1985年(昭和60年)12月2日横浜市の人口が300万人を突破しました。
終戦直後の1945年(昭和20年)に624,994人だった横浜は、
40年で2,375,000人増加します。これは大変なことです。
戦後、横浜市は「人口爆発」に対応してきた半世紀でした。
今日は、人口から横浜の歴史を眺めてみましょう。
1859年(安政6年6月2日)7月1日
横浜が開港した時、横浜村の人口は 戸数101戸で人口482人でした。
現在横浜市の人口は370万人で、東京に次いで第二位の規模にまで増加しました。(市町村比較ではダントツ第一位)
横浜村は明治に入り1889年(明治22年)に市制が実施され横浜市となります。
1889年(明治22年)当時の人口は116,193 人で、面積は5.40m²しかありませんでした。
(市域の拡大)
No.311 11月6日(火)18区誕生
横浜市は大きく6回の市域拡大を行います。(市町村合併)
最初横浜市の面積は5.40km²しかありませんでした。
現在の横浜18区で最も面積の小さい「西区」でも7.04km²あります。
※最初の横浜市は現在の関内を中心に半径2キロ程度の広さでした。
■第1次市域拡張面積 24.80km²(1901年)
■第2次市域拡張面積 36.71km²(1911年)
■第3次市域拡張面積133.88km²(1927年)
■第4次市域拡張面積168.02km²(1936年)
■第5次市域拡張面積173.18km²1937年)
■第6次市域拡張面積409.97km²(1939年)
■現在の市域面積434.98km²
市域拡大で人口急増の受け皿ができあがります。
※戦後の面積増は埋立による市域拡大
(人口も拡大)
1939年(昭和14年)の市域拡大で面積の増加は一段落します。
1859年(安政6年)の人口 482人
1889年(明治22年)の人口 116,193人
1920年(明治35年)の人口 422,938人
1942年(昭和17年)の人口 1,015,900人
ところが、戦争による被災と疎開で
1945年(昭和20年)の人口は624,004人に減少
戦後の人口爆発が始まります。
1968年(昭和43年)の人口 200 万人突破
1985年(昭和60年)の人口 300 万人突破
(人口爆発)
横浜市の人口が急増した昭和35年〜45年、
横浜郊外部のベッドタウン化が始まります。
中でも
保土ケ谷区、港北区、戸塚区の3区が人口急増!
昭和35年〜40年の人口増加率
保土ケ谷区は55.1%増(79,234人の増加)
港北区は59.2%増(87,358人の増加)
戸塚区は82.9%増(94,092人の増加)
さらに
昭和40〜45年は
保土ケ谷区が47.0%増(104,915人の増加)
港北区が56.8%増(133,621人の増加)
戸塚区が56.6%増(117,582人の増加)
10万人増加の威力
人口増加には居住環境の整備が必要です。
インフラの整備
道路・水道・電気・ガス
学校・交通機関(バス網)
※エピソード
学校が足りず、授業を二部制にした学校も出現
先生も大変だったでしょうね。
水道は特に都市生活の必須インフラでしたが、この人口急増に(なんとか)対応できたことは賞賛に値すると思います。
※ガスはプロパン、電気も比較的早く整備可能でしたが水道管整備は需要をかなり先取りしなければ対応できません。
(少子高齢化)
現在も人口微増の横浜市ですが
少子高齢化が進んでいます。
人口統計のグラフで未来を予測しやすいのが
「人口ピラミッド」です。
昭和の元気な横浜から
平成の停滞の横浜
そして 高齢者の街に横浜市も突入しています。
空き家が(見えにくい中)急増しています。
また中に無人の家が増えています。引きこもりの独居老人も増えています。商店街の萎縮も切実な地域の課題です。
参考写真です。本文とは直接関係がありません。 |
高齢化したコミュニティには
「相互扶助」的な仕組みづくりが大切ですが、
地縁社会を希薄にしてきた<都市生活>が高齢者に立ちはだかっています。
もう 若くて元気な
「横浜(日本)」では無くなっている現実が目の前にあります。