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第951話【横浜の地図】東京横浜電鉄

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1930年(昭和5年)に発行された「東京横濱電鐵」の沿線案内を兼ねた路線図の一部です。

1930年(昭和5年)に発行

この路線図をネタにこの時代を少し読み解いてみます。
現在と異なっているのが、
○国鉄線の「程が谷」→「保土ケ谷」
一昔前は「保土ヶ谷」でしたが近年は「保土ケ谷」表記要請もあり変更されています。
この駅は1887年(明治20年)7月11日に東海道本線が開業し「程ヶ谷駅」として開業し、1931年(昭和6年)10月1日に保土ヶ谷に改称します。
現在「保土ケ谷駅」は横須賀線の駅で、東海道線は止まりません。
1930年(昭和5年)3月15日に横須賀線が電化されたことをきっかけに通過駅となりました。
○湘南電車黄金町駅→「京浜急行黄金町駅」
この路線図が発行された1930年(昭和5年)がポイントです。この年の4月1日に湘南電気鉄道が黄金町を始発駅として浦賀駅まで、また同時に金沢八景駅から湘南逗子駅まで開通しました。
翌年、湘南電気鉄道は隣の「日ノ出町駅」まで延伸、東から延伸した「京浜電気鉄道」と合流し京浜急行が誕生します。
○本横濱駅
1928年(昭和3年)8月から1931年(昭和6年)1月まで2年と5ヶ月間存在した駅です。やや複雑なのが本横濱駅は1928年(昭和3年)5月に「高島駅」として開業し、三ヶ月で変更され、1931年(昭和6年)1月に元の「高島駅」をちょっとアレンジした?「高島町駅」に戻ります。
現在は横浜駅・桜木町駅間が廃止され消え去りました。
○東神奈川・菊名間
この時点で、「大口駅」はありませんでした。大口駅が開業したのは戦後1947年(昭和22年)12月20日のことです。
○神奈川駅→廃止
東京横浜電鉄が開業当時、横濱の終着駅として1926年(大正15年)2月14日に開業しました。開業当時は、国鉄神奈川駅、京浜電気鉄道神奈川駅もできるなど、現在の横浜駅はありませんでした。その後、東京横浜電鉄が延伸する中、若干高島トンネル寄りに移動して営業。戦時中に空襲を受け全焼し営業休止のまま1950年(昭和25年)4月8日されました。
○新太田町駅→廃止
1926年(大正15年)路線の開業と同時に開設された駅です。神奈川駅と同様横浜大空襲で消失し休業し戦後すぐに廃止されました。
ところが、1949年(昭和24年)3月15日から6月15日まで野毛山と神奈川の二ヶ所に分かれて開催された「日本貿易博覧会」のアクセス駅として新太田町駅を「博覧会場前駅」として臨時復活しました。(記念碑が残っています)
No.75 3月15日 JAPAN FOREIGN TRADE FAIR YOKOHAMA

No.75 3月15日 JAPAN FOREIGN TRADE FAIR YOKOHAMA


※横浜駅・神奈川駅・反町駅・新太田町駅の駅間距離は極めて短かったので、廃止は時間の問題だったといえるでしょう。
○太尾駅→大倉山駅
太尾の名は古くからある地の名で、橘樹郡大綱村大字太尾を駅名としました。1932年(昭和7年)3月31日に「大倉山駅」に改称され現在に至ります。「大倉山」の名はこの路線マップに掲載されている「大倉精神文化研究所」がこの地に設立されたことに由来します。ここは梅の名所でもあります。
○綱島温泉駅→綱島駅
東京横浜電鉄が開通した1926年(大正15年)2月14日に開設された初期の駅の一つです。路線が開通した当時、すでにこの近くにラジウム温泉が出ることが確認されていたことから「綱島温泉駅」と命名。この温泉を電鉄会社も乗客誘致を兼ね温泉ビジネスに進出、直営の「綱島温泉浴場」を開業します。
その後、戦争突入により温泉街の旅館業廃業命令が出されながらも細々と営業されていました。
1944年(昭和19年)10月20日に綱島温泉駅は綱島駅に改称し現在に至ります。
温泉街としては、戦後また復活し「東京の奥座敷」や「関東の有馬温泉」などとも呼ばれた時期があります。
(西の岡山・東の綱島)
このフレーズは、戦前の桃の名産地を示した言葉で、綱島は水害に強い桃生産でその名を全国に轟かせた時期があります。
No.57 2月26日 ある街のある店の歴史

No.57 2月26日 ある街のある店の歴史


No.703 【閑話休題】ちょいと東西比較

No.703 【閑話休題】ちょいと東西比較


■住宅地の開発・販売
東京横浜電鉄時代から東急電鉄に至るまで、電鉄会社としては積極的に分譲地開発を進め、菊名(錦ヶ丘)、綱島、日吉、そして有名なった田園調布などが開発されました。
■白楽駅・東白楽駅
市営住宅
斎藤分町に建てられた市営住宅のことと思われます。
神奈川県立工業学校→1911年(明治44年)に開校した神奈川県立工業学校のことで神奈川県内で最も歴史ある工業高校です。日本のファーブルとして有名な熊田千佳慕もこの路線図が発行された頃の1929年(昭和4年)に、神奈川県立工業学校から東京美術学校(現・東京芸術大学)に入学しています。
No.44 2月13日 熊田と土門

