2月 6

京浜急行白金町駅

1930年(昭和5年)4月1日に開通した湘南電気鉄道は三浦半島の浦賀駅から桜木町駅を目指すために初期ターミナル駅を所在地の町名を採って「黄金町駅」とした。一時期本社機能が置かれたこともある。
開業の翌年、湘南電気鉄道は日ノ出町まで延伸し当初の計画を変更し、京浜電気鉄道と結合した。そして1941年(昭和16年)に合併し現在の京浜急行が成立した。
戦中の1944年(昭和19年)に駅の所在地は新設された「白金町」となったが、もう少し前倒しで町名変更がされたなら、「白金町駅」に変更されたかもしれない。
横須賀に海軍の施設があったことから、戦時体制となった昭和10年代以降、三浦半島は規制の多いエリアとなったが、終戦とともに新しい局面を迎えた。大東急時代から独立元に持っどった新生「京浜急行電鉄」は都心部から三浦、その先の房総エリアへの送客計画を次々と進めていった。

ハイキング特急
京急は戦後早々に不定期ではあるが房総向けの特急を走らせた。
その名は「ハイキング特急」といって
「1950年4月1日に登場した京急初の特急列車。ハイキング回数乗車券を持つ乗客だけが乗れる定員制列車だった。当初は品川駅 – 浦賀駅間を94分で結び、途中9駅に停車した。この時の表定速度は35.5km/hだった。当初の愛称には「三笠」「剣崎」「房総」「三崎」「灯台」「鷹取」が存在した」(wikipedia)

京急80年史より

このハイキング特急を通過待ちする待避線が「黄金町駅」にあった時期があったらしい※。
若干の不明点が出てきたので簡単だが調べてみた。
京急は路線に待避線をいくつか持っている。市内で代表的な駅は「神奈川新町」「南太田」がある。特急や急行を優先して通過させるため別の線路を設ける(待避線)である。
もう一つ、「渡り線」がある。
上下線や、複数の線路を繋ぐ(渡る)構造のことだ。

資料によると
「かつて、下りハイキング特急の待避が行われていた。これは下りの普通電車が当駅に到着すると、旅客扱いを行った後にスイッチバックして上り線に転線し、ハイキング特急「第二房総号」の通過を待って、再び下り線に転線するというものだった。その後、ハイキング特急が廃止されると、当駅での待避は行われなくなり、その渡り線は撤去された」
とある。
一読して鉄道には全くの素人は私としては 信じられない光景を想像した。
黄金町には「渡り線」が設けられ、本数は少なかったとはいえ、アクロバティックな待避が行われていたことになる。

社史には
1949年(昭和24年)4月24日 休日ハイキング列車運行開始
1950年(昭和25年)4月1日 休日ハイキング特急、平日急行、準急運行開始。
1952年(昭和27年)7月6日 品川・逗子間直通海水浴特急運行開始
1953年(昭和28年)9月13日 ハイキング特急ノンストップ運転開始

「戦後の復興期に再スタートを切った京急は、鉄道とバスの運輸業で通勤輸送と行楽輸送の2本柱をもって立ち向かい、施設の復旧と改良を進め、速達列車が普通列車を追い抜く待避設備を持つ駅を増やし、緩急結合と呼ばれる運行に変貌していた。(なぜ京急は愛されるのか)」
当時の京急は、文字通り走りながら復旧と路線開発を進めていた。
さて黄金町駅構造に話を戻す。
関内外にまだ多くの接収地があった時代の地図を確認してみると
「黄金町」不思議な構造になっていることに気がついた。

昭和23年修正の1万分の1「横浜」では、黄金町駅に待避線が表記されている。
不思議が残った。

1月 19

【横浜駅物語】2横浜

(テキストのみ、画像後日追加)
■横浜物語
第二話は、桜木町に続く、現在の横浜駅を採り上げよう。初代から移動し三代目(三ヶ所目)であるこの駅は”フラッグシップステーション”として地域を代表する駅だ。
地域を代表するレベルの駅が大きく二度も移動したのは「横浜駅」くらいではないだろうか。
1978年(昭和53年)6月17日に公開された高倉健主演の「冬の華」冒頭部分に横浜駅東口が大きく映し出される。当時は風景として「東口」が正面玄関であったが、まさに横浜駅が東西戦争真っ只中だった。 1928年(昭和3年)に現在地へ移動した横浜駅西口は、当時空白地だった。戦後西口エリアの開発が進み、1963年(昭和38年)に地下街が完成したころから、”表玄関”の位置付けが逆転し始めたあたりを探ってみよう。
横浜駅の東西<開発戦争>は、現在も続いている。そごう・高島屋の百貨店をめぐる東西開発競争、ステーションビル・ルミネ競争、地下街競争他、大消費地でもある横浜駅は特に戦後の高度成長を背景に激しい鍔迫り合いが行われてきた。
書き出したらそのドラマは枚挙にいとまがない。
ここでは、あまり知られていない横浜東西表玄関競争の一端を紹介しよう。
■(民衆駅)

