No.429 Y校創設地はどこだ?2

昨日の「Y校創設地はどこだ?」の記事で
叱咤激励のメールをいただきました。

No.428 Y校創設地はどこだ?
「Y校の創設地を調べるなら
Y校の歴史を直接図書館か何かで調べ、もうひとひねりしてほしい。」

ごもっとも
前日の「Y校創設地はどこだ?」の本意は
手元の二次情報で、二つの食い違ったデータの謎解きをする愉しみを追いかけました。
そう データ追跡の基本は「一次情報」にあたれ!
ということなので
一次情報をあたりました。
というか、古書店を巡っていたら
偶然、「Y校八十周年記念誌」に出会いました。

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地味な表紙で ほとんど気がつかない場所での発見です。
※即 入手しました。
そこには、Y校創設期の話しが詳しく記載されていました。

「横浜商法学校」の命名は早矢仕有的で、創設者“美沢進”校長のヘッドハンティング
も彼が小幡篤次郎に伝え、福沢諭吉の快諾を得たそうです。
「横浜商法学校」誕生は横浜町会所の二階で、3月20日開校し
最初の生徒は4名、教員が5名という状況だったそうです。
そこで、25日に急遽夜間部を設け14名の生徒が集まり、現在の定時制部の起源となります。定時制としても日本で初期創設の部類に入るのではないでしょうか。
そして
「11月27日に北仲通六丁目六十八番地」に
新校舎が完成し、移転します。
ここでも 発見です。昨日の「No.428 Y校創設地はどこだ?」
の下になった年表では11月26日となっていました。

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以上が 「横浜商法学校」設立の顛末です。

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この「Y校八十周年記念誌」にはその当時の手書き地図が掲載されていましたので転載させていただきます。横浜駅(現桜木町駅)前には噴水がありました。

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ここでもう一つ 個人的大発見。
横浜正金銀行支配人、慶応義塾塾長、交詢社の設立発起人だった小泉信吉(こいずみ のぶきち)の自宅が桜木町一丁目一番地にあったことがこの手書き地図に書かれています。
Y校との関係も深く、強力な支援者でした。

(試練)
1888年(明治21年)3月18日に近所で起った火事で学校が全焼します。
その時、
「学校が焼けたのではないぞ、建物が焼けたのだぞ、解ったか。
 解ったらよい 酒でも飲め」と
美沢校長を強く励ましたのが小泉信吉だったそうです。
隣接地の本町六丁目八十四番地の生糸会社を借りて授業を再開、
一年九ヶ月後、新校舎ができあがり大きな試練を乗り越えます。
さて?
この間借りした生糸会社?
手元資料で調べましたが判りませんでした。
帝蚕倉庫株式會社は創設が大正なので違います。
追跡してみます!

この「Y校八十周年記念誌」にはY校のエピソードが一杯記載されています。
テーマを練りながら 折々に紹介していきます。

No.267 9月23日(日)Yの真価

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tadkawakita
  • tadkawakita
  • 横浜の歴史にざくっと関心をもって15年です。本腰をいれて学び始めて5年となりますが、学べば学ぶほどに深くなっていきます。
    Y2345というキーワードを作りました。1923年〜1945年までの横浜を軸に「横浜史」を乱学しています。
    史実に出会ったら、できるだけ現在の地を訪れるよう努力しています。

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