No.44 2月13日 熊田と土門


■妙蓮寺・熊野神社・慈雲寺
戦前の観光資源は神社仏閣が主流を占めていました。沿線にも幾つか観光スポットとして神社仏閣が示されています。
妙蓮寺に関して
No.422 【舞台としての横浜】妙蓮寺と野毛

No.422 【舞台としての横浜】妙蓮寺と野毛


※横浜線と東急線に<翻弄された>お寺です。でも結果的に駅前の便利なお寺として良かったのではないでしょうか。
・熊野神社(師岡熊野神社)に関して
「横浜の祈願所として親しまれ西暦724(神亀元)年に開かれた1280余年の歴史を誇る 横浜市内随一のパワースポット」と自らのHPでも称する神社。  戦前はかなり広い境内があり、現在も杉山神社と尾根伝いに繋がっています。
・慈雲寺に関して
日蓮宗の寺院で、港北区仲手原にあります。妙蓮寺(妙仙寺)と並ぶ本門寺の末寺で新編武蔵風土記稿には「明治元年一月七日、神奈川町大火に類燒し、堂宇・什寶等悉く灰燼に歸し、中興以來の舊記等を失ひ、沿革全く不明となつた。同寺は元、神奈川町字神明町七百三十二番地に在つたが、現住第二十五世日量代、境内及び境地全部約一千坪の地と神奈川小學校敷地として、横濱市に讓與し、大正十四年八月十二日、今の地に移轉した。」とあります。

第932話 【祭りの風景】牛頭天王

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祭りの風景画像を読み解いてみます。
祭りの準備なのか、祭りの後の一休みなのか?
この風景は
1905年(明治38年)ごろ使用された絵葉書の画像部分です。

幟(のぼり)には「奉献 牛頭天王宮 本牧宮原」とあります。
年号も書かれていますが、<四年>の文字が読めますので、明治34年の画像でしょうか?
はっきり読み取れません。
恐らく、地名は横浜市中区に位置する「本牧宮原」のことだろうと思われます。
牛頭天王は「ごずてんのう」と読み、釈迦の生誕地に因む祇園精舎の守護神のことだそうです。現在の「八坂神社」にあたる「感神院祇園社」から勧請されて全国の祇園社、天王社で祀られ現在に至るようです。
では 本牧宮原に 牛頭天王宮を祀る神社があるのか?あったのか?
1909年(明治42年)開港五十年の年に、
本牧台の八王子神社(祭神:大山津見命)
宮原の八坂神社(祭神:建速須佐之男命)
間門の浅間神社(祭神:木花咲耶姫)を
「本牧十二天」に合祀しているという資料があり、恐らくこの「宮原八坂神社」の例祭のときに撮られた写真だろうと推理しました。何故、周辺の神社が一つにまとめられたのか?理由は判りませんが、本牧地域が個々の<字(あざ)>から広域化してまとまろうとした試みかもしれません。
明治十四年の迅速図を基に 宮原 八坂神社を探してみました。
宮原に近いところに<神社>記号がありましたので ここが「八坂神社」ではないのか?と地図にマークしてみました。
2017年11月アップ。さらに分かり次第アップします。

【横浜風景史】伊勢山皇大神宮

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「関東のお伊勢さま」と呼ばれている伊勢山皇大神宮は、開港後の急激な近代化する横浜港の鎮守様として野毛山に1870年(明治3年)創建されました。
 【伊勢山皇大神宮】
所在地:横浜市西区宮崎町64
宮司は池田正宏さん。
祭神は「天照皇大神」。
http://www.iseyama.jp
もともと戸部村東部の伊勢山(現在の掃部山公園の東北端あたり)にあった大神宮を、1870年(明治3年)に当時の神奈川県権知事だった井関盛艮によって、野毛山(現在地)に遷座して伊勢山皇大神宮と称えました。「横浜の総鎮守」とも呼ばれ以降この一帯は伊勢山と呼ばれるようになりました。
社殿は1926年(大正12年)関東大震災で倒壊焼失しましたが、
1928年(昭和3年)に再建されまた。
境内には野毛の鎮守であった「子の大神」も祭られています。裏参道には水神宮があります。神殿は堀立柱の唯一神明造鋼板茸ですが、
2020年(平成32年)の創建150年を期に伊勢神宮の部材を用いて建て替えることになります。
これは中々の出来事です。
例祭日は五月十五日。
境内には他に「明治十年西征陣亡軍人之碑(明治一二年建立)」「以徳報怨」「蒋公領徳碑(昭和六一年)」「万葉歌碑(犬養孝書・昭和六三年)」などがあります。

伊勢山皇大神宮と子どもたち

伊勢山皇大神宮と子どもたち

伊勢山皇大神宮と子どもたち

桜の頃の伊勢山皇大神宮と親子

親子で参拝

 


