ホーム » 2016 (ページ 7)
年別アーカイブ: 2016
【横浜の橋】No.12 万国橋(新港埠頭)
橋のデザインには個性がある。構造上の課題をクリアすれば橋のデザインは多くの場合設計者に委ねられる。
幕末から大正にかけて、横浜にも多くの橋が架けられた。居留地と外を結ぶ「吉田橋」のエピソードは有名。
この時代で<最も>派手な橋はどれか?
文句なく『万国橋』だろう。現在の橋は1940年(昭和15年)11月に完成した二代目の地味なアーチ橋だが、当時は、上物が凄かった。
ちょっと笑ってしまいそうな上物でもある。税関=大蔵省の威光を示す目的もあったのだろう。
まずは百聞は一見なので当時の絵葉書を何点か紹介する。
開港50年祭の際に鉄骨アーチを覆うように<城櫓>のハリボテを組み立てたもの
『万国橋』は1904年(明治37年)に税関埠頭(現在の新港埠頭)と関内を結ぶために架設されたアーチ型鋼橋(トラス橋)だった。大さん橋を含め横浜港築港計画で設計された時には唯一の橋だった。
全長は36.6メートルで幅が15.9メートルあり、関東大震災でも耐え震災後もすぐに使用できた優れもの。
完成後、鉄道を埠頭内に引き込むために<汽車道>が作られ、税関本館脇から「新港橋」が架けられ、1994年(平成5年)みなとみらいエリアの開発に伴い「国際橋」ができるまで汽車道を除きこの二つの橋しか無かった。
万国橋は関内の中の<関内>、居留地時代の吉田橋みたいな役割を担っていた。移民船も大さん橋だけではなく新港埠頭から多くの人々が旅立ったに違いない。
現在は<みなとみらい>エリアを撮影するベストポイントにもなっている。
【横浜の橋】№11宮崎の橋(帷子川)
橋には色々種類がある。
一般的なイメージは河川に架かる道路の橋、 人専用なら人道橋、 鉄道橋梁、 そして鉄道を跨ぐ跨線橋、や道路を跨ぐ跨道橋(陸橋)などがある。 このような色々な道路がほぼ一箇所に集中している場所がある。<だからなに?>
なんだが、高速道路などが絡む場所では珍しいことではない。
ただ小さな川の小さな橋のあるところで<橋Gallery化>しているのは結構珍しい。
「宮崎橋」「宮崎橋人道橋」「宮崎跨線橋」「第三帷子川橋梁」(+地下道)が本日の紹介する橋だ。場所は横浜市保土ケ谷区仏向町、相鉄線和田町と上星川駅の中間にあたる。
位置を帷子川を中心にして説明する。
帷子川左岸に国道16号線が平行して走り、すぐに丘陵が迫っている。一方右岸は旧道とわずかだが平地が続き、このあたりは野毛山から続く水道道の役割も果たしている明治からの道だ。 国道16号には「宮崎橋入口」という交差点名が掲示されている。すぐ横にあるバス停名は「保土ケ谷中学校前」そこにはサブタイトルとして「仏向杉山社入口」とある。 歴史に準ずると、鎌倉街道から川を渡る神社への橋があり、相鉄線の橋が架かり、橋の架け替えに伴い人道橋ができ、その後しばらくしてから大規模な跨線橋と歩行者用の相鉄線を潜る地下道が完成し念願の渋滞解消が実現した。
この宮崎橋近辺は帷子川と相鉄線の和田町一号踏切があり昔から大渋滞の場所だった。 私は地元民ではなく車での通過客だったので地元にとっては迷惑千万の一台だったかもしれないが、とにかくこの辺りは渋滞が激しくイライラした記憶がある。
国道1号線から16号に合流する車両と、帷子川左岸から右岸エリアに向かう車がぶつかり合うポイントで、相鉄線の開かずの踏切が加わり身動きできないほどの渋滞地となっていた。 ここに帷子川と相鉄線と小さな道路をまとめて越える<跨線橋>を作る計画が持ち上がったが、予定地には仏向杉山社があり大変だったようだ。
冒頭にも<橋Gallery化>と表現したように、この辺りはとにかく構造が複雑になっている。
苦肉の策で現状となった?のかどうかは判らないが、かなりの強引な跨線橋作りであったことは現地を見れば明らかなので橋梁や道路設計に関心のある人は見学の価値あり??かも。
(歴史資産だらけ)
□和田村道橋改修碑 国道16号線は近世の重要な海道<八王子街道>をほぼトレースしている。古道時代は曲がりくねっていた箇所を地元の村民達が改修し、街道が次第に整備されていく。その改修碑が16号に沿ってひっそり建っている。
『村地先の難路を、江戸の住人桜井茂左衛門が資金を提供し、村民および隣村川島村民の協力を得て改修し、あわせて道筋に橋を架けて往来の難儀を救いました。本碑は、この工事の由来を記したものです。碑高は103cm、碑幅34.5cm、碑厚21cm。建立は元文2年(1737)11月。道筋改修の経緯を知る上で貴重な碑です。』
□仏向町の石塔(仏向杉山社跡)
ちょうど宮崎跨線橋が帷子川右岸側に降りるあたりにはかつて丑寅の方位に向かう「仏向町杉山社」があったがこの跨線橋工事のために遷座することになった。 平成5年8月のことだ。 その神社跡地の角が交差点となり敷地の一部が仏向町町内会の「ふれあい広場」となっている。
この角に三つの「石塔」が設置されている。 三つの石塔は神社跡地に残った(残した?)もので
(1)「観音庚申塔」
寛保2年(1742)11月造立。庚申信仰の石仏で舟形をしているのが特徴。
(2)「斎上地神塔」
文化9年(1812)8月造立。角塔浮彫形
(3)「出羽三山供養塔」
