11月 30

【大岡川運河物語】日ノ出川運河

かつて大岡川運河群の背骨に当たる「吉田川・新吉田川」現在は大通り公園と呼ばれています。
現在、そのなごりとしてこの通りの関内駅寄りに「日ノ出川公園」があります。
日ノ出運河は全長約600mで、運河時代 吉田川と中村川に繋がっていました。

完成したのは1873年(明治6年)、横浜に鉄道が敷設され急速に開港以来、次の発展が始まった時期にあたります。開港場(関内)の誕生により後背地としての関外(吉田新田域)にまで住宅地・商業地が拡大していく真っ只中に誕生しました。
開港後急速に発展した時期、開港場と周辺の集落を繋ぐのは、
南に「堀川筋」に架かる橋があり、北に「新生横浜駅」と大岡川、西は「吉田橋」を渡り横浜道につながる吉田町・野毛町ルート、そして西へまっすぐ伸びる現在の「伊勢佐木」常清寺ルートでした。


開港場の賑わいを支えるには、一つ大きな障害がありました。「南一つ目沼」の存在です。
元々、ここは「北一つ目沼」と共に1667年(寛文7年)に完成した吉田新田の水田の塩抜き用湖沼でした。古文書には<悪水池>と記されていたものもありますが、水田を生かす重要な役割を担っていました。

この「一つ目沼」の役割について簡単に紹介しておきましょう。
江戸期に入ると、新田開発が急速に増え日本の農業は田畑への肥料の投下(施肥)が盛んに行われるようになります。当時の水田はこの施肥による汚水処理も重要な作業でした。ここ大岡川下流の「吉田新田」は海に面し、田んぼの真水を維持すために上流から肥料の成分を多く含んだ水を排水用に貯めなければなりませんでした。河口部だったことで、海水の干満差を利用するためには、一度貯めておく必要があったのです。
海に面した水田の維持は大変だったに違いありません。
幕末に近づいた頃はすでに「北一つ目沼」は常清寺を中心に宅地化されていました。開港後は一時期遊郭にもなり吉田町、吉田橋と続く要衝の地でした、一方の「南一つ目沼」は灌漑用水路(中川)からの汚水を貯める悪臭のする沼のままでした。
明治に入りさらに関内外の整備の動きが加速しました。
1870年(明治3年)には根岸湾と中村川を繋ぐ「堀割川」計画が始まり、かつて中川と呼ばれていた新田中央を流れる灌漑用水路を活かした運河を整備し直結する計画も始まります。
南一つ目沼を宅地に変えろ!
埋立に必要な土は堀割川開削時の土を活かしました。そして誕生したのが「日ノ出川」水路です。南一つ目沼埋立時の水抜き用水路も兼ねて残されたものでしょう。
埋め立てられた日ノ出川両側は七つの町が作られ「埋地七ケ町」と呼ばれました。町には運河を利用した開港場に必要な回漕店、石材店、木材店の他多くの店が出店しました。宅地としても賑わい、豪邸も建てられました。

大正期頃の日ノ出川風景

掲載の風景は、日ノ出川扇町付近の風景です。川岸に石材店があり、和船には木材が積まれているのが判ります。ただ前述のように日ノ出川は運河というよりも周辺の宅地排水路の役割のほうが大きかったのではないでしょうか。早くから川の汚れに対する苦情もお多かったようです。
日ノ出川は川幅が狭く、水深も浅かったことから、 大型船の航行には適していなかったため、明治期から両岸の町内が日ノ出川によって分断されていた<寿町・松影町・吉浜町・扇町・翁町・不老町・長者町等>の住民からは埋立要求が出ていました。
一方で両岸を活かして営む薪炭商・製材商・材木商・造船鉄工商・青物商らは生活を脅かされることから<埋立には反対>の声が出ていた結果、対立の構造が生まれてしまいました。

戦前、昭和初期の日ノ出川付近 正面に寿小学校

横浜一帯が焼土となってしまった関東大震災後の1924年(大正13年)
復興計画の一貫として政府復興局は、山下公園・野毛山公園・神奈川公園の公園整備とともに、日ノ出川を埋め立てて<公園化>する案が検討されましたが、埋立反対派の事業者たちは市議会に存続・改修を求める要求を出し、可決され埋立計画は幻のものとなってしまいました。
ほとんど艀船も入れなくなっていた日ノ出川は、浚渫もできず、埋立もできないまま結局戦後まで残される形となります。
さらに追い打ちをかけるように横浜空襲で周辺は焼け野原となり、日ノ出川は残骸・瓦礫の投棄処分が繰り返され、川の体を失っていきました。
戦後は長者町通りを境に東側が占領軍に接収され、その間は抜本的な都市改造は休止じょうたいでした。本格的に日ノ出川埋立計画が始まったのは接収が解除された1953年(昭和28年)のことです。

