No.33 2月2日 歌人が見上げた鶴見の空

北原白秋に師事し、戦後和歌の発展に多大な功績を残した昭和の歌人
宮柊二(みや しゅうじ)は、
1944年(昭和19年)の今日、滝口英子と結婚し
横浜市鶴見区鶴見602に新居を構えました。

大正元年、新潟の魚沼に生まれ鶴見で育った宮は歌人として、
1946年(昭和21年)に第一詩集を刊行します。
彼は生涯に13冊の歌集をまとめ、戦後歌壇で活躍しました。
宮中歌会始を始め多くの雑誌の選者となり61歳で日本芸術院賞を受賞します。
サラリーマン生活を実感しつつ現代の生活者の孤独性を詠い高い評価を得ますが、50歳を目前にして長らく勤めていた鶴見の<大手製鉄会社>を辞め短歌に専念しまた新しい境地を開くことになります。
現代の生活者の孤独性を詠う作品は多くの共感を呼びます。

 七階に
 空ゆく雁の
 こゑきこえ
 こころしづまる吾が生あはれ

 おもひなく

 夜の駅出でて
 われ歩む
 ぬかるみは刃のごとく氷れり

宮柊二は和歌を始めた頃、職を転々ししますが北原白秋に師事することで目標が定まってきます。住まいの近くにある大手鉄鋼会社「富士製鋼所(のちの日本製鉄)」に就職。工場新聞の創刊に関わり、編集を担当し歌を詠み続けます。
戦争の時代、彼も軍に召集され中国山西省に赴きます。
light_20150131094848_001<当時の山西省の様子を描いた軍事郵便>
数年後、戦地で疾患により治療のため原隊復帰し、鶴見に戻り職場に戻ります。

(鶴見時代の歌)
 積みあげし
 鋼(はがね)の青き
 
 断面に
 流らふ雨や
 無援の思想あり

鶴見に戻った宮柊二は冒頭で紹介した通り、
1944年(昭和19年)2月2日に、同じ和歌を志す「滝口英子」と結婚し
鶴見区鶴見602番地に新居を構えます。自宅が軍需工場の近くだったため、空襲を避けて保土ケ谷区川島町に疎開しますが、幸せの時もつかの間、再召集されます。土浦で終戦を迎え、9月に家族の下に戻ります。
(終戦直後の歌)
 一本の
らふ燃やしつつ
妻も吾も
暗き泉を
聴くごとくゐる

「戦後の相つづく停電の夜、二人で蝋燭を見守り、暗闇にありながらも、ようやく掴んだ平安に浸っている。地の底から湧いてくる泉の音を聴くという思いは、妻とともにのびやかに生きていくことへの祈りであり、現在から見ると、つつましい愛の歌と読むことも可能である。」解説より

1951年(昭和27年)5月に杉並の社宅に転居するまで、従軍を挟みますが、宮柊二は17年間横浜で暮らします。新しい家庭を持ち、家族が増え幸せを実感しながらも、どこかクールに自分を見つめ、現代に問いかける彼の短歌が生まれた根っこには鶴見での暮らしが投影されているようにも感じられます。
宮は、生まれた故郷新潟の事も詠っています。
彼の母校
堀之内小学校の前庭には
「空ひびき 土ひびきして 雪吹ぶく さびしき国ぞ わが生まれぐに」
「夜もすがら 空より聞こえる 魚野川 瀬ごと瀬ごとの 水激ち鳴る」
の二句が刻まれているそうです。

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