安政2年(1855)8月造立。
□正福院
かつての「宮崎橋」を渡り、まず杉山社が右手にあり、少し軸がずれ寺への参道が続く。
参道を進み、山門をくぐると 正面に樹齢300年と言われている二本の大銀杏の木が高々とそびえている。曹洞宗仏向山「正福院」だ。
『新編武蔵風土記稿』によると、
「出家の身は他に志願なし、唯、常に仏に向かうこそ桑門の本意とするところなれば、寺の山号およびその村里にも『仏向』の二字をもって名付け賜るべしとの願いにより、かく名付けられしとぞ」 と仏向の名について記されている。
□「宮崎跨線橋」
1993年(平成5年)に杉山社が遷座されてから6年、 1999年(平成11年)3月にようやく立体交差化「宮崎跨線橋」が完成する。 その後、どの程度混雑が緩和されたかは定かではないが、2016年に現地に立った時にはあまり渋滞は感じなかった。 この事業には踏切解消の目的もあり、歩行者用の「地下道」も新設、跨線橋の周囲が親水ゾーンとして整備されたが現在はシャッタアウトされた状態になっている。 実に勿体無い。
【横浜の橋】№10 残った紅葉橋(陸橋)
横浜に初めて鉄道を敷設する際、野毛浦・伊勢山・鉄道山沖の海辺を埋立て鉄道用地を確保する。その際に埋立地と陸部の狭間に排水路(運河)を作った。
最初は「桜木川」と呼ばれ、後には「桜川」と呼ばれた。
明治に誕生した「桜川」は次第にその役割を終え、水量の少ないドブ川に変身、昭和20年代には空堀となりそこに戦後の闇市が建ち並び立ち退き訴訟にまでなった。
その後「桜川新道」(新横浜通り)が誕生し橋は無くなることになる。大岡川と石崎川(帷子川)を繋ぐ桜川に架かっていた橋の数は少し変わるが、
「錦橋」「緑橋」「瓦斯橋」「紅葉橋」「雪見橋」「花咲橋」「戸部橋」「桜橋」と八つありその中で市電の停留所だった「雪見橋」「花咲橋」が現在もバス停として残っている。そして唯一残った橋が紅葉坂と桜木町・内田町を繋ぐ<紅葉橋>である。まさに過去と(みなと)みらいを繋ぐ橋だ。
「紅葉橋」
この橋は、坂の橋である。橋が急傾斜しているのだ。傾斜角度を測ったことは無いが、自転車での登攀は電動でない限りかなり厳しい。降雪時は徒歩でも危険な傾斜角である。
急な紅葉坂を下った先に「紅葉橋」が架かっているのだが、坂の下が出っ張った崖っぷちになっているために、坂の橋で繋ぐしか無かったのだろう。
もう一つの特徴は上下線が分かれている双橋であることだ。<赤い線が丘稜線>
実は、この紅葉橋は、乱暴な表現だが「架け足し」た橋である。拡張ではなく、旧橋の横に新橋を加え、上下分離線となっている。
手元の神奈川県資料によると
1982年に旧紅葉坂(幅員9m)が架け替えられ現在に至っていて
2001年に新紅葉坂(幅員6m)が横に架けられている。ただ 見る限り共に2000年の工事で取り替えらたような仕立てなので旧紅葉坂はリフォームされているのだろう。
上の写真と比べるとJR高架橋下の道路が拡張されていることは判る。
<1990年ごろの紅葉坂・紅葉橋>
このあたりは歴史の<ネタ>が満載。
キーワードだけも紹介しておこう。
近代日本で最初に国賓が泊まった横浜離宮・鉄道山・高島嘉右衛門・井伊直弼・伊勢山皇大神宮・ユースホステル・税関宿舎(大平正芳、福田赳夫)・前川國男・金星・神奈川奉行所・米軍倶楽部
2014年(平成26年)7月1日に北改札が完成したことで大きく人の流れも変わりつつある。 まもなく旧東横線高架橋の遊歩道も出来上がるとこの橋を上から眺めることができるだろう。
散策におすすめのエリアだ。
追々これらのテーマも紹介していきたい。
【横浜オリジナル】カクテル・ミリオンダラー
横浜グランドホテル支配人、ルイス・エッピンガーは二つの横浜カクテルを発案したことでその名を今に残している。
その名はバンブーとミリオンダラー。
標準的なレシピは
(バンブー)
ドライ・シェリー : ドライ・ベルモット = 2:1
オレンジ・ビターズ = 1dash
(ミリオンダラー)
ドライ・ジン:40ml
パイナップルジュース:15ml
スイート・ベルモット(ドライ・ベルモット):10ml
レモンジュース:10ml
グレナデン・シロップ:1tsp
卵白:1/2個
<スライスしたパイナップルを飾る>
※ベルモット:フレーバードワイン
イタリア発祥のスイート・ベルモット
フランス発祥のドライ・ベルモットとがある。
【レシピ2】
ビーフィータージン:45ml
チンザノベルモット ロッソ:15ml
パイナップルジュース:15ml
グレナデンシロップ:1tsp
卵白:1個分
バンブーに関しては、当時ニューヨークで大ヒットした「アドニス」をエッピンガーがアレンジした<姉妹カクテル>だ。 このバンブー誕生に関しては推論だけ簡単に記しておく。
カクテルうんちく界では 日本らしさを表すために<バンブー=竹>としたとある。
私は<竹>そのものの話題性に着目した。
同時期 <発明王エジソンが電球フィラメントに日本の竹を短期間だが使用した>背景があるからではないか?
と推理している。
また竹の物語とアドニスの物語にも一捻りありそうだとも考えている。
さて本日の主題、ミリオンダラー
ルイス・エッピンガーはミリオンダラーレシピをどのような背景でイメージしたのか?
