Home › Category Archives › 水辺の風景

第885話【横浜の橋】都ぞ春

開港時から明治期にかけて、横浜開港場界隈に架かる<橋>数数あるなか
知名度なら「吉田橋(派大岡川)」でしょう。
明治初期、開港場付近の橋といえば?
辨天橋・大江橋・前田橋・西之橋・谷戸橋・湊橋・豊国橋 他
居留地と外を結ぶ<関門橋>があり、多くが現存しています。
中でも吉田橋は、関内外を結ぶ橋として一際注目されてきました。
横浜の重要な道を繋ぐという視点で<橋>を眺めてみると
「都橋」が横浜発展の要となっていたことに気がつきます。
「都橋」は
1872年(明治5年)7月
「野毛町一丁目往還北側茅屋を毀ち、道路を改修し、野毛橋を毀ち、更に北方へ凡そ三間位置を換へ、橋台を築造し、無杭木橋に改造し、都橋と改称す同月野毛橋の古材を太田村に移し、以て栄橋を架す。」
開港時「野毛橋」と称していました。
東海道から帷子川の越え、野毛坂を越え「野毛村」と突貫工事で切り開いた開港の道(横浜道)は「野毛橋」で大岡川を越え吉田橋関門へとつながる重要な橋の一つでした。
この「野毛橋」の架かる一帯の整備が行われ、
道路を改修、新しい橋に架け替えられます。
この時に、名称を「都橋(みやこはし)」と一新するのですが、
なぜ「みやこはし」となったのか?
オツな話が伝えられています。
古今和歌集56番
「見わたせば
柳桜をこきまぜて
都ぞ春の錦なりける」素性法師
“ここから眺めてみると、
柳の緑と桜の色とが混ざり合って、
都が春の錦のようであることよ”
といった美しい春の風景を詠っています。
見渡せばとあるので 何処か高いところから見下して詠ったものですので
野毛に置き換えれば<野毛山>からの眺めと重ねたのかもしれません。
実は
「見わたせば柳桜をこきまぜて 都ぞ春の錦なりける」の
歌中にある<柳><錦>から
都橋下流の大岡川と派大岡川、桜川と川の十字路となっていたところに
「柳橋」と「錦橋」が架かっています。 この2つの橋と桜川をかけて
ちょうどよい歌を引用し「都」橋と名付けたそうです。

#大岡川の橋

第878話【時折今日の横浜】3月26日

三渓園
1954年(昭和29年)の今日
現在、多くの市民に愛されている三渓園が“市民公園”として開園しました。
桜の季節に合わせての開園でしょう。
本牧にある三渓園は、横浜を代表する実業家であった原富太郎(原 三渓)が明治時代に作った自宅を兼ねた庭園です。
1906年(明治39年)5月1日には自宅でありながらその多くを市民に公開、戦前の横浜名所として賑わいました。
彼は多くの芸術家を支援、当時の鈍翁(益田孝)と並ぶ日本美術コレクターでもありました。
横浜が歩んだ悲劇の歴史を三渓園も受け、関東大震災と横浜大空襲で多くの建造物と美術品を失い戦後、原コレクションも散逸してしいます。
オーナーであった原家は、苦渋の売却を決意しますが開発事業者ではなく横浜市に活用を委ねます。三渓園の保全に積極的だった平沼亮三が横浜市長に当選したことで、三渓園の財団化が積極的に進められます。
1953年(昭和28年)に「財団法人三溪園保勝会」が設立され、本格的な再整備が始まり、1954年(昭和29年)の今日 開園し現在に至ります。
三渓園をめぐる関連ブログ
No.280 10月6日(土)天心と三渓

No.280 10月6日(土)天心と三渓


No.171 6月19日(火)虚偽より真実へ、暗黒より光明へ 我を導け

No.171 6月19日(火)虚偽より真実へ、暗黒より光明へ 我を導け


【横浜 三溪園】
www.sankeien.or.jp/
「三溪園は、横浜市中区にある庭園。17.5haの敷地に17棟の日本建築が配置されている。実業家で茶人の原富太郎によって1906年に造園され、現在は公益財団法人三溪園保勝会が運営している。名称の三溪園は原の号である三溪から。2006年11月17日に国の名勝に指定された。」

