2月 8

第990話 近代・ミシン・横浜(3)

シンガーミシン騒動 in Yokohama
神奈川県警史には「戦時体制下の警察ー特異事件ー」に一項目立てて記述しています。
五.シンガーミシンの乱闘事件
神奈川県警史
ここでは4pを使って<乱闘事件>の概要を警察視点で説明しています。 また
横浜市史でも「労働者状態と労働運動」の項で
「シンガーミシン争議」
 として6pにも及ぶボリュームを使って触れています。
「横浜を舞台に、外資系企業で「民族意識に燃えた特異な」労働争議が発生した。」 横浜市史でも神奈川県警史でも<特異>であるとしています。
この「シンガーミシン争議」は、それまでの資本家(企業側)と労働者対立である労働争議とは異なる事件でした。 事の発端は
1932年(昭和7年)8月にシンガーミシン神戸支店に勤める従業員がシンガーミシン本社に向けて待遇改善を求めたことに始まりますが、
ここに至る背景には日米の企業の経営方式の違いや
シンガーミシン労使関係のこじれが積み重なっていました。
まず時代背景ですが
1901年(明治34年)まさに20世紀、日本に進出したシンガー社は同時に世界市場を席巻、「世界初の成功した多国籍企業」(ハーバードビジネスレポート(2003年))と呼ばれたグローバル企業の騎手でした。
20世紀前半が複製、大量生産、均一化の時代の始まりでした。工場・学校・映画などが時代を大きく変え始めます。
特に大量生産を具現化したのが<machine>でした。
しかも<服製造>という日常を席巻したのが<ミシン>でした。 1929年(昭和4年)10月にアメリカ合衆国で起き世界中を巻き込んでいった<世界恐慌>の影響が遅れて日本にも及び、昭和恐慌と呼ばれた不景気に陥ったことで販売不振に陥ったことも労働問題を悪化させました。 米国有数のグローバル企業シンガー社は
日本に進出した1896年の前、
1890年には 「SINGER brand reaches 90% market share globally.」と自社サイトでも告知しているようにほぼ市場を独占していました。
本社をニューヨークに置き、資本金十四億円、
明治38年に起こった<日露戦争>当時の日本の国家予算
一般会計が4億2000万円。
軍事費が7億3000万円、あわせて11億5000千万円より大きい資本金を保有していました。
神戸に日本総支部(現地本社)を置き、横浜、大阪、神戸、京城に中央支店と呼ばれる地位拠点を設けました。各中央支店には代表として本社社員(外国人)が就き、事務員(有給社員)と歩合給の販売員が雇われていました。
販売社員は全て固定給なしの歩合給で、
しかも入社に際し200円という大金を保証金として会社に納め、信用保険に強制加入、さらに国税10円以上を納める人物二名の保証人まで求められたという始末です。 販売組織は中央支店の下に各分店(販売店)を置き、
分店(販売店)は顧客に一台250円で販売し一年12ヶ月月賦で販売、毎月集金人が回収する方法を採っていました。
販売員は現金入金額の歩合で給与が支払われましたので、月賦回収が遅れると賃金も遅れ、回収不可能となった場合、退職の場合には<保証金><保証人>から回収という方法が採られました。
さらに昭和恐慌が起こったこと、この明治期に採用した特殊の雇用関係は日本が<働き方>の変革を進める中も変わらぬまま継続され続けます。
ここに販売員の不満が爆発することになった訳です。
従業員は交渉を求め、米国本社は一切の要求をはねつけます。経営者側は従業員を甘く観ていたようです。実力行使に出た従業員に対して米国から極東支配人リチャード・マクリアリーがホテルニューグランドに拠点を置き、強行な姿勢を貫きます。
「要求は全て拒絶」しこれをキッカケに従業員の結束が固められ
最終的に横浜を舞台に大乱闘事件が起こり外交問題にまで発展します。
会社側は信興団という暴力団を雇入れ、争議団体を威圧、それまで比較的左翼労働者組織に加盟しなかった争議団は組合を結成、総同盟に加入するという全面対決の様相となります。
1933年(昭和8年)1月18日争議団体のリーダー山本東作の下で実力行使を決定。
朝10時半に150名を集めさらに他の支店からも横浜公園に集合し
花園橋脇にあった横浜中央店に<薪>を手にして乱入。
中央店の位置はこのあたり?(未確認)
会社側は信興団が30名待ち構え、
ここに仁義なき大乱闘が始まります。重傷者1名、負傷者27名が出て店内はほぼ破壊されました。
事件は、
加賀町警察による争議団側の幹部175名逮捕で終局します。内、48名が起訴されますが、事件の内容としては実に寛大な措置となりました。
その後も警察が双方の間に入り、横浜商工会議所とともに調停に乗り出し争議団は一部の要求を実現しただけで渋々和解に応じます。
『全従業員をニグロ視する謬見を止めよ!』
『ヤンキー資本家』
途中で離脱した日本人従業員には
『日本人ながらも唐化している、米国のスパイ』といった発言もみられ、
新聞も警察もやや労働者側寄りになりという日本の戦前労働争議としてはナショナリズム(反米)と資本主義、社会主義が入り混じり不思議な事件として結末を迎えます。
結果、
米国大使(ジョセフ・グルー)、米国国務長官までがこの事件に言及し事態の回復を求めますが、時は日米対立、開戦へと向かうことになります。
多くの従業員が職場を離れ、国内企業に移動しシンガー社は殆どシェアを失います。
戦争を経て戦後の日本ミシンメーカー発展の大原動力となり、戦後のミシンブームを支えることになります。シンガー社は戦後販売組織を回復しますが、殆どシェアを回復することはできませんでした。 昭和7年ごろの日本政府は
~1932年(昭和7年)5月26日まで
犬養 毅(政友会)内閣 5・15事件のため首相暗殺のため総辞職し
1932年(昭和7年)5月26日~
斎藤 実(海軍)内閣が成立1934年(昭和9年)7月8日まで
当時の
駐日米国大使は
 戦後「本当の意味の知日家で、『真の日本の友』であった」と吉田茂が評したジョセフ・グルー(Joseph Clark Grew、1880年5月27日〜1965年5月25日)
1932年(昭和7年)2月19日(任命)〜
1941年(昭和16年)12月8日 太平洋戦争開戦時の大使 うまくまとまっていませんが参考資料が多く出されています。
日本労働史の視点からも実に興味深い事件です。 □追記
シンガーミシンの負の面ばかり紹介しましたが、
前回の章で洋裁学校の誕生を年表に記しました。
「シンガーミシン裁縫女学院」が東京、大阪、横浜等に開校され
日本の洋裁学校の草分け的存在となります。
ここから文化服装学院、杉野ドレメ、横浜洋裁専門女学院=岩崎学園
 他全国に広がりました。
8月 3

第963話 8月3日(金)

1935年(昭和10年)8月3日の今日
「青木周三が12代市長に就任した」日です、
青木市長は
1939年(昭和14年)8月3日に再任されます。
ということで今回はこの8月3日ネタを元に

