(2012年も残すところ100日、100話となりました。)
1943年(昭和18年)9月23日の今日、
横浜市立横浜商業専門学校(横専またはY専)の校章「Y」は敵性語のため廃止と決まりました。
戦後「横専」は新制横浜市立大学商学部に、
Y校本科は現在の横浜商業高等学校となりYのマークを復活継承します。
横浜商業高等学校、Y校といえばY一字の校章、学生帽で有名な横浜市を代表する高等学校です。
「横浜に上陸したら先ず“Yボーイ”をつかまえよ」アメリカの貿易商の間で囁かれていた日本に行った時の留意点だったそうです。(Y校80年史)
“Y”を敵性とは三国同盟は有名無実だったのでしょうか。
まあ仮にドイツ語、イタリア語でしたらYは「ypsilon」ですから語呂が悪かったことは間違いありません。「イー校」ってとこでしょうか。これでも結構いけますね。
1882年(明治15年)に開校した“イー校”の歴史を簡単に紹介しておきましょう。
(国際力のある人材育成)
貿易の街に変貌した横浜で、外国人と対等にビジネスを行う人材育成の必要性を実感した発起人28名の内
横浜貿易商組合の幹部七人※が集まり
“ビジネススクール”の設立を決断します。
当時全国の商学校設立に学校を挙げて協力していた慶応義塾の福沢諭吉に相談します。
※幹部七人
・「生糸貿易の重鎮」市会議員、横濱正金銀行頭取“小野 光景”
・「実業界の明星」後の横濱正金銀行頭取“木村 利右衛門”
・「正義の獅子」政治結社「鶯鳴社」の“戸塚 千太郎”
・「横浜水道の元勲」横浜船渠、横浜鉄道の経営に従事“朝田 又七”
・「横浜の銀行家」茂木銀行代表 “茂木 惣兵衛”
・「日本のビール王」大日本麦酒社長の“馬越 恭平”
・「頭脳明晰な商工会議所のエース」来栖 荘兵衛
※発起人28名には、当時の横浜実業界の重鎮たちが名を連ねています。
安倍幸兵衞、戸塚千太郎、雨宮啓二郎、田中平八、田中平八、大谷嘉兵衛らがいました。
中には花火でアメリカで初めて特許を取った平山甚太もいました。
福沢はこの依頼に、慶応社中のエース級を紹介します。
備中(現・岡山県)生まれで1872年(明治5年)に上京、慶應義塾に学び福沢の信頼厚く、後に福沢の葬儀を取仕切った“美澤 進”(みさわ すすむ)です。
1882年(明治15年)3月20日開校した横浜の商業専門教育機関の名は「横浜貿易商組合立横浜商法学校」丸善の創始者早矢仕有的が命名しました。
最初は町会所(後の開港記念会館)の二階に開校しますが生徒は数人しかいなかったそうです。
美澤 進は、慶応を卒業後、岩崎弥太郎肝いりの三菱商業学校に1878年(明治11年)から勤務しますが、西南戦争の戦費支出で財政難に対して緊縮(松方デフレ)政策のあおりで、1881年(明治14年)廃校になっていまい、職を失っていました。
福沢に実力を見込まれた美澤は就任後、大正12年9月に亡くなるまで42年間「Y校」の校長を務め、教育理念を創り、校訓を定め横浜商人の育成に尽力しました。
理論より実践の商業教育を目指し生徒数も順調に伸び、平成の今日まで多くの逸材を輩出しています。
このYマークが決まったのは、明治24年頃です。美澤 進校長は幾つかの校章案を作り、教え子に相談します。
当時日本郵船横浜支店長だった田中常徳です。
YokohamaのY、横浜を代表する唯一の学校を表すYの案に
「おれはYが良いと思う。シンプル過ぎるという人もいるが、おれはこれが良いと思う。如何だ?」と美沢が問うと
「そうです。それが良いでしょう」と田中が答えて決定したそうです。
美澤 進、座右の銘は「真面目(しんめんぼく)」です。
意味は、本来の姿。ありのままの姿。真価。
「Y校」というアルファベット一字の愛称の付く学校は大変珍しいのではないでしょうか。横浜商業高等学校の校歌は、
1916年(大正5年)に制定されますが、
作詞は横浜市歌と同じ森 林太郎 (鷗外)です。
栄行(さかゆ)く御代の 民草(たみぐさ)我等(われら)
事業(ことわざ)こそは種々(しなじな)かはれ
かはらぬものは心の誠
誠を守る商人(あきびと)我等
いでや見ませ朝な夕な
撓(たゆ)まず共に いそしむ我等
作曲:日本童謡界をリードした小松 耕輔です。
Y校(横浜商業高校)校歌
http://www.youtube.com/watch?v=5RdS4R2fIQI
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