■一神明造鋼板茸の社殿

神明造鋼板茸の社殿

神明造鋼板茸の社殿

神明造鋼板茸の社殿

 

境内の風景
参道の風景

人力車で春の参拝

伊勢山 その風情は変わりませんが
周囲は 驚くばかりの変化です。

歴史の点と線(真鶴・横浜)

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今日のテーマですが タイトル通り
<歴史の点と線>を結んでみました。
1930年(昭和5年)7月25日
「上大岡にある西福寺(曹洞宗)の移転建立が完成(横浜歴史年表)」
所在地は横浜市港南区上大岡東1-38-19
一度前を通ったことがありましたが、写真は撮っていないので今度行ってみます。この「西福寺」お寺のサイトや港南区史・真鶴町史によると
もとは真鶴にあったお寺で、小田原市早川の「海蔵寺」の末寺、山号を「東向山」と称していました。了峯印達により文禄元年(1592年)創建されました。
※「西岸清光庵主」説もあります。
関東大震災で震源地に近かったため、損害が大きく檀家を持たなかったこの寺は再建を断念します。縁あって、上大岡に新寺建立の際、「西福寺」を移転することとなりました。
「地主の北見家の協力をいただき、昭和四年に寺籍譲り受けの許可も下り、移転の功労者「原田久吉翁」の号「二楽」を山号にいただき、新たに名前を「二楽山 西福寺」と改め、新生西福寺としてこの地で再出発しました。
そのご功績を讃え、松喜和尚は「西福寺中興開山」として原田久吉翁は「西福寺中興開基」として、永代にお奉りさせていただいております。(上大岡西福寺)」
ということで、真鶴と横浜の<縁>を少し紹介します。

(真鶴)
皆さんは真鶴半島をご存知ですか?
東海道本線で横浜から下り線で約1時間、相模湾の西南端に位置しています。
「「真鶴」は、神奈川県の西部にある小さな半島の町です。
古くから上質の石材とされる小松石の産地でもあり、江戸城の石垣、皇族の墓石としても有名です。
半島の先端、真鶴岬では景勝、三ツ石(三つ岩)を望めます。
また、半島全体は樹齢350年以上の黒松の林(御林)があり、魚付き保安林として漁師の方に守られています。半島全体は県立真鶴半島自然公園に指定されています。」

いくつかの町村がまとまり現在の湯河原町、真鶴町が形成されています。
「真鶴は、古くより漁業と石材が盛んに行われてきました。
漁業は魚つき保安林のおかげで良質なプランクトンが発生し、木々の影が魚を休ませるなど、魚にとってはストレスフリーな環境です。
石材は「本小松石」という銘石が採掘され、高級墓石として知られています。」(真鶴観光協会)
真鶴半島近隣では江戸時代から良質の安山岩を産出し、積出港としても栄えました。江戸城にも多く使われ、幕末には江戸湾の海防対策のために護岸や台場建設に用いられます。
(横浜と真鶴)
横浜が他の町にどのような影響を与えたのか?横浜市民は多くを学びません。

どちらかというと影響を受けたこと、それを受入れたことが語られています。
幕末から横浜が開港場として急成長する中、この発展に伴い功罪含め横浜は近隣都市、神奈川全域、そして全国にその影響も大きかった視点で歴史を考えてみることも大切でしょう。
真鶴町も幕末から<横浜>の影響を大きく受けました。神奈川台場や、1859年(安政6年)の開港に間に合わせるために突貫工事で開港場を完成させる際、真鶴の小松石を発注している記録が残っています。
また、みなとみらいで人気のドックヤードガーデン、横浜船渠(後の三菱重工業横浜造船所)第2号ドックの建設にも真鶴の石が大量に使われています。
前掲の神奈川県のマップから、東京湾・相模湾を眺めると、三浦港と真鶴港は沿岸航路の重要な位置にあることがわかります。
農耕地の少ないこの地域にとって、漁業と石材業は産業の根幹でした。この二大産業は皮肉にも当時鉄道のない時代には海を巡って利害が対立し、このエリアの歴史にも様々な闘争史を刻んでいます。
石材需要は時代の影響を大きく受けます。江戸時代に近隣の築城や改修計画は少なく石需要は減ります。開港期に一気に延びた需要も幕末の動乱期には一気に需要が落ちるなど景気の浮き沈みの大きい産業でした。
明治草創期から殖産興業の影響で、新設の工部省はこのあたりの石を<国管理>に指定します。横須賀製鉄所(横須賀造船所)、燈台、前述の横浜造船所等々用に使われることになり、真鶴は好景気となりました。
ところが、間もなく需要の国管理が解かれ<自由化>が訪れ生産現場は荒廃します。乱開発のため、石山のインフラが荒れ、積み出しにも影響が出ます。
真鶴一帯の石供給に陰りが出て、不景気が訪れます。そして次なる山は、鉄道建設ラッシュでした。横浜・品川間の鉄道敷設にも真鶴地方の石が使われます。
また、近代建築にも小松石が多く使用され<東京帝国大学>等に小松石が使われた記録があります。
大正時代には東京湾岸の河川・軍事施設等の整備計画に真鶴近辺の石が大量に使われ需要が高まります。
このようにジェットコースターのような石材需要の歴史の中で、漁業とミカン栽培なども景気の波を受けていきました。

