11月 26

No.696 【一枚の絵はがきから】安藤記念教会

戦前の絵はがきに関心があり、収集したり参考資料を探したりしています。有名どころの<絵はがき>は高価ですが当時盛んに発行された<普通の絵はがき>は手軽に入手できます。
キロ単位で購入した<絵はがき>にも思わぬ発見があります。今日はこのあたりから、話を進めます。意外な横浜接点がありました。
ここに一枚の絵はがきがあります。
light_安藤教会絵葉書002「安藤記念教会構内全景(向って右 礼拝堂・中央幼稚園・左 安藤先生旧宅)」
この一枚に写っている建物はタイトルの通り、安藤記念教会として現存します。
http://ando-kinen.com
1917年(大正6年)に建てられ約一世紀、メソジストの伝統をもつプロテスタントの教会です。創設者の安藤太郎は1846年5月3日(弘化3年4月8日)に鳥羽藩医・安藤文沢の子として生まれました。開港間もない横浜でアメリカ人宣教師のディビッド・タムソンとサミュエル・ロビンス・ブラウンに英語を学びます。
※サミュエル・ロビンス・ブラウン
http://ja.wikipedia.org/wiki/サミュエル・ロビンス・ブラウン
※ディビッド・タムソン
http://ja.wikipedia.org/wiki/ディビッド・タムソン
海軍操練所、陸軍伝習所で学んだ後
榎本武揚らとともに1868年(慶応4年)江戸を脱出する<北行部隊>の一員として箱館戦争「五稜郭の戦い」の一員に加わります。階級は二等見習士官という下級士官でした。

この時、榎本艦隊の軍艦頭だった荒井郁之助(あらい いくのすけ)が安藤の妻の文子の兄であり、自分の姉の夫でもあった重縁もあり箱館戦争に身を投じることになったのでしょう。
安藤の義兄「荒井郁之助」は徳川政権のときに横浜で大鳥圭介と共にフランス式軍事伝習を受けた軍人でした。榎本<箱館政権>(蝦夷共和国)の下で海軍奉行となり、宮古湾海戦や箱館湾海戦で<新政府軍>に対し奮闘し降伏後は開拓使、開拓使仮学校・女学校校長、初代中央気象台長を歴任しました。

一方、安藤太郎は函館戦争後、一年間の禁固刑に処せられますが語学力をかわれ明治政府の外務省翻訳官に任官されます。1871年(明治4年)岩倉使節団の通訳官(四等書記官)として参加し帰国後香港領事、初代ハワイ総領事となりますが、この時期にキリスト教と出会い、文子夫人とともに洗礼を受けキリスト教徒となります。
その後、安藤の妻文子の遺志により自宅の一角に講義所を設けます。
1917年(大正6年)9月に礼拝堂が完成し、関東大震災、戦災を乗越え現存しています。
ここで注目すべきは、礼拝堂にあるステンドグラスです。
(未訪問ですので是非機会を作って訪問したいと思っています)
ステンドグラスを制作したのは小川三知(おがわ さんち)で、横浜とも少し縁のある方です。
小川三知は、「知る人ぞ知る日本のステンドグラス界のパイオニア」と呼ばれています。
「小川 三知は大正から昭和初めに活躍したステンドグラスの工芸家。 橋本雅邦に学んだ高い日本画の素養と、アメリカで修行して身に付けた複雑な色調を生み出すガラス技法で、アール・ヌーヴォー、アール・デコ風でありながらどこか日本情緒を感じさせる作品を生み出し、日本初のステンドグラス作家といえる存在である。(Wikipedia)」
東京と神奈川の現存する作品をざくっと紹介します。
日本メソヂスト教会 銀座教会(東京都中央区)

鳩山会館(東京都文京区)

日本工業倶楽部会館(東京都千代田区)

慶應義塾大学図書館旧館(東京都港区)→復元

日本キリスト教団 鎌倉教会(神奈川県鎌倉市)

鎌倉国宝館(神奈川県鎌倉市)

横浜では
日本郵船氷川丸(神奈川県横浜市)一等特別室ステンドグラス
http://www.nyk.com/rekishi/index.htm

横浜市長公舎(神奈川県横浜市)
子安小学校(神奈川県横浜市)

ステンドグラスと横浜も広がるテーマですので改めて紹介します。
(今日はここまで)

Category: 【資料編】, 横浜に因んだ人たち | No.696 【一枚の絵はがきから】安藤記念教会 はコメントを受け付けていません。
11月 14

No.695【横浜路線バスの旅】市民に最も利用されている路線は?

