前回、有栖川宮威仁親王が横浜港鉄桟橋を利用する記念絵葉書の画像を読み解いてみましたが時期を特定することができませんでした。
第922話【横浜絵葉書】鉄桟橋の群衆
追加の資料を探していたところ、面白いことがわかってきました。
前回より詳しい洋行記録が分かってきました。
有栖川宮威仁親王は渡欧を4回経験しています。
第一回
■英国留学(年月不明)
1883年(明治16年)6月 留学から帰国
第二回
1889年(明治22年)2月16日
■海軍事視察として欧州へ
1890年(23年)4月10日 帰朝
第三回
1897年(明治30年)4月22日
■英皇即位60年祝典のため渡英
1904年(明治37年)6月28日
海軍大将に昇進。
第四回
1905年(明治38年)4月1日
■独逸皇太子結婚式参列のため渡欧
同年8月26日欧州から帰朝
(大須賀 和美 資料)
前回の記述は間違っていたようです。おそらくこの絵葉書の光景は第四回目、1905年(明治38年)4月1日〜同年8月26日
独逸皇太子結婚式参列のため渡欧し帰朝時の大桟橋だと思われます。
夏の終わりですが、服装はかなり厚着に感じます。
ただ、拡大してみると一部薄着も見られるので 暑い中多くの群衆はしっかり服を着て参加していることがわかります。
威仁親王には明治期の近代化に寄与した様々なエピソードが残されています。
その一つが<自動車の普及と国産化>です。
渡欧中に威仁親王は欧州の三台自動車を購入し輸入手続きを採り国内に持ち込み国内を走ります。
その内の一台、フランス製「ダラック号」が故障し
修理を<東京自動車製作所>に依頼したことがきっかけで国産車製造が行われることになります。
この<東京自動車製作所>
前身は双輪商会といって
1897(明治30年)
京橋区木挽町4丁目で自転車輸入販売業を始めます。
1902年(明治35年)
ロシア公使館員からフランス製グラジェーターを譲り受けたのをきっかけに自動車輸入販売を計画しオートモビル商会を設立します。(日本人最初のオーナードライバーといわれています)
1903年(明治36年)
渡米し米国からエンジンを輸入
1905(明治38年)に乗合自動車をつくり
「日本で初めての国産乗合いバスとして運行。エンジンはアメリカ製の18馬力、運行区画は西区横川町から安佐北区可部までの約14,5キロ。ボディは総ケヤキづくりで重量は1トン、12人乗りで車掌付きでした。」
http://www.city.hiroshima.lg.jp/www/contents/1111417104550/index.html
これがオートモビル商会初の自動車製造となります。
ただ 売れず資金難に陥りますが、
1907年(明治40年)に
有栖川宮威仁親王から注文を受け、
「国産吉田式自動車」」(通称タクリー号)を製造します。
ここで<絵葉書>の有栖川宮威仁親王が登場します。
1908年(明治41年)8月1日
吉田式3台は有栖川宮威仁親王の所有するフランス製ダラックを先頭に、英国製ハンバー、イタリア製フィアット、ドイツ製メルセデス、アメリカ製フォード、フランス製クレメントなどと一緒に甲州街道を立川まで遠乗りに参加
「国産吉田式自動車」」(通称タクリー号)は、欧米の名車に劣らぬ走行に成功します。
ガタクリ走るから「タクリー号」という悪い俗称がつきましたが、性能は高かったようです。
この明治期に画期的な国産車を製造した人物が
<東京自動車製作所>オーナー吉田真太郎で、技術者の内山駒之助です。
横浜とも因縁のある人物でした。
1877年(明治10年)東京市芝区芝公園7号地に生まれた吉田真太郎
前述しましたが
1897(明治30年)京橋区木挽町4丁目で自転車輸入販売業を始めます。
自転車輸入販売は順調で、横浜の石川商会と<ライバル会社>として競争するまでに成長します。
No.213 7月31日 (火)金日本、銀日本
この吉田真太郎の父が吉田寅松、
当時日本有数の土木会社「吉田組」を一代で築き全国の土木事業を手がけます。
一説では 横浜関内外に架かる「吉田橋」を寄付したという資料もあります。(ウラトリ中)
吉田寅松が横浜の大事業に登場するのが「堀割川工事」です。
第921話【堀と掘】掘って割、堀となる
ここに繋がります。
どう繋がったのかは長くなりますので次回に。