(横浜商人)
真鶴の歴史に登場する横浜の実業家達は
浅野 総一郎(埋立)、朝田 又七(廻船)、雨宮敬次郎(鉄道)他
石を必要とする実業家たちも真鶴の資産に着目します。
その後、鉄道網の整備により保養地として湯河原・真鶴が着目され、東京は勿論 横浜の実業たちも温泉付き別荘計画に強い関心を寄せます。
真鶴と横浜を繋いだのは廻船、その後の鉄道でした。
現在真鶴駅前に初期の鉄道敷設を記念した「豆相人車鉄道歴史街道」の碑が建っています。
大正期、真鶴地域のミカンの多くが横浜港からカナダ、アメリカ、大連等に輸出され好景気に沸いた時代もありました。
この真鶴と横浜を繋いでいた<石>を運んだのが船です。この廻船業が真鶴の経済を支えて来ました。
天然の良港が古くから真鶴を支え、その安全祈願として国指定重要無形民俗文化財である貴重な日本三大「船祭」が行われます。
【真鶴貴船まつり 】
毎年 7月27日・7月28日に開催されます。

【市電ニュースの風景】1931年 №20

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目下1930年代の短期間に発行していた「市電ニュース」の風景を読み解いています。№201931年(昭和6年)5月
十四・五・六日 伊勢山皇大神宮大祭(電車 紅葉坂・野毛坂又は戸部一丁目下車
バス紅葉坂下車)
十五日 『郵船』浅間丸入港(ホノルルより午前中四号岸壁へ)
十五日 弘法大師誕生会ならびに詠歌大会(電車及バス本町一丁目下車)
=午前十一時より本町開港記念会館にてー入場無料=
十五日より十八日まで
第四回掃部山バザー(電車 紅葉坂・野毛坂又は戸部一丁目下車
バス紅葉坂又は雪見橋下車)
=マネキン劇場支那獅子舞其他余興沢山=
十六日 名古屋高商對横濱高商野球戦(午后三時横濱公園球場にて)
十六日 基督教婦人講演会 入場無料(午后二時尾上町指路教会にて)
十六・七日 神奈川金毘羅神社大祭(電車及バス 青木橋下車)
十六・七日 横濱専門学校記念祭(電車 六角橋終点より約四町)
=中等学校陸上競技会、音楽会、野球試合、提灯行列等ー入場無料=
18日シボレー大キャラバン隊(20数台)到着、元横濱駅裏広場で展覧

懸賞標語
「おつと危い左右(当選者 松本藤四郎君)」
※アラビア数字は別の年表から追記したものです。

[キーワード]
■伊勢山皇大神宮
横浜の総鎮守「関東のお伊勢さま」と呼ばれている伊勢山皇大神宮は、開港後現在の場所に遷座されてものです。現在の位置する場所からほど近い戸部村海岸伊勢の森の山上にあった神社を明治初年に国費を以て創建したもので、開港場の総鎮守として明治から今日まで多くの参拝者が訪れます。light_横浜商店街通り077 light_横浜商店街通り071No.691 【横浜神社めぐり1】伊勢山皇大神宮
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=5971

No.426 横浜で学ぶ(神社編1)
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=146

No.338 12月3日 (月)八の1418(加筆)
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=252

■電停 紅葉坂・野毛坂
横浜は坂の多い都市です。light_紅葉坂-1light_伊勢山電停

■『郵船』浅間丸
「太平洋の女王」と呼ばれた浅間丸。主に横浜-ホノルル-サンフランシスコ航路に就航し多くの日本人と訪日外国人を運びました。
ロサンゼルスオリンピックに出場した西竹一男
ハリウッドスターのダグラス・フェアバンクス
ヘレン・ケラー
交換船・海軍徴用船となった後
1944年(昭和19年)2月24日に魚雷を受けて損傷しますが沈没は免れます。修復後マニラから高雄へ向けて航行中魚雷が命中し沈没。

■四号岸壁
新港埠頭で客船用に多く使用された埠頭です。light_20150408165442 light_新港埠頭上空

■掃部山(かもんやま)
別の機会に詳しく紹介します。
■尾上町指路教会
指路教会は最初の横浜居住地39番から、現在地、太田町、住吉町を経て1892年(明治25年)再び現在地に戻り、ヘボンの尽力により赤レンガの教会堂が建てられました。初代指路教会は
設計:サルダ 1892年(明治25年)竣工
関東大震災で倒壊。現在の建物は大正15年竹中工務店の設計により再建されました。横浜市認定歴史的建造物です。

■神奈川金毘羅神社
大綱金刀比羅神社
「横浜の金刀比羅(こんぴら)さん、大神様の尊き御神徳を知る数多くの会社経営者を始め、船舶関係、農業関係、建築関係、医療関係、民衆に至るまで、十六神の大神様の御神徳を頂ける神社であります。」
旧東海道、神奈川宿台の坂に鎮座、街道の安泰と袖が浦神奈川港に出入りする船は海上安全を祈願した神社です。light_神奈川金毘羅

