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No.415 横濱的音楽世界

ハマにはいつも、新しいサウンドが溢れている
震災そして空襲、焼け跡から逞しく立ち上がってきた港町・横濱。
幕末、開港のうねりに誕生した多くの芝居小屋にも
最新の歌声が響いた。
講談・義太夫に始まり、ジャズ、クラシック、ブルース、ダンス、演歌、ポップス…、
さまざまな横濱的音楽世界を探ってみたい

(今日は事情で一枚しか写真がありません。適時追加します。)

横浜は街を失うたびに、
新しく生まれ変わってきた
横浜は、何も無いムラから育ち
何度か街の焼失を経験し脱皮してきた。

いつも、ここから、立ち上がってきたのが横浜の歴史だ。
幕末、大火事で焼け野原になった。
これを機に日本大通りが生まれ、日本人住宅が木造からレンガへと変わるきっかけになる。
居留地の「パブリックホール⇒ゲーテー座」では音楽劇が明治の開館とともに上演、居留地外国人を唸らせ、
山手に移った「ゲーテー座」にはオペレッタ、オペラが連日かかり
オッペケペーの川上音二郎は、明治の横浜でデビューし全国を「ニュース芝居」で熱狂させた。
横浜で亡くなった竹本東猿は、女義太夫界で若者を夢中にさせた。
No.225 8月12日 (日)太夫 打越に死す

女流義太夫「新版歌祭文」野崎村の段キリ
http://www.youtube.com/watch?v=d0tPop7P8p4

文明開化は、横浜から始り
多くの起業家が横浜に集まった。
大正は横浜の時代だったといっても過言ではない。
しかし、
1923年(大正12)9月1日に起こった関東大震災で、横浜は壊滅的な打撃を受けた。
被災世帯の割合は、東京の73.4%に比べ
横浜では95.5%にも及んだ。
この震災で、横浜は基盤を失う。
開港以来ライバル関係にあった神戸に
生糸貿易の主役の座を奪われ、多くの企業が横浜を離れる。
でも谷崎は逃げたが、大仏 次郎はここからスタートした。

敗戦の傷跡、
アメリカ文化と出会う
第二次世界大戦中、横浜は三度目の試練を受ける。
1945年(昭和20年)5月の横浜大空襲である。
B29爆撃機517機
P51戦闘機101機の大編隊から
1時間8分の間に焼夷弾31,916個(2,570トン)が投下され、
被災者は31万を超え、
約8,000人が亡くなった。
終戦がおとずれる3ヶ月前のことだった。
横浜は、米軍接収の時代に入る。
沖縄を除くと、本土の接収地面積の約70%が横浜だった。
占領軍の建物も61%が横浜にあった。
さらに その60%が長期の接収となった。
横浜市中区の74%が摂取され、関内地区と横浜港は治外法権エリアとなった。
横浜は経済復興が大幅に遅れたが、占領下のアメリカ文化にどっぷりと浸る。

進駐軍の米兵達は市内に憩いの場を求め、街はそれを受け入れた。
多くの兵士が市内に生活拠点を置くことで、横浜はアメリカ文化と出会う。
その象徴がサウンドだった。ジャズ、クラシック、ブルース、マーチ
米兵が伝えた音楽は、多彩だった。

ジャズは、野毛で守られていた炎が劇場から広がり、
伊勢佐木には映画館が建ち並び
ブルースは本牧で屑ぶり、街中の猥雑な空間から広がっていった。
※昭和25年ごろ、約40軒の「本牧チャブ屋」が復活する。
そこにはブルースがたちこめていた。

占領軍は兵士の社交施設、文化施設をいち早く設けた。
米軍の体育施設フライヤージムでは国際音楽コンクールからプロレス、ジャズ他文化発信基地になった。
No.190 7月8日(月)パブリック・ディプロマシー

No.272 9月28日(金)横浜の中の世界のノナカ


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