<三渓園の風景>

第868話 【ある日の氷川丸】

山下公園に係留されている氷川丸(ひかわまる)
1930年(昭和5年)竣工。日本郵船の12,000t級貨客船だ。
北太平洋航路で活躍、戦後まで残った貴重な船である。
現在は博物館船として公開され国の重要文化財(歴史資料)に指定されている。
ここに数枚の係留された氷川丸風景を紹介する。 これらの風景の違いがお分かりになるだろうか?
氷川丸は、
1960年(昭和35年)8月27日に横浜からシアトルへ出港し10月1日に横浜・3日に神戸着で最終航海となった後、横浜港に戻ってその後の処置を待つ身の上となった。廃船の計画も出たが、各方面からの熱いリクエストがあり存続が決定。
翌年の1961年(昭和36年)に ユースホステルとして再登場した。この時、船体下部が黄緑色に塗られた。
その後、繋留のために作られた<桟橋>先端に1963年(昭和38年)<白灯台>が設置された。
これに関する顛末は
No.105 4月14日 白の悲劇(加筆)

No.105 4月14日 白の悲劇(加筆)


1960年代以降の「氷川丸」も様々な表情を変化させながら現在に至っている。
85年の輝かしい歴史を辿るには
「氷川丸ものがたり」は最新刊だ。

第858話 横浜から下野へ<煉瓦街道をゆく>野木編

横浜開港場のイメージキーワードに<煉瓦>があります。
煉瓦は古代から現在に至るまで建築パーツの代表として活用されています。日本では、明治期に多くの煉瓦仕立ての建物が建てられました。都市部の重要な建造物はもちろん、日本全国の<港>における建造物には煉瓦が多用されています。
横浜の場合、残念ながら震災と戦災で多くの煉瓦建造物が失われましたが、全国に多くの煉瓦による近代化資産が残っています。
横浜港・東京都心部・埼玉(深谷)・栃木(野木)をつなぐ道(水運を含め)は<煉瓦街道>と呼ぶことができます。
以前
No.266 9月22日 (土)ハマの赤レンガ
で、1888年(明治21年)9月22日(土)に創業した横浜煉化製造会社を紹介しました。
この「横浜煉化製造会社」は
日本煉瓦製造会社(埼玉県)と下野煉化製造会社(栃木県)に並ぶ大量生産を可能にしたホフマン窯の煉瓦工場でした。
「横浜煉化製造会社」の経営は10年足らずで行き詰ってしまいます。
現在ほぼ原型をとどめているホフマン窯が栃木県野木町に近代化産業遺産として残されています。

野木町煉瓦窯

野木町煉瓦窯

完全な形で国内に残るのは野木町だけです。
旧・下野煉化製造会社・ホフマン式輪窯
1889年(明治22年)築窯
1890年(明治23年)6月15日操業開始
1971年(昭和46年)まで82年間稼働※
途中関東大震災等で休業期があります。
1979年(昭和54年)2月 国指定重要文化財
2016年(平成28年)5月公開

現存するこのホフマン式輪窯は、旧・下野煉化製造会社構内の東西に2基あった窯の内、東窯といわれていたもの。他に登り窯が一基ありました。
煉瓦工場を成功させるには幾つかの条件が必要といわれています。
・良質な粘土
・良質な川砂
・輸送拠点、輸送手段
この三条件を備えた「下野煉化」は、最盛期年間400万トンを製造し需要が少なくなった戦後も煉瓦を製造し続けます。現在、下野煉化製造会社のあった敷地は大半が<乗馬クラブ>となり<輪窯>部分が町によって2016年(平成28年)5月に公開されています。
lightp9070113 lightp9070123 lightp9070121 lightp9070071 lightp9070179
<どこにも書かれていないアクセスポイント>
非常に見応えのあるホフマン窯、いかんせん 電車でのアクセスが大変。
栃木県下都賀郡野木町は<栃木県>の最南端、茨城県古河市に隣接し経済圏・生活圏は古河市です。
ところが古河市から<栃木県>野木エリアへの公共交通が全くありません!!徒歩で約一時間はかかるでしょうか?
バス活用法
県をまたぐのでよくありがちな<路線バスが無い>他県とはつながりません。
ところがぐるりん号
JR古河駅から市内各地にコミュニティーバスが走っています。
これを利用すると、比較的近くまで行くことができます。
※本数が少ないので注意。それでも程々に走ってます。