最近、路線バスに少しハマっています。
市内で最も広く・多くの市民に愛用、利用されている路線バスはどこだろう?と考えました。
私の直感的推理では<旭23系統>と考えています。
乗降者総数では他にナンバーワン路線があると思いますが“広く・多くの市民に愛用、利用”となるとこの<旭23系統>でしょう。
理由は至ってシンプルで「運転試験場」と「がんセンター」があるからです。
<旭23系統>=二俣川駅〜運転試験場〜二俣川駅の循環バスです。

神奈川県警察運転免許試験場、多くの利用者には「二俣」または「二俣川」で通じるでしょう。
light_運転試験場 light_運転試験場入口二俣川運転免許試験場、1963(昭和38)年10月に開設していらい半世紀50年が経っていることになります。
https://www.police.pref.kanagawa.jp/mes/mes83001.htm
統計からアバウト計算すると、神奈川県の年間免許交付数が約97,000人(平成24年度)ですから半世紀で人口変動や書き換え等の利用者も加味し約500万人位?
内横浜市民が人口比から200万人位の利用かな?
冒頭にも書きましたが
人数は別にして、市内全域から市民が利用するバス路線はここしか無い!
と思っているのですがどうでしょう。

「運転免許試験場」のある横浜市旭区中尾周辺は<旭区神奈川県>
と呼んでも良いくらい県有地と県関係の施設が集中しています。

行政用語でいう「広域利用圏をもつ公共施設」が多く立地しています。
このエリアの県有地は総面積で約26.7haもあるそうです。
●神奈川県立産業技術短期大学校
●神奈川県立二俣川看護福祉高等学校
●神奈川県立よこはま看護専門学校
●神奈川県立公文書館
●神奈川県国際研修センター
●県立保健福祉大学実践教育センター
●神奈川県立がんセンター
●がんセンターあゆみ園
●神奈川県ライトセンター
●県立がんセンター医療従事者公舎
●災害救助用備蓄物 資保管倉庫
●公益財団法人神奈川県少年少女育成指導協会
※日本ボーイスカウト神奈川連盟事務局
※公益社団法人ガールスカウト神奈川県連盟
※一般社団法人神奈川県子ども会連合会事務局
■県職員二俣川アパート

ざくっと探しただけですのでこの他にもあるかもしれませんが、行政機関集中地区です。ここへの利用者も加味すると、<旭23系統>は広範囲の利用率が高い路線バスといえるのではないでしょうか?
その割にといってはなんですが、バス利用が不便ですね。二俣川ライフ(駅ビル)の一階にバスターミナルがありますが、初めての方にはちょっと探しにくい場所ですね。
light_運命の分かれ道駅ビルの途中で この案内指示を見逃すと彷徨ってしまいます!!!!
light_二俣川かい札改札には大きく掲示されていますが?出て見ると 一瞬わからなくなります。

この「二俣川駅」
開業は神中鉄道時代の1926年(大正15年)5月12日と古く、交通の要衝でもあったため歴史的にも面白いエリアです。現在は相鉄いずみの線との分岐点です。

神奈川県施設集中の中で地味ですが気になっていたのが
「神奈川県ライトセンター(指定管理者:日本赤十字社)」です。
http://www.kanagawalc.org

