横浜事件簿」カテゴリーアーカイブ

第990話 近代・ミシン・横浜(3)

シンガーミシン騒動 in Yokohama
神奈川県警史には「戦時体制下の警察ー特異事件ー」に一項目立てて記述しています。
五.シンガーミシンの乱闘事件

神奈川県警史

ここでは4pを使って<乱闘事件>の概要を警察視点で説明しています。

また
横浜市史でも「労働者状態と労働運動」の項で
「シンガーミシン争議」
 として6pにも及ぶボリュームを使って触れています。
「横浜を舞台に、外資系企業で「民族意識に燃えた特異な」労働争議が発生した。」

横浜市史でも神奈川県警史でも<特異>であるとしています。
この「シンガーミシン争議」は、それまでの資本家(企業側)と労働者対立である労働争議とは異なる事件でした。

事の発端は
1932年(昭和7年)8月にシンガーミシン神戸支店に勤める従業員がシンガーミシン本社に向けて待遇改善を求めたことに始まりますが、
ここに至る背景には日米の企業の経営方式の違いや
シンガーミシン労使関係のこじれが積み重なっていました。
まず時代背景ですが
1901年(明治34年)まさに20世紀、日本に進出したシンガー社は同時に世界市場を席巻、「世界初の成功した多国籍企業」(ハーバードビジネスレポート(2003年))と呼ばれたグローバル企業の騎手でした。
20世紀前半が複製、大量生産、均一化の時代の始まりでした。工場・学校・映画などが時代を大きく変え始めます。
特に大量生産を具現化したのが<machine>でした。
しかも<服製造>という日常を席巻したのが<ミシン>でした。

1929年(昭和4年)10月にアメリカ合衆国で起き世界中を巻き込んでいった<世界恐慌>の影響が遅れて日本にも及び、昭和恐慌と呼ばれた不景気に陥ったことで販売不振に陥ったことも労働問題を悪化させました。

米国有数のグローバル企業シンガー社は
日本に進出した1896年の前、
1890年には 「SINGER brand reaches 90% market share globally.」と自社サイトでも告知しているようにほぼ市場を独占していました。
本社をニューヨークに置き、資本金十四億円、
明治38年に起こった<日露戦争>当時の日本の国家予算
一般会計が4億2000万円。
軍事費が7億3000万円、あわせて11億5000千万円より大きい資本金を保有していました。
神戸に日本総支部(現地本社)を置き、横浜、大阪、神戸、京城に中央支店と呼ばれる地位拠点を設けました。各中央支店には代表として本社社員(外国人)が就き、事務員(有給社員)と歩合給の販売員が雇われていました。
販売社員は全て固定給なしの歩合給で、
しかも入社に際し200円という大金を保証金として会社に納め、信用保険に強制加入、さらに国税10円以上を納める人物二名の保証人まで求められたという始末です。

販売組織は中央支店の下に各分店(販売店)を置き、
分店(販売店)は顧客に一台250円で販売し一年12ヶ月月賦で販売、毎月集金人が回収する方法を採っていました。
販売員は現金入金額の歩合で給与が支払われましたので、月賦回収が遅れると賃金も遅れ、回収不可能となった場合、退職の場合には<保証金><保証人>から回収という方法が採られました。
さらに昭和恐慌が起こったこと、この明治期に採用した特殊の雇用関係は日本が<働き方>の変革を進める中も変わらぬまま継続され続けます。
ここに販売員の不満が爆発することになった訳です。
従業員は交渉を求め、米国本社は一切の要求をはねつけます。経営者側は従業員を甘く観ていたようです。実力行使に出た従業員に対して米国から極東支配人リチャード・マクリアリーがホテルニューグランドに拠点を置き、強行な姿勢を貫きます。
「要求は全て拒絶」しこれをキッカケに従業員の結束が固められ
最終的に横浜を舞台に大乱闘事件が起こり外交問題にまで発展します。
会社側は信興団という暴力団を雇入れ、争議団体を威圧、それまで比較的左翼労働者組織に加盟しなかった争議団は組合を結成、総同盟に加入するという全面対決の様相となります。
1933年(昭和8年)1月18日争議団体のリーダー山本東作の下で実力行使を決定。
朝10時半に150名を集めさらに他の支店からも横浜公園に集合し
花園橋脇にあった横浜中央店に<薪>を手にして乱入。

中央店の位置はこのあたり?(未確認)

