戦前の絵はがきに関心があり、収集したり参考資料を探したりしています。有名どころの<絵はがき>は高価ですが当時盛んに発行された<普通の絵はがき>は手軽に入手できます。
キロ単位で購入した<絵はがき>にも思わぬ発見があります。今日はこのあたりから、話を進めます。意外な横浜接点がありました。
ここに一枚の絵はがきがあります。
「安藤記念教会構内全景(向って右 礼拝堂・中央幼稚園・左 安藤先生旧宅)」
この一枚に写っている建物はタイトルの通り、安藤記念教会として現存します。
http://ando-kinen.com
1917年(大正6年)に建てられ約一世紀、メソジストの伝統をもつプロテスタントの教会です。創設者の安藤太郎は1846年5月3日(弘化3年4月8日)に鳥羽藩医・安藤文沢の子として生まれました。開港間もない横浜でアメリカ人宣教師のディビッド・タムソンとサミュエル・ロビンス・ブラウンに英語を学びます。
※サミュエル・ロビンス・ブラウン
http://ja.wikipedia.org/wiki/サミュエル・ロビンス・ブラウン
※ディビッド・タムソン
http://ja.wikipedia.org/wiki/ディビッド・タムソン
海軍操練所、陸軍伝習所で学んだ後
榎本武揚らとともに1868年(慶応4年)江戸を脱出する<北行部隊>の一員として箱館戦争「五稜郭の戦い」の一員に加わります。階級は二等見習士官という下級士官でした。
この時、榎本艦隊の軍艦頭だった荒井郁之助(あらい いくのすけ)が安藤の妻の文子の兄であり、自分の姉の夫でもあった重縁もあり箱館戦争に身を投じることになったのでしょう。
安藤の義兄「荒井郁之助」は徳川政権のときに横浜で大鳥圭介と共にフランス式軍事伝習を受けた軍人でした。榎本<箱館政権>(蝦夷共和国)の下で海軍奉行となり、宮古湾海戦や箱館湾海戦で<新政府軍>に対し奮闘し降伏後は開拓使、開拓使仮学校・女学校校長、初代中央気象台長を歴任しました。
一方、安藤太郎は函館戦争後、一年間の禁固刑に処せられますが語学力をかわれ明治政府の外務省翻訳官に任官されます。1871年(明治4年)岩倉使節団の通訳官(四等書記官)として参加し帰国後香港領事、初代ハワイ総領事となりますが、この時期にキリスト教と出会い、文子夫人とともに洗礼を受けキリスト教徒となります。
その後、安藤の妻文子の遺志により自宅の一角に講義所を設けます。
1917年(大正6年)9月に礼拝堂が完成し、関東大震災、戦災を乗越え現存しています。
ここで注目すべきは、礼拝堂にあるステンドグラスです。
(未訪問ですので是非機会を作って訪問したいと思っています)
ステンドグラスを制作したのは小川三知(おがわ さんち)で、横浜とも少し縁のある方です。
小川三知は、「知る人ぞ知る日本のステンドグラス界のパイオニア」と呼ばれています。
「小川 三知は大正から昭和初めに活躍したステンドグラスの工芸家。 橋本雅邦に学んだ高い日本画の素養と、アメリカで修行して身に付けた複雑な色調を生み出すガラス技法で、アール・ヌーヴォー、アール・デコ風でありながらどこか日本情緒を感じさせる作品を生み出し、日本初のステンドグラス作家といえる存在である。(Wikipedia)」
東京と神奈川の現存する作品をざくっと紹介します。
日本メソヂスト教会 銀座教会(東京都中央区)
鎌倉国宝館(神奈川県鎌倉市)
横浜では
日本郵船氷川丸(神奈川県横浜市)一等特別室ステンドグラス
http://www.nyk.com/rekishi/index.htm
横浜市長公舎(神奈川県横浜市)
子安小学校(神奈川県横浜市)
ステンドグラスと横浜も広がるテーマですので改めて紹介します。
(今日はここまで)