light_神奈川県ライトセンターここでいう“ライト”が視覚障害福祉のための“ひかり”を表すものだったとは知りませんでした。
「ライトセンターは神奈川県内の視覚障害福祉の向上のために、日本赤十字社の基本理念である「人道」「公平」を掲げ視覚障害の皆様のために、視覚障害援助ボランティアの皆様のために、積極的に業務を行わせていただいています。」
「神奈川県ライトセンター」は県内の視覚障害者に対して、「点字・録音図書」などの情報提供や各種相談・指導を行っている施設です。
さらに視覚障害者へのボランティア活動を志す人達の育成・指導なども行ってるそうです。設立は1974年(昭和49年)4月、運営は日本赤十字社が指定管理者として行っています。この神奈川県ライトセンターの特徴の一つが“視覚障害者を対象とした点字図書館と体育館・プール等の利用施設機能を併設したセンター”で他県には例がないと言われています。
現在の建物は1993年(平成8年)10月に竣工し現在に至っています。
(バリアフリー商店街)
もう一つ「二俣川銀座商店街」は90年代に「地域と人にやさしい躍動感あふれる街づくり」をコンセプトに、高齢者や障害者にもやさしい街づくりを推進し別名”フラット通り”商店街としていち早くスタートしましたが、完全にバリアフリー化まで達していません。これは商店街の責任ではありませんが、せっかくパイオニアとして”フラット通り”商店街を推進したのですから、ライトセンターとコラボし もっとやさしい街づくりを推進して欲しいですね。
light_二俣01※バスはまだまだ 高齢者や障害者には厳しい乗り物です。
ベストは<低床車両>ですがこれに関しては抜本的計画が必要になってきますね。
(南口再開発)
二俣川駅というのは何気なく利用していますが、断崖絶壁中腹に線路があるって感じの駅です。
駅南口は改札を出て登り!
駅北口は改札を出て降り。
南側には「グリーングリーン」というショッピングビルがありましたが、2014年9月に閉店し、目下再開発が始まるところです。
light_二俣川南口light_201411140066新線計画も進んでいるところですので もう少し伸びるか?
注目しておきたい駅です。
路線バス<旭23系統>から少し離れましたが、追々市内路線バスも紹介していきます。

11月 14

第694話【一枚の横浜絵葉書】「桜木町横浜市授産所ノ偉観」

区役所は、歴史的地勢や例外を除いて概ね区の中心に近いところに設置されていますが、
中には様々な事情で区役所が移動した区があります。
区役所位置図今日は<一枚の絵葉書>から一時期桜木町駅前に中区役所があった風景を紹介します。
約20年間、桜木町駅前に中区役所がありました。かなり『西区』よりにあったんですね。
No.326 11月21日(水)彷徨える中区役所
※近年でいえば、南区役所は端っこに移転しますね。ほぼ中区といっても良いくらいの位置です。
中区役所位置図

さて、ここで一枚の絵葉書を紹介しましょう。
「桜木町横浜市授産所ノ偉観」です。
light_資料絵葉書009

(撮影位置)
このシーンが撮影されたのは恐らく、下図の位置でしょう。
撮影位置

現在ならJRガード下近くの公衆トイレ近くでしょうか。
鉄道発祥の地「初代横浜駅」(現 桜木町駅)前には当初から噴水がありました。
Y校イラストマップ

No.428 Y校創設地はどこだ?

No.429 Y校創設地はどこだ?2

(授産所)
ここに写っている煉瓦作りの建物が「興産館」で1929年(昭和4年)に竣工しました。

「興産館」は震災復興政策の一つとして建設されました。ここに「市中央授産所」がありました。<授産所>あまり聞き慣れない言葉かも知れませんが、
「授産所(じゅさんじょ)とは、身体障害者や知的障害者、ならびに家庭の事情で就業や技能取得が困難な人物に対し、就労の場や技能取得を手助けする福祉施設である。施設の設置は、おもに社会福祉法人などの団体によって行なわれている。(wikipedia)」
授産所=授産施設は<生活弱者のための就労支援施設>です。

1927年(昭和2年)横浜市が復興社会事業費より28万円を捻出して着工します。
1929年(昭和4年)「興産館」桜木町駅前授産所の場所に開館。
1929年(昭和4年)6月11日に「市中央授産所」として桜木町に設置されます。
1930年(昭和5年)5月11日「 横浜興産館主催の国際文化映画大会が5日間開催」※こんな記事も見つけました。
この絵葉書の情景、拡大してみると看板に人が写っています。「●●展覧会  」という看板を製作しているように見えます。最初、『復興記念横浜大博覧会』の看板かな?と思いましたが、拡大してみると違っていました。この博覧会もついでに紹介しておきます。
看板製作中

(復興記念横浜大博覧会)
1935年(昭和10年)3月26日から『復興記念横浜大博覧会』が5月24日まで山下公園を中心に開催されます。
大正12年の<関東大震災>から立ち直った横浜市を国内外にアピールするために横浜市が復興を記念して産業貿易振興を含め様々な催しが開催されました。
山下公園に約10万平方メートルを会場を設置し開催されました。来場者は3,299,000人とされています。
light_横浜式典001 light_横浜式典009 light_横浜式典011第689話【横浜の記念式典】もう一つの幻イベント