戦前の歴代市長に関して自分の記憶の整理をします。
まず戦前期の歴代横浜市長一覧

初代:増田知
1889年(明治22年)6月18日から1890年(明治23年)2月15日
※辞職
2代:佐藤喜左右衛門
1890年(明治23年)3月3日から1896年(明治29年)3月2日
※任期満了
3代:梅田義信
1896年(明治29年)6月3日から1902年(明治35年)9月20日
※1902年(明治35年) 6月10日再任 9月20日死去
4代:市原盛宏
1903年(明治36年)1月9日から1906年(明治39年)5月2日
※辞職
5代:三橋信方
1906年(明治39年)9月28日から1910年(明治43年)6月25日
※死去
開港50周年記念事業を担当。市章、市歌の制定。
6代:荒川義太郎
1910年(明治43年)9月10日から1913年(大正2年)11月13日
※辞職
7代:安藤謙介
1914年(大正3年)7月24日から1918年(大正7年)7月23日
※任期満了
8代:久保田政周
1918年(大正7年)8月26日から1922年(大正11年)5月27日
※辞職
9代:渡辺勝三郎
1922年(大正11年)11月29日から1925年(大正14年)4月10日
※辞職
10代:有吉忠一
1925年(大正14年)5月7日から1930年(昭和6年)2月26日
※1929年(昭和4年)5月7日再任 ※辞職
11代:大西一郎
1931年(昭和6年)3月3日から1935年(昭和10年)7月18日
※1935年(昭和10年)3月3日再任 ※辞職
12代:青木周三
1935年(昭和10年)8月3日から1941年(昭和16年)2月10日
※1939年(昭和14年)8月3日再任 ※辞職
13代:半井清
1941年(昭和16年)2月10日から1946年(昭和21年)11月30日
※1945年(昭和20年)2月10日再任 ※辞職
以上が戦前の横浜市長です。13代(再任を代替りとするか別にして)、13人が就任しています。
(戦前の市長任命)
戦前の市長の選ばれ方は少し複雑で半分官選、半分民選の性格をもっています。
通常戦前期の市長選出は、まず市会(市議会)で各派閥<政党>有力者(市議)が委員会を形成し、候補者の選出調整が行われます。ここに直接民意はありません。
ここで候補者が絞られ、候補者への意向確認と出馬要請が行われます。
正式に立候補手続きがとられると、市議会では投票で候補者三名に絞り込みを行い
「市長推薦者」が決まり内務大臣に上申され、内務大臣の裁可を経て正式就任になります。
支持母体対決が生じる場合には、政争が起こり、利害の一致等でスムースに決定される場合もあります。
この市長任命制度には問題点もありました。
三人の推薦者(候補者)には当然、党派の力学が有っての上での推薦になる訳で、
議会会派第一位の推薦者がそのまま「市長」として内務省において選ばれない事態も生じました。また、市長を補佐する「助役」の任命は純粋に市会の選挙で選ばれました。
市会議員にも選挙があり都度勢力が変わることで、半官選市長の市政運営は大変だったようです。戦前の市長は半分吏員でもありましたので政務調整には苦労したようです。
→現在も首長は<選挙>による民意で選ばれ、同じく選挙で選ばれた議会多数派との対決構図が生じることもあり、別な意味でねじれ構図の市長(知事)は大変です。
 
市長の力量も大いに関係しますが、上記の一覧を見ても分かる通り、
市長の<※辞職>が殆どです。任期満了で佐藤喜左右衛門(二代)と安藤謙介(七代)の二人だけでした。任期途中で亡くなられた市長もいらっしゃいます。

(12代市長 青木周三)
ここで、今回のテーマのキッカケとなった
青木周三について紹介しましょう。
1875年(明治8年)8月26日〜1946年(昭和21年)12月1日
もともと鉄道官僚畑から地方行政に関わった人物です。
山口県大島郡久賀町(現在の周防大島町)の出身で、
1898年(明治31年)第二高等学校を卒業。
1902年(明治35年)東京帝国大学法科大学法律学科(英法)を卒業後鉄道書記。
1904年(明治37年)高等文官試験合格。
その後、鉄道事務官、鉄道庁参事、鉄道院参事、鉄道院理事を歴任し鉄道の経理畑・マネジメント分野を一貫して歩みます。
1919年(大正8年)筑豊鉄道専務取締役。
1921年(大正10年)4月1日初代横浜市電気局長(現交通局長)に就任。
1923年(大正12年)4月12日助役就任
  この年起こった関東大震災の対応に尽力。
1924年(大正13年)助役を辞任し鉄道省経理局長に転じた。
 さらに鉄道次官に昇任し、1926年(大正15年)まで務め退任。貴族院議員に勅選。
1929年(昭和4年)鉄道次官に再び任命され、鉄道事業に携わる。
1935年(昭和10年)横浜市長に選出。(〜1941年まで)
<市電誕生期の責任者>
青木周三は横浜市長となる前に、初の横浜市電気局長として市電の基礎を築いた人物です。
戦前から戦後にかけて、横浜の中心部の交通網として活躍した市電、
元々は「横浜電気鉄道」によって開通した民営交通機関でした。ところが、経営困難に陥り、横浜市が公益性を重視し<市営=市電>とすることを決め買収します。
1921年(大正10年)4月1日

  横浜市が横浜電気鉄道を買収。電気局を発足。

横浜電気鉄道時系統路線図

この時に初代電気局長に就任したのが青木周三です。
就任当時彼は47歳、就任に際し
「大決心をなさしめたるは、一に市民諸君の後援を経(たていと)とし市会が電車事業に対する恰も慈母の愛子に於けるがごとく、
就中(なかんずく)現業員の待遇に於いて熱誠以て優遇を可決されたる援助を緯(よこいと)とし事業の円満に進捗す可きを信じ、
自らはからず就任せる次第なり。
今後における方針としては一市民の期待せらるる改良の企画に副はんが為め、とりあえず応急の修繕をなすと同時に、完全なる交通機関として発達せしむるに努力す可く、将来共に大方の指導と助成を切望に堪えず。(一部抜粋)」
と述べました。
横浜市電は
1921年(大正10年)4月1日に移管され、経営再建の道を歩み始めますが、
1923年(大正12年)に起こった大震災により 市電機能は壊滅状態になります。
青木周三局長は被災復興に奔走、一定の目処が立った
1924年(大正13年)に古巣の鉄道省に経理局長として戻りました。
昭和に入り、有吉忠一市長のもとで震災復興宣言が出され、後任に大西一郎市長が主任し、
1935年(昭和10年)8月3日
12代市長に任命、
1941年(昭和16年)2月10日に辞任します。
市会史には
1940年(昭和15年)11月24日に健康上の理由と大政翼賛会市支部長問題等から辞意を表明、議会承認の上辞職とあります。
辞職の背景に何があったのか?手元の資料だけでは読み解くことができません。
ただ 昭和15年は横浜にとっても日本にとっても”激務”の年でした。
紀元二千六百年の年にあたり
紀年事業、東京オリンピック(辞退)
第689話【横浜の記念式典】もう一つの幻イベント
市政では
紀元二千六百年防空公園