会社側は信興団が30名待ち構え、
ここに仁義なき大乱闘が始まります。重傷者1名、負傷者27名が出て店内はほぼ破壊されました。
事件は、
加賀町警察による争議団側の幹部175名逮捕で終局します。内、48名が起訴されますが、事件の内容としては実に寛大な措置となりました。
その後も警察が双方の間に入り、横浜商工会議所とともに調停に乗り出し争議団は一部の要求を実現しただけで渋々和解に応じます。
『全従業員をニグロ視する謬見を止めよ!』
『ヤンキー資本家』
途中で離脱した日本人従業員には
『日本人ながらも唐化している、米国のスパイ』といった発言もみられ、
新聞も警察もやや労働者側寄りになりという日本の戦前労働争議としてはナショナリズム(反米)と資本主義、社会主義が入り混じり不思議な事件として結末を迎えます。

結果、
米国大使(ジョセフ・グルー)、米国国務長官までがこの事件に言及し事態の回復を求めますが、時は日米対立、開戦へと向かうことになります。
多くの従業員が職場を離れ、国内企業に移動しシンガー社は殆どシェアを失います。
戦争を経て戦後の日本ミシンメーカー発展の大原動力となり、戦後のミシンブームを支えることになります。シンガー社は戦後販売組織を回復しますが、殆どシェアを回復することはできませんでした。

昭和7年ごろの日本政府は
~1932年(昭和7年)5月26日まで
犬養 毅(政友会)内閣 5・15事件のため首相暗殺のため総辞職し
1932年(昭和7年)5月26日~
斎藤 実(海軍)内閣が成立1934年(昭和9年)7月8日まで
当時の
駐日米国大使は
 戦後「本当の意味の知日家で、『真の日本の友』であった」と吉田茂が評したジョセフ・グルー(Joseph Clark Grew、1880年5月27日〜1965年5月25日)
1932年(昭和7年)2月19日(任命)〜
1941年(昭和16年)12月8日 太平洋戦争開戦時の大使

うまくまとまっていませんが参考資料が多く出されています。
日本労働史の視点からも実に興味深い事件です。

□追記
シンガーミシンの負の面ばかり紹介しましたが、
前回の章で洋裁学校の誕生を年表に記しました。
「シンガーミシン裁縫女学院」が東京、大阪、横浜等に開校され
日本の洋裁学校の草分け的存在となります。
ここから文化服装学院、杉野ドレメ、横浜洋裁専門女学院=岩崎学園
 他全国に広がりました。

第990話 近代・ミシン・横浜(1)
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=12530

第990話 近代・ミシン・横浜(2)
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=12535

第924話【市境を歩く】 市境の深ーい溝(修正)

この話題は以前フェイスブックで取り上げたものを
このブログ用に加筆修正しました。
1988年(昭和63年)2月19日
「戦前に臨時飛行場として造成された埋立地“夏島”の帰属をめぐる横浜・横須賀両市間の紛争が40年ぶりに決着し、横須賀市に帰属することとなった。」
という記事を発見。改めて考えてみると
つい最近(昭和63年)まで市境が確定せず
帰属争議が横浜市・横須賀市間で行われてきたという事実に驚きます。
現在の市境は

横浜・横須賀 市境(Google)

今年2017年横浜市域の<境目>をほぼ確認してきました。
川崎市境から初めて東京町田、大和、藤沢、鎌倉、横須賀と歩いてきました。
横浜市金沢区野島町と横須賀市夏島町でフィニッシュ!

野島を横須賀側から眺めながら「鷹取川」河口域から護岸に沿って歩くと日本でも“珍しい”岸下の<市境>になります。“珍しい”岸下の<市境>

これは私の素人調査ですが入江や運河の行政界は ざくっと調べた限り戦後の境界設定にこのようなぎりぎり設定はあまり考えられません。
そもそもこの<夏島問題>戦前からありましたので、
<歴史的経緯>を紐解いてみる必要があります。
岸下の<市境>なので横須賀市域の陸上の岸壁真下は<横浜市>になるため、当然<横浜市港湾局><環境創造局>管轄域となります。この際どい横浜市域に<干潟>があり、少し葦が自生しています。※漁港区域の管轄は<環境創造局>とご指摘いただきました。
今回、ここに葦がしっかり育つようにしようという活動のお手伝いをしつつ<市境>を越え確認してきました。
このエリアは干潟となっていて豊富な野鳥の飛来する空間にもなっています。
ところがご存知、干潟の葦原はゴミの<フィルター化>して大量のゴミが漂着しています。こればっかりはしっかり人の手でゴミを除去する必要があるからです。
ところが、掃除をスルためには横須賀市域から<欄干>を乗り越え横浜市域に下ります。そこで集めたゴミは横浜市指定の袋を使い、横須賀市域に上げ、横浜市のゴミとして金沢区のゴミ処理場に持ち込みます。横浜市内で生じたゴミは横須賀市を通過しないと処理できない空間でした。
『野島運河』は横浜市・横須賀市の大切な海洋資源であることを再確認しておきましょう。
(夏島問題)
名前の通り、「夏島」はかつて島でした。ただ、金沢区南部は明治期以前から現在までにかなり海岸線が変化した地域です。ここに「夏島」だけではなく「野島」の存在も面白い歴史的経緯を持っています。
夏島ですが
戦前、軍の飛行場拡張のため夏島周辺を埋立てた場所の帰属が横須賀市なのか、横浜市なのか、両市が争った!という事件です。(戦前は横須賀市?)

