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第886話【横浜の記念式典】復興記念横浜大博覧会

■復興記念横浜大博覧会

◎開催期間:
1935年(昭和10年)3月26日から5月24日
◎開催会場:
山下公園を含む山下町一帯(約10万平方メートル)
◎開催内容:
「大正12年の関東大震災から立ち直った横浜市が復興を記念して産業貿易の全貌を紹介するため、山下公園約10万平方メートルを会場に開催した。風光の明媚と情緒随一の山下公園には、1号館から5号館まで各県と団体が出展、付設館として近代科学館、復興館、開港記念館のほか、正面に飛行機と戦車を描いた陸軍館と、1万トン級の巡洋艦を模した海軍国防館が作られ、館内に近代戦のパノラマがつくられ、戦時色の濃い内容であった。特設館は神奈川館のほか満州、台湾、朝鮮などが出展。娯楽施設は真珠採りの海女館、水族館、子供の国などがあり、外国余興場ではアメリカン・ロデオは、カーボーイの馬の曲乗りと投げ縄や、オートバイサーカスなどの妙技を見せ喝采を浴びた。この博覧会は百万円博といわれた。(乃村工芸)」
◎来場者数:
のべ3,299,000人
二ヶ月で約330万人が入場という記録がありますが、「山下公園一帯」に60日、一日あたり5万人以上の入場者があったということです。あくまで平均です。
新聞記事を探って、一日の入場者の動きを追いかけてみました。
3月26日(水)から5月24日(金)という曜日は土日を加味していませんね。
3月26日(水)から3月31日(日)62,340人
4月7日(日) 一日入場者65,000人
4月14日(日) 一日入場者75,043人
4月21日(日) 一日入場者78,000人
〜4月23日(火) 累計75万人を突破
〜4月29日(月) 昭和天皇誕生日(天長節)に累計100万人達成
5月1日(水) 一日入場者118,500人
5月2日(木) 一日入場者3万余人
5月5日(日) 一日入場者20万人突破
累計1,423,527人に。
5月7日(火) 午後一時延べ入場者150万人達成
5月19日(水) 一日入場者30万人
累計2,279,377人
最終結果
5月24日(金)
累計3,299,000人となっています。
実に残り5日間で100万人が入場ということですから、驚きです。
横濱市も予想を超える入場者に驚きを隠せない様子が報道資料からも読み取れます。

ここに300万人が!(現在の山下公園) 山下公園図

◎関連ブログ

【記念式典】横浜、金のシャチホコ

第689話【横浜の記念式典】もう一つの幻イベント
(復興記念)
一概に比較できませんが、1923年(大正12年)に起こった関東大震災から12年後にこの「復興記念横浜大博覧会」が行われましたが、
<震災復復興宣言>は
震災後7年目、亡くなられた方に対し七回忌に間に合わせたのか判りませんが、
内務省と東京府、東京市は1930年(昭和5年)3月に終結宣言します。
横浜市は復興記念の日を4月23日と宣言し「復興記念祭」を開催しました。
この時、昭和天皇からは
「お祭り騒ぎにならぬやう」と釘を刺されたそうです。
横濱では市役所、公立学校を休みとし、横浜公園他で式典が行われました。
2017年
東北の復興宣言は何時になるのでしょうか。

■まだまだ読み込んでいない興味ある資料があります。
横浜で開催された戦前最大級の<博覧会>ここで実施された<関連事業><関連イベント>を通して、四年後にこの国が開戦に至る歴史の<隘路>の断片が見えてくるように思います。
このテーマさらに追いかけます。

第882話【時折今日の横浜】3月31日 年度末

横浜港の軸「大さん橋」が竣工したのが
1894年(明治27年)の今日3月31日
 最初は「鐵桟橋」とか「税関桟橋」と呼ばれました。
1932年(昭和7年)の3月31日
 東急東横線「高島町駅〜桜木町駅間」が全通しました。
1978年(昭和53年)の3月31日
 平和球場が「横浜スタジアム」に生まれ変わりました。
1996年(平成8年)の3月31日
 観光周遊バス「ブルーライン」廃止 横浜市営交通八十年史
  1984年(昭和59年)4月1日から運行の始まったダブルデッカー (Double Decker) 型市内観光周遊バス「ブルーライン号」が廃止になった日です。

