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No.693【一枚の横浜絵葉書】「露臺ヨリ萬国橋ヲ眺ム」

オークションで絵葉書を探している時、目に留まる一枚に出会うことがあります。この一枚に関しては、まず萬国橋に関心が行き、どうしようかなと迷う程度のレベルでした。

light_資料沖仲仕絵葉書001戦前の「萬国橋」が写っていますが、もう少し大きく「萬国橋」が写っているものを探そうと思いました。ところが、
「露臺ヨリ萬国橋ヲ眺ム」のタイトルが気になりました。
<露臺>?
<露臺>とは、建物の外面に張り出した、屋根のない平らな所でバルコニーのこと。
現在の位置だとどこにあたるのだろうか?と探すとすぐに見つかりました。

葉書アングル海岸通り4丁目にある「萬国橋会議センター」(横浜港労働出張所)ハローワーク横浜港労働出張所から萬国橋を撮ったものでしょう。

light_PC020394この葉書の<表面(おもて)>には「神奈川県匡濟会 発行」「沖人夫休憩所新築落成記念」とありますので間違いなく“港で働く人”の施設で、現在も施設として機能していたことに驚きました。
資料沖仲仕絵葉書表(万国橋)
この絵葉書に写されている「萬国橋」めちゃデコラティブですね。

資料沖仲仕絵葉書アップ現在の万国橋は、1940年(昭和15年)に竣工した新港埠頭と北仲を結ぶコンクリートアーチ橋です。シンプルなコンクリートアーチ橋の前はこの絵葉書にあるような鉄橋で1914年(大正3年)に完成した「税関埠頭」と陸地を結ぶ唯一の橋として建造されました。

light_PC020351※橋の建設主体は大蔵省で現在も財務省管轄?
ということで、この絵葉書に描かれている「萬国橋」は1940年(昭和15年)以前ということがわかります。
「横浜近代史年表」を調べてみました。
1921年(大正10年)1月上旬に「沖人夫休憩所、税関構内の象ケ鼻と日本波止場に建設決定」。竣工は翌年1922年(大正11年)6月中旬「県匡濟会の施設として沖人夫休憩所竣工、名称を各々税関構内象ケ鼻・日本波止場沖仲仕休憩所と命名」とありました。
この年譜からこの絵葉書は1922年(大正11年)6月中旬頃の発行の可能性があります。
関東大震災の一年前のことですね。
その後、1925年(大正14年)12月12日に「沖仲仕休憩所、日本波止場に開所」
恐らく震災後復興・再建されたものでしょう。
この資料の範囲内では、絵葉書「露臺ヨリ萬国橋ヲ眺ム」は
震災直前の1922年(大正11年)か、復興の1925年(大正14年)と推定することができます。
橋周辺の風景から私は“震災直前”のように感じますが皆さんはいかがでしょうか?
その後、二カ所あった沖仲仕休憩所は1943年(昭和18年)3月31日に廃止されます。

(スペック)
神奈川県匡濟会 発行
沖人夫休憩所新築落成記念
「露臺ヨリ萬国橋ヲ眺ム」
現在の「萬国橋会議センター」
(横浜港労働出張所)
ハローワーク横浜港労働出張所

No.307 11月2日(金)日本波止場に万国橋

横浜消滅(後編)

No.693【一枚の横浜絵葉書】「露臺ヨリ萬国橋ヲ眺ム」」への2件のフィードバック

  1. 2013年12月のブログ№474「浜を愛した船乗りの夢」を読み大変勉強になりました。私は港南区に住んでいますが、地元に戦前期住み着いたアメリカ人がいたことは全く知りませんでした。太平洋戦争勃発後は敵国人として苦難の生活を強いられたのではないかと思いますが、「老いたる木は移植することができません。・・・」というルイスのコメントや、彼が検挙されながら友人縁者の努力で釈放されたというのは、どのような資料から分かったのでしょうか?もしできたら教えていただけませんか?

    1. №474「浜を愛した船乗りの夢」に関して
      参考文献
      「絵はがきの時代」細馬宏通 青土社
      「横浜外国人居留地ホテル史」澤 護
      「明治事物起原」
      http://www.greatwhitefleet.info/Karl_Lewis.html
      http://www.auspostalhistory.com/articles/171.php
      http://www.findagrave.com/cgi-bin/fg.cgi?page=gr&GRid=11069512
      他です。彼の一部情報だけの紹介ですのでさらに調べると面白いでしょう。

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