結果 長い協議を経て
夏島一体の埋立地は横須賀市ということに決着したということです。
問題となった軍航空施設の埋立て地は面積45万坪にも及び、その74%(約33万坪)が戦後<地方公共団体>に属さない所属未定地であったところから係争となりました。こんなこともあることにも驚きました。
前述の通り、
このエリア、幕末から明治の頃、「野島」と「夏島」の間は広い海で、干潮時には広大な干潟になる自然豊かな場所でした。
この干潟を明治時代あたりに海軍航空隊の飛行場を整備するため埋立を進めます。夏島にあった小さな山を削り、その土砂で南側の追浜との間を埋め立ててしまいます。
戦争が終わりますが、この海軍の追浜埋立地は皮肉にもそのまま米軍の管理下に入り基地として使用されます。
接収解除後、日産自動車の追浜工場敷地となり現在に至ります。日産追浜はテストコースもあり、一時期新車スクープ事件も起こったり日産にとっても重要な工場の一つです。
戦後の地図を調べてみると 驚き
横浜市域が夏島の中に引かれているではありませんか。

地図制作会社は 何を基準に作図したのでしょうか?
行政の懐事情で言えば、
大企業がそこに進出しているわけですから税金が違ってくるため、自治体はある意味必死だったのでしょう。
和解と合意の内容に関しては調べていませんので不明ですが、
横浜市民的には 入るべき<税>を横浜市は諦めたのは市民の利益を失う行為!!
ですね。
※一方、野島はかつて島ではありませんでした。このあたりも知りたいところです。
※注力散漫でした。港湾区域図をしっかり見ませんでした。

第907話 九隻のペリー艦隊

ここに「横濱村辺之図」という江戸末期に描かれた絵図があります。
横浜の歴史を大きく変えた米国ペリー艦隊が横浜沖に集結している様子を描いたものです。
さて?
この絵図の描いた時期はいつごろか?最初にペリーが江戸湾に現れたのが
1853(嘉永六)年のことです。この時は、四隻の黒船で現れました。
「泰平の眠りを覚ます上喜撰 たつた四杯で夜も眠れず」
という狂歌が有名ですが、作られたのは明治以降ではないか?というのが現在の定説のようです。
絵図に戻ります。この絵図には 黒船が8隻描かれています。
すると、時は1854(嘉永七)年、暮れには元号が変わり安政となった
この年に再び来航した時のペリー艦隊の様子を描いたものという可能性が出てきました。
実はペリー艦隊は、時差で日本を目指しました。
ペリー艦隊来航の様子を順を追って整理してみます。
まず、
2月11日(一月十四日)に一隻の輸送艦「サザンプトン」(帆船)が浦賀沖に現れます。
二日後
2月13日(旧暦は省略)に旗艦「サスケハナ」号以下<蒸気外輪船>が帆船を曳航するかたちで六隻江戸湾浦賀沖に到着します。
「ミシシッピ」(蒸気外輪船)
「ポーハタン」(蒸気外輪船)
「マセドニアン」(帆船)
「ヴァンダリア」(帆船)
「レキシントン」(帆走補給艦)
2月24日 艦隊は神奈川沖に停泊することになります。
これで 合計七隻が横浜沖に集結します。
細かいことですが旗艦がここで「サスケハナ」から「ポーハタン」に変わります。
さらに約一週間後
3月4日に「サラトガ」(帆船)が合流し、
3月19日「サプライ」その名の通り帆走補給艦が合流して
合計九隻とあいなります。
幕府は驚きます。予定より半年早い不意打ちに近いペリー再来訪だったからです。
前年の1853年に初めてペリーが四隻の黒船で現れたのに対し、
今度は九隻ですから倍以上の陣容で来航したことになります。
なかなかの威圧です。交渉は双方冷静に厳しく行われます。
ところが!この絵図には
艦艇が八隻しか見当たらない!