この3月31日 世の中は「年度末」
年度末は何故3月なんでしょうかね?
現在国の根幹となる<会計年度>は法律で4月1日〜3月31日とされています。
実は近代化が始まった明治初期には何度も会計年度が変わり実務当事者はかなり苦労したようです。
本日は横浜ネタから少し離れて
「年度末」について
年度末にアクセクするのは<近代>かららしいのですが
その前に、では江戸時代はどうだったのか?
江戸時代における会計実務は「和式簿記(帳合)」によるものでした。
大福帳は正月に始まり大晦日で終わりましたので
江戸期の年度は正月に始まり大晦日で終わり、
現在のような決算を出すことはありませんでした。
(明治の会計年度)
1869年(明治2年9月)
→旧暦10月〜旧暦9月制
1872年(明治5年10月)
→1月〜12月(1873年(明治6年)実施)
1874年(明治7年)12月
→7月〜6月(1875年(明治8年)実施)
1884年(明治17年)10月
→4月〜3月<太政官達89号>明治19年4月施行
1886年(明治19年)4月から
現在のような年度が実施されるようになります。
会計年度のみならず、小学校でも4月入学が<奨励される>ようになります。
ただ学校の4月入学が法制化するのは もう少し時間がかかります。
1888年(明治21年)全国の師範学校4月入学
1900年(明治33年)小学校が4月入学
まだ 大学(1921年(大正10年)まで)・旧制高校(1919年(大正8年)まで)は9月入学となっていました。
※9月入学を続ける私学もありました。
現在のように4月新学期は日本だけのようです。概ね9月新学期が多いようですが、1月から9月までばらつきが見られます。真冬・真夏の新学期はないようですね。
会計年度に戻ります。諸外国では学校年度と会計年度が必ずしも一致しているわけではありません。
<世界の会計年度>
1月〜12月韓国、中国、ロシア、フランス、ドイツ、オランダ、ベルギー、スイスや南米諸国。
4月〜3月日本、イギリス、インド、パキスタン、カナダ、デンマークなど。
7月〜6月ノルウェー、スウェーデン、ギリシア、フィリピン、オーストラリアなど。
10月〜9月アメリカ、タイ、ミャンマー、ハイチなど。
日本が4月〜3月となったのはイギリスの影響が大きかったようです。

第847話 1945年(昭和20年)7月13日「海芝浦駅」空爆

1945年(昭和20年)7月13日、
戦争も末期となったこの日
連日実施されていた米軍による空襲が鶴見エリアにも行われました。
京浜運河に沿った工場群が目標となり東芝鶴見工場も被曝します。20396_1016499725060798_44193696028520643_n

「土砂降りの雨の中を午前零時ごろから二時ごろまで、川崎市を主目標とした
B29五十機が、高度二千メートル以下の低空で侵入、鶴見区内でも百発以上の爆弾を投下、岸谷では五十余名の死傷者を出し、安善の日本石油が全焼、東京ガスのタンクにも直撃弾、末広町の旭硝子、日本鋼管が損害を受け、鶴見発電所も被害があった。生麦・潮田・旭町の爆弾の穴は直径二十メートルもあり、人々を恐怖に陥れた。(鶴見区史)」
この時、東芝鶴見工場の一角には捕虜収容所の東京第14分所(旧第11派遣所)がありました。空襲によって宿舎が直撃を受け捕虜が28人死亡、16人負傷、負傷者の2人は後日死亡します。
「国内の捕虜収容所の組織はたびたび改編され、大戦期間中に開設された本所・分所・派遣所・分遣所などは約130ケ所に及ぶ。その一方、途中で閉鎖されるものもあり、終戦時においては7ヶ所の本所の傘下に、分所81ケ所、分遣所3ケ所があり、合計32,418人の捕虜が収容されていた。そして、終戦までに約3,500人が死亡している。(笹本妙子)」
(その後)
東芝工場内の収容所が空襲によって破壊された後、ここに収容されていた捕虜たちは鶴見区末広町1ー12ー4にあった第3派遣所に数日滞在し、その後<総持寺>前の施設に移され終戦を迎えます。
GHQはここでの30人の捕虜の死亡に対し、
軍当局が収容所を工場地帯に残すことを許した結果と判断します。ただ、ここに捕虜収容所があったことを米軍も認識しており、低空投下でも誤爆の可能性も高かった悲劇といえるでしょう。ここに労働力を確保するために捕虜収容所を設けた<日本>と無差別に近い爆撃を行った<米国>共に、戦争末期のヒステリックな措置であったことは間違いありません。11742779_1016499518394152_2219478854530783594_n ◆横浜市内の捕虜収容所
東芝鶴見
日清製粉鶴見航空機
日本鋼管鶴見造船
大阪造船鶴見
日本鋼管鶴見造船
日本鋼管浅野ドック横浜
日清製油横浜
三菱造船横浜
横浜船舶荷役
横浜対価レンガ
(大船海軍)他
上記のように、工場の集中していた鶴見エリアは捕虜収容所も集中していました。隣接する川崎を合わせると15か所にも及ぶ捕虜施設が設置されました。

(出口のない改札)
横浜市内にある鉄道の<駅>の中で、マニアに人気の不思議な駅があります。
ここに紹介した東芝鶴見工場のある鶴見線海芝浦駅(うみしばうらえき)です。
1940年(昭和15年)11月1日に開設した「海芝浦駅」は一般乗客が改札を出ることができません。駅構内の敷地を含め、隣接する東芝京浜事業所の敷地内にあり改札は東芝関係者しか利用できないからです。11039104_1016499238394180_2853717237091536787_n
ただ
ここには、「海芝浦駅」に隣接して一般開放された「海芝公園」が設置されています。公園管理運営は東芝京浜事業所が行っています。開園時間は9時〜20時30分で、一度駅を(改札とは別)出て、園内に入るようになっています。11693844_1016499385060832_1281891388955046405_n 11695737_1016499455060825_7531981560549839583_n 11698598_1016499431727494_899603435215712311_n