(中区役所)
1942年(昭和17年)3月 中区役所が港町1丁目(市役所内)より桜木町1丁目の興産館へ移転します。
1944年(昭和19年)4月1日西区が中区より分区して誕生しました。
※これによって、中区役所は<中区>の端に位置することになります。
1961年(昭和36年)に住吉町4丁目の横浜銀行ビルを改装し移転するまで、約20年中区役所は桜木町駅前にありました。
1983年(昭和58年)11月21日(月)三度目、現在の場所に引越します。前川國男建築設計事務所の設計です。

(市役所去って)
桜木町駅前から「中区役所」が去ってしまい、
1968年(昭和43年)4月30日に「桜木町ゴールデンセンター」が竣工します。
現在の「ぴおシティ」です。

No.99 4月8日 陸の孤島対策はあるのか?

(まとめ?)
冒頭に明示しておきませんでしたが、この<興産館>の跡地は現在桜木町駅前の立体パーキングになっています。

Google earthで確認しておきます。
スクリーンショット 2014-11-14 3.54.08 Googleearth桜木町再度この絵葉書を眺めてみると、
light_資料絵葉書009中々良い姿ですよね。横浜は震災と空襲で多くの味わいのある建物が失われてしまいました。復古趣味になることには異論がありますが、失いたくなかった風景です。
この味わいを今後どう活かして行ったらいいのでしょうか?
少子高齢化で都市が萎縮して行くことは間違いありませんね。
ちょっと 時代を振り返るヒントが あったほうが これからはなお良いと思います。

11月 12

No.693【一枚の横浜絵葉書】「露臺ヨリ萬国橋ヲ眺ム」

オークションで絵葉書を探している時、目に留まる一枚に出会うことがあります。この一枚に関しては、まず萬国橋に関心が行き、どうしようかなと迷う程度のレベルでした。

light_資料沖仲仕絵葉書001戦前の「萬国橋」が写っていますが、もう少し大きく「萬国橋」が写っているものを探そうと思いました。ところが、
「露臺ヨリ萬国橋ヲ眺ム」のタイトルが気になりました。
<露臺>?
<露臺>とは、建物の外面に張り出した、屋根のない平らな所でバルコニーのこと。
現在の位置だとどこにあたるのだろうか?と探すとすぐに見つかりました。

葉書アングル海岸通り4丁目にある「萬国橋会議センター」(横浜港労働出張所)ハローワーク横浜港労働出張所から萬国橋を撮ったものでしょう。

light_PC020394この葉書の<表面(おもて)>には「神奈川県匡濟会 発行」「沖人夫休憩所新築落成記念」とありますので間違いなく“港で働く人”の施設で、現在も施設として機能していたことに驚きました。
資料沖仲仕絵葉書表(万国橋)
この絵葉書に写されている「萬国橋」めちゃデコラティブですね。

資料沖仲仕絵葉書アップ現在の万国橋は、1940年(昭和15年)に竣工した新港埠頭と北仲を結ぶコンクリートアーチ橋です。シンプルなコンクリートアーチ橋の前はこの絵葉書にあるような鉄橋で1914年(大正3年)に完成した「税関埠頭」と陸地を結ぶ唯一の橋として建造されました。

light_PC020351※橋の建設主体は大蔵省で現在も財務省管轄?
ということで、この絵葉書に描かれている「萬国橋」は1940年(昭和15年)以前ということがわかります。
「横浜近代史年表」を調べてみました。
1921年(大正10年)1月上旬に「沖人夫休憩所、税関構内の象ケ鼻と日本波止場に建設決定」。竣工は翌年1922年(大正11年)6月中旬「県匡濟会の施設として沖人夫休憩所竣工、名称を各々税関構内象ケ鼻・日本波止場沖仲仕休憩所と命名」とありました。
この年譜からこの絵葉書は1922年(大正11年)6月中旬頃の発行の可能性があります。
関東大震災の一年前のことですね。
その後、1925年(大正14年)12月12日に「沖仲仕休憩所、日本波止場に開所」
恐らく震災後復興・再建されたものでしょう。
この資料の範囲内では、絵葉書「露臺ヨリ萬国橋ヲ眺ム」は
震災直前の1922年(大正11年)か、復興の1925年(大正14年)と推定することができます。
橋周辺の風景から私は“震災直前”のように感じますが皆さんはいかがでしょうか?
その後、二カ所あった沖仲仕休憩所は1943年(昭和18年)3月31日に廃止されます。

