No.124 5月3日 料亭にて超機密書類盗まれる
今日は憲法記念日です。
憲法に因んだ横浜ネタといえば、伊藤博文らが金沢八景の料亭東屋で「明治憲法」草案を練ったという話しでしょう。
このあたりの顛末はかなりブログ等に記載されていますので、私はちょっと別なネタに振って紹介しましょう。
とはいえ、
本命、明治憲法草案について簡単に紹介しておきます。
1868年(明治元年)明治政府になってから憲法が制定するまで紆余曲折、かなり時間がかかります。1889年(明治22年)2月11日、大日本帝国憲法が発布され、国民に公表されますから、たっぷり20年はかかったことになります。
この間、政変も何回か起り、国際情勢も変化する中、1887年(明治20年)5月に憲法草案を書き上げた舞台が横浜市金沢区の料亭東屋と横須賀市夏島の伊藤博文別邸です。(夏島草案)
当初東京で検討されていましたが、プロジェクトの合宿みたいなものでしょう、首相の別邸近くの風光明媚な場所でということで当代有名な相州金沢の東屋旅館で作業を継続します。
が、
留守にしている間に、草案の原稿の入った鞄が盗まれるという大失態が起ります。原稿は無事発見されますが、機密上問題だということで、伊藤の別荘「夏島」に移り作業が続けられます。
というわけで、憲法に因んだ「横浜」はとんだ災難の舞台になってしまいました。
http://ja.wikipedia.org/wiki/大日本帝国憲法
http://hamadayori.com/hass-col/culture/MeijiKenpo.htm
http://www.keikyu.co.jp/webtrain/ryouma/spot/spot_kenpou_sousou.html
(江戸時代からの有名旅館)
憲法草案盗難という前代未聞の事件に見舞われた「東屋」
江戸時代から続く有名旅館でした。
1955年(昭和30年)廃業ということですから結構最近まであったんですね。
憲法草案が盗まれた旅館ですが、
現代でも良くある話しで、旅先のセキュリティにはご注意を。
今日は、この「東屋」について紹介します。
金沢江戸時代、金沢八景が観光名所として栄えていた頃、 瀬戸橋近くには旅館や料亭が立ち並び賑わいをみせていました。
その中の一つが東屋でした。
金沢(横浜市金沢区)は、鎌倉時代から開けた街でした。
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東屋写真(金沢区40周年誌より) |
天保 7年(1836)に刊行された「江戸名所図会」にも瀬戸橋と旅亭東屋が描がかれた四枚つづきの挿絵があります。
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江戸名所図絵より |
瀬戸の急流、橋の上を行き交う旅人、旅亭の客引き。舟には獲れたばかりの跳ねる魚、料理を座敷に運ぶ仲居の姿等が見事に描かれています。
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江戸名所図絵より |
明治大正期には、多くの文人、政治家もここを訪れました。
当時の記録から「東屋」関係のものを幾つか探してみました。
明治20年6月1日
伊藤博文(45)横浜の金沢に行き東屋に滞在する。4日、同所夏島の別荘が落成して移る。「海辺の空気は至て清涼にて、心持大によろしく候。……日和よき時には、後の山廻り、海岸の貝ひろひ等にて、余程おもしろく日を送り申候」。8月13日、帰京する。以後、しばしば訪れて滞在する。
明治35年2月22日
自轉車旅行の催有り 午後一時を期し品川停車場前の茶見世に會す 來る者久米 佐野 菊地 小代 中丸 小林 合田及拙者の八人也 舊東海道筋を走り横濱を經杉田に到る 此處にて月の出を眺め山を越え金澤東屋ニ一泊
2月22日 アーティストツーリング
明治32年10月16日
津田左右吉(26、千葉県の中学校の教師として生徒を引率し、鎌倉から横浜の金沢に行き東屋に泊まる。17日、鎌倉巡覧ののち三橋支店に泊まる。18日、横須賀に行き造船所を見学して泊まる。19日、再び鎌倉に出て江の島に至り岩本楼に泊まる。20日、藤沢で箱根に行った一隊と合流、帰京する。