(過去の7月13日ブログ)
No.195 7月13日(金)BRAVE HEARTS
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=412
海上保安官の「仙崎大輔」を主人公にした超人気漫画「海猿」の映画第4作が 2012年7月13日(金)の今日、ロードショー公開されました。

第820話 1998年(平成10年)6月15日Yカード新設

ちょっとなつかしい姿から

マリンYカード

My collection マリンYカード

1998年(平成10年)6月15日
「地下鉄バス共通カード500円Yカード新設」(横浜市営交通八十年史)
廃止が2010年(平成22年)7月31日ですから12年の活躍、短かったのか長かったのか。
停止後、払い戻し期限は平成27年7月31日まででした!
そういえば交通系の磁気カードはいろいろ出ました。交通系磁気カード パスネット
オレンジカード
バス共通カード
マリンカード
Yカード
ファミリー環境一日乗車券※(現役)
一日乗車券※(現役)

(Yカード)
Yカードは「横浜市営地下鉄」と「横浜市営バス」のみで使用できるプリペイドカードです。
500円券と1,000円券と3,000円券がありました。

(マリンカード)
マリンカードも横浜市交通局が発行した磁気式のプリペイドカードです。
横浜市営地下鉄及び横浜市営バスを始め周辺地域の一部バス事業者で共通に使用できました。
※マリンカード及びYカードは、平成22年7月31日をもってすべてのサービスを終了
※払戻しは、平成27年7月31日で終了。
※バス共通カードの払戻も平成27年7月31日まで。

◎一日乗車券
最近は 一日乗車券を常備。市内全域の総てのバスルート(現在は市営バス)に乗る!ことに挑戦中、というほどがむしゃらではありませんが機会を見て、数回バスに乗る用事の時には この一日乗車券を駆使しています。

(過去の6月15日ブログから)
No.167 6月15日(金) 自然、単純、直裁、正直、経済的
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=443
1960年(昭和35年)6月15日(水)、元町公園の一角に移築された
エリスマン邸の開館式が行われました。

【ミニミニ今日の横浜】3月5日

タイムリーなネタから

1854年(嘉永7年3月5日)
「吉田松陰、海外渡航を狙って保土ケ谷宿にくる。」
数え年・25歳の時のことです。

ペリーが来航した際、一年後の再来を予告し去りますが、
半年も早くペリーは
1854年2月13日(嘉永7年1月16日)
琉球を経由して再び浦賀に来航し幕府を慌てさせます。その後も次々と艦船が江戸湾に入港、
3月19日(嘉永7年2月21日)
最終的に総勢9隻のペリー艦隊が江戸湾に集結します。
この時 ペリーに直接会う!と決めた人物が吉田松蔭です。足軽の金子重之輔と二人で、まず東海道の「保土ケ谷宿」に入り、そこから横濱に入ります。(おそらく 保土ケ谷道から戸部に出た?)
light_吉田松陰 ところが横濱では沖のペリー艦隊に近づくことが実行できず失敗。
ペリーが下田に移動したことを知り、伊豆に向かった松蔭らは海岸につないであった漁民の小舟を盗み艦船に向かい旗艦ポーハタン号に乗船、渡航を直訴しますが拒否され、断念。幕府の命で萩の野山獄に幽囚されることになります。下田踏海事件というそうです。
これを美談とするのか、愚行とするのか? 意見が別れるところです。
日米ワシン

No.65 3月5日 サルビアホール一周年(改訂)
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=554
今日は 短く 失礼します。

No.692 世界一周機「ニッポン」(号)

1939年(昭和14年)8月27日午後3時3分47秒
北海道千歳の飛行場から世界一周をめざし一機の大型双発機が飛び立ちます。
J‐BACI「ニッポン号」
前日の8月26日午前10時27分に羽田を出発し、一旦北海道千歳に移動。
ここでスタート宣言し国産機初の世界一周に成功します。
このエピソードから少し<横浜>との関係をたぐり寄せてみましょう。
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第一次世界大戦に登場した航空機は、戦争の形態を大きく変えました。その後、軍拡と併せて航空機の技術革新による世界一周が各国でブームとなります。
1920年代に始まる世界一周飛行を追ってみます。
 ●1924年(大正13年)4月4日〜9月28日
アメリカ陸軍のスミス中尉が、ダグラス DWC複葉機4機編隊で挑戦し、各地で補給と整備を繰り返しながら2機が成功しました。
航続距離4万6560km、175日、飛行333時間。
ルート:シカゴ→シアトル→ダッチハーバー(アラスカ)→※霞ヶ浦→上海→カラチ→ロンドン→アイスランド→グリーンランド→シカゴ
 ■1927年(昭和2年)5月
世界一周ではありませんが、単葉機スピリットオブセントルイス号でチャールズ・リンドバーグが単独の大西洋無着陸横断飛行を初めて達成し世界を驚かせます。

