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No.219 8月6日 (月) チェックメイトキング

横浜港周辺散策に横浜三塔は欠かせません。
キングの神奈川県庁本庁舎
クイーンの横浜税関
ジャックの横浜市開港記念会館
三塔それぞれにドラマチックな物語があります。
今日は三塔の中で引越と再建を繰り返してきた「さまよえる庁舎」神奈川県庁本庁舎の歴史を紹介します。

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現在の本庁舎は4代目です。
関東大震災で焼失した旧(三代目)県庁舎を再建したものです。建築工事費約275万円を費やして1928年(昭和3年)10月31日に完成しました。
ではなぜ?今日8月6日なのか?さまよえる庁舎の歴史を簡単ですが紹介しましょう。

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(野毛山時代)
1859年(安政6年)の開港に際し野毛山に神奈川奉行所(戸部役所)を建てます。マップ①
まだ徳川幕府の時代です。

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直後に、奉行所の出張所(神奈川運上所)を桟橋近くにを建てます。マップ②
(記念碑あり)
1866年(慶応2年)10月に横浜史で最も有名な“歴史を変えた”大火災が起ります。「豚屋火事」→「慶応の大火」と呼ばれ、役所の殆どを焼失します。
急ぎ 初代運上所のはす向かい、現在の横浜地方裁判所と検察庁のある場所に2代目運上所を設置します。マップ③
1868年(慶応4年)4月11日に、神奈川奉行所は「横浜裁判所」と名称変更されます。
※ここで注意しなければならないのがこの裁判所は現在の司法機関ではなく行政機関の名称で、後に司法機関名となったので混乱しがちです。
またまた、幕府は「横浜裁判所」を一ヶ月で「神奈川裁判所」に名称変更します。(1868年5月12日)
さらにそれから3ヶ月後の8月、「神奈川府」に変更します。
1868年10月23日(明治元年9月8日)から明治時代が始まりますが、改元直後の1868年11月5日(明治元年9月21日)に
「神奈川県」となります。現在の神奈川県域になるにはまだ20年以上かかりますが、ほぼこの時期に落ち着きます。

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(またまた大火事)
1882年12月(明治15年)に起った大火事で、県庁は焼失します。そこで、横浜町会所(ジャック、現在の開港記念会館の場所)に仮庁舎を建てます。マップ④

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これを機会に施設を大きくする必要もあり、新県庁の候補地を探します。
ここでクイーンが登場します。横浜税関です。
本町1丁目(昔の町名、現在は中区日本大通1丁目)にあった横浜税関に移転計画が立てられます。

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そこで、横浜税関が移転した跡地に新県庁を建設することが決まります。
現在の県庁の場所です。
1883年(明治16年)8月6日の今日
「神奈川県庁が横浜税関跡に移転(横浜税関百二十年史)」

その後、1907年(明治40年)に老朽化と狭隘化が問題となり、建直しが検討されます。
1909年(明治42年)開港50周年の年に新県庁建設のために「横浜公園」に臨時庁舎を建て、引越します。

(三代目庁舎)
1913年(大正2年)5月に、3年半をかけて三代目県庁が完成します。設計は明治の三大建築家といわれた片山東熊(かたやま とうくま)でした。彼は、長州藩騎兵隊出身、 工部大学校同期には今話題の東京駅設計の辰野金吾がいました。片山はジョサイア・コンドルの弟子で赤坂離宮(迎賓館)、奈良、京都国立博物館が代表作品です。

(関東大震災)
1923年(大正12年)の関東大震災でなんとか倒壊を免れましたが、耐震上建直しが決まり、4代目となり現在に続きます。

※三代目庁舎建築を巡っては、かなり面白いエピソードが隠されていますが、これは
No.193 7月11日(水) Hi Come on!
ともからんでいます。改めて(小説仕立てで)紹介しましょう。

No.70 3月10日 310

No.420 3月10日(日)横浜三塔に思う

No.375 1月9日(水)残した大正の財産

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