1957年(昭和32年)横浜駅を舞台に東西からそれぞれ「民衆駅」請願提出が行われた。
民衆駅とは
「民衆駅(みんしゅうえき)とは、駅舎の建設を日本国有鉄道(国鉄)と地元が共同で行い、その代わりに商業施設を設けた駅である。(wikipedia」
空襲等で荒廃した戦後の駅前を国鉄の立地を活かし地域が資本を投下して商業施設開発を行うという事業で、全国で多くの事例を残している。
いわゆる「ステーションビル」開発である。駅に直結した商業施設は確実に集客を見込める事業である。横浜では「横浜ステーシヨンビル」という地元資本の会社を興し、駅ビルの経営にあたった。このスタイルは駅ビルテナント管理(シアル・ルミネ等)に受け継がれ、最終的には駅ナカ<エキュート>へとつながる。 昭和32年に横浜駅の東西両方から、この民衆駅事業の請願が出た。
東は崎陽軒、西は相模鉄道が中心となりそれぞれが熾烈な争奪戦を始めたが、東は開設以来の表玄関としてのプライドがあり、崎陽軒は桜木町(初代横浜駅)から駅前で開業、現横浜駅にも1928年(昭和3年)に現在の場所に開店し、ここで名物「シウマイ」が誕生した。
以来、駅弁の雄として横浜駅には欠かせない企業となった。
一方、西口は、1926年(大正15年)厚木からスタートした神中鉄道が1933年(昭和8年)に念願の横浜駅開業にこぎつけたが、西口は相模川の砂利置き場となり接続のメリットに与れず経営が低迷していた。五島慶太は東横の西神奈川進出を目論み東京横浜電鉄の傘下に入れ、経営立て直しを進めたが戦争で中断していた。
1943年(昭和18年)に茅ヶ崎に本社を持っていた「相模鉄道」は神中鉄道と合併し拡大を図るが主力線(現相模線)を国鉄に吸収合併され、神中鉄道=相鉄となり現在の路線が相鉄の主力路線となった。
戦中戦後まで、横浜駅西口周辺(幸地区)は、帷子川河口域の埋立が遅れ砂利や資材置場として使われている状況だったが、大きな転機が訪れる。
戦前から横浜駅周辺に油槽を構えていた米国スタンダード・オイル社の持つ横浜駅西口の土地24688m2を1952年(昭和27年)に買収することになる。
この決断がなければ、現在の横浜駅前一帯はかなり雑居化が進み、東口優位は続いたかもしれない重要な判断だった。
ターミナルとして重要度が増す「横浜駅」の空白地西口広場を画期的な商業空間とするには、さらなる駅との直結が望まれた。
このときに、全国的に始まっていた「民衆駅」構想を東西の商工会が導入することを考えたのは当然のことだろう。
あらためて<民衆駅>とは?
「駅舎およびその付属施設に接着する施設の一部を部外者に使用させることを条件として,その建設費の一部または全部をその部外者に負担させて建設する駅施設の呼称である。すなわち民衆駅の名称はこのような形態によって建設された施設のみの呼称であって,駅という概念ではない。したがって駅舎の一部だけがこの種の形態で建設されたような場合は, その部分だけを民衆駅と呼称する。たとえば東京駅の場合, 八重洲口本屋施設(関連施設を含む)だけを民衆駅といい,乗車口・降車口を含めた旧本屋施設は民衆駅とはいわないのである。」
と当時の辞典に記載されるように、その代表例は東京駅八重洲口だった。
この「民衆駅」事業は駅周辺の商業力を大きく変えることもあり、東西の国鉄への請願はデッドヒートした。
国鉄も、さすがに両側に民衆駅を進める訳にもいかず、両者で意見をまとめるよう要望し、最終的に1961年(昭和36年)、統合され株式会社横浜ステーシヨンビルとなり、
西口に「横浜ステーシヨンビル」が神奈川県最大の民衆駅として開業することになった。

■(西から東へ)
事実上の”西側”の勝利を意味し、しばらくの間横浜駅は西口優位の時代が続くのである。
その後、東口挽回のために「横浜駅前新興会社」が組織されスカイビルへと変身していくが当時の飛鳥田市政とは不協和音が生じ、しばらくゆゆの時代が続く。東口開発のキーマンとして自治官僚トップだった細郷道一が横浜駅東口開発公社理事長に就任するも、苦戦を強いられるが第22代横浜市長となり、飛鳥田六大事業は東口へと光があたり始める。
伊勢丹が狙った東口も、当時の水島 廣雄の手によるそごう進出が決定し、東西再逆転の体制が揃うこととなった。
(関連ブログ)かなりだぶってます。
No.328 11月23日(金)横浜駅東西戦争史
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=263
No.274 9月30日 (日)巨大資本の東西戦争
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=328
No.19 1月19日(木) 五島慶太の夢
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=604
No.87 3月27日 横浜駅のヘソが変わる
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=530
No.207 7月25日 (水)五島慶太の「空」(くう)
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=399
1954年(昭和29年)6月30日東口「横浜ホテル」
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=7895