終戦直後の関外埋地七ケ町付近

関連ブログ
【大岡川運河物語】埋地七ケ町その1

12月 19

【大岡川運河物語】水運の町、石川町

大岡川運河群は1970年代まで日常の風景だったが、多くが消えた。

大岡川運河群図昭和3年

だが、いわゆる吉田新田域が運河の街だった記憶はまだ残されている。
その記憶・残照をたどりながら運河にまつわる物語を書き残しておく。

■中村川運河
JR根岸線「石川町駅」が開通したのは1964年(昭和39年)5月19日のことだった。この年は東京オリンピックが日本で初めて開催された年だった。戦後日本が特に首都圏が工事の粉塵に紛れ、工事車が土砂を跳ね上げていた時代である。
桜木町は旧橫濱駅時代に開業した歴史ある駅にも関わらず、東海道筋から離れていたためおざなりにされていた。地元は路線の延伸を戦前から願っていたが中々実現しなかった。
60年代に入り延伸工事が始まった。派大岡川の上に橋脚が建ち、関内駅を川の上に開設。そのまま直進し山手丘陵の土手っ腹にトンネルを開け「石川町駅」が開設した。
駅名の石川町は石川村に由来し古くからあるが「石川」の名はしばらく消えていた。石川村は海岸に面した漁業、農業、林業を営む小村だったが古くからその名を見ることができる。

IR石川町駅

<石川>
石川の名で有名なのは「石川県」。加賀の国にある手取川の古名である「石川」に由来するが、この「石川町」は武蔵国久良岐郡石川村に因んでいる。何故「石川」となったのか?詳細を追いかけていないが、湧き水が多く岩(石)の間から出たからではと想像している。
漁村として栄えるためには、真水が必須だ。海水では人は暮らしていけない。
石川町近辺を調べてみると、湧水地が数多く見つかる。開港以降は横浜港への船舶給水地として事業も起こっている。
このように古くからあった岩の間の湧水地が<水の豊富な村>として石川の名となったのではないだろうか。 <吉田新田>
石川村は江戸中期に大きく変わる。江戸の材木商だった吉田勘兵衛が幕府の新田奨励施策により、大岡川河口の深い入海の干拓事業に着手。1667年(寛文7年)に11年かけた吉田新田が完成。吉田新田の完成で、石川村は本牧や横浜村とかつて対岸だった<戸部村、野毛村>と密接になった。
石川村は漁村ではなくなる。その後、石川村の経営がどのように行われたのか不勉強だが、新田の幹線道となった「八丁畷」現在の長者町通りの完成によって、交通往来が大きく変わったことは確かだ。
現在は、車橋を渡ると打越の切通しを抜け山元町、根岸へとつながるが、近世、近代は車橋を渡ると石川中村になり一旦下流に向かい地蔵坂が「本牧」と「横浜村」に出る分岐路だった。

干拓前深い入海

<地蔵坂>
地形図で石川村付近を俯瞰すると、地蔵坂が本牧へと続く要路であることが分かる。近世に交通量が増え、道を拡張する工事の際に土の中から地蔵が掘り出され坂の名が地蔵坂となったと伝わっている。現在は関東大震災でこの地蔵尊も崩れてしまったが、戦後地元の有志によって亀の橋袂に新たに地蔵尊を建立された。この地蔵尊は入海に身投げした女人伝説による<濡れ地蔵>の異名もあるが、伝説となるこの地の役割を示した結果だろう。

地蔵坂地形図

<水運の町>
石川町がかつて水運の要の地であったと聞くと驚く人が大半かもしれない。
石川町に関する歴史資料を調べ始めると、この街の川岸がかつて水運の要であった片鱗を感じとることができる。
ここに示す西ノ橋から中村川上流方向の風景、一見亀ノ橋と判断しがちだが西ノ橋左岸際から亀ノ橋を見ることはできない。ではこの橋は?ということになる。実はこの橋の存在から様々な謎解きが生まれ出た。
「謎の橋」戦後の資料では「赤橋」と呼ばれていたことが判る。