<野木町交流センター「野木ホフマン館」>
「野木町煉瓦窯」に隣接する町営施設。lightp9070027施設ガイド案内(時間設定あり)
レンタサイクル(マウンテンバイク・電動)無料!!!!
ここから渡良瀬遊水地まですぐ!だけど 広いので一周するには数時間かかります。でもオススメ!
併設されているコーヒーショップ・レストランがこれまた オススメです。
自家製パン・ピザが人気で、近隣の方々で平日も来客いっぱいでした。dsc_0488 dsc_0494

●埼玉県深谷市の
日本煉瓦製造会社関連は後日紹介します。

◆渡良瀬遊水地
渡良瀬遊水地(わたらせゆうすいち)は、渡良瀬川の治水と足尾鉱毒事件による鉱毒を沈殿させ無害化することを目的に渡良瀬川下流に作られた遊水池で、2012年(平成24年)7月3日、ラムサール条約に登録されました。dsc_0510 dsc_0511

第818話【横浜2345】大横浜の時代 

今日は2016年6月1日です。
明日は「開港祭」ですね。だからというわけではありませんが
【横浜2345】シリーズ 「大横浜の時代」を紹介します。
開港記念日が7月から6月にが変わったということを知らない方も意外に多いのでは?
開港記念日は昭和3年から6月2日となりました。
No.83 3月23日 雨が降りやすいので記念日変更

この開港記念日を変える動議を提出した人物が当時の市長<有吉忠一>でした。彼は当時も大物市長と呼ばれた政財界に通じた辣腕行政マンだったそうです。
有吉市長は小さな<横浜>を<大横浜>に仕上げた立役者でした。
【番外編】市域拡大は元気なうちに!?(加筆)

上記のブログに少し加筆します。
1927年(昭和2年)4月1日から
横浜市は3回目の市域拡張を行います。

「橘樹郡鶴見町」「旭村」「大綱村」「城郷村」「保土ヶ谷町」
「都筑郡西谷村」
「久良岐郡大岡村」「日下村」「屏風浦村」が
横浜市に編入されました。
この市域拡大は 第一回・二回と比べると大規模な市域拡大となります。実はこの<大横浜>計画は大正時代震災前に計画されていいました。
同時期 横浜に限らず
大東京・大大阪計画が推進されていました。
政治学者で歴史家でもある原武史は 民都「大阪」帝都「東京」と定義し
歴史学者 石井孝は「港都 横浜」と称しましたが
まさに<大都市構想>はこの三都によって推進されていきます。
大東京計画を強く推進した政治家が後藤新平(ごとう しんぺい 安政4年6月4日(1857年7月24日)〜1929年(昭和4年)4月13日)そして民間は横浜の基盤作りにも尽力した浅野総一郎(あさの そういちろう 1848年4月13日(嘉永元年3月10日)〜1930年(昭和5年)11月9日)でした。light2016年06月01日22時19分29秒 light2016年06月01日22時19分34秒 light2016年06月01日22時19分38秒
一方、私鉄網が全国で最も濃密に発展した大阪は 関一(せきはじめ1873年(明治6年)9月26日〜1935年(昭和10年)1月26日)が推進し、

<関 一>

民間は小林 一三(こばやし いちぞう1873年(明治6年)1月3日〜1957年(昭和32年)1月25日)です。
light20150120213709 light20150120214048 (1) light20150120214457 (1) light20150120214617 (1)※震災後日本最大都市となった大阪(市民)は<大大阪>とは自らあまり名乗らなかった?!

では大横浜を推進した政治家は前述の有吉忠一郎ですが民間は?
大正後期に商工会議所を率いた井坂孝(いさか たかし(明治2年12月8日)1870年〜1949年(昭和24年)6月19日)か、有吉を市長に担ぎ出した一人、中村房次郎(なかむらふさじろう)でしょう。
井坂孝は有吉と震災復興に尽力し「ホテルニューグランド」設立の中心的役割を果たしました。
横浜火災保険、横浜興信銀行(現横浜銀行)、東京瓦斯等の社長として活躍した「井坂孝」
横浜製糖、松尾鉱業(硫黄)、日本カーボン等の工業を推進した「中村房次郎」らの下支えで<大横浜計画>は進められましたが、震災復興予算の大削減や大東京(帝都)との開港問題で中々計画通りには推進できませんでした。light20150509200329 light20150515180650_001 light20150710122538 light絵葉書横浜大さん橋編201419011 (1) light資料絵葉書013 (1) 横浜市を振り返る中で、都市として最も輝いていた時代は?と考えると
復興を目指しながら大横浜を目指した1923年から戦争の始まる1940年頃ではないでしょうか。
■6月1日に関するブログ
No.153 6月1日(金) 天才と秀才
1889年(明治22年)6月1日、25歳だった二人の俊才がフェリス女学校の大講堂で演説を行いました。
明治期のフェリス女学院のエネルギーを伝える若松賤子(島田かし子)と同じく中島湘烟(岸田俊子)の短くも激しい人生を追います。
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=46