12月 25

番外編【資料としての絵葉書】横浜駅

※自分用を兼ね簡単に整理した横浜駅の基本情報をアップします。
■三回引っ越した横浜駅
横浜基本情報の定番の一つが【さまよえる横浜駅】です。
ペリーが横浜の応接所に上陸し様々な当時の最先端テクノロジーを紹介しました。
中でも<機関車>の紹介は臨場した幕府関係者を驚かせました。
小さい線路を敷いて模型の機関車を走らせたそうです。
その後、明治に入り本格的に鉄道敷設の段階に入り、さしあたって利用頻度の高い横浜と東京を結ぶ区間の鉄道敷設が決まりました。単純に横浜と築地の居留地間を結ぶニーズが外国人に強かったこともあります。
大岡川の河口、野毛浦を埋め立てて駅用地を確保し駅舎を作りました。これが初代の横浜駅(現在の桜木町)です。
第867話 【明治の風景】横浜駅前公衆便所(加筆)
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=9341 その後横浜駅は二回(計三回)場所を移しました。
1872年(明治5年)初代横浜駅
初代横浜駅〜初代新橋駅が開通
初代横浜駅前
初代横浜駅前
※初代の駅舎は新橋駅と同じ形のペアの建物でした。
第849話 横浜・新橋、横浜が先?
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=9006
2代目 1915年(大正4年)
二代目横浜駅
〔所在地〕 横浜市西区高島2-1
初代横浜駅は町名に因んで「桜木町」に変更し現在に至ります。
二代目横浜駅のある高島町と初代横浜駅だった桜木町の間の線路は<電車専用>の線路になり[根岸線]の原型となります。
二代目横浜駅
桜木町駅・二代目横浜駅 間の風景。当時の乗り物一覧の意味合いが見えます。
1923年(大正12年)に起こった関東大震災で消失します。
被災した二代目横浜駅
しばらく 仮設駅での運用になりますが、
1928年(昭和3年)に
3代目横浜駅が完成し現在に至ります。
三代目横浜駅が決まるには紆余曲折あったようです。
平沼橋駅を横浜駅とするプランもありました。既に神奈川駅(現在の京急神奈川駅付近)がありましたので、神奈川駅をどうするかも重要な課題でした。
最終的には現在の場所に決定し、東急東横線、京急本線、相鉄線の私鉄三社と国鉄<東海道・横須賀・根岸線(京浜東北線)が駅舎を共にする最も利用路線の多い駅になりました。
※少し離れた場所に私鉄ターミナルのある大阪梅田や新宿、渋谷等はありますが現在の相互乗り入れとなる前は横浜が唯一でした。
三代目横浜駅
三代目横浜駅
<掲載絵葉書は個人蔵ですので禁無断転載です>
桜木町駅
12月 25

第984話【一枚の絵葉書から】珈琲牛乳

企業年賀はがき「横浜駅待合室ミルクスタンド」

これは昭和5年の年賀ハガキです。
横浜市中区紅葉ケ丘三号
学務部長殿
とあります。
ここに記された宛名の「学務部長」は
神奈川県学務部長 九鬼三郎と推測しましたが、確証ありません。
 戦前の学務部長は公立学校の事務方トップで、学校運営に関して県内の最高責任者として多くの管理監督を行っていたようです。
差出人が
横浜駅待合室 ミルクスタンドとなっています。
「迅速 安価な 御食事
 奉仕的な 栄養御飲物」
昭和初期の横浜駅待合室となれば、現在より重要施設で 学校関係者が利用することも多かったのかもしれません。
絵柄面から意外な情報がわかりましたので紹介しておきます。

三代目横浜駅東口

小唄 ハート節
萎縮 悲観を跳ねとばし
笑和 五歳の
春の駒 春の駒
オヤ 守山の
馬い うまゐゾ
ハート型
赤い戀路の ハート型
ハートだ ハートだ ハートだネ

日本一を目指すために富士山の絵柄をバックに 乳製品・飴類が並んでいます。
コンブ飴・ゴルフ(チョコか?)・守山キャラメル・珈琲牛乳・グリコ牛乳・アポロ・ Cherries MILK・Cherries CREAM(エバポレート ミルク=練乳)

平塚本社

ここに商品が並ぶメーカーは「守山」は現在もしっかり乳製品を製造販売している守山乳業株式会社でした。
本社は平塚市宮の前9‐32
沿革を戦前期だけ一覧化してみました。
1918年(大正7年)1月9日創立
 神奈川県中郡高部屋村日向にて「甲子(きのえね)商会製酪所」を創業 創業者 守山謙
1920年(大正9年)
 神奈川県平塚市に工場を新設(現本社、平塚工場地)
1923年(大正12年)4月20日
 日本で初めてのビン入り珈琲牛乳を東海道線国府津駅
 駅弁販売店・東華軒にて販売開始