大正09年9月 佐佐木信綱(48)横浜金沢の称名寺に古書を訪ね、旅館東屋で昼食をとる。
金沢湾?のシンボル瀬戸神社のびわ島弁天社のそばに、
「金沢総宜楼に題す」という詩碑が建っているそうです。
(今度行きます)
この詩碑もとは東屋の庭内にあったもので昭和30年に廃業したときここに移されたそうです。
金沢区は魅力一杯の歴史をたっぷり楽しめるゾーンです。まだ数回しか訪れていませんが、時間を作って今年はじっくり散策してみたいと思います。
→ということで この後金沢八景を堪能してきました。
No.136 5月15日 フルライン金沢区
No.269 9月25日(火)河口に架かる橋
No.123 5月2日 全県下警察官待望の楽園
みなとみらいによく見ると不思議な建物が建っています。
「けいゆう病院」です。
1996年(平成8年)1月8日に完成した財団法人神奈川県警友会が運営する総合病院です。
今日のテーマは、この「けいゆう病院」の前身(前名)で山下町にあった「(旧)警友病院」です。
この警友病院は、1934年(昭和9年)の今日、横浜市中区山下町に開業(開院)しました。
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斜めに見えませんか?? |
この山下町の「警友病院」は
【全県下警察官待望の楽園】とメディアに賞された
昭和初期の震災復興建築でした。
閉鎖当時、昭和初期建築の象徴スクラッチタイルを見事に使った、最も古い現役病院建築として評価されました。
「警友病院」のような警察病院は意外と少なく、
東京都警察病院が1929年(昭和4年)3月18日に完成し、
昭和9年の神奈川県、
そして昭和12年に大阪警察病院が完成し、
その後京都に開業しただけでした。
「警友病院」とネーミングされたのは横浜だけのようです。
病院建設資金は、県の警察官・消防官からの拠出金を集め、県内の篤志家からの寄付、そして天皇・皇后並びに各皇族からの下賜金で調達したと記録にあります。
おそらく、関東大震災の教訓から総合病院の必要性を感じたためでしょうが、職域病院としてだけでなく地域の基幹病院として県民に広く医療を提供し地域に信頼されてきたことはまちがいありません。
【全県下警察官待望の楽園】
※御下賜金の恩命を拝した警友病院竣工※
5月2日
「畏くも両陛下より御下賜金の光栄に輝やく警友病院は、警察消防全員と家族の待望の中に港都の一異彩としてネオヽクラシズムの三層楼を山下町の一角に出現した。」(横浜グラフ)
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開設式典の模様(都市発展館より) |
※『横浜グラフ』は台紙(横37.5×縦25.2cm)に写真プリントとその解説ラベルを貼付し、台紙右端の4つの穴を紐で綴じたアルバムである。表紙(横37.8×25.5cm)には「横浜グラフ」「横浜 国際写真通信社 発行」と印刷されている。「横浜グラフ」のタイトル文字背景のデザインは横浜市章を象ったものである。(横浜都市発展記念館)
http://www.tohatsu.city.yokohama.jp/
私が初めてこの病院を(見学)したのは高校時代のことでした。
母の古くからの友人で、この病院の産婦人科医師(後に産婦人科部長)をされていた故石雲サカエ先生に案内していただきました。
その当時で築40年、戦火を通り抜けてきた重厚な石の塊といった印象しか(あまり関心が無かったので)ありませんでした。
ついでにということで、病院の外に出て案内していただいたのが「別館(当時横浜入国管理事務所)」でした。外観だけでしたが「大変貴重な建物だそうですよ。残せるモノなら残しておいた方が良いですね」と言われ、ただただ感心したことを記憶しています。以来この建物の前を通る度に、その後(アルテリーベで)食事をした記憶と一緒に思い出します。
調べてみると、