■横濱専門学校
神奈川大学の前身の校名。light__9145936light_P2090159(戦前の歩み)
1928年(昭和3年)
米田吉盛が横浜市中区桜木町に「横浜学院」を開設
現在の西区桜木町6丁目34番地にあった「桜木会館」の1階と2階を借り学校を開校。
同年12月
横浜学院、中区西戸部町富士塚に移転。スクリーンショット 2015-05-18 16.36.43スクリーンショット 2015-05-18 16.36.061929年(昭和4年)
専門学校令により「横濱専門学校」(法学科、商業理財科)を開設
1930年(昭和5年)
六角橋校地(現在の横浜キャンパス(横浜市神奈川区六角橋)へ移転
1939年(昭和14年)
工学系の3学科(機械、電気、工業経営)を新設
1945年(昭和20年)
GHQによって一時的に六角橋校地が接収
大倉山の大倉精神文化研究所と三ツ沢の県立第二横浜中学校(現横浜翠嵐高校)にて授業を再開。

【市電ニュースの風景】1931年 №18

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目下1930年代の短期間に発行していた「市電ニュース」の風景を読み解いています。

light_市電ニュース18号二、三日
攝政杯争奪京濱両中等学校対抗
野球戦
=二日は午後一時より、三日は午前十時より試合開始=
=両日共横浜公園球場にて 電車花園橋下車=
五日
長者町水天宮大祭(電車 長者町一丁目下車)
五日
第二回「ロスアンゼルス」對横濱高商野球戦
=午後三時より横浜公園球場にて 電車花園橋下車=
五、六日
清正公御勝守授與(電車清正公前下車)
=両日共早朝より長者町八丁目清正公堂にて=
七日
『郵船』秩父丸出航(午後三時四号岸壁発 桑港へ)

懸賞標語
降りる時には 前から用意(当選者 川延松太郎 君)

[キーワード]
■攝政杯
攝政(せっしょう)
「天皇が未成年であったり,病気・事故により国事行為を行えない場合,天皇の名で国事行為を行う者。皇室典範に定める順序により,成年の皇族が任じられる。」
「旧典範下では皇太子裕仁親王(のち昭和天皇)が1921年(大正10年)11月25日より、1926年(大正15年)12月25日の大正天皇崩御とそれに伴う自らの皇位践祚まで摂政を務めた。この間、摂政宮(せっしょうのみや)と称された。」
ここでは 昭和天皇が大正時代に大正天皇の摂政を務めた時期に 行啓記念として設けられたタイトルのことと思われます。light_皇太子殿下行啓記念

■京濱両中等学校
東京と横濱の中等学校の選抜→詳細は不明です。

■長者町水天宮
長者町水天宮は戦前 長者町(現在の横浜市中区長者町1-3-3)
→神奈川日産自動車(株) 横浜中店のある場所の一角にありました。
1945年(昭和20年)5月29日横浜大空襲で、社殿・社務所・末社等が全焼
その後 米進駐軍により境内も接収されてします。
南区西仲町にある「河野与七」の子孫宅に、仮社殿を建築し奉斎されますが
1999年(平成10年)土地の氏神である「旧太田村総鎮守杉山神社」に合祀され、現在「水天宮」として新たに奉斎されています。
※戦後一時期 長者町エリアは 米軍の接収地となり多くの施設が強制退去となります。
light_201505060051

light_長者町水天宮あたりlight_P7102952light_P7102965light_P7102965■第二回「ロスアンゼルス」對横濱高商野球戦
→№17 を参照してください。

■清正公
「清正公(せいしょうこう)」
加藤清正を祀る清正公は全国にあります。有名なのは東京品川 清正公覚林寺 。
横浜では 中区福富町エリアに「清正公通り」「清正公プラザ」の名が残っています。
栄玉山常清寺境内にあり、開運祈願の場として町内会に人気がありました。戦災で常清寺が焼失し久保山へ移転します。
一方、「清正公」は横浜大空襲でも類焼を免れますが 維持管理が難しくなり1978年(昭和53年)常清寺に移されます。
地元から移ってしまった「清正公」のお堂を懐かしむ声も高まり、吉田新田を完成させた吉田勘兵衛の十二代目、吉田貞一郎(元吉田興産社長)が1997年(平成9年)に再建し
現在は横浜市中区長者町9-168 に祀られています。
(写真があるはずなんですが 現在捜索中!見つかり次第 アップします)

■『郵船』秩父丸
→『郵船』龍田丸の姉妹船です。
詳しくは この後の<号>にも多く登場しますのでその時に紹介します。
No.38 2月7日 鎌倉丸をめぐる4つの物語
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=585
「秩父丸」は後に船名を変更し「鎌倉丸」となります。