明治から昭和にかけ、この位置に架けられては消えた「橋」の存在を確認することができる。中村川対岸吉浜町には幕末から明治期には「横濱製鉄所」があり、大正期からは戦後まで掖済会病院が開業していた(現在は山田町)。
この謎の橋は派大岡川のある運河時代だからこそ利用度が高かった。
絵葉書を拡大するとここに、川岸の荷捌き場が写っている。

中区史に
「中村川の川沿い石川町から中村町方面にかけては、港や埋地方面に働く人々が多く居住地とした、石川町一帯は人口が増え町が大きくなり、そこには規模は小さいが、多種類の日常生活を売る商売が発生していった。このことは外国人を相手として商売する元町とは対照的であった。すでに石川は明治六年には街並みがととのった所として、石川町と命名されていたが、こうして町が充実していった」
「中村川や堀川などの川は、港から直接内陸に物資を運ぶことができ、埋地の問屋筋へ、さらには八幡橋方面へと」 石川町と千葉県富津市の港と定期航路があった昭和まで記録も残っている。

<亀の橋 下流に船着き場を確認できる>
かつてこの船に乗って多くの女性行商が行李を担ぎ石川町に降り立った。中にはこの地に生活拠点を求めた方もいる。石川町と房総千葉とのつながりも深いものがある。
このように、石川町は運河を巡り関内外から房総千葉まで水運というキーワードのエピソードが誕生した町だ。
近い将来、この石川町に動力船が使える桟橋ができると聞く。
江戸期から続いた水運の町の復活となるのか?変わりゆく石川町に注目したい。

12月 4

第981話 【帷子川】River GeoPark

今、
帷子川(かたびらがわ)上流域が面白いので紹介します。(2018年暮時点)
市内のRiver GeoParkとして<地球のことを楽しむ>ことができる場所になっています。
ジオパークとは、「地球・大地(ジオ:Geo)」と「公園(パーク:Park)」とを組み合わせた言葉で、「大地の公園」を意味します。
なぜ帷子川なのか?
市内4大水系の中で、帷子川は近年大改修が行われています。
特に上流域は、平成まで多くが未改修(半改修)状態で暴れ川の様子をうかがうことができる場所がたくさんあり“蛇行の歴史”を現在も確認できるからです。改修中を含め今が良いチャンスです。

横浜の水系と明治期村落図
まさに蛇行の教科書になる蛇行図(昭和初期)
鶴ヶ峰付近の蛇行で、鶴ヶ峰地区開発で一部面影を残しています。(昭和初期)

(洪水の歴史)
近代以降<洪水>は災害そのものですが、かつて私たちは<洪水>と共に生きてきました。川は洪水によって変化し周辺に様々な影響を与えてきました。
川の果たしてきた役割を簡単に紹介しましょう。
川は近代まで栄養と物を運ぶ役割を担ってきましたが近代以降、物流中心になり現代は雨水の排出口になってしまいました。これはやや極端な表現ですが、上流から運ばれた土砂が河口に平野を作り、栄養源を海に送り出す役割も担っています。
日本の河川は水源から河口までの高低差が大きく、落差による洪水発生率が高いのが特徴です。
山林、丘陵林から集まった雨水、湧き水が集まり瀬と淵で変化を繰り返しながら<蛇行>を育てながら河口に向かいます。
(蛇行は川の履歴書)
新旧の地図を比べると楽しみ方が色々あります。
鉄道のことが気になる、
道路の変化、
市街地、海岸線の変化も比較し始めると無限のイメージが広がっていきます。川筋の変化は近代以降、護岸工事・治水技術の発展で激減しますが、<災害>によって川の存在が突然クローズアップされることがあります。
帷子川は、蛇行の<名残>が満載。近年ようやく改修工事が始まり
 蛇行の直線化が進んでいますので、
観察するなら今がチャンスです。改修工事はオリンピック開催(2020年)あたりには完成するのではないでしょうか。
※改修が遅くなった理由の一つに「水道道」が関係しているようです。明治以来、横浜水道を支えている重要な水道管が帷子川に沿って通っています。この水道管へのダメージを最小限に抑えるためにも、慎重な工事が求められるのでしょう。

水源をイメージさせていますが、水源ではありません。

帷子川は横浜4大水系の一つで横浜市内西部旭区上川井地先、若葉台あたりの丘陵地に水源を発しています。
途中、中堀川、今井川、二俣川などいくつかの支流を合わせ、鶴ケ峰から相鉄線に沿って流れ横浜駅を挟み河口につながっています。
帷子川の名の由来は、諸説ありますが北側の河口部沿岸がなだらかで、片側が平地だったことから、「片平(かたひら)」の名が起こり、「帷子」の名となった説が有力です。この「片平」にできた小さな平地(ひらち)を帷子川は蛇行しながら現在の流れを生み出してきました。

