横浜の様々な情報やシーンをネタにブログを約500話書いてきました。
2012年1月1日から今日までで【番外】を含めて500話目です。
最近、事実の掘り起こしだけではなく
横浜を舞台にしたフィクションも書いてみたくなっています。
といってもそういった文才があるわけでも無く、
願望・妄想に近い。
何が書きたいか?というと ラブストーリー。
意欲だけで 全く手つかずの状態です。
当分無理そうです。
ブログの中でもラブストーリーにぴったりのネタが幾つかありますので紹介しておきます。
No.94 4月3日 横浜弁天通1875年
これなんか 素敵な素材です。
切ない 明治初頭の国際的なラブストーリーになりそうです。
というより
ラブストーリーです。
一方 壮絶な愛の姿もあります。
No.225 8月12日 (日)太夫 打越に死す
芸に生きながら、一世を風靡した義太夫師夫婦の物語に仕上がりそうです。
(秋田雨雀の横浜)
日本の劇作家・詩人・童話作家・小説家として戦前戦中戦後を生きた秋田雨雀という人物がいます。
1883年(明治16年)1月30日青森県に生まれ、1962年(昭和37年)5月12日に亡くなります。
文学者であるとともに社会運動家、エスペランティストとして活躍します。彼が交流のあった人たちにはエロシェンコ、神近市子、相馬黒光、有島武郎、島崎藤村、小山内薫、島村抱月、永井叔他多くの創作者に影響を与えました。
No5 1月5日(木) 漂泊の詩人 永井叔
秋田雨雀にとって横浜は?
三渓園にインドのタゴールを訪問したり
「日陰茶屋事件(元恋人神近市子が、アナーキストの大杉栄に切り掛かる)」の裁判を傍聴するために横浜裁判所に何度か通うなど日常活動の延長線に横浜を訪れることが何度かありましたが、
彼にとって 忘れられぬ思い出が 横浜に残っています。
愛する娘を看取った街でした。
秋田雨雀の娘でロシア文学者の上田進と昭和7年結婚した“千代子”が、昭和十二年四月長い闘病生活の末、横浜の久保山にあった横浜病院(横浜市立療養院、戦後に国立横浜東病院となり現在は民間病院の聖隷横浜病院となっています)で看病の甲斐なく亡くなります。
娘の看病のために何度も横浜を訪れます。
※写真は秋田夫妻とロシア文学者上田進(演劇評論家尾崎宏次の実兄)に嫁いだ娘千代子の子供(雨雀の孫)静江