(スペック)
神奈川県匡濟会 発行
沖人夫休憩所新築落成記念
「露臺ヨリ萬国橋ヲ眺ム」
現在の「萬国橋会議センター」
(横浜港労働出張所)
ハローワーク横浜港労働出張所

No.307 11月2日(金)日本波止場に万国橋

横浜消滅(後編)

11月 7

No.692 世界一周機「ニッポン」(号)

1939年(昭和14年)8月27日午後3時3分47秒
北海道千歳の飛行場から世界一周をめざし一機の大型双発機が飛び立ちます。
J‐BACI「ニッポン号」
前日の8月26日午前10時27分に羽田を出発し、一旦北海道千歳に移動。
ここでスタート宣言し国産機初の世界一周に成功します。
このエピソードから少し<横浜>との関係をたぐり寄せてみましょう。
スクリーンショット 2014-11-07 20.07.54 スクリーンショット 2014-11-07 20.07.19 スクリーンショット 2014-11-07 20.04.08

第一次世界大戦に登場した航空機は、戦争の形態を大きく変えました。その後、軍拡と併せて航空機の技術革新による世界一周が各国でブームとなります。
1920年代に始まる世界一周飛行を追ってみます。
 ●1924年(大正13年)4月4日〜9月28日
アメリカ陸軍のスミス中尉が、ダグラス DWC複葉機4機編隊で挑戦し、各地で補給と整備を繰り返しながら2機が成功しました。
航続距離4万6560km、175日、飛行333時間。
ルート:シカゴ→シアトル→ダッチハーバー(アラスカ)→※霞ヶ浦→上海→カラチ→ロンドン→アイスランド→グリーンランド→シカゴ
 ■1927年(昭和2年)5月
世界一周ではありませんが、単葉機スピリットオブセントルイス号でチャールズ・リンドバーグが単独の大西洋無着陸横断飛行を初めて達成し世界を驚かせます。

※No.251 9月7日(金)リンディ夫妻の喜び

→リンドバーグ夫妻は1931年(昭和6年)9月7日(月)に横浜を訪れています。
 ●1928年(昭和3年)
オーストラリアのブリスベン生まれのチャールズ・キングスフォード・スミスが、カリフォルニア州オークランドから離陸、途中ハワイ、スヴァを経由してブリスベンに至る歴史的な横断飛行を飛行時間83時間38分で達成します。
 ●1929年8月8日〜8月29日
LZ 127 グラーフツェッペリンが飛行船により世界一周を達成します。この時、予定に無い航路を選び、横浜上空を周回し霞ヶ浦に着陸します。
No.232 8月19日 (日)LZ-127号の特命

 ●1931年(昭和6年)6月23日〜7月1日
アメリカのウィリー・ポストとゲッティが、ロッキード ベガ「ウィニー・メー号」で航続距離2万5910km、8日15時間51分、飛行125時間を達成します。
ルート:ニューヨーク→ベルリン→モスクワ→ニューヨーク
 ●1931年(昭和6年)7月28日
アメリカのパングボーンとハーンドンが、ベランカ機「ミス・ビードル号」で世界一周最速を狙います。様々なトラブルで達成できませんが初の太平洋無着陸横断飛行には成功します。
ルート:ニューヨーク→(大西洋)→ロンドン→ベルリン→モスクワ→ハバロフスク→東京→※青森県淋代海岸(10月4日)→ウェナチー(10月5日7時11分(米国時間))→ニューヨーク
※この飛行には「リチャードデリシャス」というリンゴにまつわるエピソードがありました。
http://www.aomori-itc.or.jp/index.php?id=1153
 ●1932年(昭和7年)7月21日〜11月10日
ドイツのウォルフガング・フォン・グロナウが、ドルニエワール飛行艇で達成します。111日をかけ西回りルートをとります。
ルート:トラーヴェミュンデ(ドイツ)→アイスランド→グリーンランド→オタワ→ダッチハーバー→霞ヶ浦→フィリピン、マラッカ、インド、イラン、キプロスなどを経由しドイツに帰還。
 ●1933年(昭和8年)7月14日〜7月22日
アメリカのウィリー・ポストが1931年に引き続きロッキード・ヴェガで達成しました。この飛行で初の「単独」世界一周飛行を実現します。
航続距離2万4957km、7日18時間49分、飛行114時間
ルート:ニューヨーク→(大西洋)→ベルリン→モスクワ→イルクーツク→ハバロフスク→フェアバンクス→エドモントン→ニューヨーク
 ●1938年(昭和13年)
アメリカの実業家・映画製作者・飛行家と多才なハワード・ヒューズがロッキード単葉機で達成します。2万3488km、3日19時間17分。
ルート:ニューヨーク→パリ→モスクワ→オムスク(シベリア)→ヤクーツク→フェアバンクス→ミネアポリス→ニューヨーク
☆★1939年(昭和14年)8月26日午前10時27分
「ニッポン号」が羽田を旅立ち、55日目の1O月20日午後1時47分に羽田に無事帰還し世界一周を達成します。
少し長くなりますがルートを紹介します。