※No.251 9月7日(金)リンディ夫妻の喜び

→リンドバーグ夫妻は1931年(昭和6年)9月7日(月)に横浜を訪れています。
 ●1928年(昭和3年)
オーストラリアのブリスベン生まれのチャールズ・キングスフォード・スミスが、カリフォルニア州オークランドから離陸、途中ハワイ、スヴァを経由してブリスベンに至る歴史的な横断飛行を飛行時間83時間38分で達成します。
 ●1929年8月8日〜8月29日
LZ 127 グラーフツェッペリンが飛行船により世界一周を達成します。この時、予定に無い航路を選び、横浜上空を周回し霞ヶ浦に着陸します。
No.232 8月19日 (日)LZ-127号の特命

 ●1931年(昭和6年)6月23日〜7月1日
アメリカのウィリー・ポストとゲッティが、ロッキード ベガ「ウィニー・メー号」で航続距離2万5910km、8日15時間51分、飛行125時間を達成します。
ルート:ニューヨーク→ベルリン→モスクワ→ニューヨーク
 ●1931年(昭和6年)7月28日
アメリカのパングボーンとハーンドンが、ベランカ機「ミス・ビードル号」で世界一周最速を狙います。様々なトラブルで達成できませんが初の太平洋無着陸横断飛行には成功します。
ルート:ニューヨーク→(大西洋)→ロンドン→ベルリン→モスクワ→ハバロフスク→東京→※青森県淋代海岸(10月4日)→ウェナチー(10月5日7時11分(米国時間))→ニューヨーク
※この飛行には「リチャードデリシャス」というリンゴにまつわるエピソードがありました。
http://www.aomori-itc.or.jp/index.php?id=1153
 ●1932年(昭和7年)7月21日〜11月10日
ドイツのウォルフガング・フォン・グロナウが、ドルニエワール飛行艇で達成します。111日をかけ西回りルートをとります。
ルート:トラーヴェミュンデ(ドイツ)→アイスランド→グリーンランド→オタワ→ダッチハーバー→霞ヶ浦→フィリピン、マラッカ、インド、イラン、キプロスなどを経由しドイツに帰還。
 ●1933年(昭和8年)7月14日〜7月22日
アメリカのウィリー・ポストが1931年に引き続きロッキード・ヴェガで達成しました。この飛行で初の「単独」世界一周飛行を実現します。
航続距離2万4957km、7日18時間49分、飛行114時間
ルート:ニューヨーク→(大西洋)→ベルリン→モスクワ→イルクーツク→ハバロフスク→フェアバンクス→エドモントン→ニューヨーク
 ●1938年(昭和13年)
アメリカの実業家・映画製作者・飛行家と多才なハワード・ヒューズがロッキード単葉機で達成します。2万3488km、3日19時間17分。
ルート:ニューヨーク→パリ→モスクワ→オムスク(シベリア)→ヤクーツク→フェアバンクス→ミネアポリス→ニューヨーク
☆★1939年(昭和14年)8月26日午前10時27分
「ニッポン号」が羽田を旅立ち、55日目の1O月20日午後1時47分に羽田に無事帰還し世界一周を達成します。
少し長くなりますがルートを紹介します。

2014-11-07 20.11.31

世界一周を予告した絵葉書

light_資料絵葉書0518月26日 東京→8月27日 札幌→8月29日 ノーム→8月30日 フェアバンクス→8月31日 ホワイトホース→9月02日 シアトル→9月03日 オークランド→9月07日 ロサンゼルス→9月08日 アルバカーキ→9月09日 シカゴ→9月16日 ニューヨーク→9月18日 ワシントン→9月19日 マイアミ→9月22日 サンサルバドル→9月23日 サンティアゴ・デ・カリ(コロンビア)→9月24日 リマ→9月25日 アリカ→9月27日 サンティアゴ→9月29日 ブエノスアイレス→10月1日 サントス(ブラジル)→10月4日 リオデジャネイロ→10月5日 ナタール→10月6日 ダカール→10月8日 カサブランカ(モロッコ)→10月9日 セビリア(スペイン)→10月12日 ローマ→10月13日 ロドス島(ギリシャ)→10月14日 バスラ(イラク)→10月16日 カラチ→10月17日 コルカタ(インド)→10月19日 バンコク→10月20日 台北→羽田
※上の葉書に予告されたコースが実際には一部変更されました。
すでに欧州では<戦争>が始まっていたからです。

少し前置きが長くなりましたが、この世界一周計画は大阪毎日新聞社)が東京日日新聞と共同企画したもので、航空機は当時海軍が使用し好成蹟をあげていた「96式陸上攻撃機」を長距離輸送機に改造して使用する計画でした。