ジンとベルモットが基本になっているので<マティーニ>のアレンジカクテルと言っても良いかもしれない。
ミリオンダラー最大の特徴は パイナップル及びパイナップルジュースだ。
このパイナップルはアメリカの誕生期に重要な意味を持っていたフルーツである。
「植民地時代のアメリカではパイナップルはとても珍しい果物だったため、特別なお客様のいるテーブルに置くのは最上級のおもてなし」というエピソードも残っている。このスタイルはその後のゴールドラッシュに酔った49年組(フォーティナイナーズ)によって開拓された<西海岸>のホテルでもおもてなしのシンボルとしてパイナップルが使われたに違いない!この時エッピンガーは18歳だった。彼がどのような仕事に就いていたかどうか不明だが、ドイツ系アメリカ人だった彼らの多くは<金鉱探し>のバックヤードで雑貨商や食品、酒の販売を営んだ。ドイツ系移民の一人リーバイ・ストラウスが金鉱で働く人々の愚痴話からあの<ブルージーンズ>を商品化したことは有名だ。
贅沢=成功の象徴だったパイナップルはコロンブスがアメリカ大陸から持ち帰り、めずらしさと栽培の難しさから当時「王の果実」とも言われた。パイナップルに<ミリオンダラー>一攫千金の夢をエッピンガーは重ね合わせたのかもしれない。
「原産地はブラジル、パラナ川とパラグアイ川の流域地方であり、この地でトゥピ語族のグアラニー語を用いる先住民により、果物として栽培化されたものである。15世紀末、ヨーロッパ人が新大陸へ到達した時は、既に新世界の各地に伝播、栽培されていた。 クリストファー・コロンブスの第2次探検隊が1493年11月4日、西インド諸島のグアドループ島で発見してからは急速に他の大陸に伝わった。 1513年には早くもスペインにもたらされ、次いで当時発見されたインド航路に乗り、たちまちアフリカ、アジアの熱帯地方へ伝わった。当時海外の布教に力を注いでいたイエズス会の修道士たちは、この新しい果物を、時のインド皇帝アクバルへの貢物として贈ったと伝えられる。 次いでフィリピンへは1558年、ジャワでは1599年に伝わり広く普及して行った。そして1605年にはマカオに伝わり、福建を経て、1650年ごろ台湾に導入された。日本には1830年東京の小笠原諸島・父島に初めて植えられたが、1845年にオランダ船が長崎へもたらした記録もある。(wikipwdia)」
ここからも判るように、20世紀初頭には東南アジアと交易が盛んになっていた日本でもパイナップルを入手できたようだ。
インド洋から東南アジアの海洋覇権を握っていた英国と、太平洋の覇権を握ろうとしていた米国の衝点となっていた日本=横浜には多くの一攫千金の夢を持った商人が集まってきていたのだろう。
1889年(明治22年)に新生会社組織に生まれ変わったヨコハマグランド・ホテルのスタッフとして着任したルイス・エッピンガーはこの時すでに58歳だった。(支配人に就任したのは60歳)
この年、英国人技師パーマーによる築港計画が着工する。この時の神奈川県横浜築港担当が30代の若き三橋信方(後の横浜市長)だった。
新しい国際港の時代到来に備え、グランドホテルは海軍省の招きで来日していたフランス人建築家サルダに新館(別館)設計を依頼する。これによってヨコハマグランド・ホテルは客室は100を超え、300人収容の食堂、ビリヤード室、バーが整備された。
恐らく新館竣工期にオリジナルカクテル「バンブー」「ミリオンダラー」のどちらかまたは両方がお披露目されたのではないだろうか。
この時期、京都岩清水で採取されエジソンの白熱電球に採用された日本の竹は1894年(明治27年)まで輸出されていたので、<バンブー>が当時の話題に上がっていたに違いない。
また1894年(明治27年)に完成した「鉄桟橋」を含めた横浜築港財源が米国より返還された賠償金であったことも、狭い居留地では大きな話題となっていただろう。アメリカ人エッピンガーにとっても誇りに思っていた出来事だったに違いない。
日露戦争が始まった翌年の1905年(明治38年)、
74歳になった彼は、ホテルマネジメントの最前線から退き、マネージング・ディレクターとなり後任の支配人H.E.マンワリング(Manwaring)を母国アメリカから招聘する。
1906年(明治39年)に新しい支配人が着任した後の1908年(明治41年)6月14日
ルイス・エッピンガーはその生涯を終え、外国人墓地に眠る。
このニュースはすぐさま彼の出身地サンフランシスコに伝えられ、新聞にも訃報が掲載された。77年の生涯、後半の約20年を日本で過ごしたことになる。 関東大震災で焼失するまで横浜のフラッグシップホテルだったヨコハマグランド・ホテル。そこに関わった二人の支配人ルイス・エッピンガーとH.E.マンワリングは共にサンフランシスコと深い関係にあった。
1871年(明治4年)に横浜港を旅だった岩倉使節団が最初に訪れた外国、アメリカ合衆国カリフォルニア州サンフランシスコで宿泊したホテルがミリオンダラーホテル「グランド・ホテル」であった。 オーナーはこの街で大富豪となったチャップマンこと「ウィリアム・チャップマン・ラルソン」というオハイオ州生まれのアメリカンドリームを実現させた男だった。岩倉使節団一行を自宅のゲストハウスに招いた様子が「米欧回覧実記(久米邦武)」にも記されている。
