今日は憲法記念日です。
憲法に因んだ横浜ネタといえば、伊藤博文らが金沢八景の料亭東屋で「明治憲法」草案を練ったという話しでしょう。
このあたりの顛末はかなりブログ等に記載されていますので、私はちょっと別なネタに振って紹介しましょう。
とはいえ、
本命、明治憲法草案について簡単に紹介しておきます。
1868年(明治元年)明治政府になってから憲法が制定するまで紆余曲折、かなり時間がかかります。1889年(明治22年)2月11日、大日本帝国憲法が発布され、国民に公表されますから、たっぷり20年はかかったことになります。
この間、政変も何回か起り、国際情勢も変化する中、1887年(明治20年)5月に憲法草案を書き上げた舞台が横浜市金沢区の料亭東屋と横須賀市夏島の伊藤博文別邸です。(夏島草案)
当初東京で検討されていましたが、プロジェクトの合宿みたいなものでしょう、首相の別邸近くの風光明媚な場所でということで当代有名な相州金沢の東屋旅館で作業を継続します。
が、
留守にしている間に、草案の原稿の入った鞄が盗まれるという大失態が起ります。原稿は無事発見されますが、機密上問題だということで、伊藤の別荘「夏島」に移り作業が続けられます。
というわけで、憲法に因んだ「横浜」はとんだ災難の舞台になってしまいました。
http://ja.wikipedia.org/wiki/大日本帝国憲法
http://hamadayori.com/hass-col/culture/MeijiKenpo.htm
http://www.keikyu.co.jp/webtrain/ryouma/spot/spot_kenpou_sousou.html
(江戸時代からの有名旅館)
憲法草案盗難という前代未聞の事件に見舞われた「東屋」
江戸時代から続く有名旅館でした。
1955年(昭和30年)廃業ということですから結構最近まであったんですね。
憲法草案が盗まれた旅館ですが、
現代でも良くある話しで、旅先のセキュリティにはご注意を。
今日は、この「東屋」について紹介します。
金沢江戸時代、金沢八景が観光名所として栄えていた頃、 瀬戸橋近くには旅館や料亭が立ち並び賑わいをみせていました。
その中の一つが東屋でした。
金沢(横浜市金沢区)は、鎌倉時代から開けた街でした。
東屋写真(金沢区40周年誌より) |
天保 7年(1836)に刊行された「江戸名所図会」にも瀬戸橋と旅亭東屋が描がかれた四枚つづきの挿絵があります。
江戸名所図絵より |
瀬戸の急流、橋の上を行き交う旅人、旅亭の客引き。舟には獲れたばかりの跳ねる魚、料理を座敷に運ぶ仲居の姿等が見事に描かれています。
江戸名所図絵より |
明治大正期には、多くの文人、政治家もここを訪れました。
当時の記録から「東屋」関係のものを幾つか探してみました。
明治20年6月1日
伊藤博文(45)横浜の金沢に行き東屋に滞在する。4日、同所夏島の別荘が落成して移る。「海辺の空気は至て清涼にて、心持大によろしく候。……日和よき時には、後の山廻り、海岸の貝ひろひ等にて、余程おもしろく日を送り申候」。8月13日、帰京する。以後、しばしば訪れて滞在する。
明治35年2月22日
自轉車旅行の催有り 午後一時を期し品川停車場前の茶見世に會す 來る者久米 佐野 菊地 小代 中丸 小林 合田及拙者の八人也 舊東海道筋を走り横濱を經杉田に到る 此處にて月の出を眺め山を越え金澤東屋ニ一泊
2月22日 アーティストツーリング
明治32年10月16日
津田左右吉(26、千葉県の中学校の教師として生徒を引率し、鎌倉から横浜の金沢に行き東屋に泊まる。17日、鎌倉巡覧ののち三橋支店に泊まる。18日、横須賀に行き造船所を見学して泊まる。19日、再び鎌倉に出て江の島に至り岩本楼に泊まる。20日、藤沢で箱根に行った一隊と合流、帰京する。
大正09年9月 佐佐木信綱(48)横浜金沢の称名寺に古書を訪ね、旅館東屋で昼食をとる。
金沢湾?のシンボル瀬戸神社のびわ島弁天社のそばに、
「金沢総宜楼に題す」という詩碑が建っているそうです。
(今度行きます)
この詩碑もとは東屋の庭内にあったもので昭和30年に廃業したときここに移されたそうです。
金沢区は魅力一杯の歴史をたっぷり楽しめるゾーンです。まだ数回しか訪れていませんが、時間を作って今年はじっくり散策してみたいと思います。
→ということで この後金沢八景を堪能してきました。
No.136 5月15日 フルライン金沢区
No.269 9月25日(火)河口に架かる橋