No.386 清水の次郎長、横浜に通う

今日は、咸臨丸事件でも紹介した「清水の次郎長」の横浜通いの前段部分を紹介しようと思っていました。
調べているうちに思わぬ方向にいってしまいましたので、
こちらから紹介していきましょう。

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まずは共通認識から。
駿府路の大親分「清水の次郎長」のことは、時代劇でしか知らない方が多いでしょう。1820年2月14日(文政3年1月1日)静岡県清水(現在は静岡市清水区)の船持ち船頭の家に生まれ1893年(明治26年)6月12日に73歳で亡くなった実在の人物です。
本名 山本長五郎、幕末から明治にかけての侠客として知られていますが映画に登場する次郎長親分と実像はかなり異なっています。
幕末は侠客(いわゆる やくざ)ではありましたが、明治維新が大きく彼を変えました。幕末の街道警備の任に就いたのがきっかけで、地元の発展に奮闘努力した人物です。

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(横浜との関係)
彼と横浜は意外なつながりを見せます。
清水の次郎長と横浜の関係で代表的な話しは
明治時代に入り横浜と清水をつなぐ定期航路線を営業する企業「静隆社」を立ち上げ、貿易港としての清水港の開発に尽力したことです。
明治中頃まで横浜港を基軸に対米輸出の代表格だった「日本茶」の大半は静岡茶でした。この静岡茶を清水港から横浜へ運び、加工し主にアメリカに向け輸出されました。
横浜開港とお茶の関係は深いのです。

後にこのお茶は、直接清水港からアメリカに輸出されることになり、横浜とお茶の関係は「生糸」の演じた役割ほど重要さを持たなくなりますが、明治初期の横浜と静岡は深いものがありました。(駿河銀行が古くから神奈川県庁の中に支店を出しています。)

実は、静岡は茶の名産地でしたが、大量に米国に輸出するには「茶畑」の拡大が必要でした。
一方、静岡県東部は徳川幕藩体制のお膝元でもありましたので、明治維新以降最後の将軍徳川慶喜が静岡に“蟄居”したあと、職を失った幕臣達が静岡に移住します。
清水の町を例に挙げれば、900戸程度の漁村だったところに2万人の幕府関係者が職のあてもなく移ってくる訳ですから、横浜とは違ったあたらしい“まちづくり”が求められました。
渋沢栄一を始め、多くの優秀な幕臣の尽力で静岡の旧幕臣たちは生活基盤を築きます。その下支えとなった地元民の筆頭格に清水次郎長がいたのです。

(高島嘉右衛門)
清水の次郎長と交流の深かった横浜経済人の一人が
(政商)高島嘉右衛門でした。
高島嘉右衛門の活躍についても今年のブログでじっくり掘り下げますが、つい最近まで地元でも部分的にしか知られていなかった人物です。
ここでは簡単に足跡のみ紹介します。
次郎長が横浜に通った相手は高島嘉右衛門だけではないと思いますが、かなり互いの信頼感を築いたようです。次郎長の横浜での逗留先は
「神風樓」でした。

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1876年(明治9年)の記録に蒸汽船靜岡丸が清水港と横浜港間に就航し靜岡茶を横浜に運ぶルートが開かれたとあります。
次郎長は頻繁に横浜に行き、神風樓に宿泊、横浜商人と清水港廻船問屋経営者を結びつける役割を担っています。
このときの横浜側のフィクサーが高島嘉右衛門だったようです。
次郎長57歳の頃です。
実は明治9年頃は横浜の高島嘉右衛門不遇の時期で、大綱山荘(現・横浜市神奈川区高島台)に一時隠棲していた時期にあたります。
ある意味ワンマンベンチャー経営の高島が関わった多くの事業が、横浜経済の安定により頓挫します。
清水の次郎長との出会いは、高島にも新しい視点を与えたのではないでしょうか。
語学中心の藍謝堂(通称「高島学校」)の失敗談を次郎長に
酒でも酌み交わしながら語ったのかも知れません。
この頃に清水の次郎長は「これからの若い者は英語を知らなきゃだめだ」 と、幕臣新井幹の開いた私塾「明徳館」の一室を使い近隣の青年を集め英語塾を開設します。ここから巣立った三保村の青年「川口源吉」は横浜からひそかに外国船に乗り込み、ハワイへ渡ります。
船中で次郎長の英語塾で習い覚えた英語を活かして無事ハワイに上陸し、移住者として成功したそうです。
彼は明治20年代に郷里三保村へ帰り、体験談を近所の者に語ります。これがキッカケになったかどうかわかりませんが静岡三保村からのハワイ移住者数は数千人にのぼり横浜から出発した移住者で静岡出身地としては突出しています。現在でも、源吉の生家はハワイさんと呼ばれているそうです。
また次郎長は、1878年(明治11年)に清水波止場の建造を推進します。次郎長の青写真には横浜のまちづくりの影響か高島嘉右衛門のアドバイスが生きていたのかもしれません。

(冨士の裾野開墾)

高島嘉右衛門は、清水次郎長の勧めに応じて彼が失業者対策に起こした富士の裾野開墾事業で開発された土地を購入しています。
次郎長は、冨士の裾野の開墾事業に多大な功績のあった人物です。
現在「富士急静岡バス 大渕線」に「次郎長」「次郎長東」というバス停が残っています。

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次郎長会館という名もあり、高島嘉右衛門同様に、開墾者の名が残されています。次郎長が開墾した裾野の北部にある神道天照教の本部には現在も高島嘉右衛門お手植えの桜木が樹齢100年を超えてのこっています。(桜の名所ということですので一度確認に行ってみたいと考えています)

この後 止めども無く話しは続きますので今回はここまでにしたいと思いますが、調べているうちに
ここに「植木重敏」なる人物が登場します。
清水の次郎長を見取った医師です。清水の医師会会長も務めた「植木重敏」は、高知出身で東京帝大医学部を卒業し
次郎長との劇的な出会いで 郷里高知に帰らず清水で開業します。
「次郎長が横浜から清水へ帰る時、船の中で一人の医者の卵と同席した。次郎長のすすめでその医者の卵は清水で下船し、医師を開業したという。」
植木重敏医師は、横浜港から次郎長と船旅を共にしますが、
彼は明治31年頃「横浜黴毒病院院長」を務めていた記録が残っています。
※(追記)第六代院長として1896年(明治29年)9月から1901年(明治34年)まで着任。
 ←ご家族の方から情報提供いただきました。

早矢仕有的も務めた「横浜黴毒病院院長」は当時最先端の感染病専門病院で、ここの医院長を務めた人物が清水の医療と関係があったことも
今回の新しい発見として 今日は ここまで。

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