もしかするとミリオンダラーはサンフランシスコグランドホテルにあやかったものとも推理できる。このテーマは今後も追いかけて行きたい。
【記念式典】横浜、金のシャチホコ
ここに一枚のお城の写真があります。
城郭ツウであれば<金の鯱>がトレードマークの「名古屋城」らしい?と推理されたかもしれません。
この名古屋城は、横浜市の復興イベントのために建てられた<フェイク>ハリボテです。
場所は山下公園、時は1935年(昭和10年)の出来事です。
(復興記念横浜大博覧会) 『復興記念横浜大博覧会』が1935年(昭和10年)3月26日から5月24日まで山下公園を中心に開催されました。
1923年(大正12年)に起こった<関東大震災>から立ち直った横浜市を国内外にアピールするために横浜市が復興記念と謳い実施されたものです。
メイン会場となった『山下公園』は、震災復興のシンボル的存在でした。 山下公園と通りを挟んだ山下地区約10万平方メートルを会場にして開催され来場者は、のべ3,299,000人に達し横浜市内で開催された戦前最大のイベントとなりました。
※乃村工芸の博覧会データベースによれば
「大正12年の関東大震災から立ち直った横浜市が復興を記念して産業貿易の全貌を紹介するため、山下公園約10万平方メートルを会場に開催した。風光の明媚と情緒随一の山下公園には、1号館から5号館まで各県と団体が出展、付設館として近代科学館、復興館、開港記念館のほか、正面に飛行機と戦車を描いた陸軍館と、1万トン級の巡洋艦を模した海軍国防館が作られ、館内に近代戦のパノラマがつくられ、戦時色の濃い内容であった。特設館は神奈川館のほか満州、台湾、朝鮮などが出展。娯楽施設は真珠採りの海女館、水族館、子供の国などがあり、外国余興場ではアメリカン・ロデオは、カーボーイの馬の曲乗りと投げ縄や、オートバイサーカスなどの妙技を見せ喝采を浴びた。この博覧会は百万円博といわれた。」とあります。
最初に登場した<名古屋城>はこの『復興記念横浜大博覧会』山下公園会場の大さん橋寄りに設置されました。ここに登場した<地方館>は、
地元神奈川館、北海道館、東京館、奈良館、(静岡茶)。統治下にあった台湾館、朝鮮館でした。
全体を通して、特徴的なのは<海>に関するテーマ館が目立つことです。
海女館、水族館、海洋発展館、ウォーターシュート、そして特に際立っているのが戦後貨客船「氷川丸」が係留されたあたりに設置された「生鯨館」でしょう。 山下公園先の海を囲って鯨を泳がせたようですが、飼育環境が悪かったのかすぐに死んでしまったそうです。現在なら保護団体から厳重な抗議がきたことでしょう。
さらには、かつて仏蘭西波止場(下図 東波止場)だった汐だまりを活かした池には<水上遊戯>施設と『蟹罐』という名の謎の水上施設が記載されています。
『復興記念横浜大博覧会』開催内容を絵図や記念絵葉書を元に探ってみるといろいろ興味深いことがわかってきます。
(記憶)
現在も残っている当時の施設は「ホテルニューグランド」だけです。一部モニュメントが残されているのが「産業貿易センター」前の香港上海銀行と、イギリス系海運・貿易商社バターフィールド&スワイヤ商会の事務所だった建物の一部を保全した「創価学会戸田平和記念館」です。公園内には震災復興に関する記憶は殆どありません。
この山下公園が震災復興のシンボルだった?ことを改めて思い起こす空間にする必要があると感じています。

(山下公園)
メイン会場となった山下公園は、
関東大震災の復興事業として1930年(昭和5年)3月15日に誕生しました。面積は 74,121m²あり現在も多くの利用者で賑わっています。完成以来、湾岸の工業化に伴い殆どの海岸線が工場用地、埠頭用地となる中、公園機能が残された横浜の貴重な臨海施設です。
戦後一時期、米軍の接収地となりオーシャンビューの住宅が建ち並んだ時もあります。
No.181 6月29日(金) オーシャンビューの35棟解体
■1935年の出来事をピックアップ
2月18日
菊池武夫が貴族院で美濃部達吉の天皇機関説を反国体的と糾弾
3月7日
村山助役再選を決定 日吉・富岡の一部地域へのガス供給案可決 私営バス強制買収に関する意見書を関係行政庁に提出する建議可決
●皇紀2600年記念オリンピック大会招致に関する意見書を市長に提出する建議可決
3月16日
アドルフ・ヒトラーがヴェルサイユ条約を破棄し、ナチス・ドイツの再軍備を宣言
3月20日
復興博浜踊り発表会が野沢屋で開催された
復興記念横浜大博覧会開催
3月26日
西条八十作詞杵屋佐吉作曲「はまちどり」が発表
4月1日
横浜宝塚劇場が住吉町に開館した
4月4日
日中両国の経済状態視察などを目的とした米極東産業視察団の一二人、横浜に到着。
4月6日
満洲国皇帝溥儀が来日。靖国神社参拝
4月7日
