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No.379 1月13日(日)Y市の橋

横浜を描いた洋画家の一人、松本 竣介の作品展(世田谷区立美術館)が明日1月14日(月)に閉幕します。した。
この規模の彼の作品展は当分開催される事は無いでしょう。
今日を含め二日しかありませんが、「Y市の橋」8点を含めチャンスのある方はぜひご覧下さい。

松本 竣介は1912年(明治45年)4月19日〜1948年(昭和23年)6月8日という短い人生に加え、1925年(大正14年)に病気(脳脊髄膜炎)のため聴力を失う中、ほぼ戦中を東京で生き抜きます。
東京渋谷生まれですが、多感な子供時代を父の仕事の関係で岩手県花巻と盛岡で過ごします。
彼の名は佐藤俊介でしたが、1936年(昭和11年)に松本禎子と結婚して松本姓となり、1944年(昭和19年)制作の作品からは竣介と名乗るようになります。
松本 竣介の作品には、都会風景が多く描かれています。しかも、その作風が大きく変化していきます。
青のモンタージュ。
青系統の透明な色調のなかに無国籍的で他面的な都会風景や人物をモンタージュ風に描いた作品群があります。
茶と黒の時代。
茶系統(赤銅にも近い)のくすんだ色調で東京や横浜の風景を描いたものがあります。
戦時下、東京の空襲が激しくなる中、家族を疎開させますが松本は自宅にとどまります。第二次世界大戦中の1941年(昭和16年)に軍部による美術への干渉に関する雑誌記事に抗議し、当時の画家達の多くが沈黙する中、雑誌『みづゑ』に「生きてゐる画家」という文章を発表し「芸術の自立」を主張した数少ない画家の一人です。
松本竣介は、
昭和前期の近代洋画史に、一種独特の足跡を遺した画家として評価されています。私は時々絵を鑑賞する程度の専門家ではありませんが、この一連の作品群を一気に観て、その非凡さマルチな才能に驚かされました。
彼の人生がもう少し延びたら
彼は戦後の日本をどう描いただろう。
ただただ残念さを感じるのみです。
彼は、
風景画そして人物画を中心に描いています。
1月14日までの作品展では
油彩・約120点、素描・約120点、スケッチ帖や書簡などの資料・約180点が一気に公開され、その質は勿論、量にも圧倒されました。

「松本竣介展「生誕100年」」
世田谷美術館
2013年1月14日(月)まで
開館時間 10:00-18:00
東京都世田谷区砧公園1-2
http://www.setagayaartmuseum.or.jp

松本竣介が描いた横浜の風景と橋が10点数点出品されています。
中でも 多作の「橋」「運河」をモチーフにした作品群で
「Y市の橋」は代表的作品群です。
描かれた場所は「月見橋」で架け替えられていますが雰囲気は少し残っています。横浜市内を流れる帷子川水系の「新田間川」の派系で派新田間川に架かっています。

最初に架かったのが1928年(昭和3年)で、この作品が昭和40年代ですから比較的新しい橋ではないでしょうか。
現在この周辺は、日々変貌を遂げており、
横浜駅を東西に結ぶ「きた通路」の「きた東口」エスカレータを登ったところにあります。

きた東口広場

上を首都高速が走り、東海道線、京浜急行線の線路にほぼ隣接しています。

現在は情緒も面影もありませんが

松本竣介は、派新田間川の一つ下流に架かる「金港橋」からこの「Y市の橋」を描きました。

金港橋から月見橋

架設年は1926年(大正元年)で国道1号線の橋として1970年に道路拡張に伴い拡張されました。

この近辺は、戦前から戦後しばらく表玄関にあたります。
神奈川(現在の東神奈川)あたりの工場群や、造船所(現在のみなとみらい)へ向かう人々や車両で賑やかな都市空間だったようです。
現在は 横浜そごう、ベイクウォーターがあり当時の面影は殆ど残っていません。強烈な印象として『残っている」のが今閉鎖されたまま残されている鉄の歩道橋です。
しかも、「Y市の橋」では風景がデフォルメされています。
絵と見比べてみるのも面白いです。

わずか20年ほどの短い画歴の中で、
都市の一部にこの横浜東口に架かる橋を選んだ
松本竣介の気持ちに触れるべく 長い時間この作品群の前に佇んでいました。
やはり 実物を観ないと判らないことが多くあります。

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