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96式陸上攻撃機二一型328号機

当時「96式陸上攻撃機」は双発、引込脚機能を持つ世界トップクラスの海軍機でしたが、軍用機として現役でもありこの企画はかなり無謀と思われました。
毎日新聞社の再三のプレゼンに対して、海軍は断り続けます。最終的には毎日新聞社トップが当時の海軍次官山本五十六中将に直談判し“長距離輸送機への改造”が許可されます。
海軍が民間使用を許した背景には、航空機の技術将校であった山本五十六の自信と海軍と陸軍・毎日新聞社と朝日新聞社のライバル意識が微妙に働いていました。
この企画が立てられた背景には、朝日新聞社が「神風号」を使って日本からロンドンへのスピード記録達成や「航空研究所試作長距離機(航研機)」による長距離飛行世界記録達成が続き最大のライバル新聞社としても“負けられない”という意識が生まれたのでしょう。
朝日新聞の「神風号」は陸軍の九七式司令部偵察機試作2号機の払い下げによって達成されましたので、自然競争のターゲットは海軍の最新鋭機に向かいます。
海軍の許可を得て「96式陸上攻撃機二一型328号機」を輸送機型に改造しますが、この「96式」、三菱内燃機株式会社名古屋航空機製作所が製造したもので、改造も三菱が担当します。
「96式」は新聞社の他、当時国内最大手の航空会社「大日本航空株式会社」も輸送機として利用されました。
「大日本航空株式会社」横浜と縁の深い航空会社です。
「大日本航空株式会社」1940年(昭和15年)横浜の根岸に飛行場を開設します。この飛行場からは南洋諸島パラオ島への定期航空路が運行されていました。
横浜を5:30発 ⇒サイパン 15:30着 翌7:00発⇒パラオ14:00といったルートでした。
少し、【よこはま】に近づいてきました。
横浜には戦前戦中、そして戦後一時期飛行場が幾つかありました。
暦で語る今日の横浜【9月10日】

軍用機から民間輸送機にも転用され活躍したJ‐BACI「ニッポン号」三菱内燃機株式会社名古屋航空機製作所で製作されたものですが、この模型を横浜で見ることができます。
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「三菱みなとみらい技術館」
ここに登場した山本五十六は、「ニッポン」世界一周から一年後の1940年(昭和15年)10月11日に行われた紀元二千六百年の特別観艦式を連合艦隊司令長官として指揮しました。
light_横浜関連雑資料017この先、開戦論と非戦論が激しく議論されながらも日本は日米開戦へと向かいます。関東大震災から始まった激変の日本の選択を、私たちは再度検証していく責務があるのではないでしょうか。
今回はあまり【よこはま】に近づくことができませんでした。

(第685話)明治4年、象の鼻 晴天なり。

江戸時代に生まれ、激動の幕末に頭角を現した総勢107名の日本人が
明治4年11月12日(1871年12月23日)横浜港を就航しました。
彼ら目的は色々ありましたが、多くの同行者は欧米の実情を知ることでした。
「岩倉使節団」のメンバーです。

この国は理想と現実、欲望と信義が落ち着かないまま明治という全く新しい体制に突入します。
革命か政権委譲か?コップの中の嵐を、欧米列強の外交官達は固唾をのんで眺めていました。
明治維新は、
不思議なほどの静かで力強いエネルギーによって始まります。明治新政府は日本の近代化は幕末生まれの若者と、優秀な徳川時代の元官僚が支えられることで大きな混乱なく誕生します。
しかし、大政は奉還されましたが、その先のことは全く白紙状態でした。この国がどうなるのか、どうしていくのか、朝から深夜まで合意と同意の議論が連日続きます。
未熟な維新のリーダー達は皆苛立っていました。派閥抗争も表面化します。

260年続いた徳川政権、武士による連合国家に近い政権がいとも簡単に覆ります。
そして維新後 矢継ぎ早の大変革でこの国の近代化が始まります。
版籍奉還と廃藩置県の実施によって全国の諸藩を一気に解散させ中央集権型に移行させます。
制度の変革には成功しますがここに登場する若き明治のリーダー達は、青臭く原則論者で血気盛んな者達でした。

この若き維新の志士たちに強いショックを与えたのが岩倉具視が率いる「米欧回覧使節団」俗にいう「岩倉使節団」です。

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象の鼻から岩倉使節団出発

1871年(明治4年7月14日)に、制度による大革命「廃藩置県」を行ったその年の暮、
明治4年11月12日(1871年12月23日)「岩倉使節団」は横浜を出発します。

