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【番外編】京都の戦乱!

第二次世界大戦で空襲を受けることが無かった「京都」
平安の時代から 大災害を受けること無く現在にその佇まいを残している!?
と思ったら 大間違いでした。

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都市にとって火災は致命傷です。
幕末明治、横浜でも何回か大火事で街の機能が麻痺します。
一番大規模の火災は「横浜大空襲」ですが、関東大震災の出火類焼も大きな被害をもたらしました。歴史的には横浜が開港によって大都市への急発展を遂げる中、居留地の近くで起りました。
No.294 10月20日(土)防災道路を造れ!

No.219 8月6日 (月) チェックメイトキング

役所も焼失!

No3 1月3日(火) 大火事

同様に京都も例外無く平安から江戸末期まで大火の歴史がありました。
今日は 京都の大火事を調べてみました。
平安時代以降の大火事と言えば 
1177年(安元3年)「太郎焼亡」「次郎焼亡」と連続して起ります。
鴨長明の『方丈記』によると
火事は「樋口富小路辺り」(現在の京都市下京区万寿寺町富小路辺り)の小屋から出火し、当時の市街地約三分の一が炎上しました。
この様子は、九条兼実の『玉葉(ぎょくよう)』、藤原定家の『明月記』など他にも多数の古記録や文学作品に書かれました。
1467年(応仁元年)応仁の乱による戦乱火災
1788年3月7日天明8年1月30日)天明の大火
 団栗焼け(どんぐりやけ)、都焼け(みやこやけ)
または干支から申年の大火(さるどしの たいか)と呼ばれました。
当時の京都市街の8割以上が灰燼に帰します。
1864年(元治元年)には
 京都史上最大級の戦乱大火災がありました。
 禁門の変(蛤御門の変)による大火事です。

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いわゆる「どんどん焼け」(鉄砲焼け)と呼ばれました。
戦闘の場になった御所と長州藩邸辺りから出た火が京都一円を焼き尽くしました。
この様子を表すものとして「洛中大火夢物語」、「秋の日照」、「甲子兵燹(かっしへいせん)図」があります。
手元に「甲子兵燹図(かっしへいせんず)」がありますので

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じっくり見てみるとその描写には興味深いものがあります。
甲子兵燹図(かっしへいせんず)は
1893年(明治26年)に発行されました。

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復旧の図

この絵の舞台、蛤御門の変の現場となった御所と長州藩邸辺りから出火します。
7月19日朝7時頃に河原町二条の長州藩邸から
※落ち延びる長州勢が長州藩屋敷に火を放ち逃走。
10時頃には堺町御門に隣接した鷹司邸の2ヵ所から出火します。
※敗残兵が逃げ込んだ鷹司邸や民家に会津藩・薩摩藩兵・新選組が砲撃し出火
このことが会津以下幕府側の評判を落としたとも言われています。
21日朝まで燃え続けました。
焼失した町数は811町、被災世帯2万7513戸、公家屋敷18、武家屋敷51、社寺253に及んだといわれています。負傷者744名、死者340名が出ました。

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赤色が類焼地域、被害が全域に及んでいることがわかります

当時の市街地の3分の2に当たる地域が焼失し、東本願寺など大きな寺社にも被害が及びました。
京都御苑(京都御所)自体は焼失を免れますが
この「禁門の変」の大火で京都は機能を失い、天皇の東京行幸のきっかけにもなります。
この大火災が発生する戦乱が起る直前の
1864年(元治元年)7月11日午後5時ごろ
横浜開港に深く関わった変わり者 信濃国松代藩士 佐久間象山が三条木屋町で暗殺されます。

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紅葉の野毛山
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佐久間象山の碑

佐久間象山、優秀な半面傲慢でもあり 敵も多かったようです。彼の弟子“勝海舟”もあまり象山のことを(回顧談で)良く評価していませんが、海舟もかなりの変人ですので どっちもどっちといったところでしょうか。
佐久間象山の碑が 野毛山公園に建っています。

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