といえば、
「お茶の香りと男伊達」(旅姿三人男)と続きます(ちょっと古い?)
残念ながら 世界遺産「富士山」エリアからは外れましたが
(予備審査での除外勧告が覆りました。良かったです。)
日本有数の港湾都市「清水」は
横浜とも密接な関係がある国際貿易港です。
※清水ネタは一回で済ませるには横浜ネタが満載の地域ですので、幾つかに分けて紹介していきます。
今日は1897年(明治30年)6月22日(火)
外国との貿易に欠かせない横浜税関清水支署が設置されました。
これによって、清水港の国際化の歴史が大きくかわります。
清水の街は3回訪れましたが、見どころ多すぎ、これにサッカーまでいれたら大変です。清水港は昔静岡県清水市でしたが、現在は静岡市清水区(2005年4月1日誕生)となりました。
http://www.city.shizuoka.jp/deps/simizu/shimizu-ku.html
良い形してますよね |
三保の松原が有名ですが港の近代遺産も良いですよ |
(清水から船で横浜に)
江戸時代から天然の良港として漁業、海運で栄えていましたが、清水港が飛躍的発展をとげたキッカケは横浜に運ぶ「お茶」の積出港となった幕末開港でした。
開港当時外国との交易は横浜、長崎、函館の三港に限られていましたから、外国商社が欲しいものはここに集中しました。その主な輸出品目が生糸関係とお茶関係でした。清水港は外国向け静岡茶を横浜に廻漕することになり、多くの廻漕問屋が清水に集まるようになります。
米国向け静岡茶パッケージ |
米国向け静岡茶パッケージ |
【別ネタで今度】横浜ー清水の海運に一役買った次郎長の活躍
No.386 清水の次郎長、横浜に通う
(インフラで産業構造激変)
ところが、1889年(明治22年)2月に東海道で静岡エリアと横浜が結ばれます。物流コストが一気に下がり、多くの廻漕業が廃業の憂き目に合います。そこで、地元経済界が「清水港」から直接輸出できるように国に働きかけます。
曽我蕭白も描いた名刹 清見寺も |
鉄道建設で門前を分断!されてしまう時代でした |
日本(横浜)から輸出される「お茶」の相手国はほとんどがアメリカでした。清水港含め、横浜のお茶問屋はアメリカの動向に一喜一憂する状況でしたが、アメリカ主役の座は戦前続きます。
地元経済界の執念の嘆願が認められる日が来ます。
それが、1897年(明治30年)6月22日(火)の今日にあたります。
国際港としての第一段階として税関が設置されます。
1953年(昭和28年)まで日本の税関組織のトップは「横浜税関長」でした。清水の税関も名古屋税関の管轄下になるまで横浜税関の下に運営されていました。
【別ネタで】11月28日「税関の日」に紹介します
No.333 11月28日(水)最初は一時間
それから二年、
1899年(明治32 年)
ようやく国際港になった清水港ですが、数々のハードルを乗り越え十年かかって横浜港を抜き日本最大のお茶輸出港となります。
(横浜お茶物語)
開港時、居留地に外国商館が次々と進出してきますが、
居留地1番は ジャーディン・マセソン商会(英国)
2番と3番はアメリカ商社でした。アメリカは開港時は積極的に横浜でビジネス展開しますが、歴史の皮肉でしょうか「南北戦争」のために交易がかなり停滞します。
アメリカのアジア戦略が十年遅れることになります。
横浜最大のお茶を扱う外国商社は「スミス・ベーカー商会」(米)でした。ここに一人の才能あふれる日本人が国内のお茶バイヤーとして勤めます。その名は大谷嘉兵衛、彼が横浜に果たした役割は非常に大きいものがあります。
横浜経済界を牽引した横浜商人大谷嘉兵衛
日米交流の「シドモア桜」は、静岡県静岡市清水区興津の桜です。現在も株分けされた兄弟桜が元気に花を咲かせています。
【別ネタで今度】「シドモア桜」と山岡鉄舟
冬の牡蠣そば! 美味い! |
お茶屋さんで飲んだ一杯のお茶 |
清水名物 黒はんぺん |
食べ物も美味しい清水へ ぜひ一度!