順を追うと
ペリー艦隊九隻目の帆走補給艦「サプライ」が到着していない!
ということになります。
この絵図が正確であれば
1854年3月4日以降、19日までの二週間に観測された図?
さらに描かれている絵をじっくり見ると
蒸気外輪フリゲート艦が3隻描かれています。
旗艦「サスケハナ」「ミシシッピ」「ポーハタン」
正確ですね。
かなり信用できる絵図ということでしょうか。
ということは
第一陣が来航し、最後の一隻が到着する間に日米交渉の場(応接所)が設営されている間、艦上で厳しい交渉に入ったあたりをこの絵図が描いているということになります。
その後、九隻のペリー艦隊の下で日米交渉が行われますが、
途中の3月24日には
蒸気外輪フリゲート艦「サスケハナ」号が香港に戻ります。
日米和親条約が幕府の応接所で無事締結されたのが
1854年3月31日(嘉永七年三月三日)です。
この日黒船は横濱沖に八隻停泊していたことになりますが
蒸気船は二隻、帆船が六隻という陣容でしたので
【結論】この絵図は、
1854年3月4日以降、19日までの二週間に観測されたと推理するのが妥当かと思われます。
締結後ペリー艦隊全艦は
1854年4月10日(嘉永七年三月十三日)
横濱沖を出発し、最初に幕府が拒んだ江戸湾奥まで艦隊を進め、羽田沖あたりまで侵攻(測量を兼ね)しますがこの辺りでUターンします。
幕府はかなり焦ったと思います。ペリーがUターンした理由は記録に残されていませんが
羽田沖は海苔の養殖棚が多く養殖の杭を江戸湾の防護杭とペリーは勘違いしたようです。
その後、一行は伊豆下田に本拠地を移し
日米関係に新しい時代が訪れます。
些細な史実ですが 解き明かす面白さを感じた一枚の絵図でした。

(関連ブログ)
No.412 多吉郎、横浜に死す。

第886話【横浜の記念式典】復興記念横浜大博覧会

■復興記念横浜大博覧会

◎開催期間:
1935年(昭和10年)3月26日から5月24日
◎開催会場:
山下公園を含む山下町一帯(約10万平方メートル)
◎開催内容:
「大正12年の関東大震災から立ち直った横浜市が復興を記念して産業貿易の全貌を紹介するため、山下公園約10万平方メートルを会場に開催した。風光の明媚と情緒随一の山下公園には、1号館から5号館まで各県と団体が出展、付設館として近代科学館、復興館、開港記念館のほか、正面に飛行機と戦車を描いた陸軍館と、1万トン級の巡洋艦を模した海軍国防館が作られ、館内に近代戦のパノラマがつくられ、戦時色の濃い内容であった。特設館は神奈川館のほか満州、台湾、朝鮮などが出展。娯楽施設は真珠採りの海女館、水族館、子供の国などがあり、外国余興場ではアメリカン・ロデオは、カーボーイの馬の曲乗りと投げ縄や、オートバイサーカスなどの妙技を見せ喝采を浴びた。この博覧会は百万円博といわれた。(乃村工芸)」
◎来場者数:
のべ3,299,000人
二ヶ月で約330万人が入場という記録がありますが、「山下公園一帯」に60日、一日あたり5万人以上の入場者があったということです。あくまで平均です。
新聞記事を探って、一日の入場者の動きを追いかけてみました。
3月26日(水)から5月24日(金)という曜日は土日を加味していませんね。
3月26日(水)から3月31日(日)62,340人
4月7日(日) 一日入場者65,000人
4月14日(日) 一日入場者75,043人
4月21日(日) 一日入場者78,000人
〜4月23日(火) 累計75万人を突破
〜4月29日(月) 昭和天皇誕生日(天長節)に累計100万人達成
5月1日(水) 一日入場者118,500人
5月2日(木) 一日入場者3万余人
5月5日(日) 一日入場者20万人突破
累計1,423,527人に。
5月7日(火) 午後一時延べ入場者150万人達成
5月19日(水) 一日入場者30万人
累計2,279,377人
最終結果
5月24日(金)
累計3,299,000人となっています。
実に残り5日間で100万人が入場ということですから、驚きです。
横濱市も予想を超える入場者に驚きを隠せない様子が報道資料からも読み取れます。