美濃部達吉が天皇機関説のため不敬罪で告発される
4月9日
美濃部達吉の「憲法概要」など著書3冊が発禁となるも買手殺到し書店で売切れ
4月14日
太平洋最大の豪華客船エンプレス・オブ・ブリテン号、五百余人の観光客を乗せて横浜へ入港。
8月12日
永田鉄山暗殺事件(相沢事件)
9月15日
ナチス・ドイツにおいてニュルンベルク法制定(ユダヤ人公民権停止・ドイツ人との通婚禁止)
9月15日
ハーケンクロイツ旗が正式にドイツの国旗とされる。
12月9日
第二次ロンドン海軍軍縮会議開催
【横浜の橋】№9 天神橋(堀割川)
堀割川に架かる天神橋は現在架け替え工事が行われている。
震災で倒壊した天神橋は大正15年の6月に工事が始まり昭和2年4月22日に竣工と震災復興記録には記されている。工事前は市内でも最古参に入る<古株>の橋だった。
撮影した橋の画像が見つからないので画像はパス!見つかり次第掲載予定。
堀割川は1874年(明治7年)に完成した大岡川の小派川で、中村川から分かれ根岸湾に注いでいる。
明治に入って着工された「堀割川」分水路作りにはいくつかの目的があった。
一つは、江戸中期に新田開発された<吉田新田>では開墾しきれなかった海の部分を埋め立てるために<土>が必要だったこと、もう一つは根岸湾(磯子・金沢)開発のために横浜開港場を繋ぐ目的があった。完成には吉田家涙の物語があるがここでは省略する。
堀割川には現在六つの橋と一つの人道橋が架かっている。
①中村橋
②天神橋
③根岸橋
④坂下橋
⑤磯子橋
磯子橋人道橋
⑥八幡橋
今日は「弁天橋」の風景を紹介する。
構造は<I型鋼桁(ガーター)橋>架替後も変らない。
橋の銘板には「大正15年3月」とあるが 復興資料では大正15年着工の「昭和2年4月22日」完成とある。
(天神橋の由来)
天神橋の名は天満宮に繋がる<橋>の意として全国で多く命名されている。
ここに架かる「天神橋」は岡村天満宮に繋がるのだが、社殿まではかなり遠い。資料によると、堀割川が完成すると、<船>で天神橋近辺にあった<船着場>を経由して参拝にでかけたことから命名されたようだ。
明治45年に電気鉄道が開通し、船便は廃れてしまうが橋の名は残った。岡村天満宮には横浜電気鉄道(後の市電)滝頭で降り、途中の一の鳥居をくぐり天神道を歩き向かった。
震災で堀割川護岸はかなり崩れ、参道の道筋も新しく作られることになった。例祭の時にはちょうど天神橋と下流の根岸橋の中間に「天神前仮停留所」が開設され、臨時停車し参拝客は皆ここで降りた。(堀割川左岸)
岡村天満宮は堀割川の右岸側にあり、電気鉄道も右岸に沿って八幡橋まで走っていた。江戸時代は根岸台の崖下から岡村一帯は丘の多いこの地域の重要な<平地>だったが、堀割川によって分断されてしまった。
「左岸」は背後に根岸の崖が迫り 分断された土地となっている。そのためかどうか分からないが 左岸には工場が多い事と関係があるかもしれない。
戦前の「天神橋」が写っている絵葉書がある。といってもかなり遠景なので、橋そのものはその存在が確認できる程度だ。(日本ビチュマルス株式会社)
ビチュマルスとはあまり聞き慣れない言葉だ。
道路舗装の欠かせないアスファルトの乳剤のことをビチュマルスという。日本での事業展開の歴史は古いが飛躍のきっかけとなったのが<関東大震災>による復興需要だった。道路舗装の先進国であったアメリカの持つ技術を導入し、日本では幾つかビチュマルス製造会社が誕生した。
その一つが日本ビチュマルス株式会社で、
1930年(昭和5年)に設立された。現在は東亜道路工業株式会社と改名(1951年)し日本有数の道路舗装企業である。
この他にも幾つか大手道路舗装企業があるが、独立系である日本ビチュマルス株式会社に対し、ゼネコン系の関連企業が殆どである。
大林組の関連会社「大林道路」はかつて「日本ビチュマルス株式会社」から分かれた道路舗装企業である。
絵葉書の発行は昭和9年夏である。ちょうどこの頃の地図があったので地図と比較しながら、ここに映る風景を少し読み解いてみたい。
工場脇を堀割川が流れている。川にそって道が整備され、そこを市電が走っている。左側が下流で根岸湾方向を指す。下流に「天神橋」が写っている。
工場内には<ドラム缶>が多く並んでいるのが判る。
地図から「日本ビチュマルス株式会社」の周囲には「大和染色工場」「四菱食品会社」「落合ガラス工場」「石川工場」など製造会社が立ち並んでいる。
対岸(右岸)には広い空き地が目立っている。
半分削られた小山の手前が現在 「横浜商業高等学校 別科」がある辺りと思われる。
小山の奥には「脳血管医療センター(かつて万治病院)」があったが周囲は殆ど空き地のように見える。昭和初期はまだまだ農地中心で住宅は限られていたようだ。
この風景はどこから撮影されたものか?
地図から根岸の丘の上、現在米軍住宅のはずれ標高56.7mポストあたりから見下すように撮影されたと思われる。工場の屋根にビチュマルスと大きく書くということは、航空機を意識したのだろうか?それとも根岸の丘からの眺めを考えてのことだったのだろうか?