【記念式典】横浜、金のシャチホコ

ここに一枚のお城の写真があります。
light復興博覧会名古屋城 城郭ツウであれば<金の鯱>がトレードマークの「名古屋城」らしい?と推理されたかもしれません。
この名古屋城は、横浜市の復興イベントのために建てられた<フェイク>ハリボテです。
場所は山下公園、時は1935年(昭和10年)の出来事です。

(復興記念横浜大博覧会)light名古屋館light正面大さん橋側会場light会場山手側 『復興記念横浜大博覧会』が1935年(昭和10年)3月26日から5月24日まで山下公園を中心に開催されました。
1923年(大正12年)に起こった<関東大震災>から立ち直った横浜市を国内外にアピールするために横浜市が復興記念と謳い実施されたものです。
メイン会場となった『山下公園』は、震災復興のシンボル的存在でした。light開催前 山下公園と通りを挟んだ山下地区約10万平方メートルを会場にして開催され来場者は、のべ3,299,000人に達し横浜市内で開催された戦前最大のイベントとなりました。
※乃村工芸の博覧会データベースによれば

「大正12年の関東大震災から立ち直った横浜市が復興を記念して産業貿易の全貌を紹介するため、山下公園約10万平方メートルを会場に開催した。風光の明媚と情緒随一の山下公園には、1号館から5号館まで各県と団体が出展、付設館として近代科学館、復興館、開港記念館のほか、正面に飛行機と戦車を描いた陸軍館と、1万トン級の巡洋艦を模した海軍国防館が作られ、館内に近代戦のパノラマがつくられ、戦時色の濃い内容であった。特設館は神奈川館のほか満州、台湾、朝鮮などが出展。娯楽施設は真珠採りの海女館、水族館、子供の国などがあり、外国余興場ではアメリカン・ロデオは、カーボーイの馬の曲乗りと投げ縄や、オートバイサーカスなどの妙技を見せ喝采を浴びた。この博覧会は百万円博といわれた。」とあります。
lightアメリカンロディオ

最初に登場した<名古屋城>はこの『復興記念横浜大博覧会』山下公園会場の大さん橋寄りに設置されました。ここに登場した<地方館>は、
地元神奈川館、北海道館、東京館、奈良館、(静岡茶)。統治下にあった台湾館、朝鮮館でした。
全体を通して、特徴的なのは<海>に関するテーマ館が目立つことです。
海女館、水族館、海洋発展館、ウォーターシュート、そして特に際立っているのが戦後貨客船「氷川丸」が係留されたあたりに設置された「生鯨館」でしょう。light復興記念博覧会中央会場 山下公園先の海を囲って鯨を泳がせたようですが、飼育環境が悪かったのかすぐに死んでしまったそうです。現在なら保護団体から厳重な抗議がきたことでしょう。
さらには、かつて仏蘭西波止場(下図 東波止場)だった汐だまりを活かした池には<水上遊戯>施設と『蟹罐』という名の謎の水上施設が記載されています。
『復興記念横浜大博覧会』開催内容を絵図や記念絵葉書を元に探ってみるといろいろ興味深いことがわかってきます。

(記憶)
現在も残っている当時の施設は「ホテルニューグランド」だけです。一部モニュメントが残されているのが「産業貿易センター」前の香港上海銀行と、イギリス系海運・貿易商社バターフィールド&スワイヤ商会の事務所だった建物の一部を保全した「創価学会戸田平和記念館」です。公園内には震災復興に関する記憶は殆どありません。
この山下公園が震災復興のシンボルだった?ことを改めて思い起こす空間にする必要があると感じています。