ここに300万人が!(現在の山下公園) 山下公園図

◎関連ブログ

【記念式典】横浜、金のシャチホコ

第689話【横浜の記念式典】もう一つの幻イベント
(復興記念)
一概に比較できませんが、1923年(大正12年)に起こった関東大震災から12年後にこの「復興記念横浜大博覧会」が行われました。
<震災復復興宣言>は震災後7年目に行われます。
亡くなられた方に対し七回忌のタイミングに合わせたのか判りませんが、
内務省と東京府、東京市は1930年(昭和5年)3月に終結宣言し、横浜市は復興記念の日を4月23日と宣言し「復興記念祭」を開催することになります。
この時、昭和天皇からは
「お祭り騒ぎにならぬやう」と釘を刺されたそうです。
横濱では市役所、公立学校を休みとし、横浜公園他で式典が行われました。

東北の<復興宣言>は何時になるのでしょうか。

■まだまだ読み込んでいない興味ある資料があります。
横浜で開催された戦前最大級の<博覧会>ここで実施された<関連事業><関連イベント>を通して、四年後にこの国が開戦に至る歴史の<隘路>の断片が見えてくるように思います。
このテーマさらに追いかけます。

第882話【時折今日の横浜】3月31日 年度末

横浜港の軸「大さん橋」が竣工したのが
1894年(明治27年)の今日3月31日
 最初は「鐵桟橋」とか「税関桟橋」と呼ばれました。
1932年(昭和7年)の3月31日
 東急東横線「高島町駅〜桜木町駅間」が全通しました。
1978年(昭和53年)の3月31日
 平和球場が「横浜スタジアム」に生まれ変わりました。
1996年(平成8年)の3月31日
 観光周遊バス「ブルーライン」廃止 横浜市営交通八十年史
  1984年(昭和59年)4月1日から運行の始まったダブルデッカー (Double Decker) 型市内観光周遊バス「ブルーライン号」が廃止になった日です。

この3月31日 世の中は「年度末」
年度末は何故3月なんでしょうかね?
現在国の根幹となる<会計年度>は法律で4月1日〜3月31日とされています。
実は近代化が始まった明治初期には何度も会計年度が変わり実務当事者はかなり苦労したようです。
本日は横浜ネタから少し離れて
「年度末」について
年度末にアクセクするのは<近代>かららしいのですが
その前に、では江戸時代はどうだったのか?
江戸時代における会計実務は「和式簿記(帳合)」によるものでした。
大福帳は正月に始まり大晦日で終わりましたので
江戸期の年度は正月に始まり大晦日で終わり、
現在のような決算を出すことはありませんでした。
(明治の会計年度)
1869年(明治2年9月)
→旧暦10月〜旧暦9月制
1872年(明治5年10月)
→1月〜12月(1873年(明治6年)実施)
1874年(明治7年)12月
→7月〜6月(1875年(明治8年)実施)
1884年(明治17年)10月
→4月〜3月<太政官達89号>明治19年4月施行
1886年(明治19年)4月から
現在のような年度が実施されるようになります。
会計年度のみならず、小学校でも4月入学が<奨励される>ようになります。
ただ学校の4月入学が法制化するのは もう少し時間がかかります。
1888年(明治21年)全国の師範学校4月入学
1900年(明治33年)小学校が4月入学
まだ 大学(1921年(大正10年)まで)・旧制高校(1919年(大正8年)まで)は9月入学となっていました。
※9月入学を続ける私学もありました。
現在のように4月新学期は日本だけのようです。概ね9月新学期が多いようですが、1月から9月までばらつきが見られます。真冬・真夏の新学期はないようですね。
会計年度に戻ります。諸外国では学校年度と会計年度が必ずしも一致しているわけではありません。
<世界の会計年度>
1月〜12月韓国、中国、ロシア、フランス、ドイツ、オランダ、ベルギー、スイスや南米諸国。
4月〜3月日本、イギリス、インド、パキスタン、カナダ、デンマークなど。
7月〜6月ノルウェー、スウェーデン、ギリシア、フィリピン、オーストラリアなど。
10月〜9月アメリカ、タイ、ミャンマー、ハイチなど。
日本が4月〜3月となったのはイギリスの影響が大きかったようです。

第851話 2009年(平成21年)7月17日相鉄平沼橋駅爆破予告

今日は少し“キワモノ”でこじつけました。
2009年(平成21年)7月17日に横浜地裁である事件の判決がありました。
事件は鉄道に対する<爆弾予告>で威力業務妨害に問われたもので
(判決)
事件番号:平成21年(わ)第737号等
罪 名:威力業務妨害
判 決:懲役1年6ヶ月・執行猶予4年
担 当:横浜地裁第3民事部 甲良裁判官(単独)
概 要:被告は今年の3月に相鉄平沼橋駅などに爆破を予告する紙を置いた。判決理由の中で甲良裁判官は、「自己中心的・短絡的犯行で酌むべき事情は無い」としながらも、「本件は紙を置いた程度に止まっており、実際の電車運行には支障が無かった」として情状酌量を認めた。