最後に花見の時期も迫ってるので
かつての堀割川の桜風景を紹介する。
【横浜の小さな橋】№8 日影橋
今日は「日影橋」を紹介する。恐らく地元の人しか記憶に無い実に地味な橋だが、私のお気に入りPOINTの一つとして紹介しておきたい。
この【横浜の橋】シリーズを始めようと思ったキッカケの一つがこの「日影橋」だった。もう3年前のことだ。2013年の夏、田奈駅から市境ぶらり歩きをするために恩田川を遡上中に出会ったのが「日影橋」だった。 地味ながら横浜の風景、川と橋の関係を考える上で大切な<橋>との出会いだった。
「日影橋」は一級河川「鶴見川」一次支川「恩田川」に架かっている。
二次支川「奈良川」との合流点に設置されているごく普通の桁橋だ。<写真左奥の青い橋が「日影橋」全体の映像は後段で>
竣工:昭和43年3月
橋長:26m
幅員:4m
恩田川は現在の「青葉区」と「緑区」の境となっている。合流する奈良川は恩田(青葉区)一帯を潤す支川で、長津田(緑区)の河岸段丘による台地にぶつかるかたちで恩田川に合流している。
グーグルアースでこの橋周辺をご覧頂きたい。
青葉区の奈良川流域に広がる農地が美しい。実は横浜は近郊農業の町でもある。横浜産の小松菜やキャベツは<かくべつ>だ。住農工商のバランスを考える際、農地の風景は都市にも重要な風景である。すぐ近くには住宅地が迫っている。
日影橋
「日影橋」の名は、古い地名から採っている。旧恩田村字日影山の「日影」を橋名にしているそうだ。因みに、日影は<日陰>ではない。陽の光が影を生む場所を指している。
「日影橋」横には河辺降りることができる階段があり、橋の下のちょっとした<親水空間>が暑い夏の日差しを凌ぐには最適な場所となっている。 私はここで真夏のランチタイムを楽しんだ。川の水も澄んでいてウォーキングの疲れを癒やすにはもってこいの空間だったのでこの橋が気に入ったのかもしれない。
(市境めぐり)
日影橋から二つ橋を過ぎると恩田川は東京都町田市成瀬に入る。ここから県境をしばらく歩くことができる。左右に<杉山神社>があり、しばらくすると見事な<尾根境>に入る。市内有数の地境が実感できる散策ルートといえるだろう。ぜひ「恩田川」とセットでお薦めする。
「時」の風景(更新)
今日は「時」の話題から始めます。
古典落語に「時蕎麦」という滑稽話があります。屋台の蕎麦屋でお勘定をす際、「七(なな)、八(はち) 今何どきだい? 」「ここのつで」「十(とう)、十一(じゅういち)」というだましを使うネタです。
時代は江戸、
屋台の蕎麦屋はなぜ時間を正確に言えたのでしょうか?
江戸時代の時報は<鐘>の音でした。江戸では公認の時報を打つ場所が九カ所あったそうです。初めに捨て鐘三回の後に、時刻に応じてその数だけ鳴らしました。
ではその打つ時刻はどうしたのか?
当初は線香の燃え方で、その後「水時計」が設置されていて、時計に従って鳴らしたということですから、秒単位の正確さは無いものの社会生活には全く問題がありませんでした。
江戸時代の暦、太陰暦も季節感にそったカレンダーで農家には便利な<暦>でした。
時報の知らせ
鳴らす間隔は、当初「明け六つ」(午前6時)、「暮れ六つ」(午後6時)をドーンと太鼓で知らせるだけでしたが、2代将軍 徳川秀忠の時代から鐘に代わります。昼夜十二の刻を打つようになります。
「時そば」の九つ時、午(うま)の刻(午後零時)か子(ね)の刻(午前零時)のことです。落語には近くで様子を見ていた<与太郎>が登場していますので、午(うま)の刻(午後零時)の九つ時が自然かもしれません。
※「時そば」はyoutubeに多く収録されていますのでどうぞお楽しみください。
この時に使われていた時刻は江戸以前の「和暦」に基いて不定時法を用いていましたが、明治六年以降太陽暦を使うことになります。
定時法(24時間を均等に分ける)時刻となり西洋式の時計が大量に輸入されます。ところが、
時計があっても、すぐに時計は役に立ちません。
基準時と「時報」が必要だったからです。
日本の基準時間をどうするのか?
教科書では「東経135度 明石標準時」と習います。
この明石標準時は、東経135度の時刻を日本の標準時とすることを定める勅令「本初子午線経度計算方法 及標準時ノ件」が1886年(明治19年)公布され決定します。
英国のグリニッジを基準とした日本の上を通る9時間の時差となる135度とすることになります。
この英国グリニッジ標準時も、国際会議でかなりもめます。
フランスも自国の国立天文台を基準にすることを主張したからです。
1884年(明治17年)国際子午線会議の投票で僅差の結果、英国に決定します。
もし、フランスに決まっていたら 明石では無くなった可能性が高かったでしょう。
1884年(明治17年)以降、一気に国際標準時の整備が世界レベルで推進されます。
二年後の
1886年(明治19年)に明石が標準時地点と正式に決まり、
国際標準時を必要とする国際港に<時報>が求められるようになります。
1903年(明治36年)の3月2日
「横浜」と「神戸」の国際港にタイムボール(報時球)が設置され運用開始しました。
<かなり前置きが長くなりました>
横浜港のタイムボール(報時球)は皮肉にも<フランス波止場>近くにありました。
現在で推測すると、氷川丸とホテルニューグランドの間、山下公園の中央広場あたりです。
ちなみに横浜のタイムボールは<黒色>で、神戸は<赤色>だったそうです。この絵葉書が赤なのは<手彩色>で目立つことを意識したのかもしれません。
1913年(大正3年) 航海指針 山田正良 編 (海員協会版)
横浜報時球信号手続
1.報時球は日曜日及大祭日を除き毎日本邦中央標準時の正午時(東経135度に於ける平時正午時即ち英国経威平時の15時)に墜下せしむ
2.報時球の位置は北緯35度26分40秒988 東経139度39分零秒330トス
3.報時球の色ハ黒色に塗り櫓は白色とす
4.球は常に下部横木上に据置き正午時約5分前(午前11時55分)より之を上部横木下まで引揚げ東京天文台より電気作用を以て之を降下し始むる瞬時を以て正午時とす
5.報時信号に過誤ありたるとき又は故障の為め該信号を為し能はざるときは球櫓の下桁端に萬国船舶信号W旗を掲ぐ
「横浜報時球信号手続」でも表記されているように作動は
「東京天文台より電気作用を以て之を降下し始むる」
電信により遠隔操作されていたことになります。
<球>が知らせる時刻に合わせて 少し前に上に上がり、ジャストタイムに球が落下するしくみだったようです。港に停泊中の船舶は<望遠鏡>で報時球の落下を待ちます。落ちた瞬間「タイム!」と叫び 船舶内の時計の時刻の誤差確認をしたそうです。
■横浜報時球信号の位置
「神奈川県港務部報時信号所及暴風雨標」神奈川県港務要覧(明治43年)より
【さらに時報の余談】
現在調査中の話も ちょっと紹介してしまいましょう。
本町1丁目にあった町会所(現:開港記念会館)は1874年(明治7年)に竣工し石造亜鉛葺二階建て、一部四階建て延765㎡の壮大な洋館として開港場(関内)のランドマーク的役割を果たしました。特に時計台と時報を告げる音が<寺の鐘>だったそうです。
洋式の建物・時計台に西洋の鐘ではなく寺の鐘!