震災前

震災前の横浜港・大桟橋

(山下公園)
メイン会場となった山下公園は、
関東大震災の復興事業として1930年(昭和5年)3月15日に誕生しました。面積は 74,121m²あり現在も多くの利用者で賑わっています。完成以来、湾岸の工業化に伴い殆どの海岸線が工場用地、埠頭用地となる中、公園機能が残された横浜の貴重な臨海施設です。
戦後一時期、米軍の接収地となりオーシャンビューの住宅が建ち並んだ時もあります。
light接収中の山下公園2 No.181 6月29日(金) オーシャンビューの35棟解体

■1935年の出来事をピックアップ
2月18日
菊池武夫が貴族院で美濃部達吉の天皇機関説を反国体的と糾弾
3月7日
村山助役再選を決定 日吉・富岡の一部地域へのガス供給案可決 私営バス強制買収に関する意見書を関係行政庁に提出する建議可決
●皇紀2600年記念オリンピック大会招致に関する意見書を市長に提出する建議可決
3月16日
アドルフ・ヒトラーがヴェルサイユ条約を破棄し、ナチス・ドイツの再軍備を宣言
3月20日
復興博浜踊り発表会が野沢屋で開催された
復興記念横浜大博覧会開催
3月26日
西条八十作詞杵屋佐吉作曲「はまちどり」が発表
4月1日
横浜宝塚劇場が住吉町に開館した
4月4日
日中両国の経済状態視察などを目的とした米極東産業視察団の一二人、横浜に到着。
4月6日
満洲国皇帝溥儀が来日。靖国神社参拝
4月7日
美濃部達吉が天皇機関説のため不敬罪で告発される
4月9日
美濃部達吉の「憲法概要」など著書3冊が発禁となるも買手殺到し書店で売切れ
4月14日
太平洋最大の豪華客船エンプレス・オブ・ブリテン号、五百余人の観光客を乗せて横浜へ入港。
8月12日
永田鉄山暗殺事件(相沢事件)
9月15日
ナチス・ドイツにおいてニュルンベルク法制定(ユダヤ人公民権停止・ドイツ人との通婚禁止)
9月15日
ハーケンクロイツ旗が正式にドイツの国旗とされる。
12月9日
第二次ロンドン海軍軍縮会議開催

【横浜の橋】№0謎解き編 新旧玉手箱

ここに一枚の絵葉書がある。light大日本人造肥料株式会社001

タイトルは「大日本人造肥料株式会社横濱工場」とある。奥に社名の入った大煙突と工場の全景が写っている。
今日のテーマは、この「大日本人造肥料株式会社横濱工場」に架かる橋の謎解きをしてみる。
構造は少しアーチ状になった木製桁橋にも見える。製造した「肥料」は陸路この橋を渡って運び出されたのか?それとも海路船便で搬出されたのかは分からない。
この橋の名は何か。そのためには「大日本人造肥料株式会社横濱工場」の場所を特定する必要がある。
「大日本人造肥料株式会社横濱工場」
現在の日産化学工業株式会社(にっさんかがくこうぎょう)。
Wikipediaには
「1887年(明治20年)4月、日本初の化学肥料製造会社として誕生した。」とある。戦後の財閥解体で日産自動車との資本関係は無いが、戦前は旧日産コンツェルンの一員だった。
<沿革>
●渋沢栄一(第一銀行創業者)、益田孝(当時の三井財閥有力関係者)など当時の財界の首脳が発起人となって前身である東京人造肥料会社を設立。
1893年(明治26年)12月に「東京人造肥料株式会社」
1910年(明治43年)7月に「大日本人造肥料株式会社」に商号変更。
と「大日本人造肥料株式会社」関連の社史を調べてみたが、横濱工場が何時、何処に開設されたのか分からない。
1918年(大正7年)に「大日本人造肥料株式会社横浜工場にて耐酸鉄器の製造を開始す(日本曹達工業年表p102」
これが手元の資料で確認できた横濱工場の初出。
場所は意外なところから確認できた。
◆横浜市震災誌 第3冊 第3編 各方面の被害と復興
第6章 商工業 第2節 工業
第2項 被害工場会社と復旧
22 大日本人造肥料株式会社横浜工場
新浦島町1-1
「大震災の際、火災に罹り、工場の大半は消失した。震災前に於いては相当の製造能力を有し、業態良好であったが、震災後は少量の完全肥料を製造し居るのみにて、震災前に比しては雲泥の差がある。(P409)」
震災誌「大日本人造肥料株式会社」は神奈川区新浦島町1-1にあったことが分かった。
震災でかなりダメージを受け、
1931年(昭和6年) 2月に
「大日本人造肥料株式会社肥料試験場(横浜市子安)を白岡に移転」※日産化学工業 社史
白岡は埼玉県白岡市白岡で現在「生物科学研究所」となっている。

