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「番外編」10月17日こら!ちゃんと仕事せい!

今日は【番外編】を1話追加します。
先日尾上町の料亭「富貴楼」について文献を探していたところ、
1873年(明治6年)イギリス帰りの留学生が横浜港である事件に遭遇した不満を記録してます。
「我官憲の不常識なるに大いに不平なり。其他目につくもの聞くもの未開不文明なのには大いに失望せり。」

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ことの顛末は、
明治政府の法務官僚となった“尾崎三良”の自叙伝に記録されています。
1873年(明治6年)10月17日(金)の今日、
寺島宗則公使と随行員の尾崎三良がイギリスのP&O社汽船で帰国しますが入国審査が遅れ横浜港内から上陸できなくなったことに始まります。

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尾崎三良

二人が乗船していた船は午後4時頃横浜港に到着します。
外国人の旅客は、簡単に下船し迎えにきた小舟で居留地に向かっていきますが「日本人は税関の取り調べ後上陸許可となる」という沙汰で足止めになってしまいます。
横浜港は、新港埠頭ができるまで大型旅客船は港の沖合に停泊し、送迎の小型船で送り迎えするシクミになっていました。

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この船には寺島宗則と尾崎三良の他にも日本人が乗船していましたが
全員下船が許されませんでした。
若き尾崎三良は「なぜ!我々は下船できない?」と船員に問い質しますが、
「外国人は条例で手続き無しに下船できるが、日本人は港湾規則で税関役人による入国審査が必要だ」から、
いかなる日本人も役人が来るまで下船できない!
しかもその担当役人が今日は来れない。日本人の下船は明日以降になる。
と押し問答になったそうです。
取り残された日本人乗客の中で一番身分の高かった
“寺島宗則”公使はどうしていたかというと
ニコニコ笑ってそんなものだろう まあ待て!と尾崎を諭したそうです。
尾崎の記録では
「例の温厚謙遜、自ら待する風あり、強いても怒らず」
とはいえ寺島宗則といえば日本政府閣僚、
しかも外務大臣クラスですから、事態が急変します。
横浜港に停泊していた薩摩藩系の軍艦から士官が寺島宗則公使を探しに乗船してきます。(※寺島は薩摩藩出身)
軍によって特別に下船手続きを執り夜になっていましたが、
上陸できるようになったという事件の顛末です。
他の日本人は「然れども普通の乗客は我郷土を目前に見ながら。外船中に一夜」を過ごし翌日下船しました。
これ本当?マジ?怒るのも当然?
税関役人にも言い分があります。

(入港日時は不定)
船が予定日時に到着しないことは当時ごく普通のことだったようです。
No.110 4月19日 待つという粋な時代
おそらく現在のように出入国管理機関が常設されていなかったのでしょう。
この経験が、横浜の出入国管理機関の整備につながります。

特に寺島宗則は「日本の電気通信の父」と呼ばれていました。
当時彼が国内の電信通信機能の充実を計ろうとしていましたが、
この頃はまだ部分的整備でしかありませんでした。
寺島の命により
横浜裁判所内の電信局と東京築地運上所(税関)との間の電信架設工事が着手された、
1869年(明治2)9月19日(新暦での10月23日)は「電信電話記念日」とされています。
国内の通信網が整備されるにはもう少し時間が必要でした。
1月26日 横浜東京間電信通信ビジネス開始
ここで寺島宗則と尾崎三良について簡単に紹介しておきましょう。
寺島宗則(てらじまむねのり)は、
薩摩藩出身の江戸時代の幕臣で明治政府初期の外務卿(外務大臣)として不平等条約改定に尽力します。また
外務卿となる前に第二代神奈川県知事も歴任する
横浜に関わりのある【政府要人】です。

尾崎三良(おざき さぶろう)は、
京都生まれで幼くして両親と死別しますが、三条実美に見いだされ側近となり明治政府の法務官僚として活躍します。
彼が政府要人として活躍するキッカケとなったのが6年に渡る英国留学でした。
1868年(慶応4年)3月に日本を出発し、
横浜港に帰国したのが今回のテーマとなった
1873年(明治6年)10月です。

(怒りを癒したのか富貴楼?)
No.255 9月11日(火) 謎多き尾上町の女将

怒り心頭の「入国手続き」で上陸したのが夜半になってしまった寺島宗則と尾崎三良は、外務省の部下が用意した尾上町「富貴楼」に入り夕食をとります。
寺島宗則は食事を済ませ、東京の自宅に帰りますが、尾崎三良は富貴楼に一泊して上京することにします。
(実は)急遽帰国を決めた尾崎は日本での落ち着き先が決まっていなかったようです。
久しぶりに日本の風呂に入ることになった
尾崎の入浴エピソードが1Pを使って事細かに語られています。
関心のある方は
図書館でどうぞ。「尾崎三良自叙略伝」(上巻)中央公論社昭和51年刊

(余談)
尾崎三良は6年のイギリス生活で結婚し
三人の子供の父となりますが、
帰国時に離婚協議に入りますが解決しないままとなります。
その後、離婚協議に再度英国を訪問しています。
最終的に三女秀子(テオドラ)を引き取ることにします。
英国育ちの彼女ですが、日本で教育を受け、後に「憲政の神様」尾崎行雄の後妻となります。
尾崎三良と尾崎行雄とは姻戚関係がありませんが
共に明治大正時代の正義にこだわった堅物同士であったことは間違いないようです。

憲政の神様 尾崎行雄

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