【市電ニュースの風景】第一号その2

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前回に続き【市電ニュースの風景】第一号から今日はその2
この「市電ニュース」は毎週木曜日
市電車両内に掲示されました。
雑誌で言えば創刊号!ですが そんな派手な告知もなく
さり気なく掲示されたのではないでしょうか。
■第一号
1930年(昭和5年)12月25日発行
<1930年(昭和5年)12月〜1931年(昭和6年)正月>
二十五日(木)
「納の岡村天神詣(天神道假停留所下車)」
「市電ニュース」は156号までアーカイブされています。その中で、季節のイベント記事が多く告知されています。中でも神社仏閣関係の例祭や<市(いち)・縁日>などが多く紹介されました。
※岡村天神詣
岡村天満宮は「岡村の天神さま」として地域に親しまれています。創建は不詳ですが縁起によると鎌倉時代の建久年間(1190〜1198)に源頼朝の家臣が京都の北野天満宮の分霊をいただいて、この地に社を創建したことに始まるとされています。
ここも横浜に多い<杉山>天満宮から「岡村天満宮」と名称が変わり現在に至っているそうです。
light_横浜資料144※天神道假停留所下車
当時この岡村天神のお祭りがほぼ毎月25日に開かれ、多くの人達がここを訪れるために市電の臨時停留所が開設されたのが「天神道假停留所」です。
位置は「根岸橋」と「天神橋」の間でです。図にも示した通りこの臨時停留所から比較的(当時としては)広い道が滝頭小学校方向に繋がり参道(天神道)となったようです。
スクリーンショット 2015-04-23 4.51.02 この岡村天神の25日のお祭りを含め、岡村関係は頻繁に登場しますので都度紹介していくことにします。

二十八日(日)
「神戸市(電車バス保土ケ谷終点下車)」★
神戸市は「ごうどいち」と読みます。で現在復活して 保土ケ谷駅近くの会場で毎月第1日曜日に<宿場朝市 ごうどいち>として開催されています。
http://www.city.yokohama.lg.jp/hodogaya/kyutokaido/goudoiti.html

同 日 電車久保町延長線開通(予定)

三十日(火)
「郵船」大洋丸出港(午後三時桑港へ)
light_大さん橋風景083 light_大洋丸 =二十九日午前中 四号岸壁着=
light_新港埠頭上空(日本郵船の客船が停泊しているところが四号岸壁)
「大洋丸」はサンフランシスコ航路に就航した当時国内最大級の客船でした。ここに「郵船」とありますが、大洋丸は最初東洋汽船船籍の客船でした。
この「大洋丸」は波瀾万丈の船歴を持ちます。
1911年(明治44年)11月18日ドイツで建造され「カップ・フィニステレ(Cap Finisterre)en」の名で南米航路客船(ハンブルク〜ブエノスアイレス)間に就航しました。
※「カップ・フィニステレ(Cap Finisterre)」
http://de.wikipedia.org/wiki/Cap_Finisterre_(Schiff,_1911)#/media/File:Blucher_HAL.jpg
※フィニステレ岬(スペインの名所)
http://fr.wikipedia.org/wiki/Cap_Finisterre
1914年(大正3年)7月に始まった第一次世界大戦に8月1日ドイツ帝国がロシアに対して宣戦布告することで局地戦から世界を巻き込む大戦となります。
この時、カップ・フィニステレ号を所有するハンブルク・サウスアメリカ・ライン社(HSDG)は経営と船体保全のためハンブルグ港に<係船>を決定します。
この人類史上最初の世界レベルの大戦は1918年(大正7年)11月11日に休戦協定が成立し集結します。
1919年(大正8年)に入り、第一次世界大戦終結を受けてパリ講和会議が開催され、敗戦国ドイツに厳しいヴェルサイユ条約(対ドイツ講和条約)が調印されます。
※アメリカ議会は国際連盟を提唱したウィルソンのヴェルサイユ条約批准を否決。
この間、ハンブルグ港に<係船>されていたカップ・フィニステレ号は
戦後アメリカ海軍籍として軍用輸送船となり間もなく英国に引き渡されます。
この第一次世界大戦に日本は英米側の一員として参戦、結果戦勝国となります。ヴェルサイユ条約によって日本も賠償を得ることとなり権益や領土の他、
船舶や潜水艦など<物納>を受けることになります。(殆ど金がなかった)
light_20150423115800(戦勝賠償で横浜港に運ばれ係留されたドイツ潜水艦)

その中の賠償船割当客船舶が「カップ・フィニステレ(Cap Finisterre)」号でした。東洋汽船が国から引き受け(借受け)「大洋丸」と命名、太平洋航路に就航します。
1926年(大正15年)に東洋汽船の旅客船部門が日本郵船に吸収され、日本郵船船籍となります。
この「市電ニュース」に掲示された1930年(昭和5年)は日本郵船となっています。
大洋丸に関しても まだまだ紹介したいことがあります。その後の顛末を含め追々紹介します。

三十一日(水)
福引付全市聯合大売出最終日
=一月七日より景品引換(於市役所勧業課)=
※市役所勧業課
「市役所勧業課」は横浜市が区制後1935年に「産業課」→「産業部」→「経済部」→「経済局」その後は色々変わったので追いかけていません。

一月
二、三、四日(金土日)
羽田穴守稲荷神社臨時出張
=於伊勢佐木町四丁目(電車曙町下車)