この珈琲牛乳販売を開始した日を記念して、現在4月20日は「珈琲牛乳の日」となっています。
「創業者の守山謙が東京の商店にバターを納品しに出かけた際、住田商会・初代社長の住田多次郎さんが偶然同じ商店にコーヒーを売り込みに来ていました。住田社長はハワイへ移民しており、ハワイのコーヒー豆を東京の商社へ売り込みをしている最中でした。明治時代からコーヒーは飲まれていましたが、一般的にはあまりなじみのないもので、日本にコーヒーを広めようとする男と、乳製品を広めようとする男の運命的な出会いでした。
 住田社長は、ハワイではコーヒーにクリームを入れて飲むこともあると守山に教え、コーヒーを日本で広める方法を考えてほしいと、コーヒー豆を守山へ託しました。
 守山は早速家に持ち帰り、コーヒーにクリームの代わりに牛乳を混ぜてみました。コーヒーと牛乳が半々の割合になったとき、コーヒーの苦みと牛乳の甘さが程よくマッチし、いままでに飲んだことのないようなおいしい飲料が出来上がりました。さらに奥さんのアドバイスで砂糖を入れるとおいしさは増し、守山はコーヒー牛乳の商品化を計画することを決めました。」

(駅弁東華軒)
駅弁は駅単位に販売権が決まっていましたが現在はどうでしょうか。
東海道神奈川県内でいえば、
川崎駅・横浜駅・戸塚駅→崎陽軒
大船駅・藤沢駅・辻堂駅・茅ヶ崎駅・平塚駅→大船軒
大磯駅(昔)・二宮駅(なし)・国府津駅(外)・鴨宮駅(なし)・小田原駅〜熱海駅→東華軒
東華軒は1888年(明治21年)創業の東海道駅弁会社の中でも老舗中の老舗です。
本社は小田原ですが、駅弁の始まりは国府津駅でした。

少し横浜からは離れましたが 駅売りから発展したブランドの紹介でした。
本日は これまで。

10月 22

第973話 【駅から路上観察】京急神奈川駅から白楽まで。

今回の狙いは、私が世話人をしている「横浜路上観察学会」の例会レポートをアップします。基本参加時のリアリティを大切にしているのであまりレポート系はしないようにしていますが、街を紹介する良い情報源でもありますので
いくつか紹介していくことにしました。
□2018年10月に開催しました京急神奈川駅から白楽ルートから

今回のルート図

谷戸にひだ状に広がる横浜の典型的な稜線越えを楽しみます。横浜の地形は、俯瞰してみると鶴見エリアを除き、多くが襞のような凸凹の連続、小河川が葉脈のようになっているのが判ります。この葉脈の一つの<稜線>を歩きました。

横浜の水系

出発駅は京急「神奈川駅」です。
神奈川駅は、京急全駅中、最も乗降客数の少ない駅で2017年統計では一日あたりの乗降客数が4,637人、お隣「横浜駅」が堂々の第一位で323,668人規模ですので
神奈川駅は70分の一の規模です。距離も近くすぐに<廃止・合理化>対象駅ですが、それでも駅を統廃合しないのは、この駅が京急にとっても、東海道の歴史を語る上でも重要な<鉄道遺産>だからでしょう。

その証として神奈川駅の外観はなかなかの風情です。
早速
神奈川駅前で路上観察的不思議発見???
沿線上 最下位の乗降客数にもかかわらず、しかも時代が電話ボクス廃止傾向の中、駅前には公衆電話ボックスがなんとWで設置。共に現役です。

さあ、ここから丘陵を越えてみましょう。
“小河川”は丘陵地から小さなわき水などが集まり少しずつ水量を増やしながら川に成長していきます。都市化された小河川はかつての<林>を失い、宅地化されることで水量を一気に減らします。横浜のように水源地から河口までが短い河川は、雨が降ると暴れるきまぐれ河川が集中しています。
小暗渠も集中しているので 観察場所としては魅力たっぷりです。
「神奈川駅」から東海道本線を越える「青木橋」を渡ります。
そこには、幕末にアメリカ領事館があった青木山「本覚寺」があります。この青木山一帯は高台を表す”台町”と呼ばれ、かつては神奈川湊を見下ろす景勝地として高島嘉右衛門の邸宅があったことでも有名です。
この丘の下をトンネルで東京急行電鉄「東横線」が走っていましたが、地下化にともない使われなくなった<トンネル>を活かした「フラワー緑道」として遊歩道になっています。
ここでは音の響きが心地よいです。

フラワー緑道

(滝の川)
神奈川区には「滝の川」という準用河川があります。現在は東海道線の橋脚より下流部分しか見えませんが、かつてはこの地域の重要な産業河川でした。河口域は中世から重要港であった「神奈川湊」となり、水運は勿論、大きな漁業拠点でした。江戸時代は「滝の川」河口東海道の「神奈川宿」であり、幕末期には開港を求められた湊です。
地形図を眺めると一目瞭然ですが、
今回のコース
栗田谷・旭ケ丘・二本榎・斎藤分・中丸・六角橋エリアは、大きく二つに別れた「滝の川」の分水嶺であることが判ります。
仮に北滝の川(六角橋方向)と南滝の川(三ツ沢方向)と分けておきます。
この二つの流れは、東神奈川スケートリンクあたりで合流します。ここにはかつて「境橋」が架かっていました。橋の名残が残されています。