2014-11-07 20.11.31
世界一周を予告した絵葉書

light_資料絵葉書0518月26日 東京→8月27日 札幌→8月29日 ノーム→8月30日 フェアバンクス→8月31日 ホワイトホース→9月02日 シアトル→9月03日 オークランド→9月07日 ロサンゼルス→9月08日 アルバカーキ→9月09日 シカゴ→9月16日 ニューヨーク→9月18日 ワシントン→9月19日 マイアミ→9月22日 サンサルバドル→9月23日 サンティアゴ・デ・カリ(コロンビア)→9月24日 リマ→9月25日 アリカ→9月27日 サンティアゴ→9月29日 ブエノスアイレス→10月1日 サントス(ブラジル)→10月4日 リオデジャネイロ→10月5日 ナタール→10月6日 ダカール→10月8日 カサブランカ(モロッコ)→10月9日 セビリア(スペイン)→10月12日 ローマ→10月13日 ロドス島(ギリシャ)→10月14日 バスラ(イラク)→10月16日 カラチ→10月17日 コルカタ(インド)→10月19日 バンコク→10月20日 台北→羽田
※上の葉書に予告されたコースが実際には一部変更されました。
すでに欧州では<戦争>が始まっていたからです。

少し前置きが長くなりましたが、この世界一周計画は大阪毎日新聞社)が東京日日新聞と共同企画したもので、航空機は当時海軍が使用し好成蹟をあげていた「96式陸上攻撃機」を長距離輸送機に改造して使用する計画でした。

light_MM技術館11050050
96式陸上攻撃機二一型328号機

当時「96式陸上攻撃機」は双発、引込脚機能を持つ世界トップクラスの海軍機でしたが、軍用機として現役でもありこの企画はかなり無謀と思われました。
毎日新聞社の再三のプレゼンに対して、海軍は断り続けます。最終的には毎日新聞社トップが当時の海軍次官山本五十六中将に直談判し“長距離輸送機への改造”が許可されます。
海軍が民間使用を許した背景には、航空機の技術将校であった山本五十六の自信と海軍と陸軍・毎日新聞社と朝日新聞社のライバル意識が微妙に働いていました。
この企画が立てられた背景には、朝日新聞社が「神風号」を使って日本からロンドンへのスピード記録達成や「航空研究所試作長距離機(航研機)」による長距離飛行世界記録達成が続き最大のライバル新聞社としても“負けられない”という意識が生まれたのでしょう。
朝日新聞の「神風号」は陸軍の九七式司令部偵察機試作2号機の払い下げによって達成されましたので、自然競争のターゲットは海軍の最新鋭機に向かいます。
海軍の許可を得て「96式陸上攻撃機二一型328号機」を輸送機型に改造しますが、この「96式」、三菱内燃機株式会社名古屋航空機製作所が製造したもので、改造も三菱が担当します。
「96式」は新聞社の他、当時国内最大手の航空会社「大日本航空株式会社」も輸送機として利用されました。
「大日本航空株式会社」横浜と縁の深い航空会社です。
「大日本航空株式会社」1940年(昭和15年)横浜の根岸に飛行場を開設します。この飛行場からは南洋諸島パラオ島への定期航空路が運行されていました。
横浜を5:30発 ⇒サイパン 15:30着 翌7:00発⇒パラオ14:00といったルートでした。
少し、【よこはま】に近づいてきました。
横浜には戦前戦中、そして戦後一時期飛行場が幾つかありました。
暦で語る今日の横浜【9月10日】

