No.432 老松を追い本町に迫る!

昭和の怪僧今東光が1898年(明治31年)生まれた日(3月26日)をネタに昨年のブログテーマ「老松小学校の悪童」にしましたが、
今東光が通った老松小学校について今回改めて調べてみたら
ちょっと面白かったので紹介します。

明治以降、学校制度、学校名がめまぐるしく変わります。横浜の中でも典型的な小学校変遷史を紹介します。まず「老松小学校」の歴史から
1873年(明治6年)4月3日 敬業学
 ※第一大学区第七中学区第九番小学校「敬業学」
 野毛大聖院を仮校舎として誕生します。
1874年(明治7年)10月  敬業自彊学舎
 ※自彊学舎と合併
1875年(明治8年)6月29日 敬業自彊学校
 ※宮川町106号地に新校舎新築し移転
1876年(明治9年)7月神奈川県師範学校野毛坂上級修文館の建物に移転。
 (現在の横浜市中央図書館の位置)
1878年(明治11年)3月  老松学校
1892年(明治25年)4月1日 尋常高等老松小学校
 ※学区は老松町、宮川町、野毛町、福島町、宮崎町、月岡町、花咲町


1898年(明治31年)1月 校舎を新築
1898年(明治31年)4月1日 幼稚園を併設
1923年(大正12年)4月1日 老松尋常小学校
1923年(大正12年)9月1日 関東大震災で校舎倒壊、11月まで野外で授業。
1923年(大正13年)3月10日 十全病院跡地に仮校舎完成。
1927年(昭和2年)4月1日 老松尋常高等小学校
1927年(昭和2年)7月旧老松小学校跡に横浜市立図書館竣工


1941年(昭和16年)4月1日 老松国民学校
1944年(昭和19年)9月20日校舎を「横浜市役所」として使用
 ※老松国民学校は本町小学校に移転し二つの教室を借り開校
  (殆どの児童は疎開)
1947年(昭和22年)4月1日 老松小学校
1947年(昭和22年)5月1日
 ※本町小学校へ統合し現在に至る
そして、市役所に使用した跡地に「老松中学校」ができます。
ここで素朴な疑問が出てきました。
現在中区花咲町の高島嘉右衛門が創設した瓦斯工場跡地にある「本町小学校」はどうして「ほんちょう」なんだろう?
それまで全く気にしていませんでしたが、
本町小学校は 北仲通六丁目七十四番地に

No.428 Y校創設地はどこだ?


横浜商業学校(現Y校)の移転した校舎と「横浜小学校」を改築し
「横浜第一高等小学校」として設立されました。
その後
「横浜市尋常高等本町小学校」→「本町尋常高等小学校」
となり、関東大震災を契機に
1927年(昭和2年)現在の場所に移転しそのまま
「ほんちょう」の名を使用し現在に至っているという次第です。


どちらかといえば地元の老松小学校の名が残らず
本町の名が残ったのは何故でしょう?

No.256 9月12日(火)どこも本庁舎引越は大問題

五代目市庁舎(1944年〜1950年)
 第二次世界大戦下、空襲を避けるため
 野毛山にあった旧老松国民学校(現老松中学校)に疎開し開庁。
 鉄筋コンクリート造3階建て。
 市議会会議場はすぐ近くの横浜市図書館内に設置 
※(推理)
勝手な推理ですが、老松国民学校は1929年(昭和4年)に鉄筋コンクリート造3階建て1,279坪の規模の最新校舎を有していました。
戦火が激しくなる中、「老松」の児童は1944年(昭和19年)8月箱根に集団疎開します。市役所移転が9月20日ですから ほとんど学校の機能を失っていた状態でした。
市庁舎移転には適していたという訳です。
実は 本町小学校も同じ日に箱根へ疎開しその後北足柄村に移動しています。
学校機能が回復したのは 終戦後のことです。
戦後、老松の名は「中学校」に残り

老松中学校
老松中側から野毛坂を臨む

 小学校は「本町」に老松小学校と吉田小学校が吸収合併され現在に至ります。

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