紀元(皇紀)二千六百年特別観艦式(横浜)

観艦式記事

東京開港問題
市庁舎新築
動物園開設
青木市長時代は市内外激動であったことは間違いありません。
(参考年表)
◾️昭和15年は空転民主主義の年
1月14日 阿部内閣総辞職
1月16日 米内内閣成立
2月2日 斎藤隆夫の反軍演説。(斎藤事件)神奈川県政界とも深く関係あり。
3月7日 戦争政策批判により衆議院が民政党斎藤隆夫を除名処分
7月4日 陸軍首脳部が米内内閣打倒のため陸相畑俊六に辞職を勧告
7月16日 米内内閣総辞職
7月22日 第2次近衛内閣成立
8月15日 立憲民政党の解散により議会制民主主義が実質上停止
9月27日 日独伊三国軍事同盟成立。
10月12日 大政翼賛会発会式
11月24日 元老西園寺公望公死去(国葬12月5日)
12月 8

第940話【最強の市長】有吉 忠一

現在、横浜市長は
第32代、20人目の林文子氏が就任しています。(2009年(平成21年)8月30日〜)
戦前は13代まで官選市長が市政を担当しました。
戦後は選挙で選ばれています。
戦前戦後を通じて 任期満了か、途中辞任によって市長交替となりました。
例外は在任中に亡くなれた市長が2名
16代「平沼亮三」氏と24代「細郷道一」氏でした。
(最強の市長は誰か?)
最強という表現が適切かどうかわかりませんが
ここに紹介する第10代横浜市長「有吉忠一」は横浜市政史に残る
“最強”の市長といえるでしょう。
歴代市長を評価するには様々な視点から市政の結果を分析していかなければなりません。政策実行力・問題解決力・政治的決断力 他いろいろ指標がありますが
有吉忠一は
「数多くの業績を残した昭和初期の「不世出」の市長」と言われています。
“「不世出」の市長”というのは中々の評価ですね。
横浜市史上最大級の難問、震災復興に取り組んだ不屈の市長です。
ここに当時の有吉市長を知ることができる一枚の写真があります。
たまたま海外の写真オークションで手に入れたものです。

生糸検査所の有吉忠一と秩父宮

生糸検査所屋上から「横浜復興」を秩父宮に説明する有吉市長

1927年(昭和2年)6月2日(開港記念日)
この日、関東大震災から5年
<復興>を市内外に宣言する重要なセレモニーとして「大横浜建設記念式」を開催しました。式典には秩父宮雍仁親王(ちちぶのみや やすひとしんのう)を迎え、望月圭介逓信大臣を始め、1,557人もの市内外の名士が集まり盛大に挙行されました。
秩父宮は式典に参列する前、市長有吉忠一により復興状況の説明を受けます。
写真はこの時の一コマです。

(関東大震災)

震災被災(焼失)エリア

(震災復興)

秩父宮視察が行われた生糸検査所

震災復興のシンボルとなった商工奨励館

有吉忠一の簡単な経歴を紹介しましょう。
1873年(明治6年)
京都府生まれ。
第三高等中学校、帝国大学法科大学法律学科(現在の東京大学)
1896年(明治29年)
内務省入省。
1897年(明治30年)
島根県 参事官
兵庫県 参事官
1901年(明治34年)
内務省 参事官
1908年(明治41年)3月
第11代 千葉県知事 就任。
知事時代、千葉県営軽便鉄道(後の東武野田線の一部)の開通を手がける。
1910年(明治43年)6月14日
韓国統監府総務長官 就任。
朝鮮総督府総務部長官。(〜1911年(明治44年)3月13日)
1911年(明治44年)3月13日
第13代 宮崎県知事 就任。
知事時代 宮崎県営鉄道を建設。飫肥線の敷設、日本初の学究的発掘調査となった西都原古墳群の発掘調査を行う。
1915年(大正4年)
第九代 神奈川県知事 就任。
自治時代 多摩川の改修を指示し川崎市中原区に「有吉堤」の地名が残る。
関東学院の開設に助力。
同年11月10日
大礼記念章
1919年(大正8年)4月18日
第15代 第15代兵庫県知事 就任。
1918年(大正7年)6月29日
勲二等瑞宝章
1922年(大正11年)6月16日 退任
1922年(大正11年)6月12日 ※
「朝鮮総督府政務総監」に就任(〜1924年7月4日)。
※知事退任日と総監就任日に重なりがありますが 資料のママ掲載します。

有吉は軍事権を除く行政・立法・司法の実務を統括し、在任中、朝鮮総督府の日本人高級官僚、特に「生え抜き官僚」との軋轢に加え、関東大震災時の“朝鮮人虐殺”に反発する朝鮮での暴動等の真ただ中でかなり苦労します。

1924年(大正13年)7月4日
その任を解かれ東京に戻ります。
1925年(大正14年)5月7日
第10代横浜市長に就任。
※推薦者 原富太郎、中村房次郎、井坂孝ら
1930年(昭和5年)2月10日
正式に辞意を表明します。
「予算案さえつくれば、その決定は予算を実行する後任市長と市会の自由裁量によるべき…」との一言を残し、
同年4月 貴族院議員 勅選。
1930年(昭和6年)2月26日
昭和6年度の予算が成立する前に辞職。
1933年(昭和8年)
第7代 横浜商工会議所会頭。(〜1942年(昭和17年))

■有吉忠一の横浜
米貨公債で<震災復興資金>を集め、早期復興に努め 大きな成果をあげました。
「大横浜建設」の三大方針
・横浜港拡張
・市営埋立(臨海工業地帯の建設)
・市域拡張
生糸貿易に大きく依存してきた横浜市の体質を脱却して工業化を推進するために臨海部に大規模な工業地帯を建設し企業を誘致し港湾機能を拡充。
広大な後背地の確保(市域拡大)
市長時代から退任後
横浜商工会議所会頭時代精力的に臨んだのが
「東京湾拡張問題」=東京港開港要求でした。
横浜にとって東京開港は死活問題。東京にとっても東京開港を渇望していました。この問題はすでに明治期からくすぶっていた課題で 震災後は政財界を巻き込んでの大問題になっていました。
有吉は横浜・神奈川の意見を取りまとめ東京と横浜との軋轢解消を推進しました。
首都圏の港湾経済を考える上で、都市間で争っている時代ではない!
という視点から 国と東京市との合意を求め奔走します。
最終的には横浜復興で独自に米貨公債により調達した復興資金の残債半分を国に肩代わりしてもらう代わりに東京開港を制限付きで認めるという結論をまとめます。
「(横浜復興に借りた米貨公債を政府に肩代わり叶えば)東京の希望に反対しない事になった、併し満支関係の船は兎に角、英米の大船は東京には寄港出来ぬ、東京港は水深二十五尺、六七千噸級内せいぜい一万噸級を限定とする実情である、夫はさてをき横浜市民も此解決で初めて積極的に振興の業にあたる事が出来るようになったのである、之は昭和十五年の事であるが、この時市税総額八百七十万円で、市の公債費は総額八百九十万円、市税の全額を挙げても尚ほかつ足らぬという窮境であったのである(中略)ああこれで横浜市民のために、震災のあとかたづけが出来たと、肩の荷をおろした感で、大変本懐に思った事である。(有吉忠一 経歴抄)」
◯有吉忠一関係ブログ
■震災復興 横浜拡大
No.232 8月19日 (日)LZ-127号の特命