[埋立の町、新浦島町]
地図で確認すると神奈川区<新浦島>には現在二つの橋が架かっている。
「新浦島橋」「荒木橋」
<新浦島>埋め立ての歴史は明治36年に神奈川地先海岸埋立計画が出願され2年後の明治38年に許可が下り、明治40年に「横濱倉庫株式会社」がこの事業に着手する。
1908年(明治41年)10月に「新浦島橋」「浦島橋」(同時期に「村雨橋」「千若橋」「千鳥橋」「常盤橋」)が竣工し11月に運河も完成。
1910年(明治43年)に新浦島一丁目が設置される。
その後
バナナ埠頭のある出田町(昭和2年)ができる。
No.447 いずたとばななの物語

No.447 いずたとばななの物語


埋め立て地「新浦島町」に架かる橋は当初一つだけで、「荒木橋」が架けられたのは1955年(昭和30年)のことである。light昭和31年1956年

(消えた浦島)
「新浦島町」の沖に「千若町三丁目」ができそこに浦島橋ができ、大きな製鉄工場が進出
その後 拡張して出田町ができるという歴史をたどる。
「新浦島町」と「千若町三丁目」の間にあった<運河>が戦後昭和39年〜40年頃に埋め立てられてしまう。(当時の地図による推計なので正確では無い)
このことによって「浦島橋」が無くなり
「新浦島橋」だけが現在まで残ることになる。新浦島橋は今年平成28年度事業で架替工事中。
light新浦島橋77 light新浦島橋工事http://www.city.yokohama.lg.jp/doro/kyouryou/kakekae/shinurashimabashi/
とここまで進んできた。
まとめると
1907年(明治40年)に埋立が始まり
1908年(明治41年)に繋ぐ「新浦島橋」が完成
1910年(明治43年)に町名が「新浦島一丁目」、「大日本人造肥料株式会社」に商号変更。
1918年(大正7年)に横浜工場で耐酸鉄器の製造を開始
1923年(大正12年)震災で「火災に罹り、工場の大半は消失」

(新事実)
これまで積み上げてきた資料が一気に覆る?
ここに新たな事実が、「カナコロ」アーカイブにあった。
「新浦島橋」を「管理する橋梁課によると、正確な築造年はわかっていないが、明治末期から大正初期にかけて、炭素製品メーカーの日本カーボンが工場への専用橋として設置した。1955年に煉瓦の橋脚部分を残して上部の舗装部分を架替え1987年は同社の移転を機に市に移管」
http://www.kanaloco.jp/article/61678
「日本カーボン」は
1915年(大正4年)12月
横浜市神奈川区浦島ヶ丘に設立とあり、昨年100周年を迎える企業だ。
1938年(昭和13年)に
横浜海岸工場建設、電刷子等高級炭素製品用素材の大量生産開始。

また、この「新浦島・千若」にはかつて
「日清製粉」の工場があり現在は一部の敷地に「日本製粉」の倉庫がある。昭和5年発行の地図に「大日本人造肥料株式会社横濱工場」の位置がしめされていた。昭和5年新浦島あたり さてlight大日本人造肥料株式会社001
この「大日本人造肥料株式会社横濱工場」前に架かる橋の名は?
私としては「新浦島橋」であって欲しいが、もしかすると
「浦島橋」???????謎、残されたまま終わる。

No.693【一枚の横浜絵葉書】「露臺ヨリ萬国橋ヲ眺ム」

オークションで絵葉書を探している時、目に留まる一枚に出会うことがあります。この一枚に関しては、まず萬国橋に関心が行き、どうしようかなと迷う程度のレベルでした。

light_資料沖仲仕絵葉書001戦前の「萬国橋」が写っていますが、もう少し大きく「萬国橋」が写っているものを探そうと思いました。ところが、
「露臺ヨリ萬国橋ヲ眺ム」のタイトルが気になりました。
<露臺>?
<露臺>とは、建物の外面に張り出した、屋根のない平らな所でバルコニーのこと。
現在の位置だとどこにあたるのだろうか?と探すとすぐに見つかりました。

