開港場「横浜」生みの親は誰でしょう?
私は“吉田勘兵衛”さんだと考えます。
彼の名が現在市内の一部に残っています。
その代表が「吉田橋」と「吉田町(商店街)」です。
1946年(昭和21年)11月16日(土)この吉田町商店街が復興祭を開催(17日まで二日間)しました。
この記事から
ざくっと(おこがましいですが)吉田町商店街を巡るエピソードを当ブログ流に追って?みましょう。
まず吉田町商店街はどこにあるのでしょうか?
現在の吉田町は伊勢佐木町と野毛町を結ぶ短い商店街です。
開港後横浜が国際港として整備が始まり、国内用と外国用の桟橋ができました。
国内用の日本波止場から「馬車道」が走り「派大岡川」の「吉田橋」を抜け伊勢佐木町商店街横から野毛と「横浜道」に抜ける商店街が「吉田町商店街」です。
それでは始めましょう。
吉田町商店街は幕末から昭和40年代まで、
継続してずーーーっと
横浜で一番コンスタントに賑わっていた“隠れ人気スポット”でした。
だから、終戦直後も一番に「復興祭」を開催したのでしょう。
1946年(昭和21年)11月16日(土)の「復興祭」は、神奈川新聞に広告と記事が出ています。
写りが悪いのでご勘弁ください |
“吉田町復興際”
進駐軍の許可を得て清水組(現在の清水建設)の全面協力で商店街を再建します。
※清水建設は1858年(安政5年)井伊直弼より開港場横浜の外国奉行所などの建設を請け負い横浜開発とは縁が深いゼネコンです。(都橋脇に横浜支店があります)
そこに戦前のお店が復活しその記念セールをするといった内容です。
(広告では)70の店舗が揃ったとPRしています。
ビクターの歌手が3名出演する“歌謡ショー”も同時に行われました。
3人の歌手とは
晩年は横浜で暮らしたデュエットの藤原亮子、
第1回日本レコード大賞童謡賞を受賞した石井 亀次郎。
そして新人の平野愛子でした。
平野愛子(wikipedia) |
これは中々特筆すべきことで、歌手 平野愛子が新人で登場していることです。
平野は1945年(昭和20年)暮れにビクターが行った歌手募集で3,000人の中から7人という400倍以上の倍率から選ばれた大型新人でした。
特にビクター専属作家「東辰三」に見いだされ
1947年(昭和22年)4月にビクターが戦後初のレコードとしてリリースした
「港が見える丘」で第一線に躍り出た
「濡れたビロウド若きブルースの女王、平野愛子」です。
この歌のヒットが「港の見える丘公園」の名につながります。
No.129 5月8日 ヒット曲の公園
港が見える丘 平野愛子
https://www.youtube.com/watch?v=VHJd8VMleCU
この“吉田町復興際”開催から半年後ですから、もうライブで練習していた頃ではないでしょうか?
当時を知る方から平野愛子は吉田町で何を歌ったか聞いてみたいものです。
(開港以前に横浜に着目)
この吉田町商店街、吉田橋の名が残る「吉田」は、横浜の関外地区を開港前に私財を投げ打って埋め立てた「吉田勘兵衛」さんの「吉田」です。
彼の努力、開拓精神が無ければ今の横浜は無く、開港場は最初の要求通り“神奈川”になっていたかもしれません。
(悲劇の埋立て王)
吉田家の代々に渡る横浜埋立て物語は語るも涙の物語です。
横浜に広大な新田を造った吉田 勘兵衛は江戸時代前期の日本橋で材木商を営み財を成します。高島嘉右衛門、苅部康則らとともに横浜三名士といわれました。(時代はズレますが)
※マルチビジネスマンだった高島嘉右衛門
保土ケ谷宿の本陣を代々管理し、横浜道を造った苅部康則
吉田勘兵衛、
新田開拓に関しては、隅田川沿い、千住中村の音無川流域を埋立て農業の世界でも成功します。
1656年(明暦2年)に横濱の入海に目をつけます。
幕府の許可を得て新田の開発(干拓)に着手し数々の苦労を乗り越え完成し「吉田新田」と名付けます。
この功績により苗字帯刀を許され、子孫は代々この新田に住み続けることになります。現在は大岡川近くの「吉田興産ビル」にその名残があります。
大岡川吉野町辺りから現在の首都高速までぜーーーんぶ、
吉田家の奮闘でできた土地です。
工事の途中、潮除堤が崩壊し干拓途中の土が流されたりしますが、地元の人々の意見をまとめあげながら約20年かけて
1667年に完成させます。
信心深かった吉田勘兵衛は
「新田開発の成功は村民の努力と神様や仏様の守りがあったからだ」と考え“お三の宮日枝神社”と長者町八丁目に“常清寺”を建てます。
吉田家の菩提寺となっている“常清寺”はその後、久保山に移りますが共に祀られた「浄地院殿永運日浄清正公大神祇」(清正公様)は現在も(清正公通り)と共に長者町に残っています。
吉田家は明治に入って、横浜開港場の水運機能を高めるために中村川から根岸湾までの運河を開削し「堀割川」工事を進めます。途中財政難に陥りますがなんとか完成します。
現在の吉浜町・松影町・寿町・翁町・扇町・不老町・万代町・蓬莱町はこの土砂を使って埋め立てられたのです。
まさに現在の横浜は「吉田さん」のおかげです。
No.214 8月1日 (水)開港場を支えた派川(はせん)工事
(最近元気な吉田町)
最近元気になった「吉田町」に関しては
http://www.yoshidamachi.org
十六夜吉田町スタジオ
http://izayoiyoshidamachistudio.com/ja/
カクテルの世界チャンピオンのお店「ノーブル」も吉田町にあります。
No.134 5月13日 必ず素晴らしい日の出が訪れる
その他
吉田町商店街付近はまだまだ十話分以上のネタがありますが、
今日はこのへんで。またの機会に。
【番外編】吉田町雑景
No.352 12月17日(月)市民の財布を守った都南
1894年(明治27年)頃に「第一有隣堂」を当時のビジネススポット吉田町通りに開業します。