No.232 8月19日 (日)LZ-127号の特命


1929年(昭和4年)8月19日に飛行船ツェッペリン伯爵号は
何故 急遽計画を変更して横浜上空に現れたのか!
第818話【横浜2345】大横浜の時代

第818話【横浜2345】大横浜の時代 


No.464 昭和5年頃の横浜

No.464 昭和5年頃の横浜


No.336 12月1日(土)ホテル、ニューグランド

No.336 12月1日(土)ホテル、ニューグランド


No.245 9月1日(土)災害は忘れなくとも起きる

No.245 9月1日(土)災害は忘れなくとも起きる

■市長エピソード
No.83 3月23日 雨が降りやすいので記念日変更

No.83 3月23日 雨が降りやすいので記念日変更


No.128 5月7日 今じゃあり得ぬ組長業!?

No.128 5月7日 今じゃあり得ぬ組長業!?


■県知事時代
No.445 「有吉堤」

No.445 「有吉堤」


No.443 岸辺のアル闘い

No.443 岸辺のアル闘い

11月 15

第926話【絵葉書の風景】橋の袂の少女(改筆)

戦前の絵葉書が多彩・多用な画像メディアとして活躍していた事はブログ内でも何回かお伝えしているところです。
さらに付け加えると、
時折 絵心というか<写真心>を感じる絵葉書に出会います。風景撮影だけではなく、そこに<アクセント>を意図的に付け加えることがあったのではないか?

この絵葉書は、

横浜関内と関外を結ぶ有名な「吉田橋」の風景です。

<橋の袂>に一人の少女が登場しています。
構図の特徴は、
吉田橋の風景に一人の少女が登場している点でしょう。
この少女
たまたま居合わせたのか、
関係者の子女であったのかわかりませんが、
意図的に構図として少女の居る「吉田橋」を撮影したことは間違いないでしょう。
手彩色のため、着物の色ピンク色になっています。
実際は確かではありませんが、なかなか存在感があります。
この少女の姿で、この橋に物語が生まれそうです。
冒頭で紹介した絵葉書のように
全国の観光絵葉書でも<傘をさす女性>とかアクセントを加えた風景が使われています。
この風景も 同じ感覚かもしれません。
もう一枚、同じ頃の吉田橋絵葉書と比較してみます。
ヒントはありますが
時代の絞込に苦労します。路面電車の軌道や看板がヒントとなります。
「ライオン」の看板は架橋時の風景にもその後の路面電車開通後にも登場しますが、この少女の風景では「ライオン」の看板はよくわかりません。
「活動 横浜館」の看板は確認できます。
もう一点、電柱でも違いがありますが、これだけで撮影時期の前後を判断するのは難しそうです。

少女の絵葉書でも橋上を見ると<電車>や<人力車>が走っています。
吉田橋の奥に見える「活動 横浜館」は
1911年(明治44年)勧工場跡に開館した「横浜館」だろうと思われます。
ここ「横浜館」は市内で最も古い映画館で1929年(昭和4年)に廃業しました。
「吉田橋」架橋時には式典が行われ多くの見学者が訪れました。

年譜にしてみました。
1859年(安政6年)
居留地と関外を繋ぐ仮橋を設置し
1862年(文久2年)
木造の本橋
1869年(明治2年)
錬鉄製の無橋脚トラス橋(リチャード・ブラントン設計)
そして
1910年(明治40年)5月
架替工事着工。
1911年(明治44年)3月21日
吉田橋工事のため橋の上下の派大岡川が閉鎖されました。
10月7日
派大岡川の通水開始。国産の「吉田橋」架替工事が完成します。
同年 11月1日 竣工、渡り初め式が行われます。
渡り初めの他、吉田橋開通式典が行われ、多くの人が集まりました。
記念絵葉書も発売されたようです。
同年 勧工場跡に「横浜館」開館。
1912年(明治45年)
路面電車の軌道が敷設され関東大震災までこの橋を路面電車が往来します。
少女の絵葉書の撮影時期は、
横浜館があり橋上に電車が走っていますから
1912年(明治45年)以降だろうと思われます。
電柱で見ると
1912年(明治45年)にはあった「電信柱」が
この少女の絵葉書では確認がとれません。
明らかに電柱の位置か構造が変わったことが分かります。
この辺の 電話事情がわかると 時代の絞込がさらにできるかもしれません。
本日は この程度の読み解きで 失礼します。

11月 14

第924話【市境を歩く】 市境の深ーい溝(修正)

この話題は以前フェイスブックで取り上げたものを
このブログ用に加筆修正しました。
1988年(昭和63年)2月19日
「戦前に臨時飛行場として造成された埋立地“夏島”の帰属をめぐる横浜・横須賀両市間の紛争が40年ぶりに決着し、横須賀市に帰属することとなった。」
という記事を発見。改めて考えてみると
つい最近(昭和63年)まで市境が確定せず
帰属争議が横浜市・横須賀市間で行われてきたという事実に驚きます。
現在の市境は

横浜・横須賀 市境(Google)

今年2017年横浜市域の<境目>をほぼ確認してきました。
川崎市境から初めて東京町田、大和、藤沢、鎌倉、横須賀と歩いてきました。
横浜市金沢区野島町と横須賀市夏島町でフィニッシュ!