総勢107名
幹部の多くが20代から30代、最長老の岩倉自身も43才という若者集団でした。
同行した者達がその後の各界をリードする人物となっていきます。
この外交団の記録『特命全権大使米欧回覧実記』を著した人物が久米 邦武です。
彼の記述は、日本史上希有の見聞録として、国際社会でも高く評価されています。
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■米欧使節団の主なメンバー
岩倉 具視 1825年10月26日生まれ 43才→正使
由利 公正 1829年12月6日生まれ 39才→随行
大久保 利通 1830年9月26日生まれ 38才→副使
田辺 太一 1831年10月21日生まれ 37才→一等書記官
木戸 孝允 / 桂 小五郎 1833年8月11日生まれ 35才→副使
東久世 通禧 1834年1月1日生まれ 34才→神奈川府知事
三條實美 1837年3月13日生まれ 31才→太政大臣
大隈 重信 1838年3月11日生まれ 30才
山口 尚芳 1839年6月21日生まれ 29才→副使
久米 邦武 1839年8月19日生まれ 29才→公式記録者
名村 泰蔵 1840年11月24日生まれ 28才
何 礼之 1840年8月10日生まれ 28才→一等書記官
伊藤 博文 1841年10月16日生まれ 27才→副使
福地 源一郎 1841年5月13日生まれ 27才→一等書記官
沖 守固 1841年8月13日生まれ 27才→初代神奈川県知事
中山 信彬 1842年11月17日生まれ 26才
長野桂次郎(立石斧次郎) 1843年10月9日  25才
新島 襄 1843年2月12日生まれ 25才→留学生
山田 顕義 1844年11月18日生まれ 24才
川路寛堂 1845年1月28日生まれ 23才→三等書記官
田中 不二麿 1845年7月16日生まれ 23才
安藤 太郎 1846年5月3日生まれ 22才→幕末、横浜で英語を学ぶ
中江 兆民 1847年12月8日生まれ 21才→留学生
小松 済治 1848年生まれ 20才→横浜地方裁判所長
渡辺 洪基 1848年1月28日生まれ 20才→両毛鉄道社長
林 董 1850年4月11日生まれ 18才→二等書記官

 川路 利良※ 1834年6月17日生まれ 34才→司法省の西欧視察団
 鶴田皓※ 1836年2月12日生まれ 32才→司法省の西欧視察団
 井上 毅※ 1844年2月6日生まれ 24才→司法省の西欧視察団
   ※明治5年派遣の司法省西欧視察団メンバー

この岩倉使節団の出発光景を描いたのが「岩倉大使欧米派遣」という作品です。山口蓬春が1934年(昭和9年)に描いたものです。
この一枚の絵画 初期の横浜港を語る上で、興味深い画像ですが意外に知られていないようです。
(つづく)次回は『特命全権大使米欧回覧実記』を元に横浜港の出発風景を探ってみます。
(第686話)明治4年、象の鼻 晴天なり。(後編)

【横浜側面史】 観艦式

戦前、横浜で開催された大規模の式典が多くあります。

■製茶共進会・生糸繭共進会(1879年(明治12年))
■開港50周年記念式典(1909年(明治42年))
■神奈川県横浜市勧業共進会(1913年(大正2年))
■震災復興記念横濱大博覧会(1935年(昭和10))
この他、
特に横浜で多く開催されたのが海軍「観艦式」です。
今日はこの横浜沖「観艦式」を少しレビューしてみます。

観艦式930373
<昭和3年観艦式記念絵葉書  合成写真っぽい>
「観艦式」は明治に始まり現在も行われていますが、戦前は軍拡競争の中で国の威信をかけた式典として盛大に行われました。
「観艦式」
戦前、明治から昭和にかけて 日本海軍は「観艦式」を計18回実施しています。
その半数九回が横浜沖で実施されました。
No.285 10月11日(木)武装セル芸術

ここでは1940年(昭和15年)10月11日(金)に開かれた帝国海軍、最後で最大の「観艦式」について簡単に紹介しました。

そもそも「観艦式」というのは1341年に英国で始まったデモンストレーションで、当時のエドワード3世が英仏戦争の際に指揮を鼓舞するために出撃の際観閲したことに始まります。
余談ですが、
礼砲の作法も英国のプロトコルが世界標準になっています。発射数を最大21発として19発・17発・15発〜と奇数回その地位によって数が決まっています。
No.231 8月18日 (土)give a twenty‐one gun salute.

No.64 3月4日 日本初の外国元首横浜に

「No.285 10月11日(木)武装セル芸術」の回での紹介を含め
今回「観艦式」を再度紹介するに至ったのは
なぜ 「観艦式」の半分を横浜で行ったのだろうか?
という素朴な疑問があったからです。
おそらく 横浜港沖で行った理由は
「帝都東京」と「東海鎮守府」である海軍中枢基地「横須賀」に近いこと。
そして
横浜港の持つ構造の良さだろうと推測できます。
→後半で別途紹介します