この建物は、もともとロシアに本社があった露亜銀行横浜支店として建てられ、次にドイツ領事館、法務省、横浜入国管理事務所(現在の東京入国管理事務所横浜出張所)へと移り変わり、昭和53年から警友病院別館として使われたそうです。
部分的に切り取るとかなり珍しいイオニア式風の佇まいも感じられます。
設計者は不明?と記している資料と
イギリスの建築家のBernard Michael Wordの手によって設計と記してある資料があり、どちらが正確かわかりませんが、神奈川県内で唯一残った外資系建物と聞くとこれからも近代遺産として残って欲しいものです。
現在
ブライダル施設としてリニューアル され『La Banque du LoA(ラ・バンク・ド・ロア)』という名で 2011年9月14日(水)オープンしました。
http://www.yokohama-loa.com/
No.122 5月1日 ハイデルベルク・ヘンリーと呼ばれた男
Prison camps in Yokohama
戦時中、全国に多くの捕虜収容所(Prisoner of war, POW)が設置されました。
横浜市内にも幾つか俘虜収容所がありました。
最も早期に設置された東京俘虜収容所第三分所は「横浜収容所」と呼ばれ、1942年(昭和17年)〜44年(昭和19年)の今日5月1日まで横浜公園にあった(旧)球場を代用し開設されました。
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現在の横浜スタジアム |
(俘虜記)
期間中約300人を収容した「横浜収容所」には、ハイデルベルク・ヘンリーと呼ばれた日本人がいました。
彼の話を紹介する前に、俘虜の話をしておきましょう。
現在では「捕虜」と表記しますが、第二次世界大戦時まで一般的に「俘虜」と表記しました。横光利一賞受賞の大岡昇平「俘虜記」は戦時中の米国軍下の“日本人捕虜”経験を下に書かれた秀作です。
「第2次大戦中、日本軍はアジア・太平洋地域で約14万人の連合軍将兵(イギリス、アメリカ、オランダ、オーストラリア、カナダ、ニュージーランド、インドなど)を捕虜としました。彼らは各占領地で日本軍が使用する鉄道や道路、飛行場などの過酷な建設作業に従事させられるとともに、その一部、約3万6千人は日本国内にも連行され、労働力不足を補う要員として、炭鉱や鉱山、造船所、工場などで働かされました。
捕虜たちの生活は悲惨をきわめ、飢えや病や虐待などにより、終戦までに国内外合わせると3万数千人もの人々が亡くなりました。死亡率は27%に及びます。」
※POW研究会データ転載
http://www.powresearch.jp/jp/index.html
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横浜にある英国領墓地がトップ画面に使われています。 |
今だ日本への遺恨が残っている連合軍俘虜経験者が、時々問題を再燃させる時がありますが、戦後処理の曖昧さがこの問題を引きずっているようです。
戦後、
これら俘虜収容所の管理責任者の多くが軍事裁判によって俘虜虐待の罪名で戦犯として死刑を含め処罰されました。
(ハイデルベルク・ヘンリー)
悲惨な史実の中で、俘虜と日本人との心温まる交流の物語があります。
1942年(昭和17年)9月に開設された東京俘虜収容所第三分所「横浜収容所」の所長だった林純勝中尉は、あるイギリス軍人たちから
ハイデルベルク・ヘンリーとあだ名されていました。
「村岸大尉-これは紳士だ。実に立派な人物だよ。”ジェントルマン・ジム”っていうのが彼の渾名になっているんだ」
「しかし、”ハイデルベルグ・ヘンリー”はピカ一だろうな。林という大尉でね、仏教の坊さんだそうだ」
「一番最初に林大尉に会った時の事を思い出すよ。横浜でね。ヒットラーばりのチョビひげを生やして、ドイツ式の山高帽子をかぶってるんだ。畜生! と思ったね。このドイツ野郎がっ! てんで”ハイデルベルグのヘンリー”と渾名をつけたわけさ」
