昨年の1月25日のブログで「No.25 1月25日 馬車道の華」と題して、
横浜 馬車道を紹介しました。
今日は、馬車道本通から脇に入った小さな通りを紹介しましょう。
(横浜ツウの通)
馬車道の面白さは、本通りは勿論ですが、クロスする通りと裏通りに魅惑的なお店が多くあるのが“良いですね”
馬車道あたりを自在に飲み歩く方は、本当の横浜ツウかもしれません。
紹介したくない良い店も多くあります。
バー、ジャズ、焼鳥、ミシュラン、串焼き、小料理、うなぎ
キリがありません。
お勧めできる!超有名どころを紹介します
食事なら
「勝烈庵」棟方志功でも有名!
http://www.katsuretsuan.co.jp
スイーツとティータイムには
「馬車道十番館」
http://www.yokohama-jyubankan.co.jp/basyamichi/
意外?「半どん」
http://www.yokohama-jyubankan.co.jp/handon/index.html
ビールと食事なら
「驛の食卓」(横浜ビール)
http://www.umaya.com
※他は狭いエリアです。じっくり探してください。
いい店50軒は下りません。
馬車道関連ブログ
No.25 1月25日 馬車道の華
(プロローグ)
では馬車道を紹介?
http://ja.wikipedia.org/wiki/馬車道_(横浜市)
読んでください。なんと乱暴な。
でも簡潔にまとまってますので、馬車道歩きにはこの位の知識は頭に入れておくと
酒も食事も、街歩きも楽しくなります。
wikiに無い馬車道情報を少し追加しておきます。
(馬車道の登場)
馬車道が登場したのは、横浜の大火がキッカケでした。
1866年11月26日(慶応2年10月)に末広町の辺りで火災が発生し、折の大風に煽られ大火となります。これが俗に言う「豚屋火事」と表記されてきましたが、近年→特定の職業や人名ではなく時代や場所で「慶応の大火」と表記します。
この火災で日本人街の大半、外国人居留地の一部を焼失します。当時、横浜公園あたりは大遊郭ゾーンで、その数は15軒、当時331人の遊女が勤務していたと伝わっています。この遊郭ゾーンは、この火事で完全焼失します。
この火災を重く見た外国人が、木造建築の危険性を指摘し、防火ゾーンや道路等々のルールを日本に求め、慶応2年の12月29日に「横浜居留地改造及び競馬場墓地等約書」そういう約書が外国との間に締結されます。
この約書が日本の近代都市経営の始まりと言われています。大火後の街づくりが始まり、現在の関内地区の原型が出来上がります。海岸通から吉田町まで幅員60フィートに拡張された道路を計画し、1867年(慶応3年3月)に馬車道が完成します。
この道路を外国人たちの珍しい馬車が行き交い、1869年(明治2年)には吉田橋わき、現在の真砂町4丁目に、成駒屋(なりこまや)と称して、乗り合い馬車の発着所が開業するなど交通の要衝にもなります。
横浜、東京、日本橋間を4時間で結んだそうです。
最盛期には御者が25人、馬が60頭で営業しますが、明治5年の鉄道開通で廃業することになります。
これが乗り合い馬車の始め、馬車道が一番“馬車道らしい”時代だったかも。
当時は、外国人客が波止場(新港埠頭)、センターピアーから萬国橋を通ってまっすぐに来られるので、当時は海岸からの縦軸(馬車道)と、横軸(ウェルカム弁天通)が横浜一の高級商店街でした。
鬼瓦を葺いた2階建て黒塗りの土蔵造りが見事に家並みをそろえて、街並みの中央を貫く砂利道の馬車道の両側には柳の木が植えられ、夜にはガス灯に明かりがつき、また馬車の鉄の車輪からも火花が出て、夕闇迫るころはなかなか風流な街の情景がさらに人を引き寄せました。
明治元年、下岡蓮杖が太田町に写真館を開き、町田房造が5丁目に氷水店を開業し「アイスクリン」が登場した通りでもあります。
ちょっと長くなってしまいました。
(裏辻の物語)
さて、裏通り物語ですが いろいろあります。
恐らく、馬車道と裏通り関係で数冊の本が作れるのではないでしょうか?
