No.245 9月1日(土)災害は忘れなくとも起きる

今日は防災の日。
改めて東日本大震災で亡くなられた方のご冥福と被災された方々へのお見舞いを改めて申し上げます。
1923年(大正12年)9月1日の今日、関東大地震が起りました。多くの命を奪い国家と都市の運命も大きく変えた大災害でした。今改めて関東大震災も検証しておくべき歴史的事実です。

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ほぼ中心市街地全てが焼失しました。

今日をテーマにするにあたり、改めて多くの資料に出会いました。若干防災には関心が高い自分だと“自負”していましたが、災害の持つ現実の厳しさに「地震は忘れなくてもやってくる」ことを再認識させられました。

近年、関東大震災は巨大な揺れが三度発生した「三つ子地震」であることが判ってきました。

1923年(大正12年)9月1日11時58分 M7.9規模引き続き12時01分にM7.2さらに12時03分 M7.3の揺れが発生します。相模湾北部を震源とする海溝型の巨大地震が起りました。

被災規模
死者:10万5千余人
住家全潰:10万9千余棟
半潰:10万2千余棟
(死者数は142,807人ともいわれ、不明な点も多い)
焼失:21万2千余棟(全半潰後の焼失を含む)

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地震の直接被害は震源に近い神奈川の相模湾をのぞむ地域、横浜・小田原・国府津・大磯・茅ヶ崎・鎌倉・房総の千葉(特に那古・船形・北条・館山)が甚大で、沿岸部の木造家屋30%が一瞬で倒壊、震源近くの地域では70%以上の倒壊率でした。

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(横浜では)
ここでは横浜、神奈川にテーマを絞らせていただきます。
関東大震災後、横浜市はいち早く新聞を出します。
正しい情報発信が求められていたからです。

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関東大震災は流言飛語という別の被害も甚大なものでした。
(このテーマは別途 取り上げるに十分なものです)

そして昭和に入り復興計画が進む中、膨大な震災の記録を残しています。
『横浜市震災誌』全五冊 横浜市役所
 1926年(昭和元)4月〜1927年(昭和2)12月
これらの資料は全て下記から入手できます。一読をお勧めします。
http://www.city.yokohama.lg.jp/kyoiku/library/shinsai/
投げかけたいテーマ
■横浜市はなぜ?
このような詳細な震災報告書を総力をあげて作成したのでしょうか?
このブログのために資料を読んでいた中でも出てきた疑問です。
横浜地域にとって、この震災は重要なターニングポイントでした。
横浜史を知る上での「開港」「震災」「戦災」「進駐」という4つのターニングポイントの一つでもありました。

(震災記録から)
被災後の様子が様々な資料から見えてきます。
この小さなスペースで紹介できる範囲を遥かに超えています。ぜひ
http://www.city.yokohama.lg.jp/kyoiku/library/shinsai/
をご覧ください。

■ピックアップポイント
横浜市の動きだけ 簡単に
 9月1日・横浜公園に市役所仮事務所設置
 9月2日・横浜公園で食糧配給開始
 9月3日・中央職業紹介所(桜木町)に市役所仮事務所を移設
  横浜公園は市役所出張所とする
 9月6日・十全仮病院(野毛山)開院
 9月11日・市役所仮事務所にて市会開会
 横浜市発行の「横浜市日報」発刊
 →震災後2週間で水道が復旧しはじめます。

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(主な避難所状況 9月7日時点)
 ①お三ノ宮・日枝小学校 約3,000人
 ②掃部山公園 約3,000人
 ③県立第一中学校 約2,000人
 ④中村町字中村 約2,000人
 ⑤横浜商業学校 約1,200人
 ⑥北方早苗幼稚園 約1,200人
 ⑦県立高等女学校 約1,200人
 ⑧横浜公園 約1,100人
 ⑨根岸競馬場 約1,100人
 ⑩稲荷台小学校 約1,100人
 ⑪中村町字西 約1,000人
(海からの救援)
震災当時、横浜港に停泊していた多くの船舶が救済の重要な役割を果たします。
被災者の治療、物資の搬送等はもちろん
例えば日本郵船の「三島丸」には12日〜28日まで横浜税関の仮事務所が、14日〜29日まで神奈川県港務部の仮事務所を設置し事務の復旧にあたります。

