の軽減を図るため、寿・大岡両警察署管内の各町を中区から分離して南区が誕生。(wikipedia)」と簡単に説明されています。
区名の由来は中区の南に位置するからだそうです。
同様に中区に対して西に位置するという理由から西区が1944年(昭和19年)4月1日分区しています。全体から見るとかなり東にあたり、中区の西というのは無理がありますがすでに分区していた<南>との対比だったのかもしれません。個人的には南区が西区で西区は東区でも良かったかなと思います。
肥大化していく中区
中区は港都の中心市街地として膨張していきました。
南区も西区も膨張する中区からなかば”はじき出される”かたちで誕生したのでしょうか?
手元の資料を読む限りでは
両区とも戦時中の分区で、警察管区の変更をベースに区域が生まれています。
警察管区単位で<配給体制>が運営されていたため
戦時管理体制の強化が背景にあったともいわれています。

南区も西区も分区の時期はずれていますが、
同時期に分区計画が遡上にあがります。
西区史では
「西区の新設は、昭和十八年(一九四三)十二月一日、南区が中区の一部から分離、独立したときから日程にのぼっていた。これより前、港西区又は戸部区として新行政区を新設するよう運動もおこっていた。」
もう少し説明を加えると、キッカケは横浜市が第3次市域拡張によって急膨張し新しい区制度により新区が誕生した昭和二年に遡ります。
【番外編】市域拡大は元気なうちに!?

横浜市で区制が始まった時は、五区でした。
鶴見区・神奈川区・中区・保土ケ谷区・磯子区 以上。
現在のように18区となったのが1994年(平成6年)ですから、約70年で市域も増えましたが、分区を繰り返してきました。単純に分かれていくだけではないので、複雑に見えてしまいます。
区制当初からほとんど<区域>が変わらないのが「鶴見区」です。
唯一行政域不変の区です。
この中で、区と区の境界ゾーンに一つの新しい区が”独立”したのが西区です。
1994年(平成6年)16区が18区になるときに、緑区と港北区で新しく線引を行い青葉区・都筑区が誕生しますが西区の誕生はまさに「神奈川区」「中区」の境に誕生します。
生活圏の変化
横浜市は昭和初期に第3次市域拡張を行い一気に大横濱となります。1936年(昭和11年)に久良岐郡、1939年(昭和14年)には相模国鎌倉郡戸塚村を市域に加えほぼ現在の市域に近くなります。
この拡張期間に様々なインフラ整備と新産業が起こり生活圏の変化が起こってきます。
西区・南区に戻ります。
西区エリアは昭和に入り「中区と神奈川区」の谷間で俄然存在感を示してきます。最大の理由は三代目横浜駅の開業です。
山に囲まれた帷子川河口域一体が西区となります。当初神奈川区と中区の境界は帷子川河口域、石崎川あたりですが、関東大震災後、戸部エリアを軸に新しい都市計画が構想され(牧 彦七案)その後「戸部村」が独立を望む際に、同じ生活圏である帷子川河口域(岡野新田・平沼新田 他)を含めた区域を求めたのも自然でしょう。南区の誕生
一方、”肥大化した”中区の南西部が分離した「南区」の独立理由に目を向けてみます。冒頭に紹介したように「戦時配給制度の手続の軽減を図るため、寿・大岡両警察署管内の各町を中区から分離して南区が誕生。(wikipedia)」
警察の管轄権で南区としたとあります。逆に、寿・大岡両警察署の管内が決まった理由を考えることで、中区・南区の境界線が見えてくるのではないか?と警察史を追いかけてみると
南区の管轄警察となった寿警察のルーツは久良岐郡警察署(久良岐橋近く中村町4丁目)にあります。その後石川町警察署(石川町4丁目)となり1921年(大正10年)吉野町に寿警察が誕生します。それぞれの警察署がどのような管轄域の変遷を辿ったのか「神奈川県警史」では判りませんでしたが、中村川エリアと大岡村エリアである大岡川河口域の歴史から少し読み解くことができそうです。
運河で分けた区界
古い大岡川下流域の地図をみると、まさに現在の中区・南区境界の酷似しています。
1970年代まであった大岡川運河群の新富士見川・日ノ出川・吉田川に沿って区界があり、警察の視点では分けやすかったといえるでしょう。
南区史には当時の職員の話として
「とにかく急なことだった。南区が開かれることにきまり、辞令が出たのは一八年の七月だったが、実際に辞令をもらったのが10月1日だった。(中略)とりあえず隣保館を改造して役所とすることにした。」とあるように戦時下でとにかく準備不足の中での分区だったようです。
南区を運命づけた変化は市電弘明寺線と湘南電気鉄道=京浜急行電鉄の開通による急激な宅地化です。
ダブルリバー
帷子川河口域の発展から西区が誕生し
大岡川中・下流域の発展から南区が誕生しました。
この2区に共通するのが”不便な区役所”というのは冗談ですが、
時の流れによって、町の軸が変化してきた町といえるでしょう。
第901話 横浜ダブルリバー概論(1)