1925年(大正14年)の今日3月3日
横浜市神奈川区子安にアジア初の「日本フォード」製造工場が開設されました。
このフォードの進出が、日本自動車産業界に大きなインパクトを与えました。日本の自動車生産革命が<横浜>から始まったといっても過言ではありません。
(超簡単 自動車史)
日本の自動車産業は戦後、トヨタ自動車を筆頭に日本メーカーは戦後日本経済を牽引してきた、戦後経済復興のシンボルでした。急成長を遂げた自動車産業、その基盤は戦前の横浜に築かれました。
簡単に自動車産業史を追ってみます。
ヨーロッパで生まれた自動車は、アメリカで産業として確立します。
日本が開港によって近代化の道を歩むことになりますが、自動車市場が花開くには様々な社会構造の近代化が必要でした。フォードも対アジア市場として日本に対し日露戦争が終結した1905年(明治38年)に輸出を開始します。
国内自動車製造業も次々と設立されますが個人工場の域を出ることができませんでした。
1925年(大正14年)2月17日に資本金400万円で「日本フォード社」が横浜市緑町4番地に設立されます。そして
3月3日の今日、
工場を開設、当初は本国モデルの左ハンドルT型フォードをノックダウン生産します。
遅れること二年、ゼネラル・モーターズが大阪に拠点を置き生産を初め米国二大自動車メーカーによる東西競争が始まります。
昭和初期、日本の道路は
横浜産のフォード、
大阪産のシボレーが席捲します。
日本のモータリゼーションが、米国の大手二社によって始まった事実はあまり知られていません。勿論、日本メーカーも国産自動車の増産と販売に努めます。
1933年(昭和8年)自動車製造(株)が横浜に設立され、翌年から年間1,000台ペースで生産開始しますがフォード横浜工場の生産能力は年間1万台、規模の違いは圧倒的でした。
その後、フォード(横浜工場)は、神奈川区守屋町2丁目1343番地に、敷地11,266.98坪規模の子安新工場を立ち上げ、右ハンドルのモデルAの本格的な生産を開始します。最盛期には一日当り200台の生産能力を持っていたそうです。
1936年(昭和11年)に、日本政府は自国の自動車産業の保護育成を目的とする「自動車製造事業法」を制定。この法律により、国内資本が50%以上の企業のみ自動車製造が制限されたことで、
1939年(昭和14年)12月にはトヨタ・日産・フォード間の合弁企業設立交渉が行われたこともありましたが、軍部からの強い横槍があり夢の合弁はたち消えとなってしまいます。
日本フォード社は1940年(昭和15年)に操業停止を余儀なくされます。1941年(昭和16年)12月から1945年(昭和20年)8月終戦までの期間は日本政府に接収され、戦後の連合国軍接収を経てフォードに返還、現在はマツダのR&D(研究開発)センターとなっています。
1933年(昭和8年)12月26日、横浜に設立された自動車製造(株)が、後の日産自動車となります。
日産自動車も横浜ルーツの企業で、現在横浜に本社が移転(戻って)しました。
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(3月3日関連ネタ)
■1854年3月31日(嘉永7年3月3日)
「神奈川にて日米和親条約締結」
とありますが、<神奈川にて>ではなく<横浜で神奈川条約>を結んだと表現するほうが正しい。この条約によって日本は下田と箱館(現在の函館)を開港することを決定します。
米国側
漢文担当の主席通訳官サミュエル・ウィリアムズ
オランダ語通訳アントン・ポートマン
日本側
第1通訳担当が森山栄之助
<森山栄之助関連>
No.412 多吉郎、横浜に死す。
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<日米和親条約締結>
No.63 3月3日 日本初の外交交渉横浜で実る
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=556
<日米和親条約締結関連>
No.96 4月5日 開港ではありません開国百年祭
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