葉書アングル海岸通り4丁目にある「萬国橋会議センター」(横浜港労働出張所)ハローワーク横浜港労働出張所から萬国橋を撮ったものでしょう。

light_PC020394この葉書の<表面(おもて)>には「神奈川県匡濟会 発行」「沖人夫休憩所新築落成記念」とありますので間違いなく“港で働く人”の施設で、現在も施設として機能していたことに驚きました。
資料沖仲仕絵葉書表(万国橋)
この絵葉書に写されている「萬国橋」めちゃデコラティブですね。

資料沖仲仕絵葉書アップ現在の万国橋は、1940年(昭和15年)に竣工した新港埠頭と北仲を結ぶコンクリートアーチ橋です。シンプルなコンクリートアーチ橋の前はこの絵葉書にあるような鉄橋で1914年(大正3年)に完成した「税関埠頭」と陸地を結ぶ唯一の橋として建造されました。

light_PC020351※橋の建設主体は大蔵省で現在も財務省管轄?
ということで、この絵葉書に描かれている「萬国橋」は1940年(昭和15年)以前ということがわかります。
「横浜近代史年表」を調べてみました。
1921年(大正10年)1月上旬に「沖人夫休憩所、税関構内の象ケ鼻と日本波止場に建設決定」。竣工は翌年1922年(大正11年)6月中旬「県匡濟会の施設として沖人夫休憩所竣工、名称を各々税関構内象ケ鼻・日本波止場沖仲仕休憩所と命名」とありました。
この年譜からこの絵葉書は1922年(大正11年)6月中旬頃の発行の可能性があります。
関東大震災の一年前のことですね。
その後、1925年(大正14年)12月12日に「沖仲仕休憩所、日本波止場に開所」
恐らく震災後復興・再建されたものでしょう。
この資料の範囲内では、絵葉書「露臺ヨリ萬国橋ヲ眺ム」は
震災直前の1922年(大正11年)か、復興の1925年(大正14年)と推定することができます。
橋周辺の風景から私は“震災直前”のように感じますが皆さんはいかがでしょうか?
その後、二カ所あった沖仲仕休憩所は1943年(昭和18年)3月31日に廃止されます。

(スペック)
神奈川県匡濟会 発行
沖人夫休憩所新築落成記念
「露臺ヨリ萬国橋ヲ眺ム」
現在の「萬国橋会議センター」
(横浜港労働出張所)
ハローワーク横浜港労働出張所

No.307 11月2日(金)日本波止場に万国橋

横浜消滅(後編)

(第685話)明治4年、象の鼻 晴天なり。

江戸時代に生まれ、激動の幕末に頭角を現した総勢107名の日本人が
明治4年11月12日(1871年12月23日)横浜港を就航しました。
彼ら目的は色々ありましたが、多くの同行者は欧米の実情を知ることでした。
「岩倉使節団」のメンバーです。

この国は理想と現実、欲望と信義が落ち着かないまま明治という全く新しい体制に突入します。
革命か政権委譲か?コップの中の嵐を、欧米列強の外交官達は固唾をのんで眺めていました。
明治維新は、
不思議なほどの静かで力強いエネルギーによって始まります。明治新政府は日本の近代化は幕末生まれの若者と、優秀な徳川時代の元官僚が支えられることで大きな混乱なく誕生します。
しかし、大政は奉還されましたが、その先のことは全く白紙状態でした。この国がどうなるのか、どうしていくのか、朝から深夜まで合意と同意の議論が連日続きます。
未熟な維新のリーダー達は皆苛立っていました。派閥抗争も表面化します。

260年続いた徳川政権、武士による連合国家に近い政権がいとも簡単に覆ります。
そして維新後 矢継ぎ早の大変革でこの国の近代化が始まります。
版籍奉還と廃藩置県の実施によって全国の諸藩を一気に解散させ中央集権型に移行させます。
制度の変革には成功しますがここに登場する若き明治のリーダー達は、青臭く原則論者で血気盛んな者達でした。

この若き維新の志士たちに強いショックを与えたのが岩倉具視が率いる「米欧回覧使節団」俗にいう「岩倉使節団」です。

lit_岩倉使節団出発

象の鼻から岩倉使節団出発

1871年(明治4年7月14日)に、制度による大革命「廃藩置県」を行ったその年の暮、
明治4年11月12日(1871年12月23日)「岩倉使節団」は横浜を出発します。

