No.180 6月28日横浜能楽堂、その点と線

1996年(平成8年6月28日)の今日、
横浜市西区紅葉ヶ丘に横浜能楽堂が開館しました。
この能楽堂にある能舞台は関東地区で最も歴史あるもので横浜市指定建造物に指定されています。
横浜能楽堂を巡る様々な物語を簡単に紹介します。
(という割に長文でごめんなさい。プリントして読んでください)一部修正しました。

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能楽堂外観

横浜能楽堂(よこはまのうがくどう)は、横浜市西区紅葉ヶ丘27-2掃部山公園の一角にある横浜市の能楽堂です。
現在は指定管理者制度により公益社団法人横浜市芸術文化振興財団が運営しています。
周辺には掃部山公園、音楽堂、県立図書館、青少年ホール等が隣接する知のなごみ空間です。

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散策ルート紹介

横浜能楽堂の能舞台は、移築・復元されたもので
1875年(明治8年)に
東京・根岸の前田斉泰邸(加賀藩邸)に建てられたものです。
設計は東京帝国大学工科大学建築学科出身の山崎静太郎が担当し、鏡板に描かれた松、白梅、根本の竹が極めて珍しい構図となっているのが特徴です。

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珍しい白梅、根本の竹

その後、1919年(大正8年)東京文京区染井の華族(元高松藩主)松平頼寿の母千代子さんが隠居されていた所に能舞台を移築されたことから「染井能舞台」と呼ばれるようになりました。
※母 千代子 彦根藩主、大老だった井伊直弼の次女にあたります。
当時 都内には多くの能舞台があったそうですが、関東大震災と戦災でも4カ所だけ残った内の一つです。
戦後、昭和20年〜30年頃までは、
宝生流を中心に能再興の本拠地として全盛を極めました。
また松平頼寿は、現在の本郷学園創設者だったところから
ここの生徒達は年に何回か能を鑑賞する機会があったそうです。

(実は父が東京に大学進学のため上京した際、本郷中学に3年時編入しています。卒業証書には松平頼寿の名が在り
 能楽堂の話しを聞いたことがあります)
1955年(昭和40年)になり、この「染井能舞台」は老巧化が激しく再建を断念し解体されました。
その後、宝生能楽堂の倉庫に保管されていましたが、
1979年(昭和54年)解体された部材が横浜市に寄贈されることになりました。
横浜市は最大限の復元をめざし部材の大部分を使って“横浜能楽堂”として復元再生に挑むことになります。
新能楽堂建設には当初膨らむ予算や技術的課題が山積し完成にはかなり時間がかかりました。
全体設計を大江匡(大江匡建築事務所)が担当し
1996年(平成8年)3月にようやく竣工の運びとなりました。
http://ynt.yafjp.org/
東京根岸から染井へそして横浜紅葉ヶ丘へと“うつろい”ましたが、
能の心は新しい舞台の下で受け継がれています。

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落雁がおすすめです
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(横浜能楽堂を繋ぐ因縁)
この横浜能楽堂「舞台」を設計した山崎静太郎には不思議な横浜との縁があります。
東京帝国大学工科大学建築学科時代の同期で親友となった仲間に、
●大熊喜邦(おおくま よしくに)
妻木頼黄・矢橋賢吉の後を引き継いで国会議事堂の建設を統括し、横浜銀行協会、帝国劇場、山口県庁舎・議事堂の設計にも関わった建築家です。
●後藤 慶二(ごとう けいじ)
日本建築界の構造学者としては草分け的存在。
コンクリート構造に関する論文を多数執筆発表ました。
絵画、俳句、能等の芸術にも造詣が深く、建築作品に活かしています。(36歳で死去)

そして
●咲壽栄一(さくじゅえいいち)
1884年(明治18年)横浜電気株式会社の常務取締役上野吉二郎の長男として東京の京橋に生まれました。
1893年(明治27年)に横浜市吉田小学校へ転校、神奈川県立第一中学校へ入学します。
京都市第三高等学校を経て、東京帝国大学工科大学建築学科に進み山崎清太郎、後藤慶二、大熊喜邦ら上記の仲間達に出会います。
卒業後大蔵省臨時建築部に入り、のちに大蔵技師。
妻木頼黄とともに設計にあたりますが30歳という若さで逝去します。
墓所は横浜市磯子区の根岸西有寺墓地です。
咲壽栄一は惜しくも30歳という若さで亡くなりましたが、その間短い時間ではありましたが大蔵省臨時建築部で多くの税関設計に関わってきました。また俳人としても非凡な才能を表し短い人生に詠んだ句はおよそ3万句もあったそうです。
彼が亡くなった後、山崎静太郎が中心となって咲壽栄一遺稿集「卯木集」を出版します。咲壽は卯花(ウツギの花)を好み、俳号「卯木屋」と読んだそうです。
横浜電気株式会社の常務取締役上野吉二郎の長男ですが、母方の高橋家の祖母の姓を名乗り咲壽栄一(さくじゅえいいち)として活躍しました。
この高橋家が、現在の「株式会社ダニエル」を創業し横浜クラシック家具の伝統を守っています。
「株式会社ダニエル」http://www.daniel.co.jp/

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(まだある横浜能楽堂)
長くなりますが 分けずに一気にいきます。
東京と文京区根岸の前田斉泰邸に建てられた「根岸能楽堂」を我が母のために文京区染井に移築した松平頼寿は、最後の高松藩主だった松平頼聰の八男でした。
頼聰はあまり評判が良くありませんが、母となる千代子は善き母だったようです。
この母千代子は、井伊直弼の次女として生まれ幕末明治、大正、昭和まで生き抜いた女性です。
彼女の生涯も物語になる波乱万丈の人生だったようです。
この横浜能楽堂の建つ敷地は、開港50周年に際し井伊家から寄贈された掃部山公園(かもんやまこうえん)です。
平成に建った能楽堂の窓から井伊 直弼像を眺め観るとは…。

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画像が飛んでいますが右側の窓から像が見えます
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(見学フリーデーがありますので是非 中をご覧ください)

もう一つの貴重な能舞台
「久良岐能舞台」
http://www.kuraki-noh.jp

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(おまけ)
今日6月28日は、「貿易記念日」です。
1963年(昭和38年)、自由貿易推進の為に閣議決定し、通商産業省(現在の経済産業省)が実施を決めました。
FTAとかTPPとか、最近議論になっていますが、
1859年(安政6年)5月28日(新暦6月28日)、徳川幕府がロシア・イギリス・フランス・オランダ・アメリカの五か国に、神奈川(横浜)・長崎・箱館(函館)での自由貿易を許可する布告を出し、港を開港、同時に「運上所」(税関)が設けられました。
貿易に携わる企業だけでなく、ひろく国民全般が輸出入の重要性について認識を深める日として設定したそうです。
FTAとかTPPについて 考える一日(では済みそうにありませんが)にしてみましょう。

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