2月18日の「過去に学ばないものは過ちを繰り返す」でも紹介しましたが、明治政府は外国に対し通貨主権を回復するために様々な手だてを試みます。
1880年(明治13年)
1月に安田銀行(富士銀→みずほ銀)、
2月のこの日横浜正金銀行(東京銀)、
4月には三菱為替店(三菱銀)が相次いで開業します。
旧正金銀行本店、現県立歴史博物館 Wikiより |
横浜正金銀行は、横浜区本町4町目58番地を本店として営業を開始します。戦前HSBC(香港上海銀行)とともにアジア最大級の国際金融を担う日本経済を支えた外為銀行でした。戦後解体され外為部門が東京銀行になりその後三菱銀行と合併します。
明治政府は、維新後国家体制の確立のために様々な出費を強いられ財政的に逼迫します。さらに明治10年に起った内乱、西南戦争によって軍費調達のために紙幣を乱発し、これによってインフレーションが起ります。また輸入超過により銀貨が大量に流出します。
時の大蔵卿(大蔵大臣)大隈重信は、銀貨流出抑止と洋銀管理が必要と考えました。同じく慶応義塾の福沢諭吉は紙幣の乱発が貨幣と紙幣の格差を生み、財政危機に陥っているとして金融機関の設立を大隈に提案します。
同じ危機感を認識した二人は為替銀行設立に動きます。
慶応義塾社中中心に民間資金200円、政府が100円を出資し開業したのが横浜正金銀行です。
早矢仕 有的の片腕として丸善の発展に努め郷里名古屋に帰り事業を展開していた中村道太を福沢が呼び戻し初代頭取に推挙しました。副頭取には小泉信吉(ロンドン支店開設等を担い、政府主税官を経て塾長)が就任し、主な業務を対外貿易金融に特化した外為銀行が誕生しました。
その後、政変が起こり(明治14年の政変)中村道太には劇的なドラマが待ち受けています。このエピソードは別の機会にご紹介しましょう。