(二級河川帷子川データ)
■本流 17,340(m)
(支流・分流)
 中堀川(帷子川)850(m)
 今井川(帷子川)5,590(m)
 石崎川(帷子川)1,600(m)
 新田間川(帷子川)2,200(m)
 幸川(帷子川)300(m)
 帷子川分水路(帷子川)6,610(m)
■流域面積 57.9 km²
 市内二番目の長さです。流域面積は三番目。

関連ブログも多いです。
No.433 【横浜の河川】帷子川物語(1)
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=138
No.434 【横浜の河川】帷子川物語(2)
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=137
【横浜の河川】帷子川物語(3)河口めぐり
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=4850
【横浜の橋】№4 帷子川河口に架かる橋
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=8164

(蛇行直線化の歴史)
帷子川の蛇行を、現在もはっきり確認することができます。

元帷子川整備中
暗渠化された元帷子川
ただいま 旧帷子川整備中
元帷子川
元帷子川(未整備)
河岸段丘も観察できます
ここが川管理の境界
昭和55年ごろの都市計画図による改修計画。近年大きく改修されたエリアです

次に帷子川上流域の様子を橋から紹介します。

2月 25

第949話【横浜絵】五雲亭貞秀「横浜鉄橋之図」2

前回、
五雲亭貞秀が描いた代表作の一つ「横浜鉄橋之図」から野毛近辺をクローズアップして風景を読み解いてみました。今回も引き続き、「横浜鉄橋之図」鉄の橋の下を通過する荷物満載の船と横浜製鉄所、魚市場あたりを眺めてみることにします。
横浜が開港して、外国人の居留地と日本人街が形成されます。治水以上の理由と居留地を出島化する目的で中村川から湾に向けてまっすぐ「堀川」が掘削されます。
四方を囲まれた「開港場」は、幾つかの橋で結ばれます。その代表となったのが、「横浜鉄橋之図」に描かれた鉄の橋「吉田橋」です。
開港時に突貫工事で東海道筋「芝生村」から帷子川河口を越え野毛坂を越え野毛村、子之神社脇を抜けて大岡川に架かる「野毛橋」を渡り吉田町に至り、関内と呼ばれた開港場への橋が「吉田橋」です。開港時に架けられたこの橋は1869年(明治2年)10月に灯台技師R・H・ブラントンの設計によって鉄の橋に生まれ変わり、関内外の名所となります。
この吉田橋は日本初の長さ24m、幅6mの無橋脚鉄製トラス橋でした。一時期日本初の鉄の橋と表現されましたが現在は長崎に次ぐ二番目の橋となっています。
構造としては初の下路ダブルワーレントラス桁となっています。
【横浜の橋】№3 横浜を語るなら吉田橋を知れ

【横浜の橋】№3 横浜を語るなら吉田橋を知れ

(水運船)
「横浜鉄橋」の下を一隻の水運船が通過しようとしています。吉田橋の下を通り、何か石のような荷物を積み石川町方面に船を進めていますが、積荷はなんでしょうか?
石?
この船が進む先には、横浜製鉄所がありますから、推測ですが「木炭」か「石炭」だと想像します。幕末には石炭がすでに生産されていますので、横浜港に係留された船から運び出されたものかもしれません。
木炭、鉄鉱石かもしれません。原材料が川を使って運ばれている興味深い光景です。

<横浜製鉄所>
No.108 4月17日 活きる鉄の永い物語

No.108 4月17日 活きる鉄の永い物語(一部加筆修正)


No.236 8月23日(木)帰浜した鉄工所

No.236 8月23日(木)帰浜した鉄工所


(橋上の人々)
吉田橋の袂から橋上まで様々な人々が描かれています。

11月 15

第927話【金沢区物語】島にもどった野島

「野島(のじま)は、神奈川県横浜市金沢区の平潟湾に浮かぶ島である。かつては砂州によって陸続きの陸繋島であったが、水路の建設などで分断され、島となった。(wikipedia)」

野島沖

野島
かつては島で、海流の作用で陸続きの<陸繋島>ということらしい。近世には地続きとなっていたようですので上記の表現、<水路の建設などで分断され、島となった。>とネガティブに表現しているけれど<戻った>ってことですね。