二つの滝の川が合流する境橋
境橋から上流が暗渠化。右が六角橋方向、左は三ツ沢方向へ

南滝の川<暗渠>道路です。川の雰囲気が残されています。
ここから丘陵を登っていきます。
横浜市立栗田谷中学校が右手上に見えてきます。
壁際に穴を埋めた痕跡が。レンガや大理石も混じっています。震災時の瓦礫を埋めたのでしょうか?
栗田谷中学校は1949年(昭和24年)にこの場所に移転したようです。

希望橋橋脚

(希望橋 橋脚)
栗田谷中学校は 道路を挟んで校庭があったので生徒たちの安全を考えて谷間部分に橋を架けました。希望橋と呼ばれ、つい最近までありましたが、耐震構造上の理由からか、廃止され、橋脚のみ残っています。
路上考古学的にはとても興味ある残骸です。
(通信用鋼管柱)
電柱と聞くと一般的にコンクリート製のものが思い浮かびますが、地域によっては金属製の電柱もよく見かけるようになりました。道路が狭かったり、傾斜地には最近良く使われるようになっています。電柱を<路上観察>するだけでも色々発見があります。
ほとんど無くなったクラシックタイプの<木製電柱>も探しどころです。

金属製の軽量電柱

(昭和の香り)
路地裏を歩いていると、昭和に出会います。戦後横浜が急膨張した時期に、住宅街や商店街が数多く完成しました。この急膨張時代の名残が、路地裏に残っています。
神奈川区は戦前戦後を通して住宅街として成長してきた街なので、一軒一軒の住宅の佇まいを観察するだけでも、戦後個人住宅史を垣間見ることができます。
(ノラ)
野良猫の生態も地域特性を表しています。賛成反対いろいろあるでしょうが、この地域ではノラがのんびり過ごしていて、ビクついていません。地域に馴染んでいる証拠です。

(善龍寺)
宿遠山善龍寺、この地域に古くからある浄土真宗のお寺。元々は真言宗でしたが、建長5年(1253年)に浄土真宗寺院として中興されました。
新編武蔵風土記稿では
「斉藤分にあり。浄土真宗西本願寺の末寺なり。宿遠山と号す。開山のこと詳ならず。古は真言宗なりと云。本堂七間に六間半、巽向なり、本尊阿弥陀を安ず。木の立像にして長二尺五寸なり。
鐘楼、門を入て右にあり。鐘に正徳年中の銘文あり。」
この浄土真宗寺院として再興した人物が<斎藤兼実>という人物で、この斎藤さんの<知行地>を 斎藤さんの”分”ですという地名が現在でも残っているという説があり、もう一方で斎藤式部入道なる武士がこの地を治めたところから斎藤分となった!

というなかなかの時代(中世)を実感できる場所です。(それぞれ根拠不詳)
この善龍寺には「五代目一龍斎貞丈」の墓碑があります。講談と横浜の関係を知る上でも重要な人物です。
(神奈川大学付近)
少し歩くと、神奈川大学キャンパスが見えてきます。ここは隠れ通学路(東神奈川駅)らしく学生が多く歩いています。
神奈川大学と付近に関しては 色々面白いネタがあり、別テーマで紹介したいところです。
ちょっと飛ばして、
一山越えて、
「北滝の川」に出ます。ここからは細いけれども実に暗渠らしい遊歩道が、六角橋商店街の裏まで続きます。途中、暗渠ならではの階段、マンホール、壁があるので、路上観察的には発見の多い場所です。
さて、終着点六角橋に到着しました。
ここまでの行程で約4キロくらいでした。

六角橋周辺は路上観察の宝庫。路上博物館ともいえる空間です。
変な発見がたくさんあります。
スタート時のツイン公衆電話が なんと!ゴールの六角橋にも。
ここではボックスではなく、据置型でした。まだまだ需要があるんですね。

