No.347 12月12日(水)横浜自立の原点

今年も残すところ20日になりました。
1日1話、今日という日から“横浜”をモザイクのように紡いできました。
最初は断片的でしたが、この作業を通じてステンドグラスの模様のように新しい“横濱”が像を結び始めました。350話近い断片を改めて見直していくうちに触れておきたいテーマが幾つか確認できました。今日はその一つ、東京開港について紹介します。
1940年(昭和15年)12月12日(木)「東京開港」を進める政府と東京市に対し、横浜市は鶴見区・中区・磯子区・保土ケ谷区・戸塚区の各区で東京開港反対の“区民大会”を開催しました。


(錦の御旗“帝都の関門”)
この区民大会は、東京開港反対のごく一部の出来事でした。横浜は「東京開港」に対し“帝都の関門”を御旗に猛烈な反対運動を展開します。
幕末以来、首都圏の国際港として発展して来た「横浜市」にとって、東京開港は“死活問題”です。しかし、東京開港は粛々と進行し1941年(昭和16年)5月20日東京港が開港します。
そこには時代の渦に翻弄され「帝都の関門」だった“よこはま”が自立、脱皮する瞬間でもありました。
(私は東京開港が横浜自立の第一歩だと考えています)

東京開港は、横浜港開港から80年の時が過ぎていました。それまで、東京の港湾機能は充実していましたが、国際港ではありませんでした。
“税関”が無かったのです。
状況が大きく変化したのは大正末期に起った「関東大震災」です。311同様、災害は歴史を大きく変化させます。
震災によって東京と横浜は都市機能を失います。
政府は首都機能の回復のため“帝都東京復興”を優先しますが、皮肉にもそのための資材が“横浜港”経由では捌ききれず停滞します。
外国船(主にアメリカから)届いた救援、援助物資や災害復興用の資材・建築材などを芝浦桟橋に降ろすことが許されなかったのです。“東京税関”が無いため通関できなかったからです。
(それこそ特例で実行すれば良かったのですが、昭和初期の日本は短命内閣が続く今に似ていて“決めることができない”時代に突入)
1923年(大正12年)9月2日に22代山本権兵衛内閣(128日)以下(157日)(597日)(2日※)(446日)(805日)(652日)(244日)(156日)(11日※)(774日)(611日)(331日)(123日)(581日)(238日)(140日)(189日)(93日)(1,009日)(260日)1945年(昭和20年)8月17日42代鈴木貫太郎内閣総辞職(133日)まで、20代内閣が変わります。<※総理大臣死亡による臨時首相>
(余談ですが、大政翼賛会政府は長続きしません。大連立も短命に終わります)

(横浜がネックだ)
さらに、横浜港に届いた物資は、鉄道で運搬されましたが汐留駅でスタックし東京に出入りする捌ききれない貨物が山積み状態になっていきます。
大正以降、東京にも国際港をという経済界の強い要望が高まっていました。
1938年(昭和13年)しびれを切らした東京市は5月に「東京開港促進協議会」を設立します。翌年の1939年(昭和14年)12月には東京府本会議で東京開港促進に関する建議」を採択し政府に圧力をかけます。
東京開港に舵を切ったのが35代平沼騏一郎内閣(1939年1月5日
〜1939年8月30日)、その後 阿部信行内閣(140日)、米内光政内閣(189日)と短命内閣が続きます。横浜復興どころではありませんでした。※横浜市長だった平沼亮三と騏一郎は全く関係がありません。

(復興費用が無い)
復興にはスピードと資金が必要です。震災後、横浜市はいち早く政府に復興支援を陳情します。その時の内務大臣が大胆な首都復興プランを描いていた後藤新平でした。帝都復興が中心になっていましたが、横浜にも僅かながら復興予算がつくことになります。震源に近い被災地小田原は復興予算皆無でした。
横浜復興計画の陣頭指揮にあたったのが有吉忠一市長。
ちょっと癖のある市長でしたが、その行動力、決断力は評価できます。
インフラ整備等の基本復興計画は1929年(昭和4年)約5年で完了し、いち早く次の港都横浜再生計画推進体制に入りますが、この復興予算、横浜市は(政府内務省の強引な指導もあり)アメリカから借金することになります。
その額、米貨公債で約2,000万ドルにも及びます。ところが、この米貨公債で横浜市は財政破綻寸前にまで追い込まれてしまいます。
※東京は英国から(ポンドを)借金します。

(為替リスク)
1929年(昭和4年)に始まった世界経済不況、世界恐慌で大幅な円安に陥ります。1$=2円が1$=5円の円安となりアメリカに頼っていた生糸の輸出が急激に落ち込み、明治以来の輸出の柱が危機的状況に陥ります。
当然、生糸輸出の中心地だった「横浜」の打撃は深刻でした。
横浜の通常予算は年1,000万円ぐらいでしたが、米貨公債返済額4,000万円が1億円に膨れ上がる計算ですから、税収は激減するは、借金は増えるは、身動きできない財政状態に陥ります。
そこに、東京開港問題が起って来た訳ですから、横浜も“必死”です。「百万市民の死活問題」として市、市会、経済界、市民のレベルまでかなり一致団結して反対運動を繰り広げます。
(政府は何をしているんだ!!)そう思うでしょう。市の借金も「日本の借金」ですよね。なぜ、市単位で外国から借金するのか?
これって戦後も行われていて、横浜市も戦後かなり外国から借金しています。とはいえ、震災復興という国家にとっても一大事に、横浜の借金地獄が起ったのか?当時の金融政策の影が落ちていますがここらあたりは別の機会としましょう。<金本位復活の罠にはまった日本>

(横浜モラトリアム)
港湾関係、特に貿易関係に絶対的権力を持っていた大蔵省が、横浜市に妥協案(懐柔案)を提示します。借金チャラにしてあげます、だから東京開港を認めなさい。と当時の大蔵大臣「河田 烈(かわだ いさお)」がもちかけます。
http://ja.wikipedia.org/wiki/河田烈
実は東京開港に大反対していた横浜市長「青木周三」に代わり同い年で帝大・内務官僚出身の半井清が市長になったことも大きかったようです。
※第12代横浜市長「青木周三」も歴代市長研究として興味ある人物です。青木周三は、鉄道畑で横浜市電気局(現交通局)初代局長、助役、鉄道省次官となり請われて“人選一任を条件に就任”した横浜独立中興の祖?ではないかと思っています。→調べたい(掘り起したい)人物の一人です。

市長は同意、市会議長も説得に応じて
東京開港に横浜が同意します。ただし、東京港は横浜税関の下に置き、原則として満州国・中華民国及び関東洲との就航船に限るという条件付きでした。
ようやく横浜市は借金地獄から開放され、横浜独自の産業育成に取りかかりますが、戦争に突入し頓挫することになります。
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