野島を横須賀側から眺めながら「鷹取川」河口域から護岸に沿って歩くと日本でも“珍しい”岸下の<市境>になります。“珍しい”岸下の<市境>

これは私の素人調査ですが入江や運河の行政界は ざくっと調べた限り戦後の境界設定にこのようなぎりぎり設定はあまり考えられません。
そもそもこの<夏島問題>戦前からありましたので、
<歴史的経緯>を紐解いてみる必要があります。
岸下の<市境>なので横須賀市域の陸上の岸壁真下は<横浜市>になるため、当然<横浜市港湾局><環境創造局>管轄域となります。この際どい横浜市域に<干潟>があり、少し葦が自生しています。※漁港区域の管轄は<環境創造局>とご指摘いただきました。
今回、ここに葦がしっかり育つようにしようという活動のお手伝いをしつつ<市境>を越え確認してきました。
このエリアは干潟となっていて豊富な野鳥の飛来する空間にもなっています。
ところがご存知、干潟の葦原はゴミの<フィルター化>して大量のゴミが漂着しています。こればっかりはしっかり人の手でゴミを除去する必要があるからです。
ところが、掃除をスルためには横須賀市域から<欄干>を乗り越え横浜市域に下ります。そこで集めたゴミは横浜市指定の袋を使い、横須賀市域に上げ、横浜市のゴミとして金沢区のゴミ処理場に持ち込みます。横浜市内で生じたゴミは横須賀市を通過しないと処理できない空間でした。
『野島運河』は横浜市・横須賀市の大切な海洋資源であることを再確認しておきましょう。
(夏島問題)
名前の通り、「夏島」はかつて島でした。ただ、金沢区南部は明治期以前から現在までにかなり海岸線が変化した地域です。ここに「夏島」だけではなく「野島」の存在も面白い歴史的経緯を持っています。
夏島ですが
戦前、軍の飛行場拡張のため夏島周辺を埋立てた場所の帰属が横須賀市なのか、横浜市なのか、両市が争った!という事件です。(戦前は横須賀市?)

結果 長い協議を経て
夏島一体の埋立地は横須賀市ということに決着したということです。
問題となった軍航空施設の埋立て地は面積45万坪にも及び、その74%(約33万坪)が戦後<地方公共団体>に属さない所属未定地であったところから係争となりました。こんなこともあることにも驚きました。
前述の通り、
このエリア、幕末から明治の頃、「野島」と「夏島」の間は広い海で、干潮時には広大な干潟になる自然豊かな場所でした。
この干潟を明治時代あたりに海軍航空隊の飛行場を整備するため埋立を進めます。夏島にあった小さな山を削り、その土砂で南側の追浜との間を埋め立ててしまいます。
戦争が終わりますが、この海軍の追浜埋立地は皮肉にもそのまま米軍の管理下に入り基地として使用されます。
接収解除後、日産自動車の追浜工場敷地となり現在に至ります。日産追浜はテストコースもあり、一時期新車スクープ事件も起こったり日産にとっても重要な工場の一つです。
戦後の地図を調べてみると 驚き
横浜市域が夏島の中に引かれているではありませんか。

地図制作会社は 何を基準に作図したのでしょうか?
行政の懐事情で言えば、
大企業がそこに進出しているわけですから税金が違ってくるため、自治体はある意味必死だったのでしょう。
和解と合意の内容に関しては調べていませんので不明ですが、
横浜市民的には 入るべき<税>を横浜市は諦めたのは市民の利益を失う行為!!
ですね。
※一方、野島はかつて島ではありませんでした。このあたりも知りたいところです。
※注力散漫でした。港湾区域図をしっかり見ませんでした。

8月 14

第907話 九隻のペリー艦隊

ここに「横濱村辺之図」という江戸末期に描かれた絵図があります。
横浜の歴史を大きく変えた米国ペリー艦隊が横浜沖に集結している様子を描いたものです。
さて?
この絵図の描いた時期はいつごろか?最初にペリーが江戸湾に現れたのが
1853(嘉永六)年のことです。この時は、四隻の黒船で現れました。
「泰平の眠りを覚ます上喜撰 たつた四杯で夜も眠れず」
という狂歌が有名ですが、作られたのは明治以降ではないか?というのが現在の定説のようです。
絵図に戻ります。この絵図には 黒船が8隻描かれています。
すると、時は1854(嘉永七)年、暮れには元号が変わり安政となった
この年に再び来航した時のペリー艦隊の様子を描いたものという可能性が出てきました。
実はペリー艦隊は、時差で日本を目指しました。
ペリー艦隊来航の様子を順を追って整理してみます。
まず、
2月11日(一月十四日)に一隻の輸送艦「サザンプトン」(帆船)が浦賀沖に現れます。
二日後
2月13日(旧暦は省略)に旗艦「サスケハナ」号以下<蒸気外輪船>が帆船を曳航するかたちで六隻江戸湾浦賀沖に到着します。
「ミシシッピ」(蒸気外輪船)
「ポーハタン」(蒸気外輪船)
「マセドニアン」(帆船)
「ヴァンダリア」(帆船)
「レキシントン」(帆走補給艦)
2月24日 艦隊は神奈川沖に停泊することになります。
これで 合計七隻が横浜沖に集結します。
細かいことですが旗艦がここで「サスケハナ」から「ポーハタン」に変わります。
さらに約一週間後
3月4日に「サラトガ」(帆船)が合流し、
3月19日「サプライ」その名の通り帆走補給艦が合流して
合計九隻とあいなります。
幕府は驚きます。予定より半年早い不意打ちに近いペリー再来訪だったからです。
前年の1853年に初めてペリーが四隻の黒船で現れたのに対し、
今度は九隻ですから倍以上の陣容で来航したことになります。
なかなかの威圧です。交渉は双方冷静に厳しく行われます。
ところが!この絵図には
艦艇が八隻しか見当たらない!

順を追うと
ペリー艦隊九隻目の帆走補給艦「サプライ」が到着していない!
ということになります。
この絵図が正確であれば
1854年3月4日以降、19日までの二週間に観測された図?
さらに描かれている絵をじっくり見ると
蒸気外輪フリゲート艦が3隻描かれています。
旗艦「サスケハナ」「ミシシッピ」「ポーハタン」
正確ですね。
かなり信用できる絵図ということでしょうか。
ということは
第一陣が来航し、最後の一隻が到着する間に日米交渉の場(応接所)が設営されている間、艦上で厳しい交渉に入ったあたりをこの絵図が描いているということになります。
その後、九隻のペリー艦隊の下で日米交渉が行われますが、
途中の3月24日には
蒸気外輪フリゲート艦「サスケハナ」号が香港に戻ります。
日米和親条約が幕府の応接所で無事締結されたのが
1854年3月31日(嘉永七年三月三日)です。
この日黒船は横濱沖に八隻停泊していたことになりますが
蒸気船は二隻、帆船が六隻という陣容でしたので
【結論】この絵図は、
1854年3月4日以降、19日までの二週間に観測されたと推理するのが妥当かと思われます。
締結後ペリー艦隊全艦は
1854年4月10日(嘉永七年三月十三日)
横濱沖を出発し、最初に幕府が拒んだ江戸湾奥まで艦隊を進め、羽田沖あたりまで侵攻(測量を兼ね)しますがこの辺りでUターンします。
幕府はかなり焦ったと思います。ペリーがUターンした理由は記録に残されていませんが
羽田沖は海苔の養殖棚が多く養殖の杭を江戸湾の防護杭とペリーは勘違いしたようです。
その後、一行は伊豆下田に本拠地を移し
日米関係に新しい時代が訪れます。
些細な史実ですが 解き明かす面白さを感じた一枚の絵図でした。