「人は人道 車は車道 注意一瞬怪我一生」
この頃も交通事故が社会問題だったようです。
余談ですが この当時のタクシーのほとんどが「クライスラー車」だったそうです。昭和10年代は50銭、ちなみに市電は大人7銭、子供3銭だったそうです。
※( )曜日は今回追加したものです。また便宜上旧字と新字が混じっています。

次回は第二号へ

No.691 【横浜神社めぐり1】伊勢山皇大神宮

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横浜の注目神社!?といえば、

light_ 伊勢山下がス橋.jpg雪景色の瓦斯会社の背景に、神社が見えます。私の好きな横浜風景の一つです。
今回は関東のお伊勢様「伊勢山皇大神宮(いせやまこうだいじんぐう)」を紹介しましょう。

light_雪景色伊勢山戦前に神社の格を表していた< 旧社格>は県社で横浜の総鎮守です。

「宮崎町六四。宮司龍山庸道。祭神天照皇大神。もと戸部村東部の伊勢山(現在の掃部山公園東北端あたり)にあった大神宮(「武蔵風土記稿、戸部村」)を、明治三年神奈川県権知事井関盛艮の告諭により、野毛山に遷して伊勢山皇大神宮と称え、横浜の総鎮守と定めた。翌四年四月十五日神殿造営の工が成り、正遷宮式執行。これより所在地は伊勢山と呼ばれた。社殿は大正十二年の関東大震災で倒壊焼失したが、昭和三年再建復興した。境内社、本殿左側に、杵築宮・子の大神(子神社はもと野毛の鎮守で、旧所在地野毛町)。裏参道に水神宮。神殿唯一神明造、鋼板茸。境内三千九百五十五坪。例祭日五月十五日。境内には明治十年西征陣亡軍人之碑(明治一二年建立)、以徳報怨・蒋公領徳碑(昭和六一年)、万葉歌碑(犬養孝書・昭和六三年)などがある。(「横浜西区史」より)」

この伊勢山皇大神宮、表参道と裏参道があります。表参道前には「2014年10月」に移転オープンした「市民ギャラリー」があります。裏参道から出ると「横浜能楽堂」や「県立音楽堂」「掃部山公園」が近くにあり、散策には最高です。伊勢山皇大神宮・掃部山公園は桜の名所としても知られいます。春先、桜の時期にはとても美しい花見風景が広がります。

スクリーンショット 2014-11-03 20.24.01お宮参り以外にも、見どころチェック場所が多くあります。
●謎の記号が隠れています!
ここには、極めてマニアックな明治時代の<記号>が残っています。
No.143 5月22日 横浜遺産、あまりに無名!

●ここに名物教師が残した万葉集の碑があります。
No.338 12月3日 (月)八の1418(加筆)

※一方で、伊勢山皇大神宮は自慢できない日本初の破産神社として全国にその名をとどろかせてしまいました。
宮司とその親族らが始めたホテル経営(ホテル海洋亭)が破綻し神奈川県神社庁が神宮の運営を直轄しましたが「ホテル部分の資産価値が大幅に低下、多額の債務が経営を圧迫し、横浜地方裁判所に自己破産を申請、2003年(平成15年)4月7日に破産宣告を受けた。 負債は債権者2社に対し85億6500万円。神社本庁に属する神社で初めての破産となった。 ホテルは2006年(平成18年)11月27日破産宣告を受け、営業を中止した。」
このホテルのバーカウンターから眺める横浜港は渋くて良かったんだけどな。
その他のリンク
【番外編】古い葉書を読み解く

light_201410250008light_IMG_0786light_雪景色伊勢山light_横浜商店街通り081light_横浜商店街通り079light_横浜商店街通り077light_横浜絵葉書再編01_49light_伊勢山近くM25light_201410250005light_201312伊勢山皇大神宮資料024 2

No.22 1月22日 大谷嘉兵衛を追って(加筆)

【一枚の横浜絵葉書】神奈川熊野神社(688話)

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ここに偶然手に入れた二枚の戦前の絵葉書があります。

light_神奈川熊野神社神殿light_神奈川熊野神社正面 タイトルは「熊野神社拝殿(神奈川)」と「熊野神社正面(神奈川)」
この「熊野神社」は現存するのだろうか?
するとすればどこか?探してみることにしました。
この作業、意外に難しかったので、推論のプロセスを簡単にトレースしてみます。
●第一段階
この二枚の絵葉書は表面から戦前の発行であることが判りました。(ここでは画像は省略します)
ではこの「神奈川」は神奈川県を示しているのか?それとも横浜市内の神奈川を示しているのか?
この絵葉書の神奈川は横浜の<神奈川>と考えるのが妥当だと思います。一般的に県下全般の表示は特別な施設に限られていて 多くは地域の地名が入っているからです。

