第964話 醤油、塩 横浜雑景

今回から少しエッセイ風 書きなぐりを始めてみることにした。

地産地消は物流の発達と反比例する現象である。大都市は商品を飲み込む。
また、大量生産による廉価の席巻とも反比例し、ナショナルブランドが地域生産力を奪っていく。この経済原則は近代の風景ではなく、江戸時代後期には、頻繁に村間の商品売買、都市圏への商品供給が盛んに行われていた実態が明らかになっている。

近世江戸の産業が明治維新以後、変化しながらも存続していく業種もあれば、近代化で消滅していく業種もある。呉服商は百貨店に、両替商は商社・金融会社へと変わっていった。染と版画の技術と織物産業が融合し横浜の捺染、スカーフ産業を育てたように大消費地として近代に登場した「横浜」は業種業態の様々なドラマが起こっている。今も横浜人に人気なのが「もののはじめ」だ。個人的にはそろそろ卒業したほうが良いとは思うが、横浜もののはじめ本は未だ売れるようだ。その中には、他の都市の研究によって「はじめの座」を失ったものもある。富岡八幡近くにある海水浴の碑は、大磯に奪われたようだ。洗濯もどうやら横浜初ではなさそうだ。
ただ、居留地を抱えたことにより横浜から事業化が始まった産業形態は多い。ビール事業、パン製造、アイスクリーム製造、大量の製茶販売、鉄道事業もそうだろう。近代産業は日本各地に興り、次第に寡占化していく過程を踏んでいった。
元町の古老に聞いた。
横浜でも戦後まで小さな製パン店が多かったという。昔は商店街に必ず一二軒はあった和菓子店も自家製が中心だった。これは戦後、東京オリンピックくらいまで続いたという。このあたりからナショナルブランドが台頭し、自家製のパン屋は激変しチェーン化していく。木村屋、山崎製パン、丸十ベーカリー他の看板が急増し、スーパー、コンビニの登場で街のパン屋はその姿を消していった。
横浜のパン製造史を読むと偶然の一致ではあるが、大岡川周辺に老舗パン屋が健在であるように思う。まず堀川近辺ではパン業発祥の元町<パン物語>がある。横浜神戸東京、大正期から昭和初期に一大パン業創業ブームがおとずれるのである。
現在、
弘明寺入り口で開業する「デュークベーカリー」は昭和三年「木村屋」として創業 赤川家が店を守っている。
「盛光堂総本舗」の笹川さん。
横浜橋通商店街にある「丸十早川ベーカリー」は昭和29年「藤田丸十ベーカリー」として丸十系列として創業、初代の早川博さんを早川家が守っている。
野毛の「コテイベーカリー」もそうだ。あんぱんの美味しかった日本堂もつい最近まで頑張っていた。
横浜では、豆腐屋さんも個人製造店舗が最近までかなり頑張っていたが、この二十年軒並み閉店し激減状態にある。横浜の豆腐屋がとても元気な時代があった。
必ずしもその証ではないが、平沼に当時は目を見張った「豆腐会館」が建てられた。九〇年代まであのラッパを吹きながらの引き売りを見ることができた。
新しもの好きな横浜人(ごめんなさいハマっ子という語はあまり好きではない)ではあるが、老舗やご近所を愛するのも忘れないのも横浜の良いところだと思う。
前振りが長くなった。本題に入ろう。
醤油製造は近代まで、街なかに製造工場があり最寄り品だった。醤油は地産地消の代表格だったが、どこでも生産されていた訳では無い。原材料が揃わないと生産地にはならない。醤油の原材料は言うまでもないが大豆・小麦・麹・水・塩である。
現在、地元では神奈川区で「横浜醤油」が生産を続けている。
かつて南太田に「太田醤油醸造所」という中規模の工場があった。ここは横浜太田町に本宅を構えた吉田健三が経営していた醤油工場である。
吉田健三といってもピンと来ないかもしれなが、外相から首相となった吉田茂の父親(養父)だといえば、少し驚くかもしれない。
越前福井藩士の家に生まれ、1864年(文久四年)に脱藩し大坂で医学を学ぼうとするが、英学の必要性を感じ長崎に行き、その後1866年(慶応二年)にイギリス軍艦でイギリスへ密航、2年間滞在して西洋の新知識を習得し明治維新に帰国。その後、ジャーディン・マセソン商会横浜支店(英一番館)の支店長に就任し日本政府を相手に事業で大成功する。その功あってか大金の一万円の慰労金(退職金)を受け取りこれを元手に
「英学塾を皮切りに、翌1872年には東京日日新聞の経営に参画。さらには醤油の醸造業や電灯会社の設立、ビールやトタン、フランネルの輸入など、実業家としての頭角を顕して横浜有数の富豪に成長した。(wikipedia」
明治に入り、新しい時代に様々な政治運動が芽生えた。中でも幕末期倒幕に寄与した一人、板垣退助が全く未明の明治新政府設立時には木戸孝允、西郷隆盛、大隈重信と共に参与に就任する。「明治六年政変」征韓論論争に破れ、下野。自由民権運動を経て自由党を起し、明治期の一大勢力となっていく。
横浜でも、彼の思想に共鳴した者も多く、吉田健三もその一人だった。
大岡川運河整備に寄与した伏島近蔵も自由党支持者であった。
吉田健三は子供がなく、自由民権運動の闘士で板垣退助の腹心だった友人の竹内綱の五男 茂(吉田茂)を養子に迎え、茂は戸太町立太田学校(後の横浜市立太田小学校)を卒業した。

話が逸れてしまった。
醤油の原材料は大豆・小麦・麹・水・塩である。
醤油といえば千葉県銚子(ヤマサ)・野田(キッコーマン)が有名である。醤油は近世江戸期に工業化されたことにより贅沢品から日常の食生活革命の一端を担うようになる。江戸期当初は、原材料に大豆と大麦が使われていたが小麦を使うことにより濃口醤油の量産が始まる。醤油はもともと良質の大豆・麦・塩を調達できる西国の特産品で、江戸城への高級献上品の代表格でもあった。本場関西からの醤油は「下り醤油」と呼ばれ、関東の醤油は二級品扱いだったが、溜ではない濃口が主生産となり江戸味の醤油文化が確立する。
醤油製造の条件に、原材料は勿論「水運」が必須だったので、利根川流域に醤油産業が育ち行徳の塩、関東平野の大豆と小麦が結果的に銚子・野田に集約し醤油産業が育つ事になったが、この条件が揃えば近世から近代にかけて、地場の醤油産業も成り立った。
横浜市南区太田エリアは大岡川運河が発達し、大豆・小麦・麹・水・塩を揃える条件が揃っていたと推察できる。
(横浜の塩へつづく)

第901話 横浜ダブルリバー概論(1)

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