No.185 7月3日(火) 実録「居留地警察」

「居留地警察」

テレビドラマのタイトルに合いそうなネーミングです。
「居留地警察」幕末明治初期の外国人居留地を取締る“治外法権”地帯の警察組織のことです。
1877年(明治10年)7月3日の今日、
神奈川県は
居留地の各国領事に対し6月30日付けで横浜外国人居留地取締役(居留地警察のトップ)Edward.S.bensonを解傭(雇用解除)した旨を居留地各国領事に通知しました。

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(居留地は治外法権)
居留地とは中国上海の租界のように、
列強各国が主に経済活動を行った治外法権エリアです。
山手にはフランス軍とイギリス軍が駐留する中、
欧米各国の外国人は日本政府と取り決めたエリア内に居住し様々な活動を行いました。
ここでは、領事裁判権をそれぞれの国が持っていましたので居留地内の管理運営はまったくバラバラな状態でした。
そこで、居留地の主力メンバーが集まり「市参事会」という疑似自治体を作ります。
居留地の環境整備、治安活動とその原資となる地代管理部門を作り運営しようとしますが、組織の不備と資金不足のため頓挫します。
居留地で最も勢力を持つイギリス公使パークスが名案を考えます。
管理運営を日本政府(神奈川県)に任せ、
居留地管理のトップは自分たちが選び、権限をそこに集中させれば良いのではないか?
英国十八番(お得意)の二重統治方式を提案し、
アメリカ、プロシア、オランダ、フランス(委任)の同意を得ます。
結果、“横浜外国人居留地取締役”制度を明文化し幕府も同意し締結します。
まず暫定で選ばれた居留地取締役が英国人「ドーメン」という人物でした。
この件については、
列強五カ国の外にいたスイス総領事代理シーベルがかなり抵抗します。
幕府に納得できないと直談判します。英国十八番の二重統治方式を警戒したのかもしれません。
ナポレオン以降のウィーン体制に抵抗してきた永世中立国スイスらしい主張でした。
結果、居留地各国代表は、居留地取締役を選挙で選ぶことを決めます。

(さすが民主主義の先輩)
居留地内住民から立候補者を募り、居留地外国人の選挙で選び各国の領事の多数決で決めることとなります。
まあこの時点では、被選挙権者が多いイギリス人が有利だと想定していたのかもしれません。
選挙は4人立候補しますが、事実上
アメリカ人のベンソンとイギリス人ボイルの一騎打ちとなります。
結果は下記の表の通り、ベンソンがかろうじてトップとなり選ばれます。
外交史的には、大英帝国の没落と、
居留地での英国人の優位性が崩れてきた結果がここに現れています。

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選挙もすばらしいですが、記録がしっかり残っているのもすごいですね。

時は明治元年(まさに明治維新のまっただ中)
各国領事も全会一致で承認し幕府に(ベンソンを)居留地取締役として推薦し、新政府も同意します。
月給は洋銀で350ドルだったといいますからかなりの高給であったことは間違いありません。

ベンソンは、1877年(明治10年)6月末日までの10年間、実に誠実に居留地の改善に尽力します。
居留地取締役は警察組織でもありましたが、道路や衛生状態の改善も行いました。
居留民から公園が欲しいという要求に対し「山手公園」の整備にも彼の手腕が発揮されました。
No.120 4月29日 庭球が似合う街

「消えた山高帽子」この小説はベンソンが登場するかなり歴史にも踏み込んだ力作です。ワーグマン探偵の謎解き風の仕上げは一瞬小説であることを忘れそうです。

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ただ、領事裁判権を含め治外法権は改善されない状態で英仏軍の軍事的占領の下での警察活動だったためその軋轢は多くの事件を引き起こします。
ハートレー事件はその象徴的なできごとでした。
→別の機会に必ず書きます。

(ヘスペリア号事件というのもあります)
※イギリス人商人ジョン・ハートレー(John Hartley)が日本でアヘン密輸事件を起こしますが領事裁判法廷は無罪の判決を言い渡した治外法権を日本が実感した事件です。
とはいえ、明治に入った数年は政府も混乱状態で「居留地管理」はほぼベンソン以下外国人チームに任せっきりの状態だったようです。
(個人的には米国人ベンソンで良かったな)
その後、落ち着きを取り戻した新政府がようやく本腰を挙げて「警察組織」づくりや「法体系」整備にとりかかります。
それでも 不平等条約改定までまだ20年以上かかる訳ですから日本外交の綱渡りが続きます。

横浜にも警察組織が整備され、
様々な法制度も整ってくることによって、
居留地取締役の役割も形骸化してきます。
そこで、1877年(明治10年)6月末日をもってESベンソンの役を解くことになります。
横浜最初の警察署は「加賀町警察」で、
明治26年設置されましたが前身は「居留地警察」ですので、日本で一番最初の外事警察だといえるでしょう。

No.390 危なくない?デカ。

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ちょうど加賀町警察ができる頃の元居留地周辺です。「警察署」の文字読めます?
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スイス国旗の右上、現在の加賀町警察とほぼ同じ位置にあります。

(余談)
海外のDBで資料を探していたら 
New York Herald 1874 (明治7年)3月28日号に
「Japanese municipal reform」と題して
Mr.Edward S.Bensonの記事が掲載されていました。

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母国アメリカのニューヨーク市長に
港湾関係の法律などの資料が欲しいとメールしたことが紹介されています。

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