軍用機から民間輸送機にも転用され活躍したJ‐BACI「ニッポン号」三菱内燃機株式会社名古屋航空機製作所で製作されたものですが、この模型を横浜で見ることができます。
light_MM技術館11050043 light_MM技術館11050047 light_MM技術館11050034

「三菱みなとみらい技術館」
ここに登場した山本五十六は、「ニッポン」世界一周から一年後の1940年(昭和15年)10月11日に行われた紀元二千六百年の特別観艦式を連合艦隊司令長官として指揮しました。
light_横浜関連雑資料017この先、開戦論と非戦論が激しく議論されながらも日本は日米開戦へと向かいます。関東大震災から始まった激変の日本の選択を、私たちは再度検証していく責務があるのではないでしょうか。
今回はあまり【よこはま】に近づくことができませんでした。

11月 3

No.691 【横浜神社めぐり1】伊勢山皇大神宮

横浜の注目神社!?といえば、

light_ 伊勢山下がス橋.jpg雪景色の瓦斯会社の背景に、神社が見えます。私の好きな横浜風景の一つです。
今回は関東のお伊勢様「伊勢山皇大神宮(いせやまこうだいじんぐう)」を紹介しましょう。

light_雪景色伊勢山戦前に神社の格を表していた< 旧社格>は県社で横浜の総鎮守です。

「宮崎町六四。宮司龍山庸道。祭神天照皇大神。もと戸部村東部の伊勢山(現在の掃部山公園東北端あたり)にあった大神宮(「武蔵風土記稿、戸部村」)を、明治三年神奈川県権知事井関盛艮の告諭により、野毛山に遷して伊勢山皇大神宮と称え、横浜の総鎮守と定めた。翌四年四月十五日神殿造営の工が成り、正遷宮式執行。これより所在地は伊勢山と呼ばれた。社殿は大正十二年の関東大震災で倒壊焼失したが、昭和三年再建復興した。境内社、本殿左側に、杵築宮・子の大神(子神社はもと野毛の鎮守で、旧所在地野毛町)。裏参道に水神宮。神殿唯一神明造、鋼板茸。境内三千九百五十五坪。例祭日五月十五日。境内には明治十年西征陣亡軍人之碑(明治一二年建立)、以徳報怨・蒋公領徳碑(昭和六一年)、万葉歌碑(犬養孝書・昭和六三年)などがある。(「横浜西区史」より)」

この伊勢山皇大神宮、表参道と裏参道があります。表参道前には「2014年10月」に移転オープンした「市民ギャラリー」があります。裏参道から出ると「横浜能楽堂」や「県立音楽堂」「掃部山公園」が近くにあり、散策には最高です。伊勢山皇大神宮・掃部山公園は桜の名所としても知られいます。春先、桜の時期にはとても美しい花見風景が広がります。

スクリーンショット 2014-11-03 20.24.01お宮参り以外にも、見どころチェック場所が多くあります。
●謎の記号が隠れています!
ここには、極めてマニアックな明治時代の<記号>が残っています。
No.143 5月22日 横浜遺産、あまりに無名!

●ここに名物教師が残した万葉集の碑があります。
No.338 12月3日 (月)八の1418(加筆)

※一方で、伊勢山皇大神宮は自慢できない日本初の破産神社として全国にその名をとどろかせてしまいました。
宮司とその親族らが始めたホテル経営(ホテル海洋亭)が破綻し神奈川県神社庁が神宮の運営を直轄しましたが「ホテル部分の資産価値が大幅に低下、多額の債務が経営を圧迫し、横浜地方裁判所に自己破産を申請、2003年(平成15年)4月7日に破産宣告を受けた。 負債は債権者2社に対し85億6500万円。神社本庁に属する神社で初めての破産となった。 ホテルは2006年(平成18年)11月27日破産宣告を受け、営業を中止した。」
このホテルのバーカウンターから眺める横浜港は渋くて良かったんだけどな。
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【番外編】古い葉書を読み解く

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No.22 1月22日 大谷嘉兵衛を追って(加筆)