■外国からの支援
アメリカ海軍省は9月2日夜の時点でアジア艦隊司令長官に対し艦隊を日本へ派遣するよう命じ5日には軍の貯蔵品や医療機械、薬品などを搭載した駆逐艦4隻が救護人員とともに横浜港へ入港し救済にあたります。
以後、救援物資を載せた軍艦、民間の多くの商船が入港し、乗組員による陸揚作業も行われました。
20日にはアメリカ陸軍野戦病院の救護班が到着、新山下町埋立地に病院を建設します。国籍を問わず多くの傷病者の治療にあたります。この病院施設はその後日本に寄付されます。(後日談もありますのでどこかで紹介します)
イギリス海軍省は、9月5日、10日、20日に軍艦が横浜港に入港し 米、毛布、薬品、衛生材料などの救援物資を(駐留中の支那艦隊が)中国から運び入れます。
フランス政府は、東洋艦隊がに食糧・衛生材料などを積み込み、横浜港へ派遣し9月7日に入港します。米3トンと麦粉10トンが横浜市民に配布されます。
イタリアは、9月9日に横浜港へ入港し米と衛生材料を寄贈します。
中華民国からは、救護班が横浜入りし、新山下町、山下町、本牧、八幡橋を拠点に巡回治療を行います。
残念なことに、ソ連より来航したレーニン号は治安維持を理由に入港を拒否し退去します。

(さいごに特筆しておきたいこと)
鶴見警察署長・大川常吉さんの話
多くの人々が、震災後復興に尽力を尽しますが残念なことに一部流言飛語による悲劇が起ります。災害と流言飛語・デマに関しては311でも起っています。

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※参考文献
荻上 チキ『検証 東日本大震災の流言・デマ』(光文社新書、2011)

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中でも、新聞と電報が中心だったメディアの麻痺がデマの流布につながりました。
「東京(関東)全域が壊滅・水没」
「津波、赤城山麓にまで達する」
「政府首脳の全滅」
「伊豆諸島の大噴火による消滅」
「三浦半島の陥没」など 事実に反するデマが流れます。
これらの情報に混じり「朝鮮人が暴徒化した」「朝鮮人が井戸に毒を入れ、また放火して回っている」といった流言飛語から端を発し、新聞にまで報道されるに及びます。9月2日から9月6日にかけ、大阪朝日新聞、東京日日新聞、河北新聞等で根拠の無い情報が報じられ、リンチ事件が多発します。
このような状況下、当時鶴見警察署長だった大川常吉がデマに動揺した地域住民の朝鮮人等300人に対するリンチを防ぐために保護、約1,000人の群衆に対峙
「朝鮮人を諸君には絶対に渡さん。この大川を殺してから連れて行け。そのかわり諸君らと命の続く限り戦う」と群衆を追い返します。
「毒を入れたという井戸水を持ってこい。その井戸水を飲んでみせよう」と言って一升ビンの水を飲み干しパニックを鎮めたという事件があります。
この事実を記録した「記念碑」が潮田三丁目の東漸寺に建てられています。任務とはいえ、身を挺した保護は震災直後の混乱時 大川さんの人間性を推察できる良い話しです。
これは個人的美談ですが、今後私たちはいかに正確な情報を入手し、また逆に「デマ」と戦うか?
 災害時に関わらず 日常生活のメディアリテラシーの大切さを考えさえられます。

No.430 鶴見警察署長・大川常吉

No.240 8月27日(月)横浜で重い!場所

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