事件そのものの情報は上記だけなのでこれ以上のコメントはできませんが、
爆破予告の対象駅を<相鉄線 平沼橋>とした理由が気になりました。
「平沼橋駅」実に地味な駅です。

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ということで、本日のテーマは「相鉄線平沼橋駅」です。無理無理ネタです。

(相鉄線平沼橋駅)
「平沼橋駅」は横浜駅から900mしかない相鉄線で最も駅間距離の短い駅です。しかも、駅前に殆ど店らしい店の無い静かな駅です。駅前に“何もない駅”といえば京浜急行「神奈川駅」かここ「平沼駅」が横浜市内の静かな駅代表格ではないでしょうか。
共にメガステーション「横浜駅」に近いというのも共通点です。

「平沼駅」は1931年(昭和6年)10月25日に開業しました。
相鉄線はとにかく<苦労して>延伸してきた鉄道路線で、開業は1926年(大正元年)に二俣川と厚木間開業からスタートしました。当初は保土ケ谷駅に乗り入れる予定で延伸してきますが、最終的に横浜駅まで延伸し現在に至っています。
横浜駅 1933年(昭和8年)12月27日
平沼駅 1931年(昭和6年)10月25日
西横浜駅 1929年(昭和4年)2月14日
天王町駅 1930年(昭和5年)9月10日
北程ヶ谷駅1927年(昭和2年)5月31日(現:星川駅)
※和田町駅1952年(昭和27年)8月15日
上星川駅 1926年(大正15年)12月1日
西谷駅 1926年(大正15年)12月1日
鶴ヶ峰駅 1930年(昭和5年)10月25日
以上各駅の開業時期を見ても明らかなように、横浜駅から上星川駅までは天王町駅・和田町駅を除き、小刻みに(おおよそ二年毎に)横浜方面に延伸しながら開業しています。
「平沼駅」から900mしかない「横浜駅」への乗り入れにも二年という時がかかりました。
(平沼橋周辺)
前段で紹介したように駅前には殆ど店がありません。
この20年変らない人気のお店といえばお弁当の「寿軒」で値段も安く頑張っています。lightP6290021 lightP6290022 駅近くの名所といえば「横浜 水天宮平沼神社」です。
江戸後期にこのエリアの埋立て事業を始めた(5代目)平沼九兵衛が埋め立てた新田の氏神様として祀ったのが始まりです。碇の<紋>が近代の水天宮らしいちょっとモダンさも感じさせます。

ここの氏子総代は代々平沼家が務めています。スポーツ市長の平沼亮三も務めました。
少し歩きますが、バラを中心に四季の花が美しい「横浜イングリッシュガーデン」に電車で行く方はこの「平沼駅」から徒歩10分です。
http://www.y-eg.jp/index.php

(過去の7月17日ブログ)
No.199 7月17日(火)山手独立。
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=408
1899年(明治32年)7月17日(月)の今日。
治外法権が解消された通商航海条約が発効しました。
これによって、(一週間後の24日)より横浜居留地で内地雑居(ないちざっきょ)が始まり「山手町」が誕生します。

第847話 1945年(昭和20年)7月13日「海芝浦駅」空爆

1945年(昭和20年)7月13日、
戦争も末期となったこの日
連日実施されていた米軍による空襲が鶴見エリアにも行われました。
京浜運河に沿った工場群が目標となり東芝鶴見工場も被曝します。20396_1016499725060798_44193696028520643_n

