今日は、開国によって外国との交易が始まり
「居留地」ができ上がるあたりを簡単に整理してみましょう。
明治初期の関内・関外図 |
徳川幕府の時代は「鎖国」を行い、
外国との貿易は勿論、情報交換は厳しく禁止されていた!
と学んできましたが、最近の日本史研究の流れでは
「徳川時代は交易を遮断せず
長崎・対馬・松前・薩摩の4カ所に制限し
交易相手も限定していたので
外国からの情報は一切遮断されていた訳ではない。」となってきました。
ここで少し前置きが長くなりますが
日本史全般になります。
17世紀から19世紀にかけて
徳川幕府は前述の4つのチャンネルを通じて海外交易と情報を入手していました。
北は「松前藩」が蝦夷地の“アイヌ”と交易を行いながら北の動向を探っていました。
南の「対馬藩」では“朝鮮”と交易を行い外交としては「通信使(つうしんし)」の招聘を行い江戸時代には朝鮮から12回に及ぶ「朝鮮通信使」が日本を訪れます。
※各地に朝鮮通信使の通る街道史跡が残っています。
南端の「薩摩藩」では“琉球”と交易を行い江戸への使節団の受け入れ等を行っていました。
※ペリーは浦賀上陸の前に琉球に立寄り外交交渉しています。
最も交易量、情報量が多かったのが「長崎・出島」でした。
阿蘭陀(オランダ)に交易相手を限定し、欧州との窓口となっていました。
「松前藩」から[露西亜]情報を。
「対馬藩」から[朝鮮]情報を。
「薩摩藩」から[中国]情報を。
「長崎・出島」からオランダを通じて[欧州]情報を入手していました。
特に「長崎・出島」からの情報は“徳川幕府”が外国奉行(長崎奉行)により
中国船とオランダ船から積極的に情報収集を行っていました。
「唐船風説書」と「オランダ風説書」からアジア大陸から欧州まで
“限り”はありましたが情報収集活動が行われていました。
(外国船往来)
江戸時代後半には
ロシアが頻繁に北海道近辺に出没します。
アメリカもペリー以前に日本に来航し、幕府と情報交換が行われ、
徳川幕府は19世紀に入り自国近辺が“騒がしい”ことは重々認識していました。
そこに、ものものしく幕府のお膝元に“突然”現れたのが
ペリー率いるアメリカ艦隊でした。
(外国人居留地)
開港時の顛末は省き(別掲予定)
ここから一気に時間を進めます。
徳川幕府が開国を認めたことによって
日本各地に「居留地」が作られます。
1858年の日米修好通商条約に始まり1899年(明治32年)に廃止されるまで「居留地」は、日本の外国=居留及び交易区域として特に定めた一定地域として存在しました。
東京(江戸)には「築地居留地」
神奈川には「横浜居留地」
大阪には「川口居留地」
兵庫には「神戸居留地」
長崎には「長崎居留地」
この他に箱館と新潟が開港し、居留地が一部形成されますが絶対数も少なかったためほとんどの外国人は市街地に雑居していました。
(横浜居留地)
横浜居留地は1859年に正式に開港しました。
このとき江戸幕府が突貫工事で整備し指定した居留地は日本風の造りで木造の雑居住宅ばかりでした。
開港直後の1860年(万延元年)に、水害防止と居留地を堀割で囲むため現在の元町商店街脇を掘り進み「堀川」を作ります。
開港時なので「堀川」がありません。 |
開港直後、堀川が作られます |
明治初期の関内俯瞰図 |
関内外国人居留地域が西洋風の建築物になるのは
1866年(慶應2年)の大火”豚屋火事”→「慶応の大火」の後でした。
No.294 10月20日(土)防災道路を造れ!
この時期に整備・形成された街区が
関内エリアの原型となり
現在とほぼ変わらないことに驚かされます。