今日は横浜駅東西開発競争の歴史をテーマします。
熾烈な開発競争を続けながらも膨張し続ける横浜駅にとって9月30日は因縁の日です。
少々乱暴ですが「横浜駅周辺開発」の半世紀を巡ります。
Googleから横浜駅周辺、3D迫力あります。 |
(乗換から乗降へ)
神奈川最大の乗降客数を誇る「横浜駅」の話しはこれまで何度か取り上げてきました。
JRだけでも1日の乗降客数は約100万人を数え
横浜駅は、日本一路線が乗入れている駅です。
○東急東横線
○相模鉄道線
○京浜急行電鉄線
○横浜市営地下鉄ブルーライン線
○横浜高速鉄道みなとみらい線
○JR東海道本線
○JR根岸線
○JR京浜東北線
○JR横須賀線
総乗降客 約230万人に達する
日本有数の 巨大ターミナルです。
元々鉄道黎明期の「横浜駅」が現在の桜木町で、
現在の横浜駅は三代目で1928年(昭和3年)10月に開業しました。
昭和30年代(まだ東口が表口) |
以降、横浜駅は1960年代まで東口が表玄関でしたが、
乗換え中心でした。
(余談)確か、高倉健主演の「冬の華」のイントロは横浜駅東口から始まりましたね。
(ようやくプロローグ)
1959年(昭和34年)の今日、
株式会社横浜高島屋が開店します。
これを起点に東西のバランスが西口に大きくシフトします。
No.265 9月21日(金)ぺんぺん草の後に
ここで横浜駅の表玄関が「ぺんぺん草の西口」に移る頃を紹介しました。
相鉄文化会館、髙島屋、そしてダイヤモンド地下街も完成することによって乗換駅でしかなかった「横浜駅」が乗降客数全国有数の駅に変貌します。
1989年の西口界隈(撮影 河北) |
■白紙状態
横浜駅西口周辺(北幸・南幸)は
明治期に茂木六兵衞が中心になって埋め立てによって造られた土地です。
当時の繁華街は“桜木町から伊勢佐木周辺”でした。
現横浜駅界隈は、埋立てられその土地は
石油会社ライジングサンの製油所に一部売却されました。
それでも茂木家は最大時で16万坪を所有していましたが、
終戦後米軍接収を恐れ売却します。
その売却先企業が
相鉄、岡田屋、岩崎学園等でした。
戦後資材置場に過ぎなかった西口空間にいち早く目をつけたのは
東急の“五島慶太”でした。
No.207 7月25日 (水)五島慶太の「空」(くう)
かつて部下だった相鉄の「川又英雄」に西口共同開発を働きかけますが、
川又は独自路線を選び東急Gとは訣別します。
そこに小田急電鉄も目を付け株買収を始め、横浜駅をめぐる経済戦争直前までいきますが、小田急が仲介で手を引きます。
東急が本格的進出を諦めた頃、
眠れる相模鉄道が横浜駅開発に本腰を入れ始めます。開発の鞘当ては盛んに行われましたが、横浜駅西口駅前は全くの白紙状態でした。
■機を逸した三越!
相鉄は、横浜駅西口に大型商業施設(デパート)を誘致することを計画します。
第一候補に「三越」を考えます。
当時三越は創業50周年を目前にし、最も勢いがあった百貨店の代表格でした。
三井系呉服店「越後屋」からスタートした三越は商圏を“見誤り”西口進出を断ります。
この時、同時に交渉を進めていた髙島屋が関心を示します。
まず駅前ストアから始め、
資本を独立させた株式会社横浜髙島屋を設立し
「西口駅前区画整理」後の相鉄所有の一等地に出店します。
1959年(昭和34年)の今日
「髙島屋」がオープン(グランドオープンは10月1日)します。
横浜髙島屋は、独立店舗の中でも驚異的売上で横浜駅界隈のリーダーに躍り出ます。
二子玉川店、港南台店を株式会社横浜髙島屋として出店し髙島屋Gの中でも最大の稼ぎ頭となります。(1995年に株式会社髙島屋に吸収されます)
機を逃した三越は、
西口広場の北側に専門学校を経営する岩崎学園のラブコールを受け、
1973年(昭和48年)に出店します。
三越は当時社長になったばかりの天皇と呼ばれた“岡田茂”の時代です。
三越横浜店は開店早々、オイルショックの洗礼を受けます。
ヨコタカに水を開けられたまま
2003年新体制となった三越は2005年に横浜店を閉店します。
そして2008年に業界に激震が走った「三越伊勢丹ホールディングス」が設立されます。
この三越伊勢丹合併が“横浜東西戦争”に関わってきます。
■MMを巡る東口骨肉の争い
みなとのみらいがつながることが発表されたのは飛鳥田一雄が市長時代でした。
この計画を知って、三菱造船所が空き地になれば、
横浜は東京に勝てる(負けない?)
その窓口は“東口”だ!
と多くの人間が確信しました。
2月27日 政治家が辞めるとき
飛鳥田プランが出される前から、
戦後の横浜駅(東口)復興に腐心していた経営者が
野並茂吉(当時崎陽軒社長)でした。
彼は横浜エリアで戦後最初最大の崎陽軒ビルを建てます。
これによって横浜駅東口(表玄関)の威厳を復活させます。
ところが、西口界隈の開発進行とMM計画の概要が現実化する中、東口は不毛ともいえる
20年の政官民泥沼時代に入ります。(ここでは略します)
ごたごたを抱えながらも東口開発が徐々に進み、
1980年(昭和55年)にポルタ地下街がオープンします。
そして、
1985年(昭和60年)の今日、(髙島屋オープンから25年目の同日)
当時売場面積日本一を誇る横浜そごうが開店します。
同時に横浜新都市ビルがオープン、1階は横浜駅東口バスターミナルとなり
隣接するスカイビルを併せて東口の商業核にとして登場します。
1985年9月30日開業 |
さらに、横浜駅の商業戦争に参入したのが
1987年(昭和62年)に民営化されJRとなった駅ビル事業の参入です。
1976年(昭和51年)新宿ルミネで成功し
1980年(昭和55年)ポルタに合わせて横浜ルミネが東口側に開業します。
西口側はすでに1962年(昭和37年)「横浜ステーションビル(シャル)」が開業していました。
シャルは2011年(平成23年)5月24日閉店し鶴見にシフトしました。
そして、西口は半世紀のジレンマを克服し
東急が動き出します。
No.87 3月27日 (火) 横浜駅のヘソが変わる
東口界隈 |
残るは北口開発
「横浜ベイクォーター」の登場です。
また、伊勢丹の夢ふたたび、三越のリベンジ、ゼネコンの誤算
を含め(気になるでしょう?)横浜駅界隈は新しいステージを迎えました。
横浜駅東西(南)北から目が離せません。
このあたりのエピソードは別の機会に譲ることにします。
No14 1月14日(土) ハマボール閉鎖
No.222 8月9日 (木)YCAT