(関連ブログ)
No.412 多吉郎、横浜に死す。

4月 27

第886話【横浜の記念式典】復興記念横浜大博覧会

■復興記念横浜大博覧会

◎開催期間:
1935年(昭和10年)3月26日から5月24日
◎開催会場:
山下公園を含む山下町一帯(約10万平方メートル)
◎開催内容:
「大正12年の関東大震災から立ち直った横浜市が復興を記念して産業貿易の全貌を紹介するため、山下公園約10万平方メートルを会場に開催した。風光の明媚と情緒随一の山下公園には、1号館から5号館まで各県と団体が出展、付設館として近代科学館、復興館、開港記念館のほか、正面に飛行機と戦車を描いた陸軍館と、1万トン級の巡洋艦を模した海軍国防館が作られ、館内に近代戦のパノラマがつくられ、戦時色の濃い内容であった。特設館は神奈川館のほか満州、台湾、朝鮮などが出展。娯楽施設は真珠採りの海女館、水族館、子供の国などがあり、外国余興場ではアメリカン・ロデオは、カーボーイの馬の曲乗りと投げ縄や、オートバイサーカスなどの妙技を見せ喝采を浴びた。この博覧会は百万円博といわれた。(乃村工芸)」
◎来場者数:
のべ3,299,000人
二ヶ月で約330万人が入場という記録がありますが、「山下公園一帯」に60日、一日あたり5万人以上の入場者があったということです。あくまで平均です。
新聞記事を探って、一日の入場者の動きを追いかけてみました。
3月26日(水)から5月24日(金)という曜日は土日を加味していませんね。
3月26日(水)から3月31日(日)62,340人
4月7日(日) 一日入場者65,000人
4月14日(日) 一日入場者75,043人
4月21日(日) 一日入場者78,000人
〜4月23日(火) 累計75万人を突破
〜4月29日(月) 昭和天皇誕生日(天長節)に累計100万人達成
5月1日(水) 一日入場者118,500人
5月2日(木) 一日入場者3万余人
5月5日(日) 一日入場者20万人突破
累計1,423,527人に。
5月7日(火) 午後一時延べ入場者150万人達成
5月19日(水) 一日入場者30万人
累計2,279,377人
最終結果
5月24日(金)
累計3,299,000人となっています。
実に残り5日間で100万人が入場ということですから、驚きです。
横濱市も予想を超える入場者に驚きを隠せない様子が報道資料からも読み取れます。

ここに300万人が!(現在の山下公園) 山下公園図

◎関連ブログ

【記念式典】横浜、金のシャチホコ

第689話【横浜の記念式典】もう一つの幻イベント
(復興記念)
一概に比較できませんが、1923年(大正12年)に起こった関東大震災から12年後にこの「復興記念横浜大博覧会」が行われましたが、
<震災復復興宣言>は
震災後7年目、亡くなられた方に対し七回忌に間に合わせたのか判りませんが、
内務省と東京府、東京市は1930年(昭和5年)3月に終結宣言します。
横浜市は復興記念の日を4月23日と宣言し「復興記念祭」を開催しました。
この時、昭和天皇からは
「お祭り騒ぎにならぬやう」と釘を刺されたそうです。
横濱では市役所、公立学校を休みとし、横浜公園他で式典が行われました。
2017年
東北の復興宣言は何時になるのでしょうか。

■まだまだ読み込んでいない興味ある資料があります。
横浜で開催された戦前最大級の<博覧会>ここで実施された<関連事業><関連イベント>を通して、四年後にこの国が開戦に至る歴史の<隘路>の断片が見えてくるように思います。
このテーマさらに追いかけます。

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4月 1

第882話【時折今日の横浜】3月31日 年度末

横浜港の軸「大さん橋」が竣工したのが
1894年(明治27年)の今日3月31日
 最初は「鐵桟橋」とか「税関桟橋」と呼ばれました。
1932年(昭和7年)の3月31日
 東急東横線「高島町駅〜桜木町駅間」が全通しました。
1978年(昭和53年)の3月31日
 平和球場が「横浜スタジアム」に生まれ変わりました。
1996年(平成8年)の3月31日
 観光周遊バス「ブルーライン」廃止 横浜市営交通八十年史
  1984年(昭和59年)4月1日から運行の始まったダブルデッカー (Double Decker) 型市内観光周遊バス「ブルーライン号」が廃止になった日です。

この3月31日 世の中は「年度末」
年度末は何故3月なんでしょうかね?
現在国の根幹となる<会計年度>は法律で4月1日〜3月31日とされています。
実は近代化が始まった明治初期には何度も会計年度が変わり実務当事者はかなり苦労したようです。
本日は横浜ネタから少し離れて
「年度末」について
年度末にアクセクするのは<近代>かららしいのですが
その前に、では江戸時代はどうだったのか?
江戸時代における会計実務は「和式簿記(帳合)」によるものでした。
大福帳は正月に始まり大晦日で終わりましたので
江戸期の年度は正月に始まり大晦日で終わり、
現在のような決算を出すことはありませんでした。
(明治の会計年度)
1869年(明治2年9月)
→旧暦10月〜旧暦9月制
1872年(明治5年10月)
→1月〜12月(1873年(明治6年)実施)
1874年(明治7年)12月
→7月〜6月(1875年(明治8年)実施)
1884年(明治17年)10月
→4月〜3月<太政官達89号>明治19年4月施行
1886年(明治19年)4月から
現在のような年度が実施されるようになります。
会計年度のみならず、小学校でも4月入学が<奨励される>ようになります。
ただ学校の4月入学が法制化するのは もう少し時間がかかります。
1888年(明治21年)全国の師範学校4月入学
1900年(明治33年)小学校が4月入学
まだ 大学(1921年(大正10年)まで)・旧制高校(1919年(大正8年)まで)は9月入学となっていました。
※9月入学を続ける私学もありました。
現在のように4月新学期は日本だけのようです。概ね9月新学期が多いようですが、1月から9月までばらつきが見られます。真冬・真夏の新学期はないようですね。
会計年度に戻ります。諸外国では学校年度と会計年度が必ずしも一致しているわけではありません。
<世界の会計年度>
1月〜12月韓国、中国、ロシア、フランス、ドイツ、オランダ、ベルギー、スイスや南米諸国。
4月〜3月日本、イギリス、インド、パキスタン、カナダ、デンマークなど。
7月〜6月ノルウェー、スウェーデン、ギリシア、フィリピン、オーストラリアなど。
10月〜9月アメリカ、タイ、ミャンマー、ハイチなど。
日本が4月〜3月となったのはイギリスの影響が大きかったようです。

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3月 21

第875話【時折今日の横浜】3月21日

1953年(昭和28年)の今日
「横浜市戦没者慰霊塔」の竣工式が行われ戦没者追悼式が開催されました。
この慰霊塔をご存知ですか?現在の三ツ沢公園の一角に建っています。
<三ツ沢公園>
「横浜市戦没者慰霊塔」の建つ横浜を代表する公園の一つ<三ツ沢公園>をまず紹介しましょう。
三ツ沢公園(みつざわこうえん)は面積300,055m2の「新横浜公園※」に次ぐ規模を持つ運動公園です。
※「日産スタジアム」のある横浜市最大の都市型運動公園