野島の夕照

横浜市では
「安藤広重の描いた「野島夕照」で知られる野島は、現在のこの公園のあたりといわれています。公園前面の海岸は、埋立てにより失われた中で残された市内唯一の自然海浜で、江戸時代には称名寺と共に物見遊山の客で賑わったそうです。第二次大戦中は巨大な地下基地が構築されましたが、戦後まもなく横浜市が立てた大臨海公園の計画に基き、大蔵、建設の両省と幾多の折衝を重ね国有地の無償貸与を受け、隣接民有地も買収し昭和30年から整備を行いました。昔の地形の特徴をそのまま残している野島山には、新しい展望台が、またその周りの運動広場、野球場、青少年研修センター、キャンプ場などは臨海のレクリエーションゾーンとして親しまれています。(横浜市環境創造局)」
ここでは、野島運河の話や経緯については触れていません。

■野島山展望台
野島の観光スポットである展望台は海抜57mあります。眼下には隣接する「海の公園」や八景島シーパラダイス」が広がり、反対方向では晴れた日に遠く丹沢、富士の山並み海側は房総半島を望むことができます。
平潟湾の夕照は昔と変わらない美しさを楽しむことができます。
■旧伊藤博文金沢別邸
野島にはもう一つ重要な観光スポットがあります。伊藤博文の別邸が復元されて公開されています。1898年(明治31年)に建てられ、ゲストハウスとして活用しました。
老朽化が進んでいたため解体工事・調査を行い、現存しない部分を含め、創建時の姿に復元し庭園と併せて整備し公開しています。
http://www.hama-midorinokyokai.or.jp/park/nojima/hakubuntei/outline.php
■平潟湾
平潟湾は横浜市内の湾岸部でも貴重な海岸線を残していますが、それでもほとんど失われてしまった風景です。侍従川、宮川、六浦川、鷹取川(横須賀市)の小河川が湾に流れ込んでいます。
近世後期の時点では、野島は陸続きで歩いて渡れる観光地でした。
ここに水路(野島運河)を作り、島化したのが現在の野島です。
島となった背景には、夏島が軍事基地として埋め立てが進められに、野島と接近したことで平潟湾の出口が無くなったため「野島運河」が作られました。
いっそのこと野島と夏島をつなげてしまえば!!と思いましたが、埋め立てしない理由があったのでしょう。
戦後、海苔養殖を営む漁業従事者と近隣の埋立地に進出する工場から出される排水の被害を巡って対立が起こります。
平潟湾を含め、金沢(柴漁港)の漁業権闘争の歴史は凄まじいものだったようです。
平潟湾には「金沢漁業協同組合」単独の共同漁業権(採貝採藻など)と区画漁業権(魚類養殖などの養殖)が設定されていました。一部横須賀の漁協と入漁権契約(山林の入会権)を結んでいました。
平潟湾に関しては 現実的に夏島などの埋立地により追い詰められていたこともあり、新たな24ha埋立交渉は昭和37年10月に始まり、約半年の厳しい交渉で3月に決着します。
熾烈な反対運動が行われたのが金沢地先埋立計画でした。
平潟の埋立事業交渉で先鞭をつけた形でしたが、昭和43年7月に発表されると同時に
柴・富岡・金沢の三漁協は強く反対を表明します。ここでは反対から妥結までの詳細な経緯は紹介しませんが、
現在ほぼ旧来の海岸線と漁業権を失った横浜湾岸は南北で大きく漁業再生事業の流れが分かれる形となります。根岸以北の多くの業業従事者は陸に上がり漁業から離れる結果となりましたが、南部の漁業はすべて満足という形ではないにしろ、転業を含め近海漁業が残っているという点で、今世紀の横浜にとって<救い>ではないでしょうか。海苔の栽培、蝦蛄漁他、金沢では美味しい海の食材を現在も提供し続けています。
野島を楽しみ 野島を眺めながら海を楽しむ
「海の公園」
本来の浜辺では無く<人工海浜>公園ではありますが、海辺が守られ、海と触れ合う空間がここに維持されていることは大切にしていきたい横浜の資産だと思います。
No.51 2月20日 海の公園計画発表
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=570
お薦め
海の公園「かき小屋」
平成29年11月1日(水) 〜 平成30年3月31日(土)
http://www.kanazawarinkaisv.co.jp/kaki.html
横浜市金沢区海の公園10
080-1218-3967
11:00〜21:00

11月 15

第925話【横浜風景】金沢百景

金沢区は魅惑的な区で、様々な角度から紹介しています。
横浜18区の中でもじっくり書いたものが多いかもしれません。
<カウントしてませんが>
リンクをまとめました。
第923話【横浜市境】 市境の深ーい溝
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=10931