今日は「馬車道六道」を紹介しましょう。
地図上は7叉路になってますが。日本では七より六の方が深い! |
馬車道の一本裏通りに、「六道の辻」という一角があります。
その名の通り、当時六差路(正確には七)がありこの名が付いたと思われます。
「六道の辻」で有名なのは京都の古刹、「六道珍皇寺」の門前です。
毎年8月におこなわれる京都の六道詣りは有名です。
六道というのは仏教用語で、冥界と現界との分かれ道を現し、
地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上への分かれ道が「六道の辻」にあたります。
ある意味で彼岸とでもいいましょうか、世界の分かれ目の意味合いもあったのではないでしょうか。
六道の辻は現世とあの世の境目、人はそこを通ってまた生まれ変わる。
堅実?に生きる日常から離れ、
酒と宵闇が非日常の空間を作り出す
別な角度からは、居留地(外国)と日本人街の境目、関内と関外の境目あたり
という意味でもこの馬車道裏が「六道の辻」というのは偶然でしょうか。
もう一つ、因縁があります。天然理心流の剣豪、近藤勇が率いる「新選組」が会津京都守護職の信任も厚く「誠」の旗風堂々と一剣をもって王城の治安を守り、特に池田屋事変で勇名をとどろかせた話は良く知られています。
そのメンバーの一人に川村三郎という人物が居ました。
新撰組では「近藤 芳助」と名乗っていました。
22歳で新選組に入隊し階級は伍長でした。彼と馬車道には細い糸の関係があります。
http://www.japanpen.or.jp/e-bungeikan/essay/pdf/asadayasuo.pdf
これによると
元新撰組伍長は、戦い破れ官軍に捕まり静岡藩預かりとなった後、京都へ送られて取り調べの後1870年(明治3年)に釈放されます。
文明開化の横浜市南大田町に暮らし代言士(後の弁護士)を開業します。
明治二十四年十二月刊行の交詢社「第二版日本紳士録」には、土地家屋賃貸業、(株)横浜四品取引所、(株)横浜株式米穀取引所の各理事、横浜商業銀行および横浜時事新報の各役員を務め、また横浜三争件の一つ共有物問題の追及で名をあげたと記されています。
1887年(明治20年)当時少数派の自由党に籍を置き、民権家として活躍する一方神奈川県議会の横浜区補欠選挙に初当選し、県会議員四期、横浜市会議員五期を歴任した人物でもあります。
彼は高島嘉右衛門とも親交が厚く、
高島は「ガス事業(灯)」、
川村は「水道先生」のあだ名を持ち水道事業で活躍したそうです。
勝烈庵さんの前には水道局の獅子栓が設置されています。
現在「六道の辻の記念碑」が建っていますが、すこし“移動”した位置になっています。
碑のある角にある勝烈庵の前には「ハマの街灯点火の地」の碑があり、この川村氏の子孫が関内六道の辻近くに「川村歯科医院」を開いていました。
(写真検索中 後日アップ予定)
現在は移転されたのでしょうか、見当たりません。
(夜な夜な馬車道)
昼間のしがらみを忘れ!
天道を目指し 地獄に落ちる 馬車道六道の辻あたり
最近“渡って”いませんので 黄泉渡りを再会しますか。
(新撰組と六道)
この辺りの六叉路を自然に「六道の辻」と読んだことで「ろくどうのつじ」となったのが命名の理由とのことですが、
不思議なことに新撰組と六道は関係深いのです。
栃木県宇都宮市に戊辰戦争の戦死者を弔う神社があり
この辺りを「六道の辻」と呼びます。
※行ってきました
六道之辻(戊辰之役戦死墓)
宇都宮城
※宇都宮は慶応4年4月(1868年5月)には戊辰戦争の戦地となり、宇都宮城の建造物は藩校修道館などを残して宇都宮の町並み共々焼失した(宇都宮戦争)。
この時、宇都宮城下戸数約3,000戸のうち8割以上の約2,000数百戸が焼失し、また寺町群も48寺院が全半焼したと伝えられる。