三ツ沢公園一帯は、県道を挟んで大きく北東側と南西側の2つのエリアに分かれています。南西側には陸上競技場、三ツ沢球技場、テニスコート、軟式野球場、野外活動センターなどが設置されています。
北東側には横浜市唯一の馬術練習場、テニスコート、子供の遊び場
そして今回紹介する「横浜市戦没者慰霊塔」を含む公園施設があります。

1949年(昭和24年)10月に、第4回国民体育大会(東京国体)のバレーボール会場として使用されることをキッカケに整備され、現在まで陸上競技場、補助競技場、球技場、テニスコート、軟式野球場、馬術練習場など多彩なスポーツ施設が設置され市内最大級の運動公園となっています。
※「公園」規模では最も広いのが<こどもの国>です。

三ツ沢公園は
1955年(昭和30年)に開催された第10回国民体育大会のメイン会場となり競技場の改修、更衣所、管理棟、ラグビー場などが建設が行われます。
1964年(昭和39年)には新しく東京オリンピックのサッカー会場(現在ニッパツ三ツ沢球技場)として整備され使用されました。

<横浜市戦没者慰霊塔>
今日の本題、「横浜市戦没者慰霊塔」を紹介します。
三ツ沢公園北東側に足を踏み入れるとスポーツを楽しむ人々のにぎわいが一転静けさに包まれます。公園奥に一際高い横浜市戦没者慰霊塔が見えてきます。
この慰霊塔は
1953年(昭和28年)3月21日に建立されました。
平成になって付けられた塔の説明板には

「恒久の平和を願って
戦後50周年を迎えて、更なる平和への願いを込めて慰霊塔を改修いたしました。この慰霊塔は、西南戦争から第二次世界大戦までの戦争犠牲者の御霊を安置するため、昭和28年3月に建設したもので、左の塔は、先の大戦ではらった大きな犠牲と破壊を表し、右の塔は、新生日本が将来にむかって発展する姿を表しています。市民の皆様と共に諸霊の御冥福を心からお祈りし、戦争の悲惨さを忘れることなく、恒久の平和を念じたいと思います。横浜市は、21世紀に向かって、世界に開かれた国際都市づくりを進めていますが、ピースメッセンジャー都市として、今後とも積極的に国際交流活動を展開し、相互理解を深め、世界の平和と発展に貢献していきたいと思います。
平成7年11月1日  横浜市長 高秀秀信」

何故ここに戦没者慰霊塔が建ったのか?
横浜市では
「本公園の前身は、昭和14年創建の神奈川県護国神社外苑を昭和17、18年に防空緑地整備事業として整備したものです。
空襲で護国神社は焼失しましたが、残された土地は市に譲渡され、それに国有地の無償貸付や周辺の民有地などの取得をあわせて用地を確保、公園として整備を始めました。」
と説明されています。
<護国神社>
護国神社は、
1939年(昭和14年)に内務省によって制定された東京を除く府県一社を原則とする<指定護国神社>(昭和14年内務省告示第142號)によって全国に建てられました。
建立単位が陸軍連隊区という軍の区分をベースにしたため、中には複数社が作られた県もありました。また、明治期に多く建てられた招魂社・忠魂碑等が護国神社となっていったケースも多くありました。
戦争が終わるまでの6年間で51社が指定されます。
ところが、全国1道2府43県の中で、神奈川、宮崎、熊本の3県の縣護國神社が未着手、または造営中のまま終戦を迎えることになります。
その一つ、神奈川縣護國神社は1942年(昭和17年)7月27日に許可が下り、社殿造営が開始されますが、ほぼ完成間近のタイミングに横浜大空襲があり焼失してしまいます。
その後、
この地一帯が三ツ沢公園となりその一部<外苑>に「横浜市戦没者慰霊塔」が建つことになります。
一方、護国神社の無かった宮崎、熊本の2県では戦後継続して新社殿建設が行われ、
宮崎が1955年(昭和30年)に竣工、
熊本が1957年(昭和32年)に竣工します。
<唯一護国神社のない県>
1953年(昭和28年)
神奈川県は戦後いち早く<神奈川方式>と呼ばれる”多宗教”の「戦没者慰霊堂」が横浜市港南区最戸に建てられ戦没者慰霊の役割を担うことになります。
結果、全国で唯一<護国神社>の無い県となりました。
http://www.pref.kanagawa.jp/cnt/f153/p2926.html
また、横浜市としては
<横浜大空襲>を含めた戦争犠牲者を悼む「横浜市 平和祈念碑」が
中区の大通公園中程に建立されています。
1992年(平成4年)5月29日建立。
建立者は「横浜戦災遺族会」
彫刻家の横田七郎の作品で台座正面には「平和記念碑 横浜市長 高秀秀信」とあります。毎年5月29日、大空襲の犠牲者を悼む平和祈念碑の内部が公開されます。
戦争の記憶を心に留めるためにも、
時にはこれらの慰霊碑を訪れることをお勧めします。
(三ツ沢公園関連ブログ)
No.173 6月21日(木)横浜の代表的な運動公園

No.173 6月21日(木)横浜の代表的な運動公園


No.309 11月4日(日)名実共に記念館

No.309 11月4日(日)名実共に記念館

(3月21日関連過去ブログ)
No.81 3月21日 猛女養成学校出身

No.81 3月21日 猛女養成学校出身

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9月 19

第859話【絵葉書の風景】観艦式に見る日本の歴史

戦前、海軍の大セレモニー観艦式が20回近く行われました。
今回は観艦式を<横浜絵葉書+資料>で整理し戦前の戦争史を振り返ってみます。
観艦式とは1341年に英国で始まった軍事デモンストレーションで、当時のエドワード3世が英仏戦争の際に指揮を鼓舞するために艦隊出撃の際に観閲したことが始まりです。
明治から昭和にかけて 日本海軍は「観艦式」を計18回実施しています。
この内、横浜で9回(半数)実施されました。
観艦式一覧
当時は第 回という名称では無く多くの場合年号で示しました。
○1868年4月18日(明治元年3月26日)
大阪天保山沖。参加艦艇数7隻
○1890年(明治23年)4月18日
神戸沖。海軍観兵式 参加艦艇数6隻
○1900年(明治33年)4月30日
神戸沖。大演習観艦式 参加艦艇数19隻
○1903年(明治36年)4月10日
神戸沖。大演習観艦式 参加艦艇数49隻

