No.419 落胆の身を江湖にさらす

No.418を419と間違えました。
修正するとちょっとややっこしいのでこのままにして、明日418としてアップします。すみません。

今日は銀行家であり実業家、教育者、茶人でもあった
“中村道太”という人物を紹介しましょう。

中村道太
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旧正金銀行本店、現県立歴史博物館 Wikiより

小さいころから秀才で漢学,国学,英学などを学んだ中村道太は
丸善の初代社長を務め
豊橋第八国立銀行を創業
横浜正金銀行初代頭取となり
その手腕を発揮しますが
時代に翻弄され 85歳で亡くなるまで
落胆の人生を歩みました。
No.59 2月28日 アジア有数の外為銀行開業

(波乱の人生第一幕明治維新)
1836年(天保7年)中村道太が生まれた吉田藩士(現在の豊橋)は徳川家臣として立藩した徳川幕藩政権に近い藩でした。
譜代大名が歴代藩主を務め、吉田藩に入部することは、幕閣になるための登竜門のひとつといわれてきましたが、幕末は財政危機を迎えます。
優秀だった道太は、1866年(慶応二年)江戸詰を命じられ上京、
福沢諭吉や勝海舟の存在を知り
特に福沢の「西洋事情」を読み感動し築地鉄砲洲の藩屋敷で私塾を営んでいた福沢を訪ね運命的出会いとなります。

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幕末期の三河吉田藩は苦しい財政を抱えたまま大政奉還、明治維新を迎えます。
幕藩側だったため、新政権からは厳しい対応を迫られます。
武士だった中村は明治に入り、立場にこだわることなく近世から近代へいち早く考え方を切り替えます。
藩の財政を福沢から学んだ簿記の考え方で立て直し、
1870年(明治3年)には34歳の若さで好問社学習所(女子教育学校)を豊橋に設立します。
その後、道太は旧藩主の江戸藩邸の家財整理の役目で江戸に出ます。
役目を終えた後、
自宅を洋物の商店にして
商人としての新しい人生を歩みだします。


その後、福沢諭吉の推薦で横浜に行き早矢仕有的の丸屋に入社し
1872年(明治5年)共同経営者となります。
ここから中村と「横浜」が 点と線のように絡み合う運命が始まります。
横浜に創業した丸屋商社は後に東京へ移り丸善となり、
中村は地元に戻り 豊橋で第八国立銀行設立に奔走しますが、

その間 早矢仕有的、小泉信吉、福澤諭吉、大隈重信らと協議を重ね、
外貨銀行の必要性を強く感じ 設立準備を進めます。
一度出した願いは却下されますが、

1879年(明治12年)12月11日に「正金銀行創立願」が認可され、
横浜正金銀行が設立されます。
1904年(明治37年)に建設された横浜正金銀行本館は妻木頼黄の設計。関東大震災でも建物の倒壊等はありませんでした。
(波乱の第二幕)
横浜正金銀行初代頭取に就任し、
ここから中村道太の波乱の人生第二幕が始まります。

中村を頭取とし、資本金300万円で始まった横浜正金銀行は、その後国際金融面で明治政府を支え続けることになりますが
創設早々、横浜正金銀行、銀貨相場の下落・荷為替や貸出などで不良債権を生じ経営危機に陥ります。
1882年(明治15)年7月に中村道太は責任を取って辞任します。
が、
その前年1881年(明治14年)に、明治時代を揺るがした「明治十四年の政変」が起ります。
明治期 岐路に立つ大事件が次々と起こります。
1877年(明治10年)には内乱「西南の役」
1878年(明治11年)には大久保利通暗殺という動乱を経て、
1881年(明治14年)初めに明治14年の政変。
君主大権を残すビスマルク憲法かイギリス型の議院内閣制の憲法とするかで争われ、後者の中心人物だった「大隈重信」以下ブレーンの福沢諭吉及び慶應義塾門下生を徹底して政府から追放した政治事件。
この政変で大日本帝国憲法が君主大権を残すビスマルク憲法を模範とすることが決まります。
この「明治14年の政変」はもう少し複雑な背景がありますが、別途紹介します。
中村道太は政変のあおりを食ったのかもしれません。
横浜正金銀行からも慶応義塾色が排除され、道太も悪者扱いされますが、その後社史でも復権します。
そして、中村道太は正金銀行を辞めるとき、額面で2,000株を買取ることになります。当時、経営が思わしくなかった正金銀行株は下落していました。額面100円が90円だったそうです。
ところが、正金銀行株は280円に跳ね上がり友人に売却し大きな資金を得ます。
(落胆の第三幕)
中村は、その後少し政治の世界に入っていきます。
慶応義塾を辞めた井上角五郎を朝鮮に送り“革命の志”金玉均支援活動に関わります。
一方で東京米商会所の会頭に就任し業界を指導しますが、
これもまた 反大隈派の急先鋒だった睦奥宗光と井上毅らによって叩き潰されます。(このあたりもドラマチックです)
東京米商会所は閉鎖され中村道太はまた、道を閉ざされます。
大隈と福沢は別の道を探れ!といったのかも知れませんが
中村は東京米商会所再建に奔走し私財を全て投げ出します。
このあたりから 中村道太の人生がずれはじめます。
活動の記録が消えうわさ話ばかりが残っています。
旅館経営、寿司の販売、清元の流し など
実際は 隠遁生活を送っていたようですが、
その後85歳で亡くなるまで
実業の世界に彼の姿を見る事はできませんでした。

(意外な横浜つながり)
1883年(明治16 年)「昼花火」の技術を日本人で初めて米国特許として取得し1904年(明治37年) のセントルイス万国博では、最高金牌を受賞した平山甚太の花火製造所を

No.308 11月3日(土)対米初の特許は横浜花火
で紹介しました。

この平山甚太は横浜商法学校(現在のY 校)創立発起人の一人でもありますが、
平山の兄が中村道太です。

No.267 9月23日(日)Yの真価

作家の獅子文六は平山甚太の孫で2010年APECでオバマ大統領が来日した際、
菅総理に日本人として初めて甚太が取得した米国特許の複製が贈られたニュースを見た方も多いと思います。

兄弟だった中村と平山、一時期中村道太も弟の協力で“豊橋花火”の事業化に取組み海外輸出もおこなっていたそうです。
もうひとつ、

No.255 9月11日(火) 謎多き尾上町の女将

中村を支えた女性がいます。
富貴楼のお倉です。

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ココからは推論の推論ですが、
伊藤博文が比較的、大隈や福沢の考えに寛容であったことや
朝鮮半島をめぐる時代認識も福沢等に近かったのは?
彼女の関わりが少し あったかもしれません。
この辺で、富貴楼を巡る明治初期のドラマが生まれるかもしれませんね。
このあたりももう少し掘り下げたいところです。
今日は これまで。

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