何故 和式だったのか?知りたいところです。
この鐘 どんなものだったか? 一枚の絵葉書で発見しました。
わかったことはここまで、さらに詳しくは 別の機会に紹介します。
20211205更新 誤字修正 画像とリンクを追加
【番外編】川崎駅前は狩猟場だった?
この画像は《ジャパン・パンチ》1875年(明治7年)10月号に掲載されていたものだ。[川崎駅]がバックに描かれている。
《ジャパン・パンチ》は
1862年(文久2年)特派員画家だったチャールズ・ワーグマンが横浜で創刊し1887年(明治9年)まで刊行した日本初の風刺雑誌といわれている。この記事の舞台は絵の通り川崎駅近辺であることがわかる。風刺画誌なので実際の事件記事なのか、何かの風刺の題材として<川崎駅>が使われたのか資料を類っていないので分からない。
制服警官(仏軍人?)を<狩猟>しているようにも見える。<制服組>への批判・皮肉とも見える。キャプション
Shooting in Japan
Wonderful sagacity of the dog.
defeat of the Tulrie !
と読めるが
筆記体なので正確にはよく解らない。
「日本での狩猟は 優秀な(猟)犬が素晴らしい。<トーリー>の負け!」かな
???
とりあえず判る範囲で絵柄を眺めてみよう。
川崎駅あたりが狩猟場のような場所であったのか?
好奇心に惹かれ調べてみることにした。
(国鉄川崎駅)
川崎駅は神奈川駅と共に日本で3番目の鉄道駅として1872年7月10日(明治5年6月5日)に開業。
開業した場所は当時の東海道筋<川崎宿>の西はずれだった。川崎市史によると、宿場近くに駅ができたため、宿場は大きなダメージを受けたらしい。さらに歴史を遡ると、江戸時代も品川宿と神奈川宿に挟まれた「川崎宿」の経営も大変だったらしい。
現在の川崎駅東口界隈に広がる繁華街は東海道線と街道<砂子(いさご)一帯>を繋ぐような形で発展してきた。<明治40年頃の川崎>
一方、駅の反対側(西口)は戦前から大手企業の事業所で埋め尽くされていた。この絵に描かれた<狩猟場>は川崎駅西口だと言えそうだ。横浜行きの汽車の姿も描かれている。
現在のラゾーナのある一帯はかつて狩猟場だったと推察できる。ここが本当に狩猟場として使われていたとしたら、流れ弾の危険など<下世話>な心配をしてしまう。
【横浜の橋】№7 大江卓橋2
前回 スタートで「大江橋」の名前の由来からややっこしくなったと書いた。
後段はこの謎となった「大江橋」の由来について探ってみたい。
「大江橋」ほぼ100%、各資料には
「県令 大江卓の名に因んで付けられた」とある。
恐らくオーソライズされたデータの出処が一緒なのだろう。
手元の『神奈川県資料』の範囲では
大江卓は 陸奥宗光にヘッドハンティングされ神奈川県のナンバー3として雇われ、最終的にナンバー2(権令=副知事)として活躍したが、県令にはなっていない。
権令も県令も<県政>のトップであったことは間違いない。表現はどちらでも良い、ゴミのような指摘だ。実は
「大江橋」の人名説そのものに異議を唱えた人物がいた。少なくとも二人。
一人が私も時折通っている「亀田病院」の院長だった故亀田威夫先生。彼のコレクションは有名、忠臣蔵・赤穂義士研究の膨大な資料が現在『亀田文庫』として中央図書館に収蔵されている。
亀田先生は「大江橋」の大江は人名では無いと考えていた。
理由は大正15年発行の大江の伝記「大江天也伝」を調べたが橋の話は一切触れられていない、という事実から疑問を持ったらしい。
この「大江天也伝」は総ページ数862ページで彼が頭角を現した横浜時代も克明に書かれているがこの大江橋命名に関しては全く触れられていないということは「大江橋」の名は彼に因んで命名されていないのではないか。これが彼の主張。
横浜市内の重要な橋に時の<県令>の名を命名するにはそれなりの手続きとセレモニーが必要になるだろう。亀田先生は橋の特集をした「市民グラフヨコハマ」編集部に修正を求めるハガキを書いたがそれが出されることは無かった。
たまたまこの亀田先生の指摘を書いた未投函ハガキが亀田先生ご自身所有の「大江天也伝」に挟まれていたのを発見した人物がいた。
土淵正一郎氏だ。ご本人のプロフィールは不明だが歌麿研究の土淵さんではないかと推察している。土淵氏は改めて調べ直した。
土淵氏の再調査の結果はこうだ。
確かに「大江天也伝」には記載がない。
次に『横浜市史稿』の地理編第六章橋梁に行き着く。
『横浜市史稿』は横浜市が自治制施行30周年を記念し1920年(大正9年)に着手した史料で7つのジャンルに分けている。
この中で
「[明治五年五月神奈川県布達]当港町六丁目より鉄道棚矢来之架渡候大江橋、明日より馬車を除く外、通行許し候には、人力車は吉田橋同様之橋税納候様可致事。」
という記事を発見。
「横浜沿革誌」明治三年五月のところには
「同月、大江橋橋台及柱石建設工事に着手す、工事請負人内田清七 明治五年竣工し大江橋の名称を付す」とある。明治五年、1872年は横浜に大事件が起こっていた。