●第二段階
戦前の神奈川は現在の神奈川区に含まれほぼ一致します。そこで神奈川区に熊野神社が幾つあるのか?ネットで探すと熊野関係は三社が見つかりました。
○<東神奈川熊野神社> 神奈川区東神奈川1-1-3
○<熊野社> 神奈川区菅田町2712
○<須賀社> 神奈川区菅田町熊野台2669(地名が熊野台なので関連を考えました)
近隣の鶴見区にも3社ありましたが地理的にも離れているので除外しました。
▲熊野神社 横浜市鶴見区市場東中町9-21
▲熊野神社 横浜市鶴見区寺谷1-21-7
▲熊野神社 横浜市鶴見区北寺尾2-3-30

神社には社格というランクがあるのですが、絵葉書になる位ですから、地域を代表する神社だろうと推定できそうなので、神奈川で一番の神社を探したところ「東神奈川熊野神社」にほぼ間違いないことが判りました。
light_PA120087 この「東神奈川熊野神社」以前訪れたことのある神社です。京急仲木戸駅からほど近い住宅街の中にあります。
ところが、絵葉書と現在の社殿、鳥居の姿・軸が異なります。
light_PA120067これではここだ!と確定することができません。では「東神奈川熊野神社」の歴史を追ってみました。
■寛治元年に神奈川郷の鎮守として権現山(幸ヶ谷山上)に勧請
■応永五年正月山賊等のため祠宇焼失
■明応三年再建
■永正七年、権現山合戦で火災などですべてなくなる。
■正徳二年(1712)現地に遷座
■慶応四年正月大火で類焼、その後、社殿、神楽殿、神輿庫等を整備
<絵葉書の発行された時期はこの間あたりと推定できます>
■昭和二十年五月二十九日戦災(横浜大空襲)により焼失
■昭和三十八年八月現社殿を再建
■昭和三十九年に竣工奉祝祭。鳥居、玉垣、氏子会館(四十九年)、戦没者慰霊碑(四十一年)を建設
という記録がありますので、戦災で失った後の再建で社殿の様式が変わった可能性が判ります。この記録を解釈する限り<狛犬>は再建されていないようですので、絵葉書と現在の神社から痕跡を探す必要がでてきました。実際 現地に行ってみることにしました。

結果は実に簡単に判明しました。神社の方に写真を見せたところ、
「焼ける前のものですね」という答えをいただき、この絵葉書が「東神奈川熊野神社」であることが確定しました。なぜ建築様式が変わったのか?についてはご存知無く、今後の課題となりました。

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現在修復された「吽」形狛犬

「当時の狛犬が残っています」

スクリーンショット 2014-10-12 18.29.23

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現在残る「阿」形狛犬

スクリーンショット 2014-10-12 18.31.03合致しました。阿吽の内 本殿に向かって左側の「阿」は嘉永年間 「吽」は平成に入って修復されたものです。幕末期の記憶が残されていました。この「神奈川熊野神社」起源は近くの「権現山」です。次回は権現山から梅干しの道を探ってみます。

No.468 横浜で学ぶ(神社編3)

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神社編1、2に続き久しぶりですが
(神社編3)で、神社巡りの人気アイテム
狛犬(こまいぬ)を紹介しましょう。
狛犬全般、全国の狛犬紹介サイトはかなり多くあります。
ここでは限定的「横浜の狛犬」巡りを!

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皇紀2600に建てられた日枝神社の狛犬

まず、狛犬とは?
神社に奉納、設置された空想上の守護獣像で、
参道や拝殿の前に対(つい)で配置されています。
本来は「獅子・狛犬」といい、獅子と狛犬が対になっているのが日本独特の姿です。
神殿に向かって
右側が 口を開いた角なしの「阿像(あぞう)」で獅子、
左側が 口を閉じた角ありの「吽像(うんぞう)」で狛犬が設置されています。
この阿吽(あうん)の形は、日本独特のスタイルだそうです。
ところが、姿は阿吽共に“獅子”に、
逆に呼称は“狛犬”とする傾向にあります。
姿は凛々しく!呼び方は親しみやすく ということでしょうか。

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鞠を抑える阿像
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子どもと一緒の吽像

元々、インドから中国に伝わり、沖縄経由で日本に定着したようです。
中国の獅子像は一対になっているもの、単体のものありますが
対のものはほとんどが相似形で同じものが並んでいます。
※日本文化は、比較的左右非対称を好む傾向があるようです。
 「左近の桜 右近の橘」
※参考サイト
http://www.asahi-net.or.jp/~dw7y-szk/bunrui0.htm

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凛と立つ牙をむき出しにする吽獅子
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吠える阿獅子

(狛犬だけじゃない)

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お稲荷さんでは「きつね」の場合も
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ねずみが鎮座する「杉山神社」

横浜市西区中央にある「杉山神社」には対のネズミが神殿を守っています。

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かなり現代っぽい獅子像
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No.426 横浜で学ぶ(神社編1)

No.427 横浜で学ぶ(神社編2) 「横浜で鳥居に出会う」

No.156 6月4日(月) 三ツ池公園「コリア庭園」開園

(狛犬の隣人?ヘッテ)

(中国の座獅子、風鎮)
中国の廈門、台湾の金門に多く建っている風の神様「風鎮」は
狛犬の原型?ともいわれています。
沖縄に伝わり「シーサー」となっていきます。

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金門島の風鎮
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金門島の風鎮