路上観察を始めると
普段は見逃しているものが<見えてくる>
路上が気になって気になって仕方なくなります。
くれぐれも事故のないように!
今回はこれでおしまい。

7月 10

第958話【横浜真景一覧図絵徹底研究】第三話

初代横浜駅前の様子

「横浜真景一覧」には他のエリアとは異なり少々おざなりな描かれ方の初代横浜駅が描かれている。

初代横浜駅構内全景

横浜に初めて鉄道が開業したのは1872年6月12日(明治5年(旧暦)5月7日)のことだ。維新直後の明治2年には鉄道敷設が決定され、衣替えのように<近代化>が進んだ背景には、近世江戸期の文化・技術の奥深さがあったことを再認識しなければならない。
それでも相変わらず厳しい<攘夷思想>が渦巻く明治初期に全く経験値のない鉄道を設計・敷設・指導した英国人技師モレルに対しては改めてその偉大な成果、努力に敬意を表したい。山師の様な、詐欺まがいの外国人もいた中、優秀で正直、謙虚なモレルには感謝しかない。また彼を支えた日本人パートナー達の努力も同じく敬意を表したい。
中でも<現桜木町ネタ>的に紹介するなら、
鉄道敷設の起点となった<野毛浦地先海岸埋立地(吉田橋北詰から野毛浦.・石崎までの埋立)>は内田清七(京屋清七)の功績が大きく、彼の事業成功が無ければ、鉄道事業はこんなに早く完成していなかっただろう。高島嘉右衛門の功績が大きく紹介されている反面「内田清七」の名は鉄道発祥の地から殆ど消え去っているのは残念なことだ。大江橋も内田が請け負った歴史ある橋だ。
内田町を殆ど廃止したのは横浜町名史の汚点ではないか!
語り継ぐ人名はその功績に対し、残すのが後の人々の役割だと思う。
<吹上>
前置きが長かったが今回のテーマは、吹上。駅前の噴水に注目することにした。
この噴水も「内田清七埋地」に設置されたものだ。1891年(明治24年)に描かれた「横浜真景一覧」に登場する<初代横浜駅>前に大きな噴水がある。「吹上ゲ」と表示され、噴水脇にはガス灯らしきものが描かれているということは当時かなり珍しい噴水のライトアップも行われた証だ。
最初、地図上に発見した時「噴水か」「昔は吹上と言ったのか」という程度の認識だったが、この噴水は一体何時出来たのか?開業当初からなのか?という疑問が起こると
噴水好奇心の迷宮にはまり込んでしまった。
この噴水塔は1887年(明治20年)10月の近代水道創設を記念してつくられたものという資料があった。1887年時点では横浜市制前、神奈川県の管轄だった時期だ。
1889年(明治22年)に市制が施行され、水道事業が横浜市に移管されたのが翌年1890年(明治23年)のことだ。
ということはこの「吹上ゲ」の水源は横浜市の水道設備を経た道志の水ということだ。しかも新橋駅デザインのコピー的な評価を受けた初代横浜駅だが、駅前設計に関しては圧倒的に横浜駅のほうが素晴らしい。
新橋駅前にはこの「吹上ゲ」がない!(写真は現在の新橋駅舎レプリカ) 横浜駅は川に近く、海にも近い。そもそもの[港]に近い駅だった。
横浜駅を降り立った多くの乗客は、その開放感と潮の香りに新しい時代を感じ取ったに違いない。

横浜駅噴水

(余談)
古い噴水といえば「横浜公園の噴水」が有名だが、現在の噴水は1928年(昭和3年)関東大震災の復興事業としてつくられた?らしい。元々はブラントン設計時からだとすると1876年(明治9年)か?(資料未確認)
では噴水の歴史は?ということで調べ始めた。存外困難を極め、噴水の歴史に近づくには本格的に図書館通いが必要そうなテーマに膨張。今回は入口前の散歩にとどめておく。
■噴水(ふんすい)
池や湖などに設けられる水を噴出する装置、またはその噴出される水そのもののことである。広場や庭園、公園の装飾的設備として設けられることが多い。
日本の噴水に限り歴史的には、wikipediaを引用すると
「奈良県にある飛鳥時代の石神遺跡では、水位差を利用して水を噴出させていたと推測される須弥山像と見られる石造物と、石人像が発掘されている。石人像は異国人の風貌を持つ男女の老人が杯を持つ姿をした像であり、百済からの渡来人の技術によって制作されたものと考えられる。
日本で最古とされる噴水は兼六園の噴水で、1861年に前田斉泰が金沢城内に作らせたものである。当然、動力は使われておらず、高低差を利用した位置エネルギーのみで動いている。その他、長崎公園の噴水も装飾噴水としては古いとされる。」
ここで紹介された<長崎公園の噴水>が近代以降の最初の噴水ということらしい。
長崎諏訪神社に隣接して開園した長崎公園内に1878年(明治11年)ごろに建造された。
では横浜公園の噴水は何時か?
別な資料では
一番目がこの長崎公園
二番目が大阪箕面公園の噴水(開園は1910年(明治43年)11月1日)で
三番目が千代田区日比谷公園の噴水。1905年(明治38年)頃東京美術学校(現在の東京芸大)の津田信夫、岡崎雪声両氏に依頼製作したもの。
ということは、1887年(明治20年)完成のこの初代横浜駅前噴水は歴史に記録されていない?
それは変だろう!さらに調べたら
1879年(明治12年)東京劇場千歳座庭園に噴水がある<絵>があった。
この辺を調べるには
「1873年(明治6年)太政官布達第16号」が深く関わっている。
噴水の歴史に関しては もう少し時間をいただくことにしたい。
(つづく)

3月 28

第880話【絵葉書の風景】横濱乗物図鑑(加筆修正)

「車馬交通の最も頻繁なる桜木町通り」

私のお気に入りの絵葉書の一枚です。
改めて見直すとこの<風景>少々 不自然さ感じませんか?
意図して、当時の乗物すべてをここに集めて撮影したとしか思えない構図となっています。
カメラマンは市内の乗物を一同に並べ 一斉に走らせ シャッターを切った!
という感じがします。
市電は止まっているかもしれませんが、自転車を含め動きもあります。

(画像右から)□歩行者
電信柱の横、歩道に女性が歩いているのは判りますか?
□馬車
袋をいっぱい積んだ馬車と車夫
後続の馬車
□人力車
□多数の自転車
□高架に電車
□自動車
□市電(307番)上り線
横切る自転車荷車、大八車を引く人
空(から)のものから満載まで多様な荷車が道路を走っている姿が捉えられています。

