No.341 12月6日(木)桐生・横浜・上海(前編)

1922年(大正11年)12月6日の今日、
群馬県桐生市の書上家の家族のもとに一台のピアノが納入されました。
このピアノは、父との思い出でもあり、かつての栄華を誇った栄光のなごりでもありました。

(桐生の書上商店)
書上文左衛門(かきあげ ぶんざえもん)は現在の群馬県桐生市の12代続いた買継(かいつぎ)商です。
江戸時代の1684年頃開業し、桐生の特産品(主に桐生紙・織物)を江戸のみならず大阪・京都にも販売し財を築きます。
家業は万事順調であった訳では無く、“書上商店”の経営危機が江戸後期に訪れます。この時の経営選択が老舗を支えることになりますが、才覚だけでは時代を乗り越えることができないのがこの世の常です。
“書上商店”七代目あたりでかなりの借金を作ります。そこで家業を諦めず八代目で経営建直しを図り、九代目・十代目で業績も回復し幕末を迎えます。

(激動期の技術革新)
幕末明治の歴史を眺めていると、江戸時代は地方が日本を支えていたんだなと実感します。パリ万博で西欧文明を目の当たりにした日本の職人達は畏怖することなく納得・奮起して帰国します。短期間で見聞した技術を咀嚼します。近代日本を支えた織物産業は、全国の地方都市の技術力が革新を生みます。その情報発信基地ろなったのが開港場“横浜”でした。

群馬県東南部エリアは、織物産業の街として開港場に多くの輸出品を送り出します。横浜港から輸出された主な商品は「生糸」「お茶」に加え「織物」でした。この織物産業を支えたのが「買継商」です。
買継商とは、織物工場で生産した製品を全国の問屋へ販売出荷する商店であり、製作の指導・新技術導入を率先して行う役目も持っていました。
秩父市番場町には買継商通りという名が残っています。

幕末から明治にかけて、桐生の織物産業はいち早く産業革新を行います。まず内地織物の生産と販売制度を革新し、輸出織物にも欧州の最先端染織技術を採用することで発展します。この原動力となったのが桐生の買継商“書上商店”でした。

内国博覧会
http://www.ndl.go.jp/exposition/s1/naikoku1.html
1872年(明治5年)にはすでに力織機が導入され、1877年(明治10年)にはフランスのジャカールが発明した紋織り装置を日本(京都)で製造した木製ジャカード織機を購入します。このジャカード織機のすごさは、パンチカードを使った自動織機という点です。
カードのパターン通りの模様を織ることで均一な製品を大量生産できるようになります。
1886年(明治19年)には、日本織物を創設した桐生の買継商「佐羽喜六(さばきろく)」がアメリカから鉄製のジャカード2台とピアノマシン(紋紙に穴をあける器機)を輸入し織物業界の革新を牽引します。

(十一代)
この頃、中江兆民の中江塾に学ぶ一人の青年がいました。後の十一代書上文左衛門祐介です。秋山 好古の親友、加藤恒忠(拓川)と同時期に学んだ祐介は、埼玉県羽生市に生まれ、中江塾に学び横浜区相生町68番地に1888年(明治21年)9月22日創業した横浜煉化製造会社に副支配人として勤務します。

No.266 9月22日 (土)ハマの赤レンガ

加藤恒忠(拓川)に関して
No.314 11月9日 (金)薩長なんぞクソクラエ

1890年(明治23年)に祐介は、桐生「書上」家の入婿となります。
“書上商店”再興の第八代、そして“書上商店”最大の栄華を築いた十一代も入婿として才覚を現します。
江戸時代から 家督は“バカ”には継がせない文化がありましたからね。
1892年(明治25年)十一代書上文左衛門となった祐介は、横浜で鍛えた語学と国際感覚で、桐生の書上商店を国際企業に成長させます。
後編に続く)

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