No.136 5月15日 フルライン金沢区
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=479
横浜市金沢区は1948年(昭和23年)5月15日に磯子区から分区し創設しました。

No.269 9月25日(火)河口に架かる橋
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=334
1964年(昭和39年)9月25日の今日、埋立てによって整備された河口に架かる八景橋が完成しました。

2月20日 海の公園計画発表
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=570

2月22日 アーティストツーリング
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=568

2月27日 政治家が辞めるとき
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=563

No.124 5月3日 料亭にて超機密書類盗まれる
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=492
憲法記念日に因んで
伊藤博文らが金沢八景の料亭東屋で「明治憲法」草案を練ったという話

第829話 1936年(昭和11年)
6月23日日本製鋼横浜製作所JSW
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=7780
「日本製鋼横浜製作所JSW」が金沢町泥亀に竣工・操業開始した日です。

1914年(大正3年)7月12日 京急富岡駅
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=7816
横浜貿易新報社選(神奈川県内の)「新避暑地十二勝」が発表されました。

No.230 8月17日 (金)孫文上陸(加筆修正)
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=377

No.451 芸術は短く貧乏は長し
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=108

No.229 8月16日 (木)一六 小波 新杵
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=378

No.282 10月8日 (月)幕府東玄関を支えた寺
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=318

リンクが多くなりましたので
野島に関しては別に紹介します。

8月 20

第909話 【大岡川運河エリア史】江戸湾編

素人調べレベルと予め宣言しておきます。
大岡川河口域に広がっていた<内海>は絵図を見ると新田開発が始まるまでは、漁場だったようです。<横浜の砂州>が冬場の北波を防ぐ防波堤の役割をしていたから中々の漁場だったのではないでしょうか。
その後、吉田新田干拓(1667年)によって、<内海>の漁場が野毛村近辺と横浜村外海が漁村として残された他は、いわゆる農業が行われました。
ただ新田がすぐに稲作に適した土地になることは無く、塩抜きを含め数年にわたる手入れが必要でした。干拓には約11年かかり、順次上流域から耕作地となっていきましたが幕府から正式に新田として認められるにはもう少し時間がかかります。
江戸時代、八割は百姓でした。その大半が農業従事者だったので百姓=農民と表現されるようになりますが、百姓は稲作中心の農民という姿以外にも多彩な生活スタイルを持っていました。
(百姓=地域に生きる多能工)
半農半漁、農業ができないから漁業も。
逆に漁業だけでは生活できないから農業も。
といった表現は百姓=農民、米生産者からの視点です。
石高制の幕府にとって米生産者は 最も歓迎すべき納税者でした。
現代におけるサラリーマン(源泉納税層)みたいなものです。
漁業従事者は一般的に網役(あみやく)という漁業年貢を収めていました。
年貢米と同様に、共同体単位で収めていたようです。

十七世紀に入り、兵農分離で闘う武士が都市生活者となり、安定した徳川時代が訪れます。治水・利水技術の発展と普及で山間地農業が河川域全般に稲作が広がり、江戸時代は急激に人口増と米の収穫増となります。
ただ、稲作は労働集約型なので人力が必要でした。
また江戸期からの農業は限られた田畑に<肥料>を投入する集約農業スタイルとなります。特に都市近郊農業は<糞尿>を有料で購入し投入することで収量を増やしていきます(金肥)。
では海辺や谷戸ばかりで<平地>の少ないエリアでは どのような生業で集落共同体は成り立っていたのか?
地に生きるとは、地(海)から恵を得ることです。生業とはそういうことです。
海付の村、海辺からすぐに谷戸となる地域の多い横浜は
農・漁・搬送を複合的に生業とする「漁師百姓」によって村落共同体が形成されていました。
漁場を巡る争い
19世紀に入り「内海三十八職」という取り決めが江戸湾内漁業従事者の間で行われます。江戸湾で認められた38種類の漁法のことです。
当時、江戸前には84の浦と、18の磯付(いそつき)村があったといわれていますが漁場を巡る争いも多く、都度話し合いによって解決してきました。
江戸時代も後期に入ると 都市近郊の在郷町に市場経済が発達し
漁業も江戸市場への稼ぎ頭となってきたため 漁法規制が必要になってきました。

