1872年(明治5年6月17日)7月22日(月)の今日、
高島嘉右衛門は横浜港から一人の(破天荒な)スイス人を見送りました。
その名はヤコブ・カデルリー(1827〜1874)、ちょうど46歳の誕生日にサンフランシスコ行きの太平洋郵船会社の定期航路でアメリカに向けて旅立った“外国語教師”でした。
太平洋郵船会社 造船所 |
ヤコブ・カデルリーは日本を旅立つ直前まで高島嘉右衛門が創った市学校の外国語教師(ドイツ語とフランス語)を半年契約で担当していました。
高島学校の経営が上手くいっていたら、カデルリーの出発はもう少し伸びたかもしれませんが、契約切れをキッカケにやり残した世界一周の旅に出発したのでした。
幕末から明治に多くの外国人が超高額の給料で日本政府に雇われました。
俗に「お雇い外国人」と呼ばれた人たちです。
法律のグイド・フルベッキ、芸術のアーネスト・フェノロサ、医学のエルウィン・ベルツを初め約2,700人もの外国人が政府と契約し日本の近代化のための人材育成を担いました。
これらの「お雇い外国人」、中にはいろいろな“外国人”もいたようで、
高島嘉右衛門が見送ったカデルリーは、かなり破天荒な人生を歩んだ人物でした。
『スイス歴史百科事典』には彼のプロフィールがあります。
カデルリー,ヤーコプ
1827年7月22日にリムパハ(Limpach)で生まれ、1874年12月31日にマルセイユで死去。
家系はおそらくミュルヒ(Mulchi)2の出身。村の学校を終えた後、農家の下働きとして働き、その後、ナポリのスイス軍に入隊。物覚えが速く、語学の才能もあり、ナポリで家庭教師の職に付くことになつた。クリミヤ戦争(1854-56)ではフランス軍本部で働き、1856年にサンクトペテルブルクに行き、それから、ワルシャワで家庭教師になる。1860年にイギリス、スコットランド、アイルランドを旅行し、1861年から1868年までシベリアを旅行する。
スヴェルトロフスクで鉱山学校に通い、ウラルの鉱山を見学してまわる。1868年から1872年にかけて中国と日本を調査(erkunden)する。1872年から1874年までアメリカとカナダに滞在する。ニューフアンドランド島、グリーンランド、アイスランド経由での帰国は発病のために中止する。マルセイユで12年間の世界旅行の記録をまとめ始めるが、まもなく死去。旅行の講演記録や鉱山の鑑定書が伝わっている。
日本(開成学校)で最初にドイツ語を教えた外国人教師となっていますが、彼の回想記には一切登場しません。
日本での仕事は彼の本来やりたかった仕事ではなかったようです。
生来の旅人だったのかもしれません。
日本国内旅行を最初に申請した外国人とも言われています。
カデルリーは47年の人生で日本に約2年半しか滞在していません。生まれ故郷のスイスで子供時代を過ごし、まずヨーロッパを放浪?します。ロシアからシベリア大陸を横断し中国に入り、その後日本にたどりつきます。
日本で見つけた仕事がたまたま「お雇い外国人」だったようです。
ただ、カデルリーの作成したドイツ語文法入門書「カデルリー文典」は、当時高い評価を得ました。
ただ、初等教育しか受けていなかったカデルリーに対し、他の(学歴ある)「お雇い外国人」には不評だったようで、オランダ人フルベッキ、ドイツ人教師(語学ではなく専門科目担当)には酷評され続けます。
学校では週五日7時間しっかり授業を行い、その後の日本ドイツ学を背負う逸材も育てていますから、教育者としては優れていたのではないでしょうか。
(教え子の記録からも良き教師像が浮かび上がってきます)
このカデルリーを支援したのが、シーベル・ブレンワルト商会の創始者でスイス総領事だったカスバー・ブレンワルドで、公私にわたって面倒をみていました。
二人は山手の射撃場にでかけたり、音楽会を楽しんだりした日記が残っています。
彼が日本を出国するきっかけとなったのは、支援者ブレンワルトとの訣別だといわれています。その証拠として、これまで頻繁に登場していたブレンワルトの日記にカデルリーの名が突然無くなります。
1872年(明治5年6月17日)7月22日(月)横浜港を出発するときにも、見送りにブレンワルトの姿はありませんでした。
寂しい別れだったのかもしれません。
(カデルリーの雇用期間)
政府の外国語教師
1870年1月24日(明治2年12月23日)〜1872年1月6日(明治4年11月26日)
高島学校(1872年1月9日開校)
1872年(明治5年1月)〜1872年(明治5年6月)
「お雇い外国人」は3年契約が一般的でしたが、フルベッキやドイツ人の「お雇い外国人」からは敵視されます。理由は彼のドイツ語が下手だということなんですが、確かにスイス人にとってネイティブではなかったかもしれません。
当時の政治的情勢も影響したかもしれません。
ドイツとスイスは高島嘉右衛門のガス灯会社を巡って覇権争いをしドイツを蹴落とした経緯もあり、緊張関係にありました。新興国プロシアと中立の小国という国際関係や、権力闘争の影響も「お雇い外国人」の仕事に大きく影をおとしていたことは間違いないようです。
とはいえ、カデルリーという人物。
あるときは、鉱物学者、語学教師、軍人、旅行家、移民斡旋業、地質調査業 等々奇々怪々の人生を歩んだ人物でした。謎も多く現在研究が進んでいるようです。日本時代の新しい顔が登場する日も近いかもしれません。