法政大学は横浜と関係があります。
今日は、1920年(大正9年)に設置された法政大学と横浜を点と線で結んでみることにしました。
法政大学は東京六大学の一つで、
1880年(明治13年)4月に開設された「東京法学社(のち東京法学校)」と
1886年(明治19年)開校の東京仏学校が前身となり1920年(大正9年)の大学令に基づき大学となりました。
私学としては日本で最初の「法学部」と「社会学部」を設置しました。特に法学に関しては「日本近代法の父」ボアソナードが初代教頭に就任しています。
この「法政大学」設立の源流に
“横浜”がつながりますが
その前に
法政大学校歌をお聞きください。
http://www.youtube.com/watch?v=LdBbAFaKnRE
法政の校歌は
作詞は佐藤春夫
作曲は近衛秀麿という当時としては
最強のタッグが組まれました。
創設間もない
1929(昭和4)年、法政の学生の間に
校歌作成委員会が結成されます。
当初は学生から応募を募り
作品73編のエントリーがありましたが
その中から何を選ぶか
なかなか意見の一致が得られませんでした。
最終的に当時法政大学で教鞭を執っていた
“佐藤春夫教授”に作詞を依頼し
作曲は“近衛秀麿”という最強タッグが組まれこの校歌が誕生しました。
校歌にしては珍しく
作詞者、作曲者の間で激しい論争、激論がかわされたそうです。
(1)
若きわれらが命のかぎり
ここに捧げて(ああ)愛する母校
見はるかす窓(の)富士が峰の雪
蛍集めむ門の外濠
よき師よき友つどひ結べり
法政 おお わが母校
法政 おお わが母校
(2)
若きわれらが命のかぎり
ここに捧げて(ああ)愛する母校
われひと共にみとめたらずや
進取の気象質実の風
青年日本の代表者
法政 おお わが母校
法政 おお わが母校
作曲者の“近衛秀麿”は少し横浜と関係があります。
No.332 11月27日(火)おやかた、濱で一振り。
横浜と関係が深いといえば、近衛秀麿より作詞の佐藤春夫です。
法政大学校歌の作詞を行った昭和4年当時
佐藤春夫は短期間ですが法政大学で教鞭を執っています。
1929年(昭和4年)に法政大学予科講師となり、作文を担当していました。
ちょうどこのタイミングに、校歌づくりが行われたことになります。
作家 詩人でもある佐藤春夫は 和歌山県新宮に生まれ育ちますが、
1910年(明治43年)に上京し与謝野寛の新詩社に入ります。
その後、若き日の一時期
1917年(大正6年)から数年を
神奈川県都筑郡中里村鉄(くろがね)
現在の横浜市青葉区鉄で過ごしました。
この“くろがね村生活”をベースに誕生したのが
短編「病める薔薇」短編集としてまとめた「田園の憂鬱」です。
当時は鉄道も無く
「広い武蔵野が南端になって尽きるところ」
「言わば山国からの微かな余剰を湛えた〜」
大山街道沿いの小さな集落でした。
ここには 現在 佐藤春夫「田園の憂鬱由縁の地」碑が建っています。
佐藤が暮らしていた当時「田園の憂鬱」に登場した近所の女学生のモデルとなった金子美代子さん(故人)が、戦後本人の同意を得て建てたものです。
現在は 往時の風景も殆ど無く、一部の丘陵地が残るのみです。
さあ、法政大学と横浜の関係“本編”に戻ります。
法政の前身学校となった「東京法学校」は、フランス法系学校として1880年(明治13年)4月に開設された東京法学社が出発点となっています。
この東京法学校の初代校長となった人物が薩埵正邦(さった まさくに)で後の法政大学創立者の中心人物です。
この東京法学校の姉妹校として
1886年(明治19年)5月横浜市の尾上町6丁目に設立されたのが
「横浜法律学校」です。
横浜代言人組合(後の横浜弁護士会)によって設立された「横浜法律学校」は、当時としては大変珍しく、この代言人(弁護士)による法律家育成組織の結成に重要な役割を果たしたのが先の薩埵正邦(さった まさくに)でした。
開校時から東京法学校の教員が多く講師陣に名を連ね、修業年限の3年を超えて修学を希望するものは東京法学校へ編入できる名実共に「姉妹校」といえる学校でした。
残念ながら
横浜法律学校は、1889年(明治22年)ごろに財政的な問題で廃校となってしまいますが設立から3年間に法律関係書籍の発行等を行い優秀な人材も育成しました。
例えば
江戸文化・風俗研究家「江戸学」の祖といわれた三田村 鳶魚(みたむら えんぎょ)は「横浜法律学校」に学びました。
http://ja.wikipedia.org/wiki/三田村鳶魚
この「横浜法律学校」
尾上町6丁目に設立されましたが、
現在でいえば 指路教会の向かい側あたりでしょうか?