「ところが、これがとんだ認識不足でね、トラックへのせられて暫く行くと雨が降って来たんだ。すると、どうだい、ヘンリー先生、車を止めさせてね、病人の捕虜を運転手の席にのせて、自分はわれわれと一緒に濡れて行ったんだ。アレッと思ったよ。それからすっかり好きになったんだが、良い人だよ、彼は」
(ルイス・ブッシュ著「おかわいそうに」より)
“ハイデルベルグのヘンリー”こと、林純勝中尉は戦時下にありながら俘虜達をして「日本一の収容所」、GHQの調査でも「相対的に公平」と評価された収容所をマネジメントした人物でした。
彼の故郷は長野県で、善光寺の末寺教授院(宿坊)の僧侶でした。
この教授院は現在外国人にも人気のあるユースホステルとなっています。
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宿坊、善光寺教授院 |
収容所では、日本軍側との交渉等を行う俘虜達の中でリーダー(先任将校)を決めます。
「横浜収容所」の先任将校になったのがカナダ空軍のバーチャル(Leonard J. Birchall)少佐でした。
日本の機動部隊(南雲艦隊)によるセイロン奇襲攻撃を未然に防ぐ軍功により「セイロンの救世主」と呼ばれたヒーローでした。
彼は林所長(中尉)と戦時下の信頼関係にあったようです。
林中尉と共に第13分所、東京本所を経て最後は長野県諏訪鉱山の第6分所で終戦を迎えることになります。
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Leonard J. Birchall |
多くの収容所責任者が軍事法廷で重い罪状で裁かれる中、林純勝中尉は「横浜収容所」の責任者としてではなく別の罪で重労働3年になりますが、1年に減刑されたそうです。
この極東軍事裁判で、林純勝中尉側の弁護に立った弁護士が後の横浜市長となった飛鳥田一雄です。
(余談)
ルイス・ブッシュ氏は現在鎌倉にお住まいだそうです。(2012年未確認)
戦前 火野葦平さんの作品を英訳された方で、日本人と結婚し暮らしていましたが開戦で帰国、英国軍人として参加しますが(運命のいたずらで)香港で俘虜となり東京大森、19年に横浜に送られます。「おかわいそうに」によれば、山手の「234番館」と思われる洋館に収容されていたようです。
(未調査)
http://www2.yamate-seiyoukan.org/seiyoukan_details/yamate234
参考文献
「東京第3分所(横浜球場)」笹本妙子
「おかわいそうに」ルイス・ブッシュ
【横浜市内の収容所】
■横浜分所
1942年9月12日、横浜俘虜収容所として、横浜市中区横浜公園の横浜球場スタンドを利用して開設。
1944年5月1日閉鎖。捕虜は日清製油分所、横浜耐火煉瓦派遣所、横浜船舶荷役派遣所へ移動。使役企業は横浜船舶荷役など。収容中の死者7人。
■東京芝浦電気鶴見分所
1943年12月25日、横浜市鶴見区末広町1-124の日本鋼管鶴見造船派遣所内に開設。
使役企業は東京芝浦電気鶴見工場。
終戦時収容人員121人(蘭72、英20、豪17、米12)、収容中の死者44人。このうち31人は空襲により死亡。
■日清製油分所
1944年5月1日、横浜市神奈川区千若町に開設。
使役企業は日清製油横浜工場。
■三菱重工横浜造船派遣所
1942年11月18日、横浜市神奈川区橋本町1-1に開設。
使役企業は三菱重工横浜造船所。
■日本鋼管鶴見造船派遣所
1943年1月21日、横浜市鶴見区末広町1-124に開設。
使役企業は日本鋼管鶴見造船所。収容中の死者23人。
■大阪造船横浜工場派遣所
1943年4月2日、横浜市鶴見区末広町1-12に開設。
使役企業は大阪造船横浜造船所。収容中の死者1人。
■日本鋼管浅野船渠派遣所
1944年3月20日、横浜市神奈川区橋本町2-1に開設。
使役企業は日本鋼管浅野船渠造船所。収容中の死者なし。
■横浜耐火煉瓦派遣所
1944年5月1日、横浜市磯子区西根岸馬場町に開設。
使役企業は横浜耐火煉瓦。収容中の死者なし。
■横浜船舶荷役派遣所
1944年5月1日、横浜市中区山下町32に開設。
使役企業は横浜船舶荷役。収容中の死者なし。