「土砂降りの雨の中を午前零時ごろから二時ごろまで、川崎市を主目標とした
B29五十機が、高度二千メートル以下の低空で侵入、鶴見区内でも百発以上の爆弾を投下、岸谷では五十余名の死傷者を出し、安善の日本石油が全焼、東京ガスのタンクにも直撃弾、末広町の旭硝子、日本鋼管が損害を受け、鶴見発電所も被害があった。生麦・潮田・旭町の爆弾の穴は直径二十メートルもあり、人々を恐怖に陥れた。(鶴見区史)」
この時、東芝鶴見工場の一角には捕虜収容所の東京第14分所(旧第11派遣所)がありました。空襲によって宿舎が直撃を受け捕虜が28人死亡、16人負傷、負傷者の2人は後日死亡します。
「国内の捕虜収容所の組織はたびたび改編され、大戦期間中に開設された本所・分所・派遣所・分遣所などは約130ケ所に及ぶ。その一方、途中で閉鎖されるものもあり、終戦時においては7ヶ所の本所の傘下に、分所81ケ所、分遣所3ケ所があり、合計32,418人の捕虜が収容されていた。そして、終戦までに約3,500人が死亡している。(笹本妙子)」
(その後)
東芝工場内の収容所が空襲によって破壊された後、ここに収容されていた捕虜たちは鶴見区末広町1ー12ー4にあった第3派遣所に数日滞在し、その後<総持寺>前の施設に移され終戦を迎えます。
GHQはここでの30人の捕虜の死亡に対し、
軍当局が収容所を工場地帯に残すことを許した結果と判断します。ただ、ここに捕虜収容所があったことを米軍も認識しており、低空投下でも誤爆の可能性も高かった悲劇といえるでしょう。ここに労働力を確保するために捕虜収容所を設けた<日本>と無差別に近い爆撃を行った<米国>共に、戦争末期のヒステリックな措置であったことは間違いありません。11742779_1016499518394152_2219478854530783594_n ◆横浜市内の捕虜収容所
東芝鶴見
日清製粉鶴見航空機
日本鋼管鶴見造船
大阪造船鶴見
日本鋼管鶴見造船
日本鋼管浅野ドック横浜
日清製油横浜
三菱造船横浜
横浜船舶荷役
横浜対価レンガ
(大船海軍)他
上記のように、工場の集中していた鶴見エリアは捕虜収容所も集中していました。隣接する川崎を合わせると15か所にも及ぶ捕虜施設が設置されました。

(出口のない改札)
横浜市内にある鉄道の<駅>の中で、マニアに人気の不思議な駅があります。
ここに紹介した東芝鶴見工場のある鶴見線海芝浦駅(うみしばうらえき)です。
1940年(昭和15年)11月1日に開設した「海芝浦駅」は一般乗客が改札を出ることができません。駅構内の敷地を含め、隣接する東芝京浜事業所の敷地内にあり改札は東芝関係者しか利用できないからです。11039104_1016499238394180_2853717237091536787_n
ただ
ここには、「海芝浦駅」に隣接して一般開放された「海芝公園」が設置されています。公園管理運営は東芝京浜事業所が行っています。開園時間は9時〜20時30分で、一度駅を(改札とは別)出て、園内に入るようになっています。11693844_1016499385060832_1281891388955046405_n 11695737_1016499455060825_7531981560549839583_n 11698598_1016499431727494_899603435215712311_n

(過去の7月13日ブログ)
No.195 7月13日(金)BRAVE HEARTS
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=412
海上保安官の「仙崎大輔」を主人公にした超人気漫画「海猿」の映画第4作が 2012年7月13日(金)の今日、ロードショー公開されました。

第831話 1950年(昭和25年)6月25日朝鮮戦争勃発

1950年(昭和25年)6月25日の今日
「朝鮮動乱が勃発する。この戦争はわが国経済に多大な「特需」をもたらした(横浜商工会議所百年史)」
「朝鮮戦争勃発。(横浜市史)」
Wikipediaでは
「朝鮮戦争(ちょうせんせんそう、1950年6月25日-1953年7月27日休戦)は、1948年に成立したばかりの朝鮮民族の分断国家である大韓民国(韓国)と朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の間で、朝鮮半島の主権を巡り北朝鮮が、国境線と化していた38度線を越えて侵攻したことによって勃発した国際紛争。」
です。
朝鮮戦争は市内中心部が米軍により接収されていた横浜にとって大きな影響を与えました。そこには<光と影>があり、占領下の日本<横浜>の現実が鮮明になった戦争でもありました。

関内エリアは大半が占領地でした11666056_1007196312657806_2158586649515523571_n 横浜にとってこの戦争による最初の影響は横浜に司令部のあった「米国第八軍司令部」が韓国に移動します。在韓米軍は編成替えを行い極東を統括していた第八軍司令官ウォルトン・H・ウォーカー中将が朝鮮派遣アメリカ地上軍司令官に就任。
第八軍は横浜から大邱(テグ)へ司令部を移すことになります。

11377094_1007194569324647_2128983487843944639_n 11391788_1007194509324653_7381001016816611094_n大邱市内
この第八軍は現在もソウル特別市竜山(ヨンサン)基地に司令部があります。
第二次世界大戦中の1944年(昭和19年)6月10日にロバート・アイケルバーガー中将の指揮下に編成された部隊でダウンフォール作戦の相模湾(茅ヶ崎)上陸作戦を行う予定でした。10933703_1007194792657958_6417406341188521689_n このダウンフォール作戦の本土上陸作戦が実施される前に日本が降伏したことにより、第八軍は終戦後司令部を横浜市(横浜税関本庁舎)に設置し東日本(実質日本全体)の占領任務に就きます。
No.243 8月30日 (木)横浜の一番長い日
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=363