「マリア・ルス事件」だ。この事件真っ最中に活躍した大江卓の名を橋の名にするのは“尚早”ではないか? これが土淵氏の結論となる。
「マリア・ルス事件」
日本がまだ幕末に結ばれた不平等条約の重荷にあえぐ中、横浜港で起こったマリア・ルス事件に対し“日本国の矜持”を示した有名な事件担当が大江卓だった。
少し長くなるが この事件を簡単に整理してみた。
事件勃発直前の出来事
1870年(明治3年5月)
内田清七が大江橋建設に着手(明治5年に竣工)
※明治5年横浜・新橋間 鉄道開通
1871年12月25日(明治4年8月12日)
陸奥宗光 神奈川県知事に就任
同年10月12日(8月28日)
大江卓 民部省で「布告第六十一号」公布に成功
同年12月10日(10月28日)
陸奥宗光、大江卓(民部省地理寮出仕権大佑準席)を神奈川県に引き抜く
同年12月24日(11月13日)
大江卓 神奈川県参事に
※県令・権令不在で事実上の神奈川県トップ
[以下 年号は全て1872年(明治5年)( )は旧暦]
7月9日(6月5日)
中国の澳門からペルーに向かっていたペルー船籍のマリア・ルス号(Maria Luz)が嵐で船体が損傷したため横浜港へ修理の為に入港した。
この船には清国人苦力が231名乗船していた。
7月13日(6月9日)
船内で虐待を受けていた清国人の一人「木慶」が船外に脱出し泳いで港内に停泊中の英国軍艦アイアンデューク号に救いを求めたことから事件が表面化する。
7月14日(8月17日)
大江卓 権令(副知事)に任命
英国在日公使はマリア・ルスを「奴隷運搬船」と認定し領事から神奈川県に通告、清国人救助を要請する。
これを受けた神奈川県は木慶を引き取り、同船長ヘレイラを召還し、木慶を責めないことを条件にその身柄を引き渡したが、船長は約束に反して船内で同人を処罰した。そのため、イギリスはマリア・ルス号を「奴隷運搬船」と判断し、日本政府に対し清国人救助を要請した。
この時の外務卿(外務大臣)が副島種臣
神奈川県令(県知事)が陸奥宗光だったが殆ど県に不在
神奈川県大参事(ナンバー2)の内海忠勝(後の神奈川県知事)は渡航中で不在
神奈川県参事(ナンバー3)に大江卓
事件発生後、神奈川権令(県副知事)に抜擢
(進展)
英国在日公使の要請を受けて外務卿副島種臣は日本に管轄権がある事件だとして、まず外国官御用掛であった花房義質に事実調査をさせた。結果、神奈川県権令大江卓を裁判長として県庁に法廷を開かせると同時に、マリア・ルス号に横浜港からの出航停止を命じ清国人全員を下船させた。
この時、日本とペルーの間で二国間条約が締結されていなかったため日本の法律をペルー船籍に適応するのは外交問題になる危険性を持っていた。
大江卓裁判長の判断は「苦力の虐待は不法行為であるから開放すべき」と判決を下し、一方で船長ヘレイラには情状酌量し無罪とした。
これに対して船長は、移民契約不履行の訴訟を起こしマリア・ルス号事件第二の裁判が行われる。日本政府は領事に臨席を求めることなく裁判を開き8月に契約無効の判決を下し、ヘレイラはマリア・ルス号を放棄して本国に帰還せざるを得なくなった。
※この裁判の中で船長側の英国人弁護人から「日本が奴隷契約が無効であるというなら、日本においてもっとも酷い奴隷契約が有効に認められて、悲惨な生活をなしつつあるではないか。それは遊女の約定である」と主張、日本政府は同年10月に芸娼妓解放令を出すことになった。
結審後
日本政府は日清修好条規第九条に基づき苦力230名を清国側に引き渡し、事件は一応終結した。これには第三ラウンドがあり日本初の第三国ロシア帝国による国際仲裁裁判が開催された。
少々長くなったが外交問題にまで発展したこの事件の真っ最中に果たして<土淵氏説>の通り
表玄関であった横浜駅前の居留地に向かう橋に「大江(卓)橋」と命名するだろうか?
しかも大江は活躍したが建前上は「陸奥宗光」が県令であったのに。
ところがその後(特に大正期)の横浜市が発行する史料は
「大江卓に因んで大江橋と命名」説を採り続けた。現在もこれらを引用している。
参考資料
「マリア・ルス事件」大江卓と奴隷解放 武田八州満 著 有鄰新書昭和56年刊
これにかなり詳しく述べられている。これを読むと
かなりデリケートな事件であったことがわかる。不平等条約撤廃を悲願としていた当時の明治政府は、時に異様とも見える決断を下している。<鹿鳴館>がその象徴的なできごとだ。明治5年頃はまだまだ<未熟な未開国>とされていた日本にとって外交にはことさらナーバス出会ったことは間違いない。
繰り返しになるが 陸奥や大江着任前
鉄道敷設のために明治3年 内田清七が敷地の埋立と同時に橋架設工事も着工していた。果たして<名無し>だったのだろうか?
既に大阪では北区の堂島川(旧淀川)に江戸時代から架かっている現在国の重要文化財となっている「大江橋」がある。市役所・日銀のある中之島を結ぶ橋のことだ。たまたま一般的な大きな入江に近い「大江橋」とするつもりが
明治後半治外法権撤廃後重ねるように当時のナショナリズムとマッチし「大江(卓)」橋と呼ばれたのではないか?
真相は現在も分かっていないようだ。
【横浜の橋】№6 大江卓橋1