■撮影時期の推定
大正13年〜昭和初期あたりと推定できます。
時刻は 左の時計から午後3時50分あたりでしょうか。

■画像左のマールの建築は「神奈川県農工銀行」
明治31年〜昭和19年まで営業

昭和4年

「農工銀行(のうこうぎんこう)とは、日本全国各地に戦前に存在した、特殊銀行の一つ。」で戦後勧業銀行に吸収されました。
こうやって改めて見直すと
まさに 「横濱乗物図鑑」のような風景です。
ここで空に航空機が舞えば パーフェクト、とまでは望まないことにしましょう。

Category: 鉄道一般, 横浜の駅, 【資料編】, 横浜の道, 横浜絵葉書 | 第880話【絵葉書の風景】横濱乗物図鑑(加筆修正) はコメントを受け付けていません
3月 25

第877話【時折今日の横浜】3月25日

1929年(昭和4年)の今日
横浜市営交通八十年史の年表に
「神中鉄道と連絡運転開始(連絡駅は社線は西横浜駅、市電は水道道停車場)」

時代は、横浜市の関東大震災復興計画が仕上げの時期に来ている頃です。
横浜の街(関内外特に伊勢佐木あたり)にも“にぎわい”が戻りつつありました。
神奈川の鉄道関係者にとって、昭和初期は苦難と希望の時期に当たります。
この年表にあった「神中鉄道と市電の連絡運転開始」を元に、当時の「西横浜」停留所の意味を考えてみます。
<神中は程ケ谷を目指す>
神中鉄道、現在の相模鉄道にとって「西横浜」停留所開業は重要な意味がありました。神中鉄道は厚木から始まり、当初は国鉄「程ケ谷駅」近くで東海道線につなげる計画で延伸してきたからです。まだ、横浜駅が二代目(高島町)のころです。
1927年(昭和2年)5月に「北程ケ谷(現:星川)」停留所を開業し、さらに国鉄東海道線を目指します。この年、保土ケ谷エリアは念願の横浜市に編入「保土ケ谷区」となり区役所も国鉄保土ヶ谷駅近くに開設します。
いよいよ東海道線との接続を実現するため「西横浜」停留所までの延伸計画を進めますが、震災で甚大な被害を受けた二代目横浜駅が廃止、三代目(現在の場所)となり、東海道線も弓なりだった路線が平沼を抜けほぼ真っすぐ程ケ谷駅と結ぶ新線が1928年(昭和3年)に完成します。
そこで、市電網の充実を復興計画の一環として計画していた横浜市は、神中鉄道「西横浜」開業に伴い、接続駅「水道道」停車場を1929年(昭和4年)3月25日に開業します。
これによって、
関内に竣工した新県庁にもまた市役所にもアクセスが確保できることになります。
1929年(昭和4年)2月14日に開業したこの「西横浜」停留所と3月25日開業の市電「水道道」停車場の<乗り継ぎ接続>は重要なポイントでした。
以降、神中鉄道は計画線を変更し、新しい東海道線に沿って
新しい「横浜駅」を目指します。
(相模鉄道延伸)
現在の相模鉄道の前身神中鉄道、延伸史をまとめてみました。
[厚木]〜大正15年5月12日〜[二俣川]
[二俣川]〜大正15年12月1月〜[星川](現:上星川)
[星川]〜昭和2年5月31日〜[北程ケ谷](現:星川)
[北程ケ谷]〜昭和4年2月14日〜[西横浜]
[西横浜]〜昭和6年10月25日〜[平沼橋]
[平沼橋]〜昭和8年12月27>〜[横浜]
<相鉄の簡単な歴史>
http://sotetsu-kids.jp/sotetsu/rekishi.html

(その他の3月25日)
■1959年(昭和34年)3月25日
「大黒町埋立完工式〔1.33〕(横浜の埋立)」
「大黒町地先埋立工事竣工式(横浜市会の百年)
「大黒町埋立工事竣工式(横浜税関百二十年史)
■1981年(昭和56年)3月25日
「市が開発した水の缶詰発売(横浜市会の百年)」
水の缶詰・・現在も横浜市水道局各営業所で販売(350ml入り50円)しています。
この缶詰は5年間保存可能で、缶入りなので遮光されています。
透明のビニール袋等に入れておくと、保存中に飲み口がほこりなどで汚れることがありません。
http://www.city.yokohama.lg.jp/…/life-inf/mizu/hozonsui.html
応急給水拠点
水道水の缶詰は
横浜市が全国で初めて昭和48年水道水の缶詰に製造計画に着手し
「全国に先がけて、昭和52年に災害備蓄用の保存飲料水として「水の缶詰」を販売しています。(水道局)」
■1989年(平成元年)3月25日
市政100周年・開港130周年記念「横浜博覧会」開幕
<開催期間は1989年(平成元年)3月25日〜10月1日>
開会式は3月24日です。
横浜博覧会関係はこのブログでも3月24日で紹介しています。
No.431 「みなとみらい」地鎮祭開催