全18回の「観艦式」の内訳は
横浜沖で9回
神戸沖で6回
横須賀沖で2回
1回(初回のみ)大阪天保山沖
で行われました。

観艦式44288d

<式次第>                  kawakita collections

観艦式41384

観艦式928357

kawakita collections

最初に横浜沖で実施された「観艦式」は
1905年(明治38年)10月23日<日本海海戦勝利凱旋観艦式>と呼ばれ、
日露戦争の勝利を祝う目的も兼ねていました。
第五回目にあたるこの「観艦式」は、連合艦隊司令長官東郷平八郎大将が総司令官として式典に臨み国民の関心もかなり高いものでした。
観艦式図 <当時の観艦式 配列図>
この第五回目以降、観艦式は拡大を続けます。
明治期観艦式の見物人に関する資料は手元にありませんが、
1928年(昭和3年)御大礼特別観艦式(昭和天皇即位式)として実施された横浜沖での観艦式は天候にも恵まれ
鶴見岸から本牧まで、多数の見学者が水際を埋め尽くしその数は100万人を越えていたそうです。
この観艦式には米国『重巡洋艦ピッツバーグ』、英国『重巡洋艦ケント』『重巡洋艦サフォーク』『重巡洋艦ベルウィック』、仏国『装甲巡洋艦ジュール・ミシュレ』、伊国『リビア』、オランダ『ジャワ』と各国の特務艦計11隻の外国艦船も参加しています。

(劇場としての横浜港一帯)
横浜港一帯が最高の一大劇場と化していたことになります。
横浜港の持つ円形劇場、
横浜港から鶴見川崎にかけての、岸辺・丘からの眺め
現在のように工場や高層ビルの無い時代に、少し小高い丘に登れば横浜沖の東京湾が一望できたロケーションは、海上デモンストレーションには最高です。
多くの国民・関係者にプレゼンスできる「横浜港一帯」だったのです。

観艦式444384

kawakita collections

以前 このブログで 帝都東京と 港都横浜の都市間競争を紹介しましたが、帝都東京が力と権力も有しながら中々開港できなかった背景は、省庁間・地元経済界の猛反対に加え、多くの市民の支持と
「港都横浜」としての“劇場性”もあったからではないでしょうか。

70年代に私が初めて横浜港周辺を散策し始めた頃、
まだまだ海辺は近づくことが難しかった時代でした。
「KEEP OUT」の文字も多かった気がします。
横浜港の水際が自由で快適な空間になりはじめたのは つい最近のことです。
戦前以上に港都横浜の魅力を楽しめるようになった?今
“平和会議場”もあることですし
みなとのみらいから積極的平和を発信できる都市に成長していって欲しいものです。

観艦式一覧
1868年 (明治元年3月26日) 大阪天保山沖 4月18日
1890年 (明治23年)4月18日 神戸沖。
1900年 (明治33年)4月30日 神戸沖。
1903年 (明治36年)4月10日 神戸沖。
1905年 (明治38年)10月23日 横浜沖 日露戦争終結
1908年 (明治41年)11月18日 神戸沖。
1912年 (大正元年)11月12日 横浜沖。
1913年 (大正2年)11月10日 横須賀沖。
1915年 (大正4年)12月4日 横浜沖。
1916年 (大正5年)10月25日 横浜沖。
1919年 (大正8年)7月29日 横須賀沖。
1919年 (大正8年)10月28日 横浜沖。
1927年 (昭和2年)10月30日 横浜沖。
1928年 (昭和3年)12月4日 横浜沖 【御大典記念】
1930年 (昭和5年)10月26日 神戸沖。
1933年 (昭和8年)8月25日 横浜沖。
1936年 (昭和11年)10月29日 神戸沖。
1940年 (昭和15年)10月11日 横浜沖。
【日本海軍最後の観艦式】紀元二千六百年特別観艦式

(余談)
観艦式資料を探していたら
観艦式準備資料の中からこんな図面・文書を発見しました。
観艦式509317
観艦式4397e3 以前横浜水上署見学の際
ここで西波止場という言葉が使われていました。何気なく聞き流していましたが
lig_sanbasi 戦前からこのあたりを
「西波止場」と呼び続けていたんですね。