■1905年(明治38年)10月23日lightm38%e8%a6%b3%e8%89%a6%e5%bc%8f316light%e6%a8%aa%e6%b5%9c%e9%96%a2%e9%80%a3%e9%9b%91%e8%b3%87%e6%96%99m38m38%e6%96%b0%e8%81%9e%e8%a8%98%e4%ba%8b 横浜沖。凱旋観艦式 (日本海海戦勝利)参加艦艇数168隻
横浜で最初に観艦式が行われたのが日露戦争終結(9月5日)に伴う凱旋観艦式 で「日本海海戦勝利」を祝う形で開催されました。
日露戦争は、第一次世界大戦につながる(近代)総力戦の始まりでした。
日露戦争終結は日本勝利という形でしたが、日露共々厖大な戦費負担と経済疲労に喘いでいて、当時の常識であった<賠償金>を得ることができなかった勝利でした。
国内世論は戦利品のない勝利の不満に沸騰し、暴動が起こり東京で初めて戒厳令(緊急勅令)が出されました。
このような中での戦勝をPRするために「凱旋観艦式」が行なわれました。艦隊の最高責任者(艦隊長官)は東郷平八郎(大将)、英米艦隊も参加しました。
観艦式に参加した艦艇数の多さからも、この観艦式の意味合いがわかります。

○1908年(明治41年)11月18日
神戸沖。大演習観艦式 参加艦艇数123隻
■1912年(大正元年)11月12日lightt%e5%85%83%e5%b9%b4%e6%a8%aa%e6%b5%9c%e8%a6%b3%e8%89%a6%e5%bc%8f013-1 横浜沖。大演習観艦式 参加艦艇数115隻 航空機2機
7月30日から大正となり初めて行われた観艦式です。ここで航空機が登場します。
○1913年(大正2年)11月10日
横須賀沖。恒例観艦式 参加艦艇数57隻 航空機4機
→1914年6月28日 第一次世界大戦(〜1918年11月11日休戦協定)
1914年8月23日 日本ドイツに宣戦布告
■1915年(大正4年)12月4日light%e8%a6%b3%e8%89%a6%e5%bc%8ft4%e5%b9%b4%e6%a8%aa%e6%b5%9c%e9%96%a2%e9%80%a3%e9%9b%91%e8%b3%87%e6%96%99009light%e8%a6%b3%e8%89%a6%e5%bc%8ft4%e5%b9%b4%e6%a8%aa%e6%b5%9c%e5%8f%b2%e6%96%99017
横浜沖。御大礼特別観艦式 (大正天皇即位式)
参加艦艇数 124隻 航空機9機
■1916年(大正5年)10月25日
横浜沖。恒例観艦式 参加艦艇数 84隻 航空機4機
→1918年(大正7年)8月2日 シベリヤ出兵
11月11日第一次世界大戦終結
○1919年(大正8年)7月9日
横須賀沖。御親閲式 (欧州派遣艦隊慰労) 参加艦艇数 26隻
※日本海軍駆逐艦隊が対ドイツ潜水艦のため地中海に派遣された。
1918年12月19日、7隻のドイツ潜水艦が日本海軍第二特務艦隊に引き渡され英米仏が不可能と見ていた日本への曳航に成功し1919年6月18日に横須賀港に到着した。light20150423115800%e3%83%89%e3%82%a4%e3%83%84%e6%bd%9c%e6%b0%b4%e8%89%a6%e6%88%a6%e5%88%a9%e5%93%81
■1919年(大正8年)10月28日light%e8%a6%b3%e8%89%a6%e5%bc%8ft8%e5%b9%b420151125143751light%e8%a6%b3%e8%89%a6%e5%bc%8ft8%e5%b9%b420151125143801
横浜沖。大演習観艦式 参加艦艇数 111隻 航空機12機
→1920年(大正9年)1月10日
日本、国際連盟に正式加入。常任理事国となる。(アメリカ不参加)
4月6日 ハバロフスクで日ソ軍事激突。(〜29日)
■1927年(昭和2年)10月30日light%e8%a6%b3%e8%89%a6%e5%bc%8fs2%e5%b9%b4%e8%b3%87%e6%96%99%e8%a6%b3%e8%89%a6%e5%bc%8f%e7%b5%b5%e8%91%89%e6%9b%b8002
横浜沖。大演習観艦式 参加艦艇数 158隻 航空機83機
→1928年(昭和3年) 張作霖爆死事件。
■1928年(昭和3年)12月4日light%e8%a6%b3%e8%89%a6%e5%bc%8fs3%e5%b9%b4201312%e7%b5%b5%e3%81%af%e3%81%8c%e3%81%8d038light%e8%a6%b3%e8%89%a6%e5%bc%8fs3%e5%b9%b4201312%e7%b5%b5%e3%81%af%e3%81%8c%e3%81%8d041
横浜沖。御大典記念 参加艦艇数 186隻 航空機132機
御大礼特別観艦式 (昭和天皇即位式)※史上最大
○1930年(昭和5年)10月26日light%e8%a6%b3%e8%89%a6%e5%bc%8fs5%e5%b9%b4%e8%b3%87%e6%96%99%e8%a6%b3%e8%89%a6%e5%bc%8f%e7%b5%b5%e8%91%89%e6%9b%b8006
神戸沖。特別大演習観艦式 参加艦艇数164隻 航空機72機
→1931年(昭和6年)9月18日 満州事変勃発
■1933年(昭和8年)8月25日light%e8%a6%b3%e8%89%a6%e5%bc%8fs8%e5%b9%b420150508141624
横浜沖。大演習観艦式 参加艦艇数159隻 航空機200機
→3月24日 日本が国際連盟脱退を通告。
→1934年(昭和9年)12月19日 ロンドン軍縮会議決裂。
→1936年(昭和11年)1月15日 ロンドン軍縮会議を脱退。
○1936年(昭和11年)10月29日light%e8%a6%b3%e8%89%a6%e5%bc%8fs11%e5%b9%b4%e6%a8%aa%e6%b5%9c%e5%8f%b2%e6%96%99013
神戸沖。特別大演習観艦式 100隻 航空機約100機
→1937年(昭和12年)7月7日盧溝橋事件。7月28日支那事変へ。
→1937年(昭和12年)11月6日日独伊の三国防共協定。light2016%e5%b9%b407%e6%9c%8805%e6%97%a501%e6%99%8216%e5%88%8611%e7%a7%92
→1939年(昭和14年)5月11日ノモハン事件。日ソ軍衝突、日本大敗。
→1939年(昭和14年)9月1日ドイツ軍がポーランド侵攻、第2次世界大戦始まる。
■1940年(昭和15年)10月11日lights15%e7%b4%80%e5%85%83%e4%ba%8c%e5%8d%83%e5%85%ad%e7%99%be%e5%b9%b4%e8%a6%b3%e8%89%a6%e5%bc%8f017-1light%e8%a6%b3%e8%89%a6%e5%bc%8f%e8%a8%98%e4%ba%8b
横浜沖。参加艦艇数 98隻(推定) 航空機527機
紀元(皇紀)二千六百年特別観艦式
【日本海軍最後の観艦式】
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戦前観艦式資料
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No.285 10月11日(木)武装セル芸術
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【横浜側面史】 観艦式
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