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第971話 白秋・白雨・柊二

今回は横浜との細い線を結びながら、一人の詩人を追いかけます。
北原白秋。
戦前の詩歌界を代表する北原白秋は母の実家である熊本県玉名郡に生まれ、江戸時代から続く柳川の商家で育ちました。
彼が作った多くの詩の一編は今でも多くの人の記憶に刻まれています。
神奈川の地にも暮らし、小田原・三崎での創作活動では精力的に作品を残しています。
北原白秋はその57年の人生に幾つかの転機を迎えますが
最初の転機は、青年期の多感な時期に一人の親友を失ったことでした。
白秋。
”白”に込めた仲間の一人に「白雨」と名乗った友人中島鎮夫がいました。19歳の時、中島白雨は自ら命を絶ちます。
以来、北原は”白秋”と亡くなるまでまで名乗り数多くの作品を残しました。
彼の最初の転機とも言える中島白雨の死について
詩集「思ひ出」の一節で鮮烈な詩を詠っています。
20歳前の少年の<激しい悲しみ>が込められた詩です。
長くなりますが、紹介します。
●「たんぽぽ」
「わが友は自刄したり、彼の血に染みたる亡骸はその場所より靜かに釣臺(つりだい)に載せられて、彼の家へかへりぬ。附き添ふもの一兩名、痛ましき夕日のなかにわれらはただたんぽぽの穗の毛を踏みゆきぬ。友、年十九、名は中島鎭夫。」

あかき血しほはたんぽぽの
ゆめの逕(こみち)にしたたるや、
君がかなしき釣臺(つりだい)は
ひとり入日にゆられゆく…………

あかき血しほはたんぽぽの
黄なる蕾(つぼみ)を染めてゆく、
君がかなしき傷口(きずぐち)に
春のにほひも沁み入らむ…………

あかき血しほはたんぽぽの
晝のつかれに觸(ふれ)てゆく、
ふはふはと飛ぶたんぽぽの
圓い穗の毛に、そよかぜに…………

あかき血しほはたんぽぽに、
けふの入日(いりひ)もたんぽぽに、
絶えて聲なき釣臺の
かげも、靈(たましひ)もたんぽぽに。

あかき血しほはたんぽぽの
野邊をこまかに顫(ふる)へゆく。
半ばくづれし、なほ小さき、
おもひおもひのそのゆめに。

あかき血しほはたんぽぽの
かげのしめりにちりてゆく、
君がかなしき傷口に
蟲の鳴く音も消え入らむ…………

あかき血しほはたんぽぽの
けふのなごりにしたたるや、
君がかなしき釣臺は
ひとり入日にゆられゆく…………

親友、中島鎭夫は何故自殺したのか。
秀才中島鎭夫は、早くからロシア文学に関心を抱き、独学でロシア語を学んでいました。この時期、皮肉にも日露戦争勃発と重なり、中島には事実無根の”ロシアスパイ容疑”がかけられます。しかも通報者は学び舎の教師だったそうです。
1904年(明治37年)白秋は故郷を捨て上京します。

北原白秋に関して私は、有名な詩歌をいくつか知る程度でした。横浜との関連も殆ど無いと思っていましたが、彼をさらに知るようになったのは白秋の門下生であり横浜に暮らした歌人、宮柊二(みや しゅうじ)との接点からでした。
No.33 2月2日 歌人が見上げた鶴見の空
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=590

横浜市鶴見区鶴見で暮らした宮柊二は、大正元年、新潟県魚沼の書店主の子として生まれ、白秋のように20歳で家業を捨て東京中野に移り、職を転々とします。
縁あって1935年(昭和10年)に白秋の秘書となります。目を患った晩年の白秋の口述筆記を担当するようになりますが、まもなく白秋の元を去り、川崎の大手鉄鋼会社「富士製鋼所(のちの日本製鉄)」に勤めることになります。
そして結婚を期に、鶴見に居を構え保土ケ谷疎開、召集を含め17年間を横浜で過ごします。出征し、会社員として働きながら歌人としての活動を続け、最終的には歌人として独立し労働者の視点で多くの詩を残しました。

では
北原白秋と横浜の接点といえば?
神奈川県の三崎、小田原での暮らしが彼の歌人生活で良く知られたことですが、横浜との接点はあるのだろうか?
と白秋の生き様を追ってみると、意外な横浜での接点がありました。
前置きが長くなりましたが、
今回は北原白秋と横浜の細くも劇的な接点を紹介、
する前に、白秋の人生はジェットコースターのような激変の連続、極貧と名声の中で数十回にも及ぶ<引っ越し>生活を送りました。
結婚は三度、都度相手の女性も彼にとって大きな転機となっています。
年譜をさらっと眺め、最初に気がついた「横浜」は
大正14年に横浜港から樺太・北海道に視察旅行へでかけたという記述です。
北原白秋のエッセイ「フレップ・トリップ」から
〈フレップ〉はコケモモ、ツルコケモモ、〈トリップ〉はエゾクロウスゴ
『(1925年(大正14年)8月)当の七日の正午には、私は桜木町から税関の岸壁を目ざして駛っている自動車の中に、隣国の王やアルスの弟や友人たちに押っ取り巻かれて嬉々としている私自身を見出した。それから高麗丸の食堂ではそろって麦酒(ビール)の乾杯をした。一同で選挙した団長が日露役の志士沖禎介(おきていすけ)の親父さんで、一等船客の中には京大教授の博士もいれば、木下杢太郎(きのしたもくたろう)の岳父(しゅうと)さんもいる。』
ここに登場する沖禎介は下記の番外編で紹介しています。
番外編【絵葉書の風景】ハルピンの沖禎介
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=9546
彼の横浜時代は資料がありませんが、興味がある人物の一人です。

この旅行は、鉄道省が主催したもので、沖禎介の父親「沖荘蔵」氏を観光団長に選び、約二週間の旅でした。
戦前の国際港といえば、東日本は横浜でしたので、多くの渡航者が横浜港を訪れています。ワタシ的には弱い横浜ネタでした。
今回「評伝 北原白秋(薮田義雄)」に目を通す中、
横浜が登場する
「所謂 「桐の花事件」の真相」という謎めいたタイトルの中で触れています。
次回に紹介します。

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