No.252 9月8日(土)横浜終戦直後その3
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=352

この第八軍は横浜を中心に様々な施設を接収していました。戦後接収時代を知る世代の方々は、市内のいたるところに「第八軍マーク」を見た記憶があるそうです。
第八軍マーク1795513_1007192579324846_1617232656768115400_n1896973_1007192605991510_2705981110115481566_n 10660179_1007192665991504_6360759367323415246_n
朝鮮戦争、朝鮮を舞台にした米ソの代理戦争となり日本は「国連軍」の支援という立場でこの戦争に関わることになります。横浜は「朝鮮戦争勃発にともなって横浜は国連軍の兵站基地となった。(高村直助「都市横浜の半世紀」)」ことだけでなく、過剰なレッドパージも行われ、他方 広範囲で公職追放されていた戦前の要職者の追放解除も行われることになります。
その後 1951年(昭和26年)9月8日 サンフランシスコ講和条約が結ばれ、ようやく国権を回復することになります。
No.246 9月2日(日)90年後の横浜(加筆修正)
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=358

No.177 6月25日(月) 出られない出口
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=431
「海芝浦」の話です。

第820話 1998年(平成10年)6月15日Yカード新設

ちょっとなつかしい姿から

マリンYカード

My collection マリンYカード

1998年(平成10年)6月15日
「地下鉄バス共通カード500円Yカード新設」(横浜市営交通八十年史)
廃止が2010年(平成22年)7月31日ですから12年の活躍、短かったのか長かったのか。
停止後、払い戻し期限は平成27年7月31日まででした!
そういえば交通系の磁気カードはいろいろ出ました。交通系磁気カード パスネット
オレンジカード
バス共通カード
マリンカード
Yカード
ファミリー環境一日乗車券※(現役)
一日乗車券※(現役)

(Yカード)
Yカードは「横浜市営地下鉄」と「横浜市営バス」のみで使用できるプリペイドカードです。
500円券と1,000円券と3,000円券がありました。

(マリンカード)
マリンカードも横浜市交通局が発行した磁気式のプリペイドカードです。
横浜市営地下鉄及び横浜市営バスを始め周辺地域の一部バス事業者で共通に使用できました。
※マリンカード及びYカードは、平成22年7月31日をもってすべてのサービスを終了
※払戻しは、平成27年7月31日で終了。
※バス共通カードの払戻も平成27年7月31日まで。

◎一日乗車券
最近は 一日乗車券を常備。市内全域の総てのバスルート(現在は市営バス)に乗る!ことに挑戦中、というほどがむしゃらではありませんが機会を見て、数回バスに乗る用事の時には この一日乗車券を駆使しています。

(過去の6月15日ブログから)
No.167 6月15日(金) 自然、単純、直裁、正直、経済的
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=443
1960年(昭和35年)6月15日(水)、元町公園の一角に移築された
エリスマン邸の開館式が行われました。

【ミニミニ今日の横浜】3月5日

タイムリーなネタから

1854年(嘉永7年3月5日)
「吉田松陰、海外渡航を狙って保土ケ谷宿にくる。」
数え年・25歳の時のことです。

ペリーが来航した際、一年後の再来を予告し去りますが、
半年も早くペリーは
1854年2月13日(嘉永7年1月16日)
琉球を経由して再び浦賀に来航し幕府を慌てさせます。その後も次々と艦船が江戸湾に入港、
3月19日(嘉永7年2月21日)
最終的に総勢9隻のペリー艦隊が江戸湾に集結します。
この時 ペリーに直接会う!と決めた人物が吉田松蔭です。足軽の金子重之輔と二人で、まず東海道の「保土ケ谷宿」に入り、そこから横濱に入ります。(おそらく 保土ケ谷道から戸部に出た?)
light_吉田松陰 ところが横濱では沖のペリー艦隊に近づくことが実行できず失敗。
ペリーが下田に移動したことを知り、伊豆に向かった松蔭らは海岸につないであった漁民の小舟を盗み艦船に向かい旗艦ポーハタン号に乗船、渡航を直訴しますが拒否され、断念。幕府の命で萩の野山獄に幽囚されることになります。下田踏海事件というそうです。
これを美談とするのか、愚行とするのか? 意見が別れるところです。
日米ワシン

No.65 3月5日 サルビアホール一周年(改訂)
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=554
今日は 短く 失礼します。