No.431 「みなとみらい」地鎮祭開催


No.191 7月9日(火) 宙に舞う話

No.191 7月9日(火) 宙に舞う話


No.84 3月24日 実験都市ヨコハマの春祭り開催

No.84 3月24日 実験都市ヨコハマの春祭り開催


「横浜博覧会」開幕と一緒に横浜美術館も開館しています。

(3月25日関係ブログ)
No.85 3月25日 日本の運命を変えた男横浜に入港

No.85 3月25日 日本の運命を変えた男横浜に入港

Category: 横浜の駅, 相鉄線, 横浜市電, 横浜絵葉書 | 第877話【時折今日の横浜】3月25日 はコメントを受け付けていません
2月 25

第873話 【絵葉書の風景】駅前劇場

「横濱劇傷(場)
Yokoh Ma Tkoatrs Nera Yokohama Street.」
日本語も英語も怪しい! 誤植だらけ
キャプションの誤植は多けれど!!!たぶん
Yokohama theater near Yokohama Station.
ではないかなと推理しました。
英文は「横浜駅近くの横浜劇場」としたかったのではないか?
ということで 謎解きしてみます。

時代を遡り戦前、
関東大震災まで、横浜は日本有数の<劇場>が建ち並ぶ
賑わいの街でした。
劇場街の中心は<伊勢佐木町>でしたが
1915年(大正4年)8月15日に二代目横浜駅が高島町に開業します。この場所は 京浜電車、貨物用高架線、東海道線。そして市電が交錯する狭い空間でしたが、完成後駅前が少しづつ賑わっていきます。
その一つが<大劇場>の開業でした。
1920年(大正9年)9月11日
花咲町に歌舞伎などを行う総合劇場「横濱劇場」がオープンします。
二代目横浜駅から南へ約300mの<桜川>に面した場所だろうと思われます。東京と横浜の実業家達が出資し、劇場経営を松竹合名会社に任せます。
ところが
1923年(大正12年)9月1日に起こった関東大震災で焼失し
わずか3年弱でその姿を消すこととなります。
さらに時期を絞ってみます。
劇場前には「市川左團次」の役者のぼりが立っているのが判ります。
横浜劇場の演目記録から左団次を探すと
1921年(大正10年)6月初旬
大歌舞伎
市川左團次の「歌舞伎 義経千本桜」の興行がありますので、おそらく絵葉書の撮影時期はこの頃と推理できます。

「横濱劇場」は、当初の目論見と大きく異なり
交通事情も悪く(改善されず)経営不振に陥ります。
震災で焼失後、復活されることなく歴史から消えてゆきました。

横浜駅は、最初現在の桜木町に誕生し、二代目がこの絵葉書の劇場近くの高島になり
その後、現在の位置に移りました。
初代と三代目は華やかな歴史を刻んでいますが
8年の歴史を持った二代目「横浜駅」そして「横濱劇場」は殆ど語られることはありません。

Category: 鉄道一般, 横浜の駅, 【資料編】, 【横浜の水辺】, 横浜絵葉書 | 第873話 【絵葉書の風景】駅前劇場 はコメントを受け付けていません
12月 14

【市電ニュースの風景】1931年 №23

目下1930年代の短期間に発行していた「市電ニュース」の風景を読み解いています。

1931年(昭和6年)6月
六、七、八日 神奈川洲崎神社大祭(電車 洲崎神社社 バス 神奈川 下車)
七日 八大學新人水上競技選手権大会(電車元町下車)
=午後一時より元町横濱プールにて=
九日より十三日まで
第八回全神奈川バスケットボール大会(電車及バス 市役所前下車)
=各日午後六時半より横浜公園前YMCA室内体育場にて=
十日 剣道聯合会六月例会(電車弘明寺終点下車)
=午後六時半より横濱高工道場にて  観覧随意=
十一日 高松宮両殿下御帰朝
=『郵船』秩父丸にて午前十一時四號岸壁御着=
(懸賞標語)
注意が最良の安全地帯(当選者 青木文造君)
●洲崎大神(武州神奈川宿青木町御鎮守・洲崎神社)
源頼朝が安房国(現、千葉県)一宮の安房神社の霊を移して建久2年(1191)に創建したと伝えられています。
例大祭は現在6月6日以降の金・土・日曜日ですが
1931年の時は 土日月に渡って行われました。
●元町横濱プール
元町横濱プールは1930年(昭和5年)5月20日に完成、6月1日(日)に開場式が行われました。夜間施設を持っていましたので開場の翌月(7月)には日本初の夜間水上競技会が開催されました。
現在は「元町公園プール」と呼ばれています。
水源は井戸水を使っていたためにかなり冷たかったようです。もちろん現在は<水道>です。
戦後1946年(昭和21年)3月1日に接収され「オリンピックプール」とネーミングされ1952年(昭和27年)に解除、返還されました。
●横浜YMCA
1884年(明治17年)10月18日に横浜海岸教会の青年たちが中心となって設立されました。
横浜は東京・大阪に次いで3番目です。
1916年(大正5年)に現在の常盤町に会館が建ち、横浜で最初の室内体育場を持ちバスケットボール普及に大きく貢献しました。

Category: 横浜の駅, 【資料編】, 横浜の道, 横浜市電 | 【市電ニュースの風景】1931年 №23 はコメントを受け付けていません