総勢107名
幹部の多くが20代から30代、最長老の岩倉自身も43才という若者集団でした。
同行した者達がその後の各界をリードする人物となっていきます。
この外交団の記録『特命全権大使米欧回覧実記』を著した人物が久米 邦武です。
彼の記述は、日本史上希有の見聞録として、国際社会でも高く評価されています。
lit_P9256774 lit_P9256776 lit_P9256775

■米欧使節団の主なメンバー
岩倉 具視 1825年10月26日生まれ 43才→正使
由利 公正 1829年12月6日生まれ 39才→随行
大久保 利通 1830年9月26日生まれ 38才→副使
田辺 太一 1831年10月21日生まれ 37才→一等書記官
木戸 孝允 / 桂 小五郎 1833年8月11日生まれ 35才→副使
東久世 通禧 1834年1月1日生まれ 34才→神奈川府知事
三條實美 1837年3月13日生まれ 31才→太政大臣
大隈 重信 1838年3月11日生まれ 30才
山口 尚芳 1839年6月21日生まれ 29才→副使
久米 邦武 1839年8月19日生まれ 29才→公式記録者
名村 泰蔵 1840年11月24日生まれ 28才
何 礼之 1840年8月10日生まれ 28才→一等書記官
伊藤 博文 1841年10月16日生まれ 27才→副使
福地 源一郎 1841年5月13日生まれ 27才→一等書記官
沖 守固 1841年8月13日生まれ 27才→初代神奈川県知事
中山 信彬 1842年11月17日生まれ 26才
長野桂次郎(立石斧次郎) 1843年10月9日  25才
新島 襄 1843年2月12日生まれ 25才→留学生
山田 顕義 1844年11月18日生まれ 24才
川路寛堂 1845年1月28日生まれ 23才→三等書記官
田中 不二麿 1845年7月16日生まれ 23才
安藤 太郎 1846年5月3日生まれ 22才→幕末、横浜で英語を学ぶ
中江 兆民 1847年12月8日生まれ 21才→留学生
小松 済治 1848年生まれ 20才→横浜地方裁判所長
渡辺 洪基 1848年1月28日生まれ 20才→両毛鉄道社長
林 董 1850年4月11日生まれ 18才→二等書記官

 川路 利良※ 1834年6月17日生まれ 34才→司法省の西欧視察団
 鶴田皓※ 1836年2月12日生まれ 32才→司法省の西欧視察団
 井上 毅※ 1844年2月6日生まれ 24才→司法省の西欧視察団
   ※明治5年派遣の司法省西欧視察団メンバー

この岩倉使節団の出発光景を描いたのが「岩倉大使欧米派遣」という作品です。山口蓬春が1934年(昭和9年)に描いたものです。
この一枚の絵画 初期の横浜港を語る上で、興味深い画像ですが意外に知られていないようです。
(つづく)次回は『特命全権大使米欧回覧実記』を元に横浜港の出発風景を探ってみます。
(第686話)明治4年、象の鼻 晴天なり。(後編)

【新しい資料】横浜港桟橋 学校教材

「神奈川県」横濱港 桟橋
僅かに八十七戸という漁村も、安政六年始めて開港場と定められしより、漸く五拾年なるに、今や日本第一の良港となり、萬貨山積の大貿易場となる。内国はもとより、欧州、米国、支那、豪州、南米等に達する定期船発着の便あり。港内幅四里、深入二里半、東京湾の風濤を防ぐ防波堤も竣工せり。桟橋の長約六町あり、一萬噸以上の大船も横付すべし。実に港内船舶の出入多き東洋第一也。

lig_201312資料030

文面から 1909年(明治42年)以降数年の間に発行されたものと推測できます。
三重県多気郡下御糸村(しもみいとむら)尋常小学校の教材として使用したものらしき印が押されています。

lig_大さん橋

ここに写っている風景は、現在の山下公園西端あたりからの情景でしょう。今年で120年を迎える「大さん橋」は竣工から少しずつ変化していて、何時の時代かを知る「手がかり」が欲しいと思っているところです。
ここでわかるところは
lig_ゲート

桟橋にウェルカムゲートがありますね。
lig_てすり

竣工当時に無かった「てすり」もすでに見えます。
おいおい 時代変遷を追いかけていきます。
lig_着船
********************************************
(つづく)