No.193 7月11日(水) Hi Come on!

むかし、初めて小説を書いてみようと思ったテーマの冒頭部分が
「Hi Come on SAN」「いいえ、私は嘉右衛門(かえもん)でございます」なんてジョークから始めよう思った井伊掃部頭銅像の像がある掃部山(かもんやま)の話しを今日は紹介します。
1909年(明治42年)の今日7月11日付けで「井伊大老銅像除幕式が掃部山で挙行された」と報じられました。

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(悲劇の銅像)
横浜市西区紅葉ヶ丘の「掃部山公園(かもんやまこうえん)」に彦根藩15代藩主「井伊直弼(いいなおすけ)」の像が建っています。現在の像は二代目で1954年(昭和29年)に再建されたものです。

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建立の発端は、元彦根藩の関係者有志が開港50周年祝賀の節目に開港の舞台となった横浜に井伊直弼の像を建立し顕彰したいと横浜市側に伝えます。
建立後、付近一帯と像を条件付きで寄付も申し出ます。

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彦根市にある井伊直弼像
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ご存知、彦根のゆるキャラ「ひこにゃん」

除幕式は、
当初1909年(明治42年)7月1日開港50周年式典にあわせて挙行の予定ですすめられました。
6月に案内状を各方面に発送しますが、幕末、井伊直弼が断行した“安政の大獄”で身内、師らを処刑された関係者から異議が出たのです。
特に伊藤博文(恩師は吉田松陰)は怒りを露にしたといいます。
一方で、明治政府の薩長偏重の政治に対する不満が強く時勢にあったことを受け“抵抗の象徴”でもありました。

http://ja.wikipedia.org/wiki/安政の大獄
※安政の大獄をめぐる井伊直弼議論は
現在新しい資料による展開を示していますが、
概ね井伊直弼の横暴という評価が多いようです。

横浜市側は“準備が整わない”という理由で延期を求め、10日遅れて除幕式が挙行されることになります。

■関連年表
1884年(明治17年)旧彦根藩士らが「鉄道山(現:掃部山)」と呼ばれていた丘を買取ります。
1914年(大正3年)に約束通り掃部山一帯と像が横浜市に寄付されます。
1923年(大正12年)関東大震災で大きくズレますが倒れることはありませんでした。
1943年(昭和18年)撤去されます。
1954年(昭和29年)開国100周年記念(日米 修好通商条約締結100年)
に際し再建されます。
1957年(昭和32年)銅像の冠と刀の一部が盗まれそうになりますが未遂に終わる事件が起ります。
1958年(昭和33年)開港100周年を記念して井伊直弼像の記念切手が発売されます。

(開国か開港か)
横浜にとって井伊直弼という人物はどんな関係があるのか?
これがもう一つの議論のテーマになります。
「開国の立役者」は井伊直弼かもしれないが「開港の恩人」という表現で岩瀬忠震こそ横浜の重要人物だ。井伊より岩瀬!
という議論です。また、日本開国と横浜開港は別のことだという議論もあります。
1954年(昭和29年)開国100周年記念以来、横浜では「開国」ではなく「開港」を全面に打ち出していきます。
2009年に行われたY150では「開港開国博」としました。
開港によって現在の横浜が生まれ、開国によって現在の日本があります。この像を見上げる度に思います。

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桜の名所です。

「みなとのみらい」はどこへいこうとしているのか?  と。
※岩瀬忠震は別な機会に取り上げます。
http://ja.wikipedia.org/wiki/岩瀬忠震

(碑文資料)
■1954年像が再建されたときの碑文
安政五年大老井伊掃部頭直弼は/内外の紛擾を排して/日米修交通商条約の調印を決行しひろく通商の基を開き/近代日本発展の端緒をつくった/明治十四年旧彦根藩有志は/直弼追慕のため建碑の挙を興し/大老の事蹟に縁故深き横浜に地をトし/戸部町に一岡を購い/掃部山と称してここに造園を施し/明治四十二年園内一角に銅像を建立し/越えて大正三年園地とともにこれを横浜市に寄附した/不幸大戦中の金属回収により銅像は昭和十八年撤去の運命に遭い/公園また昔日の悌なきところ/たまたま昭和二十九年開国百年祭を催すに方り/記念行事の一環として/開国に由緒深き井伊掃部頭の銅像再建と掃部山公園の整備を企画し/ひろく市民の協賛を求め/ここに復旧の業を興した

■1989年開港130周年に際し建てられた碑
「横浜の開港と掃部山公園」
安政五年(一八五八)/日本の近代化に先駆した大老井伊掃部頭直弼は/よく内外の激動に耐え/機に臨み英断/日米修好通商条約を締結した/安政六年/ここに横浜は/未来の発展を予見するかのように/世界の海洋に向って開港した/明治十四年(一八八一)/井伊大老を追慕する彦根藩士有志により/開港に際しての功績を顕彰するため/記念碑建立の計画をたて/明治十七年この地の周辺の丘を求め/掃部山と称し造園を施し/明治四十二年(一九〇九)/園内に銅像を建立しこれを記念した/大正三年
(一九一四)/井伊家より同地並びに銅像を横浜市に寄贈/掃部山公園として公開された/ここに/平成元年を以て/市政一〇〇周年/開港一三〇周年を迎え/これを記念してこの碑を建立した

■(1994年3月)「井伊掃部頭ゆかりの地」教育委員会 説明文
 明治四二年七月,横浜開港五〇年記念に際して,旧彦根藩有志が藩主の開港功績の顕彰のため,大老井伊掃部頭直弼の銅像を戸部の丘に建立し,その地を掃部山と名付けて記念しました。銅像の左側にある水飲み施設はその時に子爵井伊直安より寄付されたものです。
当時の銅像は,藤田文蔵,岡崎雪声によって製作され,その姿は「正四二上左近衛権中将」の正装で,高さは約三・六メートルを測りました。しかし,当初の銅像は,昭和一八年に金属回収によって撤去され,現銅像は,昭和二九年,横浜市の依頼により慶寺弓長が製作したもので,その重量は約四トンあります。
なお,台石は妻木頼黄の設計で,高さは約六・七メートルあり,創建当初のものが残っています。

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(関連ブログ)
No.96 4月5日 開港ではありません開国百年祭

No.180 6月28日 横浜能楽堂、その点と線

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