戦前観艦式資料

戦前18回開催された海軍 観艦式の簡単な一覧を作りました。
横浜港沖で九回開催されています。

式典日 式典名称 御召艦 場所
1 明治元年(1868年) 3月26日 軍艦叡覧 (陸上) 天保山沖
2 明治23年(1890年) 4月18日 海軍観兵式 巡洋艦「高千穂」 神戸沖
3 明治33年(1900年) 4月30日 大演習観艦式 巡洋艦「浅間」 神戸沖
4 明治36年(1903年) 4月10日 大演習観艦式 巡洋艦「浅間」 神戸沖
5 明治38年(1905年)
10月23日
凱旋観艦式
(日本海海戦勝利)
巡洋艦「浅間」 横浜沖
6 明治41年(1908年)
11月18日
大演習観艦式 巡洋艦「浅間」 神戸沖
7 大正元年(1912年) 11月12日 大演習観艦式 巡洋艦「筑摩」
(※太平洋戦争時のものではない)
横浜沖
8 大正2年(1913年) 11月10日 恒例観艦式 戦艦「香取」 横須賀沖
9 大正4年(1915年) 12月4日 御大礼特別観艦式
(大正天皇即位式)
戦艦「筑波」 横浜沖
10 大正5年(1916年) 10月25日 恒例観艦式 戦艦「筑波」 横浜沖
11 大正8年(1919年) 7月9日 御親閲式
(欧州派遣艦隊慰労)
巡洋艦「出雲」 横須賀沖
12 大正8年(1919年) 10月28日 大演習観艦式 戦艦「摂津」 横浜沖
13 昭和2年(1927年) 10月30日 大演習観艦式 戦艦「陸奥」 横浜沖
14 昭和3年(1928年) 12月4日 御大礼特別観艦式
(昭和天皇即位式)※史上最大
戦艦「榛名」 横浜沖
15 昭和5年(1930年) 10月26日 特別大演習観艦式 戦艦「霧島」 神戸沖
16 昭和8年(1933年) 8月25日 大演習観艦式 戦艦「比叡」 横浜沖
17 昭和11年(1936年)
10月29日
特別大演習観艦式 戦艦「比叡」 神戸沖
18 昭和15年(1940年)
10月11日
紀元二千六百年
特別観艦式
戦艦「比叡」 横浜沖

light_横浜関連雑資料009<第9回観艦式>

light_横浜関連雑資料013<第7回大正元年観艦式と思われる>

light_横浜関連雑資料019<第5回観艦式>

light_大桟橋観艦式絵はがき060<現在何回目の観艦式か推理中>

light_博覧会316<明治38年 東京観艦式とあります。日露戦争凱旋式を兼ねていました>

【しりとり横浜巡り】6月11日(水)イセザキ界隈その2

前回は関内と関外を結ぶ「吉田橋」を紹介しました。
関内馬車道から吉田橋を渡ると、目の前にイセザキが広がります。
【雑景シリーズ】イセザキ界隈その1

その1で終わっているので、
今日はミニイセザキストリートの楽しみ方2を紹介します。

イセザキは七丁目まであり少しずつ表情を変えます。たまには一丁目から七丁目までブラブラしてみましょう。昔「イセブラ」なんて言葉が盛んに使われた時代があったそうです。
伊勢佐木には 一度は立寄ってみたい老舗店がたくさんあります。
一丁目から二丁目は
有名店がいっぱいです。
「みのや本店」「有隣堂」「横浜文明堂」「不二家」
「花見煎餅」「ハマ楽器」「加藤回陽堂」等々
三丁目は
ランドマークの「オデヲン」が「ドンキー」になるそうです。(20140601)
lig_A1179458横浜と深い関係にある「ピアゴ」伊勢佐木店は現在建替え中ですが、撤退でなかったのでほっとしています。
BB20131001PA010032
四丁目は
良く行く「白河中華そば弘流」がお勧め。チェーン店ではありません。

ぜんぶのせ

ぜんぶのせ

http://www.kouryuu.co.jp
※ちょっと裏通りに
昔、ビストロコパカバーナという店がありました。(かなり前です)
冷やかしお断り!!の「へびや」がありますが、やはり冷やかしてみたいけど勇気がでない。
lig__7262837イセザキモールのパーキングがあります。
lig__7262835「クロスストリート」
五丁目は
サンマーメンの「玉泉亭」
大正7年創業の老舗です。新装開店していらいいってませんね。横浜サンマーメンを語るなら一度は立寄るべし。
●牛鍋の「じゃのめや」
http://www.janomeya.com
開港場の牛鍋は明治以来の横浜名物ですが、名店が消える中いまだ「暖簾」を守っています。
●浜志まん(はまじまん)のボストンクリームパイ
http://www.isezakicho.or.jp/~hamajimn/
創業は大正2年です。浜志まん(はまじまん)の正式には「志に¨」が付きます。
lig_P1200983 ●古書なぎさ書房
時折立寄る古書店です。
六丁目は
●創業明治43年の「川本屋」
http://www.kawamotoya.com
「川本屋」オリジナルいせぶらパウンドケーキがお勧めです。
※横浜にはお茶屋の老舗も多かったのですが、どんどん減っています。
●健康靴のプロフィットイイジマ
http://www.yoikutu.com
元々大正時代から靴屋さんで、フットケアの店が未だ珍しい1990年代に上級シューフィッターの居るラボを立ち上げ健康な靴を提供してきた専門店です。
七丁目は
●一押しは「銚子屋」のところてん、あんみつ、ぜんざい。
1935年(昭和10年)の創業です。
lig_資料銚子屋030□老舗ではありませんが、地元の人気スポット
lig_P1230073「子育地蔵尊」は要チェック。
6月1日(日) 6日(金) 16日(月) 26日(木)
7月1日(火) 6日(日) 16日(水) 26日(土)
8月1日(金) 6日(水) 16日(土) 26日(火)
「一・六縁日」が開催されています。