文化13年(1816年)6月
江戸湾沿岸の相模・武蔵・上総の漁村44の代表が集まって会合を開き、一通の議定書を作成します。
・各漁村は毎年春に会合を開くこと。
・御菜八ケ浦が年番で代表を務め、会合の開催やその他重要なことは廻状によってそれぞれの村に伝えること。
・各郡にも年番の惣代を置いて議定書の内容を守らせるとともに御菜八ケ浦や他郡の惣代との連絡を行うこと。
・新規漁法を原則禁止とし、どうしても行いたいとする希望が出されたならば会合における合意を得ること。
等を取り決めます。
◆江戸湾内湾漁撈大目三十八職」または「内湾三十八職漁法」
手繰網(一名うたせ)
三艘張網
鮑漁
貝草取(貝藻取)
揚繰(あぐり)網
とび魚漁
こませ流し網※
肥取漁(ひとり網)
地引(ちびき)網
このしろ網
鰆(さわら)網
張網
貝類巻※
縄舟漁縄編漁
小晒(こさらし)網
投げ網※
あびこ流(網)
六人網
小貝桁網※
鰻掻(うなぎかき)
のぞき網(漁)
八田網
釣職一式(釣船)
海鼠(なまこ)漁
たいこんぼう網(一名かひかつら網)
鵜縄網
小網
ころばし網
鯔(ぼら)網
鯛縄
貝桁漁
いなだ網
四手(よつで)網※
丈長網
白魚網
藻流し網
歩行引網(かち網)
たつき(たたき)網
このしろ網
ななめ網
竿小釣網
※四十一種類ありますが
時期によって 種類が異なったようです。それにしても多彩です。

◆従来から使用を認められた漁具「小職」
簣引網、ズリ網、尨魚引抜網、蛎万牙漁、蛎挟漁、蜆流網、アサリ熊手漁、アミ漁網、サデ押網一名糖魚網、不笊漁、ウナギ筒網、ウナギ筌漁(方言ウケ、ドウ)、ウナギ抄(方言メボリ)、サザエ引網、鰌漁網、ボッサ縄、海苔桁網(方言ケタ網)
※その後追加された漁法
「エビケタ網」

領域を多彩な分類によって一つ一つ決めていくのは日本のお家芸ですね。

参考文献
「東京都内湾漁業興亡史」東京都内湾漁業興亡史刊行会
「巨大都市と業業集落」成山堂書店
安室 知(神奈川大学) 論文
「百姓たちの江戸時代」ちくま
「江戸日本の転換点」NHK

8月 20

第908話 【大岡川運河エリア史】漁師百姓

大岡川に関心を持った中で
江戸期の百姓の姿を知りたいと考えました。
そこで
この夏の集中テーマを江戸の「百姓」に置き 学習計画を立てました。
大岡川下流域、横浜村エリアに暮らした百姓の姿を推理するには何が必要か?
と考えたからです。
1667年に吉田新田が完成した以降、開港までの横浜村エリアの百姓はどんな暮らしをしていたのか?
●大岡川運河エリア
ここでは「横浜村エリア」を
吉田新田に関係するエリア=「大岡川運河エリア」と考えました。現在の「関内外エリア」という表現ではどうもしっくり来なかったので、大岡川運河エリアとしました。
では大岡川運河史をざくっと!まとめます。大岡川河口域に「吉田新田」が完成する前は蒔田あたりまで<海域>でした。
蒔田一帯は「塩田」や「漁業」を生業とする百姓が中心
吉田新田が1667年に完成したことで まずこのあたりの経済構造が大きく変わっていったと想像できます。
<海域>から<川域>になり
大岡川右岸から派川として中村川が誕生します。
干拓による人工の河川なので「運河群」といって良いでしょう。
吉田新田完成によって大岡川運河が誕生します。
中村川河口は?ちょっと判断が難しいです。
堀川ができるまでは大岡川本流の河口あたりで合流することになっていますが
現在の石川町駅あたりからは小さな入海ともいえます。(後の派大岡川)
この出口右岸側に浅瀬・沼地ができるようになり、
「太田屋新田」「横浜新田」ができあがます。
開港によって この地域の役割が大きく変わり
開港場が登場し 堀川が開削されて 関内出島が誕生。
おそらく このあたりで中村川が明確に見えてきたことで一般的に「中村川」となったのでは?<勝手な推理>
明治に入り
堀割川が完成し、吉田新田一帯の灌漑用水が整備され運河化して
一応の「大岡川運河エリア」整備が終わります。(つづく)

6月 8

第892話【ある日の横浜】東口「横浜ホテル」

ここに在る日の横浜の風景写真があります。

横浜ホテル

この写真は、かつて横浜駅東口にあった「横浜ホテル」と帷子川の風景です。
撮影年は確定できませんが昭和24年頃と推定しました。
東急電鉄がこのホテルを買収する直前か、買収後で改装前のものと思われます。
万里橋の上から国道1号線が通る築地橋方向を撮影しています。その先は当時の「表高島町」操車場にあたります。
このホテルは現在、東急グループの神奈川都市交通が経営するガソリンスタンドとなっています。
横浜ホテルと東急の関係は以前ブログで紹介しましたので参照ください。
1954年(昭和29年)6月30日東口「横浜ホテル」
もう一枚この近所が同時期に撮影されている写真も紹介します。

横浜東口高島通商店街

万里橋の袂で現在、 <裏高島>の面白い飲食店が集まるエリアです。
この写真から横浜大空襲を経て終戦となり復興が始まった「高島通商店街」の様子が垣間見ることができます。「高島通商店街」は80年代まで賑わったエリアです。90年代に入り高島エリア(みなとみらいエリア)の空洞化に伴い刃毀れ状態となっていて衰退。
横浜駅の中心が”東から西”へシフトし減退エリアの象徴のようになってしまいました。
写真正面に見える「三共商会」は最近までこの地で運輸業を営業していましたが、移転したようです。

実はこの場所が<高島町2丁目>裏高島エリアだと確定したのは
「三共商会」の奥に「神奈川県製パン協同組合」のビルを確認できたからです。

横浜駅東口エリアには
豆腐会館
神奈川県製パン協同組合
神奈川県印刷組合
など 様々な業界の組合ビルもありました。
※豆腐会館は現在もあります。

このエリア活性化の動き
裏横浜地域活性化プロジェクト urayoko net
http://urayoko.net
ちょっとデータが古いですね。
一時期<裏高島>で頑張ったていましたが
さらに
もうひと踏ん張りして欲しいですね。
2017年6月記す。

6月 3

第890話【横濱の風景】西之橋からみる風景

ふと気がついた疑問をFacebookにアップしたネタですが、結構反応があり改めて確認してみると面白いのでブログアップします。
昔の絵葉書や地図を少しコレクションしていますが、
絵葉書とマップを比較することはほとんどありませんでした。
今回のテーマは
【中村川】横濱西ノ橋川岸雪ノ景
横濱の冬景色の絵葉書は少なく風情のあるいい風景です。

この絵葉書に関してこれまで
下記のキャプションを用意してきました。
「中村川と堀川そして埋め立てられた派大岡川が交わるあたりを西之橋から見た雪風景です。現在は石川町駅と首都高速が川の上にありこの風景の面影は殆どありません。今の西之橋は大正15年に再建された震災復興橋の一つで画像上流には、中村川に架かる亀之橋が見えます。昔の美しい景色が写る貴重な運河の風景です。」

ここで遠くに見える橋を中村川に架かる「亀之橋」とばかり思い込んでいました。根拠は「横浜絵葉書」関連書籍に同じ風景が収録されていて
説明文では「亀之橋」とあったので検証しなかったからです。
ところが実際「西ノ橋」袂に立ってみるとここから亀之橋を確認することはかなり厳しい角度にあります。
奥に見える高架は根岸線、その奥が 「石川町駅前歩道橋」です。
1960年代に首都高工事で「派大岡川」を埋め立てた際に少し中村川の川筋が変わった可能性もあるので、過去の地図を幾つか探し出してみることにしました。

大正11年

昭和2年

見えないこともない?色々探してみると 発見したのがもう一つの橋でした。
「亀之橋」と「西之橋」の間にもう一つ橋が架かっている地図があったのです。
現在の根岸線の石川町駅前歩道橋あたりに架かっていたようです。
<ようです>というのは
この謎の橋が表記されていない地図もあったからです。戦前の地図、少なくとも橋に関しては、<謎の橋>が時折現れます。ここにもう一枚、陸軍測量部迅速図明治41年発行「横浜」を拡大しました。陸軍の迅速図の場合、要素が欠けている場合がありますが、余分な情報を付け加えることはありません。西ノ橋と亀之橋の間には橋が確認できます。
さて?
この橋の名は。地図上にも橋梁名が記されていません。
仮に<石川町橋>とでもしておきましょうか。
解明はこれからです。

さらにこの地図から新たなる疑問が。「堀川」ではなく「中村川」になっています。正式に堀川は何時から